June 18, 2009

侏儒の言葉 1/2

芥川を今まで読んでいなかったことに対するあまりの遅ればせ感と灯台もと暗し感を感じたのが今年に入ってからで、そういえば母にお勧めを聞いた際に彼女が 太宰とともに芥川と答えていたのには遺伝的要素をいまさら感じつつも早く気づけばよかったなと、そんなら現代小説家に何かを求めるより早く手をつけるべき 作家であったと中学生くらいで気づくべきところ恥ずかしながらに今思うも、最初の印象が「羅生門」であまりに生々しいイメージがついていて少し抵抗があっ たのも否めず、これもまた時の問題であろうと納得するに至るわけで。
いずれにせよちゃんと読もうと思う。それにしても実家に芥川の本があった印象がないのはいったいどうしたことだろうか。
やはり夏目漱石的ではある。余談だが、どうしたって夏目漱石については評価どうこうの前に絶対的にかつ勝手に親しみを感じてしまう。誕生日が同じなだけなのに(かつ旧暦と新暦で違うのに)。

ああ、芥川はすごいんだな、と思ったのは(羅生門もそうだけどそれは高校生の時分の感性)、彼の短歌に触れてからで。
鬼才という単語のよく似合う表現物と風貌。

手はじめに、またアフォリズム。読みかけだが引用。
引用は私の手でなされているため鈍るが、彼の文・文章には鬼のように切れ味がある。
よくわからん文もまた鬼的。俳号は我鬼とのこと。

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道徳は便宜の異名である。「左側通行」と似たものである。

良心とは厳粛なる趣味である。

古典の作者の幸福なる所以は兎に角彼らの死んでいることである。

我我の――或は諸君の幸福なる所以も兎に角彼らの死んでいることである。

さあ、君はウイスキイを傾け給え。僕は長椅子に寐ころんだままチョコレエトの棒でも噛ることにしよう。

スウィフトは発狂する少し前に、梢だけ枯れた木を見ながら、「おれはあの木とよく似ている。頭から先に参るのだ」と呟いたことがあるそうである。

わたしはスウィフトほど頭の好い鬼才に生まれなかったことをひそかに幸福に思っている。

椎の葉の椎の葉たるを歎ずるのは椎の葉の笥たるを主張するよりも確かに尊敬に価している。しかし椎の葉の椎の葉たるを一笑し去るよりも退屈であろう。

天才の一面は明らかに醜聞を起し得る才能である。

危険思想とは常識を実行に移そうとする思想である。

弁証法の功績。――所詮何ものも莫迦げていると云う結論に到達せしめたこと。

人生を幸福にする為には、日常の瑣事を愛さなければならぬ。雲の光り、竹の戦ぎ、群雀の声、行人の顔、――あらゆる日常の瑣事の中に無上の甘露味を感じなければならぬ。

人生を幸福にする為には、日常の瑣事に苦しまなければならぬ。雲の光り、竹の戦ぎ、群雀の声、行人の顔、――あらゆる日常の瑣事の中に堕地獄の苦痛を感じなければならぬ。

もし火星の住民も我我の五感を超越した存在を保っているとすれば、彼等の一群は今夜も亦篠懸を黄ばませる秋風と共に銀座へ来ているかも知れないのである。

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芥川龍之介「侏儒の言葉」より引用

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