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June 28, 2009

欲とモチベーション

眠れないでいるとき、最近強い空腹感がやってくる。
床につく前に何かを食べていても、やってくる。それは「パン屋再襲撃」の中の呪いのような空腹である。湖の上から見下ろした海底火山のような空腹である。
それはお腹の部分だけを取り外したくなるような耐えがたい空腹で、でも多分、仮に取り外せたとしても消えない、骨まで沁み渡るような空腹である。

大抵寝る体制に入ってからは、物を食べたりしない。
寝る準備をしてから何か食べるなんて「どこか間違っている」と思うからであるし、また面倒だからである。歯磨きも終えたし、とか、太るし、とか、そういうのも含めて。
それでもやりきれないほどの空腹に至る場合というのがある。
そういう空腹は、大抵冷蔵庫から牛乳をまたは豆乳を取り出してコップに注ぎ、それをリビングで胃に収めることによってやりすごす。少しはいい。うちの冷蔵庫に牛乳があってよかった、と思う。たまねぎとバターと脱臭剤しかないなんて悲劇以外の何物でもない。


なんだってこう一日に何度も食べ物を補給しなければ生きていかれないようになっているのだろうと、思う。
鳥を見ていて思うのは、一体彼らは食べるために生きているのか、生きるために食べているのか、というか食べることと生きることが同義なのかもしれないということ。
彼らは体が小さいために、養分を蓄えておけないのだという。それで、常に餌を探して食べていなければならない。きっと鳥だけじゃなくて体の小さな動物は皆そうなのだろう。

「わしらは最近、ご飯を食べるのに二時間もかかりよる。いれ歯のせいではない。食べることと生きることとの、区別がようつかんようになったのだ。」
江國香織「晴れた空の下で」(「つめたいよるに」収録)より引用。


欲のかたまりとはよく言うけれど、それって結構あたりまえというか、そういうものっていうか、と思う。
欲っていうのは、言い換えると「モチベーション」だろうと思う。
この、言い換えというのはすごく便利だ。すべてが、「成長へのモチベーション」とかに置き換わる。名誉欲が強い人も、モチベーションの高い人になる。それで、それは別に悪いことじゃないし誤魔化しでもないと思う。あるものを下から見るか横から見るか、てな話である。
逆に欲は、義務でもある。食欲はいくら制御したとてなくすことはできない。どんなに頭で食べたくないと思っていても。我々は欲に縛られているともいえる。

ちょっと前までそういう欲だのモチベーションだのが低くなっていて、地面すれすれだったりとかしたのだけど、これは疲れによる。なんか、いろいろ。エネルギーの支出は避けたいというか。省エネモードというか。それで、結構諦めがよくなった。
でも最近すこしずつ欲とかモチベーションとかが上昇し始めていて、これは元気になってるなと思っている。ふーんって感じである。

でも、デフォルトはそんなにエネルギッシュな人ではないと思う。
働 いていた時の会社の社長は、まあ大抵の社長にあるようにバイタリティがすごくて前へ前への人で、会社をより大きく、より価値を提供し、より魅力あるものに して、より大きな仕事をしたがっていた。私は面接の時そんな社長に、君は僕と似ている、といわれたり(まあリップサービスにせよ)、バーで隣に座った時に 互いの手相を見てお互いますかけ相で、やっぱり似てるよ的な話になったけれど、こう前へ前への姿勢というかベクトルというかそういうのが違っていたし、そ の違いはもはや決定的な違いに思えた。違う種類の人間だ、と思った。

社長はいつか言っていた。プロフェッショナルというのはモチベーションを高く持ち続けられる人だと。まあテレビ番組の受け売りだったのだけど、でも、私なんかはそれを聞いて、プロフェッショナルにはこの業界ではなれそうにない、と普通にすんなり思ったのだった。

貪欲であること。

スティーブジョブズの言葉を確かに私は引用していた。
Stay Hungry.Stay Foolish.

システム畑

働いていた頃、上司と、自分の作ったパワポを一緒に見ながらデスクでレビューというのがあった。

「軸がちょっと」
「(ロジックが)流れてないな」
「メッセージがいまいち」
「もうちょっといい感じになんない?」

というアバウトな感じから、

「直観的じゃないなあ」
「ここ色味が。もう少し薄く」
「ここインデント揃ってる?」
「これ(文字の大きさ)何pt?」

という見た目の指摘に加えて、たまに言われたのが、言葉の使い方だった。

「ここの『フラグシップ』はね、『フラッグシップ』に直して」
「どうしてですか」
「なんか、システム系の人みたいじゃん。IT事業部だったらいいけどさ、うちマーケティングだから。お客さんもそういう人たちだからね」

で、なるほどーと思ったことがある。
フラグって、システム系っぽいのか。と。いわれてみれば、そんな気がする。
正当に読めば、フラッグだ。

たぶんその理論で行けば、私のようなシステム畑とは縁もゆかりもない者が使用する場合、エントリはエントリーと言うべきなのだ。

と、「エントリ」と打つたびに思っている。
でも今更変えられない。

甘やかした

何か書くことがあっただろうか。

私は一応自分の胸の中を調べて見た。けれどもそこは案外に空虚であった。思いあたるようなものは何にもなかった。

という「こころ」の言い回しはいつも、エントリの作成画面に向かうと浮かぶ、もはや反射のような、まあそんな感じだ。


書 きたい時に書くというのが一番いい、と信じて疑わない今日この頃だが、書きたいのに書くことが見当たらない、どこを探しても、いやあったはず、ここに置い といたんだけど、おっかしいなあ、まあいいや、携帯くらいなくても死なないでしょ、と出かけるみたいな気分で書き始めてしまった、いつだって見切り発車で ある。


見切り発車は得意だ。得意であってもうまくいくわけではない。見切るのが早いというだけで、見切った結果がついてくるわけ ではない。ここでも自身の根気の無さがうかがい知れる一つのエピソード、短編好きが思い起こされるところではある。根気ないなあとわかったのは結構最近 で、というか、年々根気が失われていっている。根気は婚期に通ずる。いや通じない。

長編を読むのが億劫になったというのもその一つだし、見切り発車もそれだ。
論 文試験の記述の際も、ろくに答案構成をしないで書き始めてしまう癖というのが学部の頃からあって、学部の頃というのはそれですんなり単位がとれてしまって いたし(相対的にまわりが勉強していなかったため)、院でもなんとかなってしまった(しかし惨憺たる成績)。それで、答案構成に時間をかけるよりはある程 度固めたらあとは書きながら考えればいいやなんて思ってしまっているのである。まあ書くのが遅いから、構成に時間をかけていられないってのは一応ある。で も、多分に根気の問題がある。

ブログのエントリも、何書こうかなんて全然考えてない。全然。なんだかワードが一個転がって、書き始めだけ 浮かんだらあとは筆の向くまま気の向くままで、まあそんなことは読んでいればわかる。ちゃんと構成して書けないのである。そういう性格というか、自分の甘 やかしがこういう感じで発露。書くことをずいぶん考えてから書いたんだろうなという文章に出会うと、頭が下がる。そうかそれで、創作とか超不得手なのか。 ああいうのは構成が必要だから(多分)。
で、タイトルは、書いたものをざっと読み返して適当につけている。


甘やかしというのはここ最近の自分についての発見である。
根気がないのも、タイムマネジメントが壊滅的に下手なのも、見切り発車癖も、断る力のなさも、ブログの文章のクオリティを上げる努力のなさも、全てここ数年の甘やかしのせいである。
厳しくしなければならない。(あ、でも、ブログのクオリティは上がらないと思う、あしからず。)

外からのプレッシャーが無い今、内からのプレッシャーというかコントロールが必要で、そんなものは26にして気づくべきところではないのである。未熟すぎて力が出ない。顔もふやけるわけだ。
最 近はあまり無いけど、たまに鬱鬱とするとき、決まってスキルの無さと一緒に思い浮かぶのが意志薄弱であるという点。意志薄弱にして俗物、碌々として瓦に伍 する、とか思っている。そろそろ虎になるのではないか、いやむしろ今虎になっているのではないか、虎になれたらいいのに、しかしいも虫は嫌だな、いも虫も 漢詩を詠んだら格好いい、なんて思ったりする。
まああくまで、超ダウナーな時に思っているのであって、普段は、根気無いなあ、くらいである。

こうやって書き進めてくると、つまり風の向くままに旅をしていると、着地点が定まらずに探していく過程でどんどん文章が長くなっていくという傾向がみられる。もう眠い、というときは仕方がないので海上でも無茶して降りる。
そうして、この文章もまた、着地点を見つけられないままに、うまく見失ってくれただろうかと思いながら、筆を擱く。

記録について。主に写真を材料に。

picasaで写真を整理していると、その写真を撮ったその時一緒にいた人とか、その時考えていたこととか、気分とか、そういうのがぼやーっと蘇る。

例 えば台場のきりんを撮ったのは1度や2度ではないけれど、その時付き合いそうになっていた人が一緒であったり(今思えばこれがミステイクだった)、バイト の同僚が福岡から電話をかけてきていたり、会社の先輩が一緒だったり、家族が一緒であったり、もちろん一人であったり。まあ一人が圧倒的に多いけど(台場 は一人に限る。誰かと一緒に来れたらいいのにと思いながら一人で歩く台場が一番いいのだと最近気づいた)。
その時それぞれできりんはそこにいるのだけど、どのきりんがどの時のきりんかというのは撮った本人にしかわからなくて。
それはその時の気分と一緒になって写真の中に封じ込められていて、なんでもかんでもひもづいていて、それはそれでいい。

ひもづいている、というのはすごく便利だ。何かは何かからの連想で思い出せるから。
ひもづける、というのが結構好きだ。

た とえば2008年の4月のことを思い出したい時には、ブログの2008年4月のエントリをざっと眺めれば大体何があったか、少なくとも頭の中で何があった かというのは思い出せる。データが文字となって表示され、文字が文章を構成し、文章が意味をもって私に認識され、その認識がひもづいた記憶を意識に浮上さ せるなどというプロセスを経て。
それは自身固有の特殊なひもづけであるかもしれない。
私がたまに書くあのメモエントリなる単語の羅列は、連想による記憶の呼び起こしを可能にする最小限ver.の記述である。
書いてしまえば安心して忘れられる。記憶のバックアップである。
そうして、このブログは存在意義の一を全うする。


そうやって考えていくと、なぜ私はいちいち記録しておきたいのかしら、と、思う。
何かを考えたこと、学んだこと、経験したこと。
行った店、場所、展示、本、音楽。

我々は、残しておけないものを記録しておくことに、多くの時間とお金を費やしている気がする。音楽なら楽譜やデータで、思考なら文章で、料理ならレシピで、映像ならデータや写真で。
それは他者との共有の目的もあるし、自分の足がかりのためでもあろうと思う(つまり記録しておけば思い出すことが簡単になって次のステップへ行きやすいということ)。
で、それ以外のなんというか、もっと情緒的なものというのがあると思う。感情やなんかを写真や音楽にひもづけたりすること。
それを狙ってする記録は、過去の感情に浸りたいときが将来あるであろうことを予見して、しているのかもなあ。無意識だけど。

私は写真を携帯で撮るのが常なのだが、携帯越しの景色というのは、当たり前のことだがあまりにチープだ。それにいつも気づいていなければならないと思っている。
写真もメモエントリの単語の羅列と同じように、記憶や感情を想起させる単なる最小限の記述なのであって、そこでの体験をおろそかにして写真を撮ることに時間を費やし過ぎてはならない。写真は決め打ちで数枚。よし。以上。


あ、補足。
記録としての写真と、芸術としての写真は、その目的の違いに応じて自ずと撮る時の態度も変わってくる。証拠保全としての写真も、説明のための写真も、それぞれ。

日時の不可思議と本屋の不平等ととシングルタスクの利点

・日時について
今、何年の何月何日何時何分何秒か、ということについて。
これが即座に答えられる人というのはもしかするといるのかもしれないけれど、大概答えられないと思う。

何時何分何秒とまでいわずとも、何月何日だったか、果ては何年だったかすら、いまいち覚えていないのが自分で。

そんな認識の中、要件事実論の本を読んでいて、ふと、思ったのだった。その本にはこう書かれていた。
「顕著な事実は、立証の必要がない(民訴179条)。要件事実の学習において、しばしば登場するのは、確定期限の到来や経過である。『7月14日が到来した』ということは、世人の皆が知っていることであって、証明する必要がない。」
用語法は置いておいて、つまり今日が何月何日であるかというのは、世人の皆が知っている事実なんだなあということ。いや、そうなのだけど。
何らかの問い合わせを必要とする自らを省みて、それってすごいなとなんか思ったのであった。
私は大抵携帯を見るけれども、携帯が壊れたら。誰かに聞く。その人もなんか怪しいとしたら、117(だっけ)に電話する、とかいろいろ手段はあると思うんだけど、コンピュータや世界中の時計が無効になったら。

た ぶん今日が何月何日かというのは、ずっとちゃんと見ている人がいないと、あっというまにわからなくなってしまうのじゃないかという恐怖。確かあの日が何日 でそれから何回眠ったから多分何日、くらいはわかる(でもこれも怪しい。昨日の晩御飯と一昨日の晩御飯とか間違うし)。日時もまた、壮大な全世界を巻き込 んだフィクションであって、それに逆らう者がいないという興味深いもの。なんてことを思ったりした。

まあ、太陽の軌道とか星の位置なんかで割り出すことはできるのかもしれないんだけどね。

こういうことを考えていると、要件事実論は頭に入らないのさ。


・本屋日和
次。
先日、沖縄に堂々オープンしたジュンク堂書店へ行った。三階建てでフロアを存分に使っていて、椅子もちゃんとあって、ああジュンク堂だわここ、という感じ。
法律の分野も大分充実していて、素晴らしい。法律書の本棚を見て回って悩むっていうのを久々にした。悩める喜びとでも言おうか。

本 をネットで注文できるとはいえ、本というのは中をパラパラ見て買うものだし、大体どんな本があるのかを知らなければ買いようが無いわけで、実際に本を揃え て提示するというのはもう必須だと思うわけである。AIDMAなら最初のAttentionである。認知、理解、行動の認知。これがもう決定的。
と、常々思っていて、ようやくそんな不満が満たされつつあるわけである。

満たされた、のではなく、満たされつつある、というのは、件の新刊がどこにもないということ。
店員さんたちも忙しそうだったから聞かないで結局「海辺のカフカ」を買ったけれど(まあこれもいずれ読もうと思ってたからいいんだけど)、品薄なのか僻地だからなのか、ない。当然平積みかと思っていたのに無い。
そうして更に数日後、違う書店へ行ったところ、ここにも無い。春樹棚はあるのだけど、新刊はない。そういうもんなんだな、という軽い失望。


・Come back to me.
最近は音楽を聴いている。
結構歌詞を聴いていないことが多い。
私は、基本的に一つのことしかできない。シングルタスクである。これは大分不利で、人の話を聞いていないという場合には、聞いていないのではなくていっぺんに二つ以上のことをしていて聞けていないのである。そういう性質だと思っていただければ。
妹曰く、「女の風上にも置けんな」。

そんなわけで、曲に集中しているから歌詞の意味とか味わってないのである。意識すれば(つまり曲をあんまり聴かずに詩にばかり注意を向ければ)、聞ける。
私 はm-floの「Come back to me」という曲(アルバム「Planet Shining」に入っている)が結構好きだったのだけど(某tube参照)、昨日意識的に詩を聞いたら、全然、全然好きじゃないことに気付いたというこ と。僕はそらまめのスープなんか、全然好きじゃない。全然好きじゃないんだよ。みたいな感じである。
でも音は好きだなあと思って。多分、未確認だけど、m-floの曲って大部分がそういう曲かもしれない。
歌詞を聴かずにおれることの良さを見出したのだった。

時は金か

「時間をつぶす」っていう言葉があるけれど、子供の時分その言葉を聞いたときには、ずいぶん大人っぽい言葉だと感じた記憶がある。

タ イムマネジメントに躍起になる昨今だけれども、子供の頃って、時間をコントロールするものだと思っていなかった。たぶん時間だけではないのだが、今コント ロールすべきとされているいろいろなもの、つまり体力とか健康とか人間関係とか、はコントロールする対象ではなかった。明らかに。
だからマネジメントなんて思想はなかった。


先日NHKの番組でちらっと見たけれど、人脈術のようなものをやっていた。勝間さんがインタビュアーで、藤巻幸夫氏が取材されていたのだけど。
沢 山の人と知り合えばそれだけ楽しいし、わいわいとやるのもサシで話すのも面白いけれど、それをこう、金脈のように人脈って言っちゃうと、ちょっと違う意図 が前面に出てきてしまうから、微妙だよなと思ってしまった。そうやってテレビで、人脈はこうやって作るんです、活用するんです、とやってしまうと、なんか 動機を疑われたり、自分でもそういう動機で仲良くなるようになってしまうのじゃないか。
そこらへんの割り切りというか、むしろ割り切らないで併存させるスタイルというのが大人だ。
これもまた、人間関係をマネジメントするっていう発想だと思う。それ自体は別にいいことだと思う。実際いろいろなことをするのに役に立つし、大抵そういう人がやりたいのは何かでっかいことで、そういうでっかいことは大抵、ある程度以上社会の役に立つことなのだ。


横道にそれるけれども、金儲けが悪だ、という思想っていうのはあって、そういうことを昔思っていたと人から聞いたこともあるし、今も多分そう思っている友人もいる。

金 儲けは相対的な問題で悪とみなされることが多いのだろうと推測する。つまり、金儲け自体そこだけを見たら、ある価値を出して、もしくは合法的な仕組みを利 用して、お金を得ているわけで別に問題ないと思うのだけど、同時に貧しい人がいるということがよくない、とか、金儲けの過程で誰かが損をしているというバ ランスの問題でよくない、とか、そういうこと。金儲けの反対側で、儲からない人々、損する人々がいるということ。
似たような話が、映画「クワイエットルームへようこそ」にも出てきたな。あれは食べ物だったけど。
で、金儲けの先に何があるのかっていうところまで、考えてもいいと思う。金を儲けてその人は何をするのか。
いずれにしても、金というのは大きな大きなインセンティブなわけだから、これを原動力にするのは間違っていないと思うし、まあうまく使ったらいいと思う。自分も含めて。


で、それまくったけど、時間をつぶす、の話。
時間って、つぶすものなの?って思っていた。時間を有効に活用する、とかも、時間に有効も無効もあるかい、なんて思ってはいないけど、なんか大人って大変だねと思っていた。
子 供の時は、目の前にはやることが沢山あったし、時間は潤沢にあったから糸目をつけずにつかっていた。学校で授業受けて、遊んで、目の前の宿題とかやって、 夕方になったらご飯食べて、また好きなことして、寝て、っていうのを繰り返して、マネジメントなんて考えもせず、ただすくすくと、それでものんびり成長し てたよなあと。でもそんな子供時代にも、余所の子はもしかするとタイムマネジメントを叩き込まれて育ったのかもしれない。

で、マネジメントマネジメントって言われると、そういう自然児には適応の限界があるんだよーという話。

「なぜ」について

「なぜ」という発問には複数の意味があるなと思っていた。

「なぜ、葉は緑なのか」
と いう発問には、葉が緑に見える「原理」を問う、という意味がある。どのようにして葉は緑色に見えるのか、という意味。その答えは葉緑体の話だとか、光の波 長の話だとか、人間の眼の細胞の話だとか脳の話だとかに帰着するだろう。それは、そうなっているから、という状態の説明になる。
一方で、葉が緑である「目的」を問う意味も見つけることができる。なぜ赤でも黄色でもなく緑なのか、という意味。なんのために緑なのか。その答えはきっと出ない。推測の域を出ない。

もう一つ例を出すならば、「なぜ、人は生きているのか」という発問には、人がどのようにして生きているのか、という意味もあるけれど、何の目的で生きているのかという意味の方が多数であろう、と思う。


「なぜ」と問いを発する上で、それらは区別されなければならない。気がする。
「原理」を問うている場合、答えは全部はわからないかもしれないが、いくつかはきっと出せる。
しかし「目的」を問うている場合、その答えはそれをした者にしかわからない。たとえば「なぜ山に登るのか」を、山に実際登る人に聞けば、その目的をもっているはずだから、わかる。でも「なぜ葉が緑なのか」を問うても、葉を緑にした者に聞かなければわからないわけだ。
さらに悪いことに、それをした張本人にすらわからない場合もある。「なぜ生きているのか」などはそのよい例であると思う(ちゃんと目的を持った人も勿論いるけれど)。
これは、その発問の質の違いである。「原理」か「目的」か。
(もっとバリエーションがもしかしたらあるかもしれない。)


そ してさらに、その主体、つまり、それをしたのか、それともさせられたのかというのは、結構判断がつかない。例えて言うなら、生きているのか、生かされてい るのか、ということである。それらは別に相反するわけではないしどちらも正解と(つまり生きていると同時に生かされているとも)いえるわけだけど、目的を 誰が持っているのかということを考えるにあたっては、一応区別しないといけないのかもしれない。まあ目的も主体に応じて複数ありうるわけか。
これは、主体の違いである。


よく、「なぜ」を考える時、主に仕事をしていたとき感じていたことだけど、例のWhy5回っていうやつを実践するときに、どうも質の違う話が混じってくるし、主体の違う話が混じってくるので、気持ち悪いなと思っていたのだった。
それで暫定で整理してみた次第。
もう少しいい整理の仕方を思いついたらまたし直すかもしれない。


余談。
こ の整理癖というのは、いいのか悪いのかよくわからない。実益があるのかないのかという話。自分のすっきりのためにはいいのだけど、仕事だと周りもその話に 巻き込んでしまうので、実益が見つけきれないとこの整理癖を出すわけにはいかない。まあ結構やってしまっていたけど。ふむ。


このことを考えるに至った前提というのは、自然科学と法学の違いを考えていたことにある。
自然科学にはその「原理」を問う発問と、「状態としての答え」があるのに対して、法学には「目的」を問う発問とそれに対する法律や制度を作った者の「政策的答え」があるのだ、ということを思いついて。

自然科学は自然を相手にしているから、「目的」の発問をしようとしてもその目的をもっているはずの主体が見当たらず、これをしようとするときには哲学とかの守備範囲になってくるのかもしれない。
そ して法学が「目的」の発問をしてその答えが出るのは、法律が人間の作ったものつまり主体が明確にあってその意図を問うことができるというところに理由があ るのだな、ということ。別に法学で「原理」の発問をしてもいいけど、それはあまり問題にならない。それはわかりきってるからだ。(厳密に言えば、原理を読 み解くという部分もあるにはある。制度理解という意味で。)

この対象の質の違いだな、と思ったのだった。