June 19, 2009

披露宴に出て思うこと

昨日、小学校来の友人の結婚披露宴に出席した。
私は中学に上がるときに引っ越したので、そこでほとんど小学校の友人とは縁が切れているのだが、その子とは高校くらいまでたまに連絡をとりあった。
最近互いに東京にいることがわかり、この前5年ぶりくらいに中目黒で会って、それで今回の結婚披露宴に呼ばれたという経緯。


月並みではあるが、披露宴の最中には、結婚か、とやはり考えた。知ってる子が一人しかいなくて(しかも小学校卒業以来会ってない子)、黙々と料理を食べるか余興を見ているだけだったので、考える時間があったのもある。
披露宴とかってやるんだろうか、自分なら誰を呼ぶんだろうか、誰に挨拶を頼むんだろうか。

結婚か。するのか?

彼らはなんで結婚しようと思ったのだろう。世の人はなぜ当然のように結婚するのだろう。永続的な幸せの保障のためだろうか。子供のためだろうか。なぜ私は結婚したいと思っているのか。



制度としての結婚と、人間的関係としての結婚とは多分分けて考えたほうが良くて(もちろん相互に干渉しあうけど)。

制度として結婚をしているとメリットとしては(反面、デメリットともいえるけど)扶養をうけることができるとか、慰謝料云々とか、同居義務で一緒にいられるとかそういう感じだろうか。
そこ重視するのもありだとは思うけど、やっぱりどちらかといえば人間関係としての結婚とは何ぞやと。思うわけです。


そ もそも人間関係なんて本当に多種多様で、相対的に見たときに(つまりAさんとBさんの関係と、CさんとDさんの関係とか、EさんとFさんとか、AさんとD さんとか、を比べたときに)、結婚してるということが何らかのカテゴリになるかといえば全くそんなことはない、と思う。ある共通点ではありうる。直線とか で考えれば、ある一点で交差してるんだろうと思う。
けどそれって日本に住んでるとかそういうレベルの共通点というか。うまく表現できないけど、そんなに絞りをかけられるファクターじゃない気がしている。
人間関係っていうのはすごく個別的で、深い浅いのグラデーションですらない、と思う。多層構造で。2次元とかじゃなくて。カオス。


そこで結婚って、どういう事象なんだろうと思うわけです。
点 なんじゃないかなっていう認識。その結婚という時点である一定の愛情の合意というか、そういうのを確認できる。その事象を経験した関係であるという事実。 それをどういう風に位置づけるかっていうのはそれぞれで、そこを重く見てより深く人間関係を構築していく場合もあれば、それは過去のある時点にすぎないと 見る場合もあるかもしれなくて。逆に結婚の弊害ってあると思うんですよ。ケースによっては。結婚したから二人の人間関係がおろそかになるとか。


本質的に人間関係は(結婚のみならず)、二人の認識につきるとは思う。
二人の関係に対する各々の認識と、互いの認識のずれの発見と、修正と。もしくは修正ではなくずれたままでの受容と。発見すらできないときもあるけど。

この人とはこういう関係なのだと認識することによって感情が生まれることも結構あると思っていて、独占欲なんかには結構それが当てはまる。打ち解け具合とか。態度とか。
結婚もその関係性の認識のためのファクターになっているとすれば、結婚しているからこういう感情が生まれるとか、こういう態度になるとかっていうことはありそうな気がする。



個人的には結婚を手放しでしたいものだって決めてかかるのもどうかと思って、一応の検討を加えるべき事柄なのかなとか思うのでこうして書いてみたわけだけど。

そうはいっても結婚というのは制度上もそうだけど、やはり不可逆的で重要な何かではある。少なくとも社会一般の共通認識として。
この社会の認識っていうのは結構厄介だと思う。気にしない、と言うことはできても、気にしないことは滅多にできない。私の場合は。
だからあらかじめ考えておくのは選択をする際に楽になるんじゃないかと思う。
慎重すぎる。


こういうことを披露宴の最中考えていたわけではもちろんないけど。


帰宅して、母に「何か思うところがありましたか」と聞かれた。
はい。


追記(7.10)
追記しようとして途中で保存したら、エントリまるごと下書きに落とされていた。

結 婚がカテゴリとして機能しない的なことを書いたけど、それって程度問題だと後で思って。そんなこといったらカテゴリとして何が機能するのかという話になっ て。多分人間関係をカテゴライズするのはナンセンスで、しかしそれをあえてするとするならば、単なる共通点レベル(そんなに絞れないもの)でもそれはカテ ゴライズといえるのだろうと。思って追記した。結婚をしていないからこその片面的な考察になっていることを自覚していることをも付言したい。結婚をしてい ればなんらかの共通点が生まれることはぼんやりとわかるが、私が思っているよりも多くの共通点がうまれているかもしれない。

週の初めに読むいくつもの

引越しの準備をしている。

近くのスーパーで段ボールをもらって、適当にパックして、郵便局に電話して取りに来てもらう。もう12個くらい送った。


今日は物を処分することも並行してやっていたので、結構物が無くなった。少しすっきりした。もともと可愛げのかけらも無い部屋なので、物が減っても殺風景になったという気はしない。でも、ああ引っ越すんだな、という実感は沸いてきた。


書類やら書籍が多い。当然といえば当然。
小説も、ほとんど読んでないとはいえ、6年も東京にいるとそれなりに買っていたようで。
引越しは実は人生7度目だ。毎度のことながら、写真やら文庫やらを読み返してはその当時を思い出したりして見入ってしまい、我に返る、というまあ誰にでもありがちなのをもう今日だけで4度くらいやっている。これもまた引越しの一部ということで。


圧倒的に江國香織の本が多い。多分、ほとんど買っている。
彼女の書くものが好きというよりは、自分にすごく近くて気づかされることが多いから買ってるのかもしれない、と思う。

作 品を読む限り、性質として彼女と私は似ていると思う、かなり。それは別にファンだからとかそういうことではなく。それも特に嬉しいことではない。たまに自 分と重なりすぎて目もあてられない、ということがある。誰しもあることなのかもしれない、たとえば昔の友人は村上春樹をそういう風にとらえていたし、実際 そういう男の子は多いのかもしれない(推測)。

ともあれ。
私たちは単純で身勝手で曖昧で、それを分析したうえではっきりわかっていて、でも渦中にあるとそうせざるをえないのだと思い込もうとする。それは正当化ともいえる。そして自らがそうしていることもわかっている。その点において、我々は似ている、と思う。


分析したことをほんとうに適切に(ほとんど寸分の狂いもなく)表現する、また、言いたいことを確実に伝える彼女の筆力は、本当に素晴らしいと思う。
彼女は言葉を丁寧にじっくり選んでその語感をも吟味し、ひらがなと漢字を使い分け、表記にもこだわっている。言葉の手ざわりを大事にする。一番伝わりやすい言葉を選ぶ(そういう意味ではすごく合理的だ)。彼女は妥協をしない。
話の筋を追うあまり、表現を軽視している作家はたくさんいると思うのだが。私は彼女の書き方が好きだ。小説の内容とか彼女の考え方とかじゃなく。


で、 彼女と私が似ているのが確信に至ったのは彼女のエッセイを読んでからなのだが、中でも「いくつもの週末」という作品がその当時の自分とかぶりにかぶったと いうか、大いに共感したものだった(しかし痛々しい共感だったと今は思う)。引越しの最中につい読んで、フラッシュバックした。あの頃。


「い くつもの週末」は、彼女と夫についての、または結婚生活についてのエッセイである。私は結婚していないので共感っていってもその程度ではあるのだが、恋愛 をしていた私にとっては結婚への憧れとも相まって、甘やかだが切なく苦しくやきもきする、しかし圧倒的な幸福感で満ちたそのエッセイを何度も読み返したも のだった。
名言がいくつも出てくる。ほんとにいくつも。ぴったりくる。

恋愛をしている最中に読んだとき、「甘やかされることについて」というのを読んで、同じ気持ちになりながらも、絶望的な気持ちにもなった。
「正しさなんて全然問題じゃない」
今はそうは思ってない。元来フェアなのが好きだし。でも恋愛すればまたそう思ってしまうのかもしれない。と思う。


「猫」という文章では、男と女の狡さについて触れてある。
彼女の考察結果は、「女の狡さは積極的でつめたい(あるいはあつい)けれど、男の狡さは消極的でぬるい(あるいはあたたかい)」そうで、「もしもそうだとするならば、消極的でぬるい(あるいはあたたかい)狡さの方が絶対により狡い、と思う。」そうだ。

なんて鋭い考察、かつ表現力だろう、と思う。

「それはたとえば、何かを主張するのに結果がどうなろうと知ったことじゃない、というのが女の身勝手さであるのに対し、結果だけは正確に見据えて、あとはまあ知ったことじゃない、と考えるのが男の身勝手さであるのと似ている。」

なるほど。たしかに。思い当たる。


いつのまにか「いくつもの週末」のレビューになっている。


私は今冷静だし(相対的に)、このエッセイを読んで、「あの頃」なんかを、ばかばかしく幸せだが苦しかった日々として思い出すだけだし、今の状態が正常値というか安定した状態であると把握しているのに。
それでもいつか結婚するんだろうかと思っていて、それがある意味本来であるかのように待ち望んでいるふしがあって、それに気づいた日でもあった。今日。


それは逆に言えば、そんなことはない、と思えるようになったということでもあり。


どちらにしても、江國さんは
「無論結婚は”struggle”だ。」
という。

ふむそうか。

恋とはどんなものかしら

先日のエントリの恋という現象についてっていうのを考えてみる。長編。


割とよく語られている話題ではあると思う。それが具体的ケースについてであるにせよ抽象論であるにせよ(大概の場合それは一緒に語られるものだけど)。


あと、恋、恋、って言ってるのは別に他意はない。
恋がしたいと主張しているのでも、恋をしていると主張しているのでも、ない。そんなのプライベートなことだし、あったとしてもそういう叫び的なものはここには書かない(遡って読み返さないように)。
きっかけをあえて挙げるとするならば、最近思い出した昔書いてたブログである。そこには恋愛してた当時の感情を観察したものが記されていて、それを拙いながら抽象化しようとした跡が残っている。今でも拙いとかいう批判はおいておく。

よ くよく考えると、そのブログとこのブログは雰囲気が接近しつつある。その旧のブログは今もwebのどこかに放置されているが、それを教えたのは一人だけ で、とても他人には見せられたもんじゃないと思っていたのに、このブログがそれに接近しているという事実は結構衝撃的である。まあいいか。

話がそれた。


で、恋ね。

・定義
goo辞書から。
「異性に強く惹(ひ)かれ、会いたい、ひとりじめにしたい、一緒になりたいと思う気持ち。」

あと、「恋愛」だったらwikipediaにあった。「恋愛ニート」なる言葉もあるらしい。ひとごとではない。興味のある人はどうぞ。
ここで「恋」と「恋愛」は同義ではない。


恋の定義を、思考というエントリでは
「新しく、相手の心を自分の方へ向けたいという欲求を伴い、胸を焦がすような、性急なもの。」
としたけど、自分の中ではこういうイメージ。
加えるなら、一過性もかな。

1.新しく
というのは、それまでの関係とは別の、というようなニュアンス。

2.相手の心を云々、
というのは、やっぱ恋特有だと思う。恋は「実る」と表現するけど、愛は「実る」とはいわない。恋が実るっていうのは、つまり両想いになるということで、そこがある到達点なわけである。相手の心を得ると成功。

3.胸を焦がすような、性急なもの
というのも恋特有というか。ここが多分楽しい部分なんだろうな。2とも関係するけど。今すぐ会いたいだとか、メールに一喜一憂するとか。相手の心を求めるが故の。

4.一過性
この状態は継続しないのがほとんどで、一過性のある意味異常(常態でない)な状態である。成就するとほとんど常態に戻る。
これを結婚してからも維持し続けたいというのが一部の人の関心事であるらしいことはテレビドラマなどで知った。


今後もっと加わるかもだけど。
私の乏しい恋の知識と経験からは今のところこんな感じである。


ちなみにここで恋という言葉は、「恋人」や「恋愛」においての「恋」という文字の部分とは必ずしもリンクしてないと思う。つまりは、ここでいう「恋」+「人」が「恋人」というわけではなく、「恋人」とはまた別の意味づけがなされるべきものである。


・物欲との差異
よく思うのは、定義の2に関連して、恋が相手の心をほしがるということが、何か物をほしがることとどう違うのかということだ。感情の構造としてね。
たとえば欲しいものがCDだとして。そのCDには好きな曲が入ってる。好みの。ジャケットも素敵だ。自分のもとにおいて、いつでも聴いたり眺めたりしたい。だからほしい。
一緒じゃない?とか思ってしまうわけだ。


・底辺の愛情につながるか否か
CDなら、手に入れて数ヶ月経つともう棚にしまわれて見向きもされない状態というのがままある。恋の場合はどうだろう。
CD同様、手に入れたら興味を失う、という人もいる。その過程が楽しいだけだと。
私見だが、そこは底辺に流れる愛情につながるか否かだと思うのだ。愛情があったうえでの恋だったならば、その一過性の病的状態が終了しても、愛情に戻り(もしくはさらに深い愛情になり)その関係はCDとのそれとは違ったものになる。
前恋愛的ななにかっていうのはそういう意味で書いた。かなり前のエントリだけど。

CDに愛情を感じる人もいるのかもしれないが、私の場合そのような経験がないので。
もし例が不適切なら詫びる。


・愛されたいという欲
これはろまん燈篭の2個目の引用で書いたのとリンクするけど、この中に入るものだと思う。
そこが愛とは違う。相手の気持ちを求めるか否か。

ろまん燈篭っていうのは、ある兄弟たちが連作で小説を書くというもので、その中の次女がここの部分を担当し、しかもこれは次女の本心ではありませんと断って書いているので、太宰の本心かどうかなんていうのは全くわからないわけだが。

「ひとの真の謙虚とは、その、愛するよろこびを知ることだと思います。
愛されるよろこびだけを求めているのは、それこそ野蛮な、無智な仕業だと思います。」

とある。私は同感するけど。
見返り無し。無償。能動的。
見返り無しは結構きついけど、愛されるよろこびのみを求めるとCDと同じになる気がする。
それは私のごく主観的な意見だけど、不幸だ。


・この現象が起こる理由
これはまさに神のみぞ知るって感じだけど。
なぜ人は恋をするのか。
物欲とプロセスは同じといえば同じかもしれない。
好ましいものに出会う。→自分のものにしたくなる。


プロセスが同じかもしれないと言っているだけで、現象が同じだというつもりはない。たとえば、恋だと人の気持ち相手だからそうそううまくはいかなくて、もしかしたら自分が否定されるかもしれなくて、そんなリスキーなところは物欲じゃありえないわけで。

まあありそうなのは、生物として人間を維持するためにそういう情熱みたいなものは必要で、そういう風にプログラムされてるとか。で、恋という現象が起こると。



ちょっ と別の話になるけど、独占欲っていうのがなぜあるのかを友人と話していたとき、生物学的観点から説明された。つまり、雌性は餌を自分と自分の子のためだけ にとってきてもらうことが必要で、それが独占欲につながると。雄性は自分の子を残すために他の雄の子を極力排除することが必要で、それが独占欲につながる と。

まあ説得的といえば説得的ではあった。けど私たちは餌どうこうを考えて、独り占めしたいと思うわけでは当然なくて、まあそこは多分他 の女の子といちゃいちゃしてると単にむかつくとかそういう理由なわけだけど、でもなんでむかつくのかと考えるとそれが生物的本能だと言われてしまえばそれ もそうなのかなと思ってしまう。
餌とかはおいといて、他のところに行ってほしくない、と思うという意味では共通する。餌ではなく、共有する時間とか、寂しさなのかもしれない。好ましいものが自分のもとを去っていくのが嫌、という心理。
あと、こういうことされたらむかつかなくちゃいけないという固定観念なんじゃないか説も考えた。そうそれ、思い込み。


独占欲からの開放は、一昔前の私のテーマだった。そういえば。
みんな仲良くできればいいのに、ていう。それを許せない自分や相手ってなんなんだと。一夫多妻制の国の女の人たちの気持ちを考えたりもした。
そうこう考えてるうちに、自分のもとを離れるとか離れないとかって、勝手にイメージしてるフィクションなんじゃないかと思っていた。
物理的に考えれば距離は変わらないし。つきあってるかどうかという認識の違いなだけというか。そこに重きを置きすぎてるんじゃないかとか。つきあうつきあわないで何が変わるのかとか。まあありがちな。


すごい中途半端な感じがするけど、今の時点で書けるのはこんなことくらい。
問題提起に終始した気がする。答えを出す努力は今後するかもしれないししないかもしれない。


余談。
goo辞書には「恋」の2個目の意味が載っていた。

(2)古くは、異性に限らず、植物・土地・古都・季節・過去の時など、目の前にない対象を慕う心にいう。

そういえばそういう使い方もする。
物欲とは違う。ここでは所有欲を伴わない(はずだ)。
素敵。


長いな。書いてる途中で昼寝してしまったくらい長い。

京都2007.6

いっきに。なのにメモ。


・京都行きを決めたのは

バイト不採用になる→なんかすごい暇な気になる→京都行くか→夜行バスあるかな→あるじゃん→宿→あるじゃん→よし


・夜行バスまで
管理人さんにもらったスイカは明日京都に旅立つ身としては誰かに託さねばならぬ→みんなが集うところに持っていく→本屋でるるぶと文庫を買う→水買う→帰宅→新宿西口は叩き売り系おじさんたちの天下→カフェる→バス


・夜行バス
なかなかきれい→隣いない→ラッキー→宮沢賢治詩集→赤い電車→どきどきする→うとうとする→起きる→繰り返し→到着


・京都に着きました
早朝すぎる→人生初の満喫→着替え→ロッカー→待ち合わせ(7時)→人々はなんか落ち着いている(派手でない)→いやーすいません朝早くに→カフェ開いてなくね?→朝食→とりあえず移動


・京都大学
行きたかった時代→時計台ってこんなんだっけ?→国立大→チャリ多し→大学ってよい


・銀閣
中学生多い→寺→すげー儲けてる→絵葉書買う→ていうか店の人にさっさと買えって言われる→女の子って歩きにくい靴履くよね→ニーズをつくってるのは男だともいえる


・再び京大
カフェる→レーダー→風→干渉波→かたち→カメラとの相互侵食→エンジニアリングとサイエンス→法律→え、その場合どうなんの→多分こう、多分ね


・飯
四条→阪急デパ→パスタ→京風→トイレでのおばちゃんたちの会話→「あんた肌きれいやなーほんまに」「なにゆうてんのーあんたこそ色白でーあたしいつもそうおもてるわー」「いややわーあんたこそー」→3人くらいで入れ替わりこの会話→尊敬


・甘味
パフェかー→玉露と蒸しパン→玉露塩はいってんじゃないの→結局食べきれず


・鴨川
ゆったり→語らい→暑い→白鷺とんび→かめ石→死とはなんぞや→遺伝子系→恋愛系(何でこの人こんなしゃべってんねやろ)


・飲み
web→普遍的なものについて→軸は1本か2本か→真摯→メリットがないことのデメリットはあるのか→変わってる?→文章のこと→具体性→ミニマム→自負→オフラインとリアルタイムが対義語


・町屋ドミトリー
ただいまー→レトロでかわいい→絵葉書→大日本人は見るな→でも見ちゃうんでしょ→京都論→鴨川ときどき寺→JAZZ→レトロ喫茶→のっこめのっこめ→意固地で冷たい→しかしラブリー→そんなやつらが作った小さな王国なわけですよ→女ってめんどくせー→おにぎり


・次の日
四条河原町→店開いてない→商店街をぶらつく→コロッケ食ってるおじさん→買ってみる→どうせ一個でしょと譲ってくれる→ありがとうおじさん→路上で食べる→空はどこだって同じだった→店まだ開かない→仕方ないので隣の店に入る→たまご丼


・偶然の再会
四条大橋→偶然→わーすごい→写真


・鴨川再び
鴨川ぶらぶら→足痛い→はだし→これが本来の足だし本来の精神状態だ


・さらば
京都タワーを満足に見たかった→またくる→東海道線てどれですか→あれです→ありがとう→離れがたし

talk

昨日は3人の人と別々の機会に会った。
メモはそれで分けて書いた。
男の子→女の子→男の子(年上ですが)の順だ。

それぞれ違った話をした。

今一番考えてることとリンクした話ができたのは、男の子たちの方だった。
でもそれは男の子だからというわけじゃなくて、そういう人たちだからってことだろう。


最初の男の子は同い年の子で、私は彼と何度か飲んだり話したりする機会があったんだけど、以前はその子の話していることの半分くらいしか理解できなかった。そしてその旨開示してみたら笑っていた。
気取っていやがる、とまあ少なからず思っていたふしはある。でも興味はあったけどね。
それは自分のやる気のなさもあったのかもしれないけど、でも実際そこまで考えたことが無いっていう経験不足からくる理解不足だった。今回はかなりの範囲を理解・共有することができた。と思う。


話しているときに相手の言っていることを理解できないというのは嫌なことで、それは自分の勉強不足、経験不足だなと捉えることもあるし、逆に、こいつとは考え方が合わないだけだという結論を導いてしまったりすることもある。
後者だと、もう放棄である。
実際そういうことももしかしたらあるのかもしれない。
けどその人が語っていることはそのように考えるに至った理由が必ずあるわけで、それを理解することはある程度可能だし、また時期がくれば可能になることもある。
「大人になれば解かるのさ 子供のままじゃ解からないそうだ」(byくるり)
最近私はとみにそれを感じていて、価値観が違う、と切り捨てることは結構もったいないし、理解できたときには、あ、失礼だったなと思う。

私が存在論的なことを考え出したり、マクロな視点で物事をみようとするようになったのは本当につい最近のことで、まあこのブログをはじめる少し前くらいからだから半年かそこらのことだ。
これってかなり遅いんじゃないかと思う。
それを考えるのは実際詮無いことだし、実益がないと思っていた。
哲学という学問は、暇人が暇つぶしのためにやるもので、云々。とか。趣味の領域。
それを考えてどうするのか、それより重要なのは目の前の勉強であり、恋愛であり、生活だと。

なんでそう考えていたのに、結局こんな抽象論満載の宙に浮いたようなあやふやなブログを書くようになったのかといえば、必要に迫られて、というのが一番正確だ。
実益がないと思っていた領域を必要に迫られて考えるというのはまあ私の考えが誤っていたということだ。
実益・必要は大いにあったわけである。
これを考えないと次に行けない、という状況に陥った。
これってすごく幸せなことだと思う。


2番目に会ったのは一個上の女の子で、かわいらしい子だ。
健気で、やさしくて、品性があって、思慮深い。思慮深いというのがポイントで、この子もかなり賢い子だ。
明日(つまり今日)彼の実家に招待されているのだと言って、緊張していた。
思慮深い女の子というのは、言い方を変えれば冷静で計算ができている女の子ということだ。
「蛇のように聡く、鳩のように素直でありなさい」(by聖書)
計算が出来るというのは、決して非難さるべきものではない。むしろ自立であり、品性である。
馬鹿なのは可愛いし純粋に見えるかもしれないが、それは多分単なる甘えなんだろうなと思う。それかそれも計算か(それなら要は使いどころがあってるかどうかだろう)。保護される環境になければ、否が応でも考えるし、計算する。

しかし女の子はいろいろ計算している、と思う。割と誰でも。複雑な。もともとあまりオープンではない、と思う。
相手との距離感、全体でのポジショニング、踏み込める範囲、踏み込ませる範囲等々。
女の子社会は、小学生の頃から結構複雑である。なんでグループ化するんだろうな。


3番目に会った人は年上の人で、憧れの人である。
私はこうやってブログを書いて今の思いを伝えられるけど、その人はブログなどやっていないので、直に話を聞くしか考えに触れる機会がない。しかもなかなか稀有な機会である。
そういうわけで、結構全神経を集中させて話を聞いていたように思う。

最初に、ちゃんと覚えていたい、と思った。その言葉も空気も。

だ から私はお酒のペースも守った。保守的でちょっとつまらなかったかもしれない。酔って眠気と闘いながら話半分で聞くような(これがよくあるのだ)ことは避 けたかった。まあ最初に会った男の子とはそれがかなり多くて(ほんとにあんまやる気なかったんだね)、「それ前も話した」と何度も言われる。いや失礼。
先のメモエントリにも書いたけど、そのおかげで割と覚えていた。

いろんな話をした。素敵で有意義だった。
とか、直に言えばいいんだけど、やっぱりはずかしい。気づけば5時間弱話していた。

今度最初の男の子と3人で飲もうよという話になって、かなり面白そうだと思った。

そして一人旅に出ようと思った。

赤い電車

最近、くるりの「赤い電車」がヘビロテで、常に頭に流れてて口ずさんでいる。

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赤い電車は歌い出す
ファソラシ♭ドレミファソー
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赤い電車っていうのは羽田(京急線)とか成田(京成線)とか行ったり、急に都営浅草線になったりする路線のことで、確かに走り出すときファソラシドレミファソーっていう音がする。その音も曲中に入ってる。お、って感じ。


学 部生の頃、家庭教師のバイトに行くとき品川から使ったのが京急で、私はその頃やたらと電車がものめずらしくて、新たな発見をしては一人で嬉しくなったりし た初々しい時期だった。山手線に新しい車両が入ったときなんか(多分学部1年のときだ)、かなり感動した。ディスプレイがついているなんて。しかも広く なってるし。座席の間に棒が立ってるし。と、隅々を観察した。


私は電車が割と好きだ。ちなみにマニアとかではない。

地下鉄では南北線が一番好き。ホームにドアがあるから。
モノレール系も好き。これは眺めがいいからだ。
りんかい線も結構ホームがよかった気がする。大江戸線もホームはいいけど車体が小さいしあまりに深いので好きではない。
あと、東急東横線も結構好き。お洒落なとこが多いイメージ。中目黒、祐天寺、代官山、自由が丘。ちなみに昔、学芸大学が最寄駅だったことがある。東急田園都市線なんかは東急電鉄の開発がいいんだろう。
こう見ると、JRってやっぱり強い。なんだかんだで駅は大きいし。


で、赤い電車。
ファソラシドレミファソーの音階だったってのはくるりの曲聴いてなるほどと思ったんだけど、音楽みたいな音がする電車だな、とは思っていた。

あと、電車がホームに入ってくるときのアナウンスが他の線よりも一番よかった。女の人の凛とした声が告げる。
「三崎口行き 電車が参ります」。
しかも結構丁寧に説明付。

駅名もなかなか面白い。平和島とか、新馬場(しんばんば)とか、青物横丁とか、金沢文庫とか。文庫て、と思ったものだ。

ただ、駅はかなり垢抜けない感じだ。ぼろい。西武線といい勝負。
エアポート快特の車体とかは新しくてきれいなのに、金沢文庫行きのような各停は赤くて古い。木目とかだったりする。で、座席は緑だった気がする。ひどい。


なんかそういうの思い出してると、懐かしくなった。
最近あっちの方面には行かなくなった。用事無いし。

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赤い電車に乗っかって
夢を探しに行くんだよー
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私にとって京急はそんなに夢のある電車じゃなかったけど、岸田繁にとってはそういう電車だったのかもしれない。
都心へ出るときに必ず使う電車だったとか。もしくは好きな人が沿線に住んでいたとか。
そういうのって確かにある。

電車や駅にまつわるエピソードなんかを一人一人が語りだしたら、その人々各々の短編集ができそうだ。
しかも結構それを共有できそうな気がする。

ひとりぼっちのこと

たくさん人に会ってるけど、会いすぎて疲弊している。
これこそ本末転倒である。量こなせばいいってもんじゃない。
生きてりゃ会えるんだから、そんなに焦ることもない。


それに

本当に会いたかった人たち、語りたかった人たちとは、まだあまり会えていないし語れていない。とも思う。
不本意なこともあった。

それが疲弊のせいだったりするのだ。だから本末転倒。
気づかないうちに。



最近考えることは、現状の客観的分析に終始している気がする。
そこから発展しない。
ので発展させるよう試みてみる。


なんかたくさん人に会っても、結局ひとりだなと思う。今更だけど。
咳をしても。云々。
そう、わかってたよ。


ひとりぼっちっていうのは寂しいイメージだけど、そんなことはなくて、これも多面的に見れば、楽なことでもあり、自由でもあり、そしてそういった評価を離れた、単なる事実状態でもあり。ん。そうかな。

だいたいひとりぼっちってどういう状態なのかも定義しかねる。かなり主観的。
誰かしらとのつながりがある以上ひとりぼっちな人はいないともいえるし、逆に個である以上ひとりぼっちじゃない人はいないともいえる。
ひとりぼっちだと思えばそんな気もするし、そうじゃないと思えばそんな気もする。


何にせよ、人は孤独感を感じることがある。
多分状態としてはそんなに変わらないのに、ふいに孤独だと思いつくときがある。
それは本当に、思いつく、とか、我に返る、とかいう感じで、急に「降って沸く」ような感覚だ。と江國香織の表現を借りてみる。
なぜだろう。


江國香織は小説の中でこう言った。

「誰にも、天地神明にかけて誰にも、他人の孤独は救えない。」

(江國香織「つめたいよるに」の中の短編「ねぎを刻む」より)


これを読んだのは中学生の頃だったけど、理解したのは大学生になってからだった。

そうなんだよ。
私のことを「ほっとけない」という類稀な人(拒否した)が過去にいたけど、そしてそのことについて若干相談?検討?したけど(結局、男はみんな変態だということを教示いただいた)、私は江國さんのこの言葉を持ち出したい。
誰にも。
私は、誰かを救えると思ったことは一度も無い。



最近、孤独感から逃れるために人と会うことが必要なのではないかと仮定していたきらいはある。
だから約束を入れたというわけではなく、約束を入れたあとにそう思っただけだけど。

でも多分そんなに忙しくする必要はないんだろう。
ひとりぼっちは主観的な問題だから。


くるりの歌詞をよく引用するけど、彼らの歌詞の中にはひとりぼっちな雰囲気が漂っている。
よく、さよなら、というフレーズを使うし。

くるりはその音楽性やメンバーなどにいろいろ変遷があるけど、歌詞は一貫して岸田繁というvocalの人が書いている。
彼の歌詞の言葉の選び方が的確なところや、素直なところが好きだ。
そして何より最近その歌詞に共感することが多い。そうそう、そういうこと考えるよね、っていう。全部は知らないけど。



今音楽と孤独感の関係について少し思ったけど、エントリを改めていずれポストする。