きもい、という言葉が褒め言葉である件について。
何にせよそんなにいい言葉ではない、多分。以下頻出するが気分を悪くされないようお願いしたい。
この言葉というのは、ご存知の通り「気持ち悪い」の略語として誕生したのであるが、ただ少しニュアンスが変わってきているなという印象。
でも相変わらず、「きもい」と言われたら、ええ、気持ち悪いの、とショックを受ける層もあるだろうし、というかそっちの方が多数派なのかもしれない。関東と関西で「馬鹿」という言葉の意味が異なるのと似ている。関西ではショックが大きいというよく聞く話。
私 とかは妹とかが使うので慣れた。ていうか私自身たまに言われるので慣れた。言われてわかるのは、あの言葉って結構軽いのだ。あいつら結構気軽に使うのだ。 たとえば数学とか教えていて、姉ちゃんすげーみたいな言葉のあとに「きもい」とか言うのだ。傷ついた、と言えばごめんそうじゃなくて、となる。そういう用 法らしい。
その、少しニュアンスが変わってきてるなと思ったのは、やはり「きもかわいい」という言葉の出現による。きもいけど、かわいい。むしろきもいところがかわいい。つまりはきもいということが一つの個性として認められ、それがなんとなく可愛くみえてきた、そんな感性。
一 般にどう使われているかサンプルとったわけではないので、もう主観甚だしいけれども。私が、おおきもいな、と思う時は大抵「すごいな」のニュアンスを含ん でいる。なんかすごすぎて、それが最早きもいのである。のめり込み過ぎている人、とか、才能が突出している人、とかいうのは、なんかよくわかんないけどす ごすぎるわ、という意味で、人間離れしている、という意味で、きもいのである。気持ち悪いくらいすごいね、という意味で使っている。勿論私はそういう人た ちが大好きである。
勿論、本来の、「気持ち悪い」という意味での用法も生きているとは思うのだが、そもそもそんな意味で使うのは私の趣味ではなくて、大体上述のようなニュアンスで使っている。
そもそもね、そんなこといったら人間なんてみんなきもいのである。
で、小林賢太郎がきもかっこいいというのはそういうこと。なんかすごい。すごくてきもい。きもいところがかっこいい。
余談。
昔、かわいいという言葉がかっこいいという言葉よりもプラスのニュアンスを含んでいるという説を唱えたことがあって。若手弁護士の人たちと飲んだ時にそれを言ったらそれ少数説でしょ、読まなくていい説でしょ、と予備校ライクなことを言われたわけだが、私の中では根強い。
かわいいは愛の対象で、かっこいいは恋の対象である人に使われるのではなかろうかという仮説。異性について使う時。
そ もそも、ずっとかっこいい人なんていないわけで。絶対かっこわるいところがあって。しかし、かっこわるいというのはかっこいいとは相反するけれども、かわ いいには内包されたりもするわけで。だってきもいところがかわいくもなるわけだから、このかわいいという概念はものすごく広い。懐が深い。
つま り、かっこいいの方が確かに希少性はあるんだけれども、かわいいの方が真理であって愛なのだと思う。そしてかっこいいというのは慣れるとあんまりかっこよ くなくなる気がする。(ただ、その一過性のかっこいいを追求していくのもまたよい。かっこいいものもそれはそれで好きである。)
女子高生の使う「かわいい」が話題になったことがあったけれども、私はそれを是としたい。べつに山がかわいくてもパプリカがかわいくてもなんでもいいけど、それはいい感性だと思う。荒んでいない。豊かにすら感じる。
私と妹は、古田新太が押し入れで泣いている姿を、強烈にかわいいと思った。心打たれた。あのおじさんの武器はそこである。おじさんなのにかわいい。おじさんだからかわいい。長州小力にも同じことが言えよう。賛否両論あるのは承知している。あくまで私の感性で。
というなにがしかの主張を縷々。
結局のところ、言いたかったのは、誤解しないでくれということだ。
June 27, 2009
小林賢太郎テレビ
先日、NHKのBS-hiで「小林賢太郎テレビ」というのがあった。
小林賢太郎といえば、ラーメンズの脳というか、片桐仁と共に時代を先ゆくアーティスティックな笑いのプレゼンターであるが、妹がこの人を「小林さん」と呼んで非常に敬愛している。たまに「コバケン」と言う。私は「ケンコバ」と間違える。ので、小林さんでお願いしている。
かく言う私も高校生の頃継続して見ていたテレビ番組は「爆笑オンエアバトル」のみで、あの時代の新人お笑い芸人はまあまあ把握しているのだが、ラーメンズは異色で、知的だった。なのにラーメンズって、と思っていた。
基 本的にオンエアバトルというのは観客の投票により上位5組のみがオンエアされるがそれ以外は脱落する、というシステムの番組で、ほとんど東京で収録されて いるのだけど、たまに地方収録がある。それで、東京での収録だとラーメンズは通るのだけど、大阪とかだと難しい。そういう類の笑いである。某tubeには いろいろある。是非観ていただきたい。もしかしたらお笑いの中でいちばん好きなコンビである。「日本の形」シリーズとか「金部」とか「日本語学校アメリカ 編」とか「たかしと父さん(オンバトver.)」とかいい。
最近はとんとテレビには出ず、たまにCMに出るくらいのもので、大体活動は公演形式らしい。友人に「FLAT」と「雀」という公演はDVDを貸してもらって見た。
公演は基本的にラーメンズファンしか来てないので、雰囲気がいい。
それで、小林賢太郎テレビ、というのがやっていた。一昨日かな。
基本的にはテレビ用に作ったコント集の合間にインタビュー、仕事風景。この人の仕事場はすごくいい。黒板がある。糸鋸とかもある。
私はあの手の計算されたことが好きで、たとえばピタゴラ装置なんかにすごく感動してしまうタイプの人間で。それでなかなかよかったという話。
妹なんかは「かっこいい」「すごい」「きもい」を、コント以外のインタビューのところでも発していた。そう、彼はきもかっこいい、と思う。この場合、きもいは褒め言葉である。
「0から1は無理ですけど、0から0.1ならなんとか作れるんですよ。それを10かい繰り返せばいいっていう」
「もともと人を笑わせるタイプじゃなかった人が、一生懸命考えて作ってる」
「できたぁー」
で、再放送が22日(日)17時~。
よろしければ是非。
小林賢太郎といえば、ラーメンズの脳というか、片桐仁と共に時代を先ゆくアーティスティックな笑いのプレゼンターであるが、妹がこの人を「小林さん」と呼んで非常に敬愛している。たまに「コバケン」と言う。私は「ケンコバ」と間違える。ので、小林さんでお願いしている。
かく言う私も高校生の頃継続して見ていたテレビ番組は「爆笑オンエアバトル」のみで、あの時代の新人お笑い芸人はまあまあ把握しているのだが、ラーメンズは異色で、知的だった。なのにラーメンズって、と思っていた。
基 本的にオンエアバトルというのは観客の投票により上位5組のみがオンエアされるがそれ以外は脱落する、というシステムの番組で、ほとんど東京で収録されて いるのだけど、たまに地方収録がある。それで、東京での収録だとラーメンズは通るのだけど、大阪とかだと難しい。そういう類の笑いである。某tubeには いろいろある。是非観ていただきたい。もしかしたらお笑いの中でいちばん好きなコンビである。「日本の形」シリーズとか「金部」とか「日本語学校アメリカ 編」とか「たかしと父さん(オンバトver.)」とかいい。
最近はとんとテレビには出ず、たまにCMに出るくらいのもので、大体活動は公演形式らしい。友人に「FLAT」と「雀」という公演はDVDを貸してもらって見た。
公演は基本的にラーメンズファンしか来てないので、雰囲気がいい。
それで、小林賢太郎テレビ、というのがやっていた。一昨日かな。
基本的にはテレビ用に作ったコント集の合間にインタビュー、仕事風景。この人の仕事場はすごくいい。黒板がある。糸鋸とかもある。
私はあの手の計算されたことが好きで、たとえばピタゴラ装置なんかにすごく感動してしまうタイプの人間で。それでなかなかよかったという話。
妹なんかは「かっこいい」「すごい」「きもい」を、コント以外のインタビューのところでも発していた。そう、彼はきもかっこいい、と思う。この場合、きもいは褒め言葉である。
「0から1は無理ですけど、0から0.1ならなんとか作れるんですよ。それを10かい繰り返せばいいっていう」
「もともと人を笑わせるタイプじゃなかった人が、一生懸命考えて作ってる」
「できたぁー」
で、再放送が22日(日)17時~。
よろしければ是非。
外見について
2月12日(木)のほぼ日「今日のダーリン」で、こんなのがあった。
以下引用。
--------------------------------
静かに「あさりなっとうしめじスパゲティ」などを
食べているときのことでした。
ふと、ずっと長い間ショートヘアの家人が、
長い髪の女になったらどうなんだろうと思いまして。
他人のようにさえ思えるかもしれない。
本人にしても、ロングヘアになって暮らすのは、
人生やりなおしという感じなのではないか。
(中略)
女性が「髪の短い女」として生きていくか、
「髪の長い女」として生きていくかというのは、
かなりの、大きな分岐点になるのではないでしょうか。
それとも、長くしたり短くしたり、どっちでもいいのか?
--------------------------------
私は絶対長くする、という人も、いや短い方が性にあってる、という人もいるのであろうけど、わたしは、おそらく、どっちでもいいんだと思う。
短い方が似合っていると思うけど、彼氏がのばせと言ったらのばしていたし、美容師さんがこの長さにしたいなぁと言えば、じゃあそれで、となることもある。
まあ短い方がいいな。じゃまじゃない。顔とか身長にもその方が合っているとは思う。
糸井さんの奥さんは樋口可南子さんだから、なんだかずっと髪の短い人、というイメージがあるけれど、髪型というのは結構変わる人も多い気がする、女性の場合。
でもまあある年齢を超えると、大体固まってくる気はたしかにする。
妹は高校生の半ばからアメリカに留学していたのだが、そこの学校がミッション系のなかなかに保守的なところで、いろいろ変わった校則があった。デートは立会人を入れて3人ですることとか、女性はロングスカートでなければならないとか、肘より長い丈の上着を着ることとか。
その中で、女性は髪を切ってはいけない、というのがあった。
聖書に切るなと書いてあるわけではないのだけど、長い髪は女の誉れ、みたいな箇所があるのだそうだ。その当時髪の短い女性は遊女だったという歴史もあるらしい。
それで彼女は郷に従い、髪を長く伸ばしていた。ものすごく、大変そうだった。好むと好まざるとにかかわらず、そんな場合もあるのだ。
確 かに、年齢を重ねるごとにだんだん固定化していく気はして。髪の長い女として生きるのか、短い女として生きるのかは、どこかの時点で分かれていて、長い方 の人に共通することと、短い方の人に共通することというのはあるのかもしれない。あるのかもしれないけれど、髪のいいところは切っても伸びるということ、 取り返しがつく(少なくとも一生そのままではない)ということなのだから、まあどちらも選べるし、結局決めなくてもいい。
糸井さんの奥さんは、「そんなでもないんじゃない?」と言ったそうな。
外見に関して、こういう風にいこう、と決めることというのがあるかというと、あるとも思えるし特にない気もする。
芸 能人というのは、キャラクターを立たせることが必要だから、やっぱりあるんだろうなと思うけれど、普通に生活している人たちというのは、どちらかといえば 会う相手だとかTPOだとか、そういうのに合わせるものじゃないかしら。ズボンだってスカートだってそれなりに適切にはくんじゃないかしら。ジャケット だってパーカーだって、ブーツだってスニーカーだって。
いや、そういうことじゃなくて、もしや割合の問題か。それかTPOに制約条件がないときの話か。
ファッション雑誌とかにはタイプ別で着回し例が載っている。大抵クールとフェミニンとか、大人系と可愛い系とか、外回り系と内勤系とかだ。それか?最後のはなんか違うな。
確かに、自分の外見をコントロールするというのは、興味深いことかもしれない。それを決める時って、自分の好みや性格なんかの内面をよく見て、自分に合っているか確かめて、自分をよりよく表現する手段を選んでいるのかもしれない。
現代の日本においては、おそらく大体の人が服を買える状況にあるのだから、積極性の程度はあるにしろ、こう見てくれ、という他者に向けた表示ではある。服に気を遣っていないという人も、積極的ではないにしろ、服に気を遣っていない自分を表示している。
そ して、AS ISとTO BEじゃないけれど、そうである自分を表現するときと、ありたい・あるべき自分を表現するときがある気がする。卑近すぎて恐縮な自身の例で言えば、グレー のパーカーを羽織っているときはAS ISで、黒のストライプのジャケットを羽織っているときはTO BEな感じがする。また背のびの話だ。
ありたい・あるべき自分ばかりを表現している人もいれば、あるがままの自分を表現し続けてる人もあるだろう。志向性の違い。
以下引用。
--------------------------------
静かに「あさりなっとうしめじスパゲティ」などを
食べているときのことでした。
ふと、ずっと長い間ショートヘアの家人が、
長い髪の女になったらどうなんだろうと思いまして。
他人のようにさえ思えるかもしれない。
本人にしても、ロングヘアになって暮らすのは、
人生やりなおしという感じなのではないか。
(中略)
女性が「髪の短い女」として生きていくか、
「髪の長い女」として生きていくかというのは、
かなりの、大きな分岐点になるのではないでしょうか。
それとも、長くしたり短くしたり、どっちでもいいのか?
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私は絶対長くする、という人も、いや短い方が性にあってる、という人もいるのであろうけど、わたしは、おそらく、どっちでもいいんだと思う。
短い方が似合っていると思うけど、彼氏がのばせと言ったらのばしていたし、美容師さんがこの長さにしたいなぁと言えば、じゃあそれで、となることもある。
まあ短い方がいいな。じゃまじゃない。顔とか身長にもその方が合っているとは思う。
糸井さんの奥さんは樋口可南子さんだから、なんだかずっと髪の短い人、というイメージがあるけれど、髪型というのは結構変わる人も多い気がする、女性の場合。
でもまあある年齢を超えると、大体固まってくる気はたしかにする。
妹は高校生の半ばからアメリカに留学していたのだが、そこの学校がミッション系のなかなかに保守的なところで、いろいろ変わった校則があった。デートは立会人を入れて3人ですることとか、女性はロングスカートでなければならないとか、肘より長い丈の上着を着ることとか。
その中で、女性は髪を切ってはいけない、というのがあった。
聖書に切るなと書いてあるわけではないのだけど、長い髪は女の誉れ、みたいな箇所があるのだそうだ。その当時髪の短い女性は遊女だったという歴史もあるらしい。
それで彼女は郷に従い、髪を長く伸ばしていた。ものすごく、大変そうだった。好むと好まざるとにかかわらず、そんな場合もあるのだ。
確 かに、年齢を重ねるごとにだんだん固定化していく気はして。髪の長い女として生きるのか、短い女として生きるのかは、どこかの時点で分かれていて、長い方 の人に共通することと、短い方の人に共通することというのはあるのかもしれない。あるのかもしれないけれど、髪のいいところは切っても伸びるということ、 取り返しがつく(少なくとも一生そのままではない)ということなのだから、まあどちらも選べるし、結局決めなくてもいい。
糸井さんの奥さんは、「そんなでもないんじゃない?」と言ったそうな。
外見に関して、こういう風にいこう、と決めることというのがあるかというと、あるとも思えるし特にない気もする。
芸 能人というのは、キャラクターを立たせることが必要だから、やっぱりあるんだろうなと思うけれど、普通に生活している人たちというのは、どちらかといえば 会う相手だとかTPOだとか、そういうのに合わせるものじゃないかしら。ズボンだってスカートだってそれなりに適切にはくんじゃないかしら。ジャケット だってパーカーだって、ブーツだってスニーカーだって。
いや、そういうことじゃなくて、もしや割合の問題か。それかTPOに制約条件がないときの話か。
ファッション雑誌とかにはタイプ別で着回し例が載っている。大抵クールとフェミニンとか、大人系と可愛い系とか、外回り系と内勤系とかだ。それか?最後のはなんか違うな。
確かに、自分の外見をコントロールするというのは、興味深いことかもしれない。それを決める時って、自分の好みや性格なんかの内面をよく見て、自分に合っているか確かめて、自分をよりよく表現する手段を選んでいるのかもしれない。
現代の日本においては、おそらく大体の人が服を買える状況にあるのだから、積極性の程度はあるにしろ、こう見てくれ、という他者に向けた表示ではある。服に気を遣っていないという人も、積極的ではないにしろ、服に気を遣っていない自分を表示している。
そ して、AS ISとTO BEじゃないけれど、そうである自分を表現するときと、ありたい・あるべき自分を表現するときがある気がする。卑近すぎて恐縮な自身の例で言えば、グレー のパーカーを羽織っているときはAS ISで、黒のストライプのジャケットを羽織っているときはTO BEな感じがする。また背のびの話だ。
ありたい・あるべき自分ばかりを表現している人もいれば、あるがままの自分を表現し続けてる人もあるだろう。志向性の違い。
時があること。好むものとわかること。
以前にも書いたけれども、聖書にこんな文句がある。
「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。」
(伝道者の書3章1節)
時があるのだよなぁと思う。皆そう思っている。
少し話は違うのかもしれないが、植物をすごくいとおしいと思う時期がある。その中でも、特に花が好きな時期もあれば、木が好きな時期もある。かといって、植物に興味を示さなくなる時もある。
空が好きな時期もある。雲を見ていたら2時間経っていたなんてこともある。かといって、毎日空や雲ばかり見たい日というわけでもない。
音 楽にもそんな風なものがある。椎名林檎なんかをじっくり聞いて感嘆する時期もあれば、五月蝿く思ってハラカミおじさんのかわいらしさにノスタルジックな日 もあるし、それをまたつまらなく感じてハルカリの身の丈感にすっきりする時もあれば、少し疲れてジャズが染み入る時もあり。
好むものはある程度決まっているのだけど(つまりなんでも良いわけではないのだけど)、こんな風に好きなものが変わる、というのは、つまり気分が変わっているのだろうと思う。
そして個人差はあるけれども、ある一定の対応があり得る気がする。
つまり、アンビエントを好む時の気分というのは、あまり元気ではない気がする。少なくとも落ち着いている。落ち着いちゃっている。
テクノを聴ける時というのは、心に余裕のある時だとも思う。
しっとりしたジャズを本当にいいなあと思う時というのは、少し疲れている気がする。大人がジャズを好むのは、ちょっと疲れているからではないだろうか。いや、ジャズはそんなのばっかりではないんだけれども。
植物も空も、すごく感動的に見えるときというのは、何か悲しい気分だったりとか、何かに追われていたのを我に返る時だったりとか、する。
いや、超個人的感想だな。
なんだか落ち着いちゃっているし、アンニュイだし、少し悲しいここ最近の自分のデフォルトが出ているというだけの話かもしれん。
たとえば昔ジャズをおとなしく聴けなかったのは、単に疲れていなかっただけなのかもしれない、とかは思う。
それで、時があるという話。
何かをわかるのに時がある。
わ かりたいと思って努力しても、わからない時はわからないものだったりする。物事には順序があるし、何かをわかるには経験が必要で、それらが全部そろった時 に腹落ちするというものだ。最近では「信じる」ということがそうだった。「自分」というのもだんだんわかってきた(一般的な「自分」ではなくて、ごく個人 的な「自分」について)。
私たちはいろんなことをいつもわかりたいけれど、そしていろんなものを集めてはつなげたりするのだけど、結局、自分という人間に深く関わっている何かの経験でしか腹には落とし込めない。
と、こういうことを考えていると、「こころ」から引用した、先生と私とのやりとりが少し興味深いのである(3番目の引用)。
その思想を生み出した先生の過去とセットで知りたいのだ、という話。
自身の過去というのはあまり明け透けにはできないもので、なぜかといえば、それはなんとはなしに恥ずかしいからであり、たとえばその過去を話すことによりその抽象化したあるいは抽出した思想が陳腐化するということを恐れるからかもしれない。
サ イトでもメールでも口頭でも関係なく、何か自分の体験を話すというのは、ある程度コミットしていないと話せないと思う。何かの考えを話すことよりも。何か の考えの元になるような体験であればこそ、そうなる。緑茶を飲むようになった経緯だとか、ジャズを聴くようになった経緯とかは全然問題なく話せる。信じる ことを考えるに至った経緯の方が話しにくい。
汎用性が低くて相手の役には立たないだろうと思うのか、身の上話みたいになってしまうのが嫌なのか、個人的すぎて恥ずかしいのか。大体において、そういう考えを深めるようなインパクトのある体験というのは何かしら(本人にとって)深刻な面をもっているのかもしれない。
そんなこんなで時がある。
私も随分変わった気がする。昔のブログの記事を読んでいると、少しそう思う。
それで、最近演歌いいなあと思っているという話。
「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。」
(伝道者の書3章1節)
時があるのだよなぁと思う。皆そう思っている。
少し話は違うのかもしれないが、植物をすごくいとおしいと思う時期がある。その中でも、特に花が好きな時期もあれば、木が好きな時期もある。かといって、植物に興味を示さなくなる時もある。
空が好きな時期もある。雲を見ていたら2時間経っていたなんてこともある。かといって、毎日空や雲ばかり見たい日というわけでもない。
音 楽にもそんな風なものがある。椎名林檎なんかをじっくり聞いて感嘆する時期もあれば、五月蝿く思ってハラカミおじさんのかわいらしさにノスタルジックな日 もあるし、それをまたつまらなく感じてハルカリの身の丈感にすっきりする時もあれば、少し疲れてジャズが染み入る時もあり。
好むものはある程度決まっているのだけど(つまりなんでも良いわけではないのだけど)、こんな風に好きなものが変わる、というのは、つまり気分が変わっているのだろうと思う。
そして個人差はあるけれども、ある一定の対応があり得る気がする。
つまり、アンビエントを好む時の気分というのは、あまり元気ではない気がする。少なくとも落ち着いている。落ち着いちゃっている。
テクノを聴ける時というのは、心に余裕のある時だとも思う。
しっとりしたジャズを本当にいいなあと思う時というのは、少し疲れている気がする。大人がジャズを好むのは、ちょっと疲れているからではないだろうか。いや、ジャズはそんなのばっかりではないんだけれども。
植物も空も、すごく感動的に見えるときというのは、何か悲しい気分だったりとか、何かに追われていたのを我に返る時だったりとか、する。
いや、超個人的感想だな。
なんだか落ち着いちゃっているし、アンニュイだし、少し悲しいここ最近の自分のデフォルトが出ているというだけの話かもしれん。
たとえば昔ジャズをおとなしく聴けなかったのは、単に疲れていなかっただけなのかもしれない、とかは思う。
それで、時があるという話。
何かをわかるのに時がある。
わ かりたいと思って努力しても、わからない時はわからないものだったりする。物事には順序があるし、何かをわかるには経験が必要で、それらが全部そろった時 に腹落ちするというものだ。最近では「信じる」ということがそうだった。「自分」というのもだんだんわかってきた(一般的な「自分」ではなくて、ごく個人 的な「自分」について)。
私たちはいろんなことをいつもわかりたいけれど、そしていろんなものを集めてはつなげたりするのだけど、結局、自分という人間に深く関わっている何かの経験でしか腹には落とし込めない。
と、こういうことを考えていると、「こころ」から引用した、先生と私とのやりとりが少し興味深いのである(3番目の引用)。
その思想を生み出した先生の過去とセットで知りたいのだ、という話。
自身の過去というのはあまり明け透けにはできないもので、なぜかといえば、それはなんとはなしに恥ずかしいからであり、たとえばその過去を話すことによりその抽象化したあるいは抽出した思想が陳腐化するということを恐れるからかもしれない。
サ イトでもメールでも口頭でも関係なく、何か自分の体験を話すというのは、ある程度コミットしていないと話せないと思う。何かの考えを話すことよりも。何か の考えの元になるような体験であればこそ、そうなる。緑茶を飲むようになった経緯だとか、ジャズを聴くようになった経緯とかは全然問題なく話せる。信じる ことを考えるに至った経緯の方が話しにくい。
汎用性が低くて相手の役には立たないだろうと思うのか、身の上話みたいになってしまうのが嫌なのか、個人的すぎて恥ずかしいのか。大体において、そういう考えを深めるようなインパクトのある体験というのは何かしら(本人にとって)深刻な面をもっているのかもしれない。
そんなこんなで時がある。
私も随分変わった気がする。昔のブログの記事を読んでいると、少しそう思う。
それで、最近演歌いいなあと思っているという話。
光も影も「さす」こととか
努力は「実る」
恋には「落ちる」
愛は「育む」
音楽は「流れる」
心は「はずむ」し、「踊る」
耳は「澄ます」
言葉というものは元々は表現であるけれども、私たちは言葉に慣れて、反射的に、音楽は流れるものとして使っている。
慣用句としてすら挙げられなくなってしまっているものは意外に多いのではないか。とか思ったこと。
詩や小説を書く人達は、こういう何かと動詞、あるいは形容詞、つまり何かと何かの組み合わせを一つ比喩でも作るように組み合わせて、新しい表現を、しっくりくる組み合わせを探しているように見える。
たとえば江國香織は、ひっそりした横顔、たっぷりとしたコーヒーカップ、を発見し、目をほどいて笑ったり、くっきりと笑ったりする女の人を描いた。
さて、いい土曜日。
コーヒーでも飲みに。
恋には「落ちる」
愛は「育む」
音楽は「流れる」
心は「はずむ」し、「踊る」
耳は「澄ます」
言葉というものは元々は表現であるけれども、私たちは言葉に慣れて、反射的に、音楽は流れるものとして使っている。
慣用句としてすら挙げられなくなってしまっているものは意外に多いのではないか。とか思ったこと。
詩や小説を書く人達は、こういう何かと動詞、あるいは形容詞、つまり何かと何かの組み合わせを一つ比喩でも作るように組み合わせて、新しい表現を、しっくりくる組み合わせを探しているように見える。
たとえば江國香織は、ひっそりした横顔、たっぷりとしたコーヒーカップ、を発見し、目をほどいて笑ったり、くっきりと笑ったりする女の人を描いた。
さて、いい土曜日。
コーヒーでも飲みに。
背のびのこと
ちょっと前まで、結構背のびをしていたなぁと思う。
多分これからもするだろう。
たとえばジャズは、私にとって背のびだった。
今 は、詳しくはないにせよジャズいいなぁと思えるようになったけれど、初めて聴いたときは、聴きどころがいまいちわからなくて。つまりポップスやロックやク ラシックなんかは慣れているから、多分自然と聴くポイントというのが自分なりにあったのだと思う、たとえば声がいいなとか、バイオリンの流れるような音が いいとか、まあいまいち表現しにくいけれど。
ところがジャズときたら私の幼少期には触れたこともない音楽で。別に父も母もジャズを聴かないし、友人だって聴かないし、ジャズの流れる店にもいかないし。
私 の場合はEGO-WRAPPIN'が入口だった、今にして思えば。あれは格好良かったし、割にすんなり来た。ポップスぽくもありボサノヴァぽくもありロッ クな感じもあり、なんというか、まさにジャズへの入り口的な音楽だと思う。ジャズとカテゴライズされるかどうかはよくわからないけど。
ともあれ、ジャズっていうのは敷居が高いと思う。イメージがそもそも、「大人」「バー」「気障」「おっさん」「黒人」「お洒落」「ウイスキー」とかそのへんだ。
大学2年くらいのときに、同じサークルに一人でバーに飲みに行っちゃう文学部の女の子がいた。
彼 女ともう一人服ばかり高いことでサークルでは有名な先輩とで「Nの会」というのを結成していたのだが(単にN響の定期公演を年間チケット買って毎月聴きに 行き、帰りにご飯を食べるだけの会。学生だと席は遠いが一回1000円くらいで聴けてしまう。ABCの三つのコースみたいのがあって、Bだけサントリー ホールでなんか豪華だがACはNHKホールで指揮もだいたいデュポワさんとかで、しかしBはいっぱいだったため断念した。)、その女の子にN響帰りに貸さ れたのがオスカー・ピーターソンの「愛とバラの日々」で。
若かった私は、「Fly me to the moon」くらいしか聞かずに返してしまった(今でもこの曲は大分好き)。
しかし後々良さがわかる。かくしてジャズといえばオスカー・ピーターソン、ジャズといえばピアノになった。
もう一つ背のびをしたのが院時代で、これも年上の友人から、これ!というジャズの名曲ばかりをいくつか教えてもらい、聴いた。
院に入ってから、ジャズのかかる店に連れて行かれたりすることが少し増えて、なじめるようになったのかもしれない。この頃から好んでジャズを聴く。
それからジャズ喫茶にいくつか行き、結局中野新橋の「ジニアス」でゆっくりジャズを聴くことに背のびなしで幸福を見出すようになった。
生演奏で印象的だったのは、自分では絶対行けない、パークハイアットのバーだった。田舎娘に都会の洗練された素晴らしい場所を教えたいという物好きな友人のご厚意にあずかったのだった。
いくつか背のびをテーマに書こうと思ったらジャズ回想録になってしまい。
でも背のびをしてるなぁと思っていても、背のびをしていれば後々その背丈にはなれるのであって、たとえば数年前に背のびをしていなければ今その背丈にあるかはわからないなとか思う。
ということで背のびは推奨。
多分これからもするだろう。
たとえばジャズは、私にとって背のびだった。
今 は、詳しくはないにせよジャズいいなぁと思えるようになったけれど、初めて聴いたときは、聴きどころがいまいちわからなくて。つまりポップスやロックやク ラシックなんかは慣れているから、多分自然と聴くポイントというのが自分なりにあったのだと思う、たとえば声がいいなとか、バイオリンの流れるような音が いいとか、まあいまいち表現しにくいけれど。
ところがジャズときたら私の幼少期には触れたこともない音楽で。別に父も母もジャズを聴かないし、友人だって聴かないし、ジャズの流れる店にもいかないし。
私 の場合はEGO-WRAPPIN'が入口だった、今にして思えば。あれは格好良かったし、割にすんなり来た。ポップスぽくもありボサノヴァぽくもありロッ クな感じもあり、なんというか、まさにジャズへの入り口的な音楽だと思う。ジャズとカテゴライズされるかどうかはよくわからないけど。
ともあれ、ジャズっていうのは敷居が高いと思う。イメージがそもそも、「大人」「バー」「気障」「おっさん」「黒人」「お洒落」「ウイスキー」とかそのへんだ。
大学2年くらいのときに、同じサークルに一人でバーに飲みに行っちゃう文学部の女の子がいた。
彼 女ともう一人服ばかり高いことでサークルでは有名な先輩とで「Nの会」というのを結成していたのだが(単にN響の定期公演を年間チケット買って毎月聴きに 行き、帰りにご飯を食べるだけの会。学生だと席は遠いが一回1000円くらいで聴けてしまう。ABCの三つのコースみたいのがあって、Bだけサントリー ホールでなんか豪華だがACはNHKホールで指揮もだいたいデュポワさんとかで、しかしBはいっぱいだったため断念した。)、その女の子にN響帰りに貸さ れたのがオスカー・ピーターソンの「愛とバラの日々」で。
若かった私は、「Fly me to the moon」くらいしか聞かずに返してしまった(今でもこの曲は大分好き)。
しかし後々良さがわかる。かくしてジャズといえばオスカー・ピーターソン、ジャズといえばピアノになった。
もう一つ背のびをしたのが院時代で、これも年上の友人から、これ!というジャズの名曲ばかりをいくつか教えてもらい、聴いた。
院に入ってから、ジャズのかかる店に連れて行かれたりすることが少し増えて、なじめるようになったのかもしれない。この頃から好んでジャズを聴く。
それからジャズ喫茶にいくつか行き、結局中野新橋の「ジニアス」でゆっくりジャズを聴くことに背のびなしで幸福を見出すようになった。
生演奏で印象的だったのは、自分では絶対行けない、パークハイアットのバーだった。田舎娘に都会の洗練された素晴らしい場所を教えたいという物好きな友人のご厚意にあずかったのだった。
いくつか背のびをテーマに書こうと思ったらジャズ回想録になってしまい。
でも背のびをしてるなぁと思っていても、背のびをしていれば後々その背丈にはなれるのであって、たとえば数年前に背のびをしていなければ今その背丈にあるかはわからないなとか思う。
ということで背のびは推奨。
F1の好さについて
F1が好きだった時期がある。一時期は2誌買っていた。
今も好きは好きだが、深夜起きて見るほどではなくなってしまった。
F1のどこがいいかというと、一つには格好いいということ。
車だとかドライビングテクニックだとかヘルメットだとかチームワークだとか、そういうわかりやすい格好よさがある。
そして、戦略。
事前のテストでの情報収集とか、車体をそのコースにあわせてカスタマイズしたりとか。コーナーが多いとダウンフォースを得るために空気抵抗を大きくするとか。ここは詳しくなれなかった。
タ イヤはもうブリヂストンのワンメイクになってしまったけど、見始めた2005年当時はまだミシュランが参戦していて、どっちのタイヤメーカーを使っている のか、どっちのタイヤ戦略がいいのか、ソフトとハードどちらをどのタイミングで使うのか。これが周回を重ねるごとに微妙なタイム差になって結果へつながっ ていく。
ピット戦略も。どのタイミングで、どれだけ燃料を補給するのか、ドライバーごとに変えるのか。ここはミスの出やすいところでもあって、折角ドライバーが稼いだタイムをピットクルーのミスで失ってしまったりとかする。
そして勿論レース展開。
最初のポジショニング、最初のコーナーでの順位。そこで無理をするとクラッシュしたり、ペナルティを課されたりする。
基本的に、F1は皆がチェッカーを受けるということはほとんどない。ひどい時は最初で3台とかいなくなる。そして途中でクラッシュしたりエンジンから火が出たりして1,2台いなくなる。
破 片がコース上に散らばったりすると、それを踏んだ車がパンクするのでセーフティーカーというのが入る。これが入ると追い越し禁止になって、セーフティー カーはゆっくり走るのでその後に連なってタイヤを冷やさないように摩擦をかけながら皆破片が掃除されるのを待つ。ここで稼いでいた後続とのタイム差をチャ ラにされたりする。この隙にピットインする車もある。
そして、オーバーテイク、追い越し。
2006年だったかモナコでミハエルがごぼう抜きをして最下位から2位まで上がり、アロンソと激闘を繰り広げたことがあった。
レースを見るにあたっては、やはり贔屓のチームやドライバーがいた方が断然愉しい。
私はスペイン出身のフェルナンド・アロンソだ。2005年にルノーで当時最年少ワールドチャンピオン、2006年も連覇した。ちょうどミハエル・シューマッハの引退がささやかれていた時期で、この二人の闘いに象徴される世代交代、というのは一つのテーマだった。
2007年にはマクラーレンに移籍し、ロン・デニスの秘蔵っ子と言われたルイス・ハミルトンとチームメイトになるも、このハミルトンとの仲が悪くて大変で、結局この年はライコネンに持ってかれた。ハミルトンはいいドライバーだが、良くも悪くも若い。
2008年はまたルノーに戻り、建て直し。私が偶然見た2つのGPに限って優勝してくれて、ついmixiに日記を書いてしまう事件。
アロンソのいいところは、強いところだ。冷静で、ぶれない。そしてフェア。汚いことをしない。無駄なことを言わない。あと、喜び方がかわいい。
あと、ミハエルファンにすごい攻撃されてたところ。右京とか。頑張れ!って思った。
余談だが、同じスペインのラファエル・ナダル(テニス)も好きだ。アロンソと同じ匂いがする。
F1はフジテレビ系でやっている。3月29日(日)のオーストラリアGPから。
是非。
今も好きは好きだが、深夜起きて見るほどではなくなってしまった。
F1のどこがいいかというと、一つには格好いいということ。
車だとかドライビングテクニックだとかヘルメットだとかチームワークだとか、そういうわかりやすい格好よさがある。
そして、戦略。
事前のテストでの情報収集とか、車体をそのコースにあわせてカスタマイズしたりとか。コーナーが多いとダウンフォースを得るために空気抵抗を大きくするとか。ここは詳しくなれなかった。
タ イヤはもうブリヂストンのワンメイクになってしまったけど、見始めた2005年当時はまだミシュランが参戦していて、どっちのタイヤメーカーを使っている のか、どっちのタイヤ戦略がいいのか、ソフトとハードどちらをどのタイミングで使うのか。これが周回を重ねるごとに微妙なタイム差になって結果へつながっ ていく。
ピット戦略も。どのタイミングで、どれだけ燃料を補給するのか、ドライバーごとに変えるのか。ここはミスの出やすいところでもあって、折角ドライバーが稼いだタイムをピットクルーのミスで失ってしまったりとかする。
そして勿論レース展開。
最初のポジショニング、最初のコーナーでの順位。そこで無理をするとクラッシュしたり、ペナルティを課されたりする。
基本的に、F1は皆がチェッカーを受けるということはほとんどない。ひどい時は最初で3台とかいなくなる。そして途中でクラッシュしたりエンジンから火が出たりして1,2台いなくなる。
破 片がコース上に散らばったりすると、それを踏んだ車がパンクするのでセーフティーカーというのが入る。これが入ると追い越し禁止になって、セーフティー カーはゆっくり走るのでその後に連なってタイヤを冷やさないように摩擦をかけながら皆破片が掃除されるのを待つ。ここで稼いでいた後続とのタイム差をチャ ラにされたりする。この隙にピットインする車もある。
そして、オーバーテイク、追い越し。
2006年だったかモナコでミハエルがごぼう抜きをして最下位から2位まで上がり、アロンソと激闘を繰り広げたことがあった。
レースを見るにあたっては、やはり贔屓のチームやドライバーがいた方が断然愉しい。
私はスペイン出身のフェルナンド・アロンソだ。2005年にルノーで当時最年少ワールドチャンピオン、2006年も連覇した。ちょうどミハエル・シューマッハの引退がささやかれていた時期で、この二人の闘いに象徴される世代交代、というのは一つのテーマだった。
2007年にはマクラーレンに移籍し、ロン・デニスの秘蔵っ子と言われたルイス・ハミルトンとチームメイトになるも、このハミルトンとの仲が悪くて大変で、結局この年はライコネンに持ってかれた。ハミルトンはいいドライバーだが、良くも悪くも若い。
2008年はまたルノーに戻り、建て直し。私が偶然見た2つのGPに限って優勝してくれて、ついmixiに日記を書いてしまう事件。
アロンソのいいところは、強いところだ。冷静で、ぶれない。そしてフェア。汚いことをしない。無駄なことを言わない。あと、喜び方がかわいい。
あと、ミハエルファンにすごい攻撃されてたところ。右京とか。頑張れ!って思った。
余談だが、同じスペインのラファエル・ナダル(テニス)も好きだ。アロンソと同じ匂いがする。
F1はフジテレビ系でやっている。3月29日(日)のオーストラリアGPから。
是非。
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