物質的な立ち位置、すなわち今実際にいるその地点が、全ての個々人で違うのと同じように、あるいは同じことが絶対にありえないように、精神的な立ち位置とでも言おうか、そういうのが同じと言うことはありえないのだということを、改めて感じるのは秋のせいかもしれなくて。
今日、もう昨日だけど、試験の発表の日だった。
それぞれがそれぞれの立場で試験の結果を受け入れたり受け入れられなかったりしていると思う。
私は。
随分遠くに来てしまっていて、ああそうか、私もその試験を受けたんだったと思い出す。
あの会場。ペットボトル。チョコレート。あのとき必死で皆と試験を受けたこと。結果がダメだとわかっていても皆と一緒に受けたかったこと。そしてあのプレッシャーと連帯と孤独と極限を体験したこと。
そうやって思い返して、友人からの報告を受けたり情報を得たりするうちに、泣きそうになる。
今、私は、あのときとは全然別のことをしている。
はっきり言って、全然共有できない。完全に余所の世界で起きている出来事。
そのことにものすごい寂しさを覚える。あの日々やあの人々の世界から離れてしまっていることに。私はあの人たちやあの世界が好きだった。
今、すごくひとりぼっちだと思う。
もう受かって検察官をやってる友人からメールが来る。もう一年受けないのかと言われる。
何度も聞いた助言。誰もが同じことを言う。勿体無い。
わかるよ。わかるけどさ。頭から試験に受かることが至上命題のような言い方をされるのは気に食わない。受けないことが逃げのような。ドロップアウトのような。
そういった社会的な地位とか物事について、それが得られないと世界が終わるというようなことは、一切無い。無いのだよ。
試験に受からないといけないというプレッシャーは、有能な人材を潰す。有能な人材の貴重な時間と精神力を削る。周りを見ていて本当にそう思った。
意味のない絞りをかける、本当にくだらない制度だと思う。弁護士なんて、技術的にはそんなたいした仕事じゃない。少なくとも、あの院行ってれば誰でもできる。
志を高く。
目線を正しく。
というのは物産の社訓かなんか。うまいこと言う。
そう、目線を正しく。
今やりたいこと。やっていること。考えていること。
バイトにも慣れてきた。
今やろうとしていることが、無謀に近いことはわかっている。決まらなければ今年一年を棒に振ることになるかもしれない。そういう意味での不安はある、もちろん。故郷にもそろそろ帰りたい。帰ってきなさいと強く言われたら帰ってしまうかもしれない。
今やりたいことを友人に説明しようと情熱を傾けてみることがある。伝わる人と、伝わらない人がいて、伝わらない人に関して、冒頭のようなことを思う。
立ち位置が日本とブラジルのように正反対で、まったくその事柄について共通点が無いのだろうと。でもある経験をすれば、その瞬間地球を突き抜けてすごく近いフィールドで話ができるようになるかもしれないと。
それまでは仕方ない。
伝えることを諦めたくはないけど、伝わらないこともある。多分、タイミングの問題だ。
伝わらないと、やっぱり自分が荒唐無稽なことを話しているように感じる。そういう意味で自信はなくなったり不安になったりする。
しかしいずれにせよ、人生という長期計画においては、やっていける自信があるし、不安は無い。それはおそらく誰でもやっていけるのだろうと思う。
やっていけるというのは、たとえば死というものがあったとしてもそれは人生の一部で。今死んでも、それはそれでいいと思える。そういう意味で、やっていけると思う。
そう考えると、重大なことなんてそんなにない。死ぬより重大なことは今のところ見つけていない。
遠回りかどうかなんて人生が終わってみないとわからない。
就活やバイトで経験してることや出会いだけでもたくさん得てるものがあると思うし。
今、楽しいし。やりたいことやれてるし。それが一番だと思う。
よく見ているブログから久々に引用。
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手垢にまみれた慣用句や常套文句は人間を思考停止するのに最適なツールだと、かの筒井氏は「言語姦覚」で看破した(少しニュアンス違うかも)。
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然り。
手 垢にまみれた言葉が多すぎて、その言葉の表すところを実際に体験してそれを伝えようとするときに、その言葉がありきたりに出回っていることによって、結局 伝えられない。ただの慣用句や常套文句の繰り返しや焼き直しになっていることがよくあって、それはもどかしい思いをするのである。伝わってるのかわからな い。
たとえば、先の「人生が終わってみないとわからない」とか。
その言葉が言葉として機能せずに、ある記号としてぺらっと貼られてそこで思考停止する。
人生が終わるときをイメージして、そこで本当に描き上げた一枚の絵を細部までしみじみ眺めて、ああ、と思っている風景。それが伝えたいイメージで。
つまり、今は絵を描いてる途中で。
そこにもし試験という猫か何かが描けなくても、絵は立派に成立する。もちろん、猫を大きく描きたい人はそうすればいい。それも立派な絵になりうるし、それが彼彼女の人生ならばそれもまた素晴らしい。
でも、猫を描くのに失敗しても、上から絵の具は塗れるし、描くのは必ずしも猫じゃなくていいのだということだ。
June 19, 2009
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