June 28, 2009

欲とモチベーション

眠れないでいるとき、最近強い空腹感がやってくる。
床につく前に何かを食べていても、やってくる。それは「パン屋再襲撃」の中の呪いのような空腹である。湖の上から見下ろした海底火山のような空腹である。
それはお腹の部分だけを取り外したくなるような耐えがたい空腹で、でも多分、仮に取り外せたとしても消えない、骨まで沁み渡るような空腹である。

大抵寝る体制に入ってからは、物を食べたりしない。
寝る準備をしてから何か食べるなんて「どこか間違っている」と思うからであるし、また面倒だからである。歯磨きも終えたし、とか、太るし、とか、そういうのも含めて。
それでもやりきれないほどの空腹に至る場合というのがある。
そういう空腹は、大抵冷蔵庫から牛乳をまたは豆乳を取り出してコップに注ぎ、それをリビングで胃に収めることによってやりすごす。少しはいい。うちの冷蔵庫に牛乳があってよかった、と思う。たまねぎとバターと脱臭剤しかないなんて悲劇以外の何物でもない。


なんだってこう一日に何度も食べ物を補給しなければ生きていかれないようになっているのだろうと、思う。
鳥を見ていて思うのは、一体彼らは食べるために生きているのか、生きるために食べているのか、というか食べることと生きることが同義なのかもしれないということ。
彼らは体が小さいために、養分を蓄えておけないのだという。それで、常に餌を探して食べていなければならない。きっと鳥だけじゃなくて体の小さな動物は皆そうなのだろう。

「わしらは最近、ご飯を食べるのに二時間もかかりよる。いれ歯のせいではない。食べることと生きることとの、区別がようつかんようになったのだ。」
江國香織「晴れた空の下で」(「つめたいよるに」収録)より引用。


欲のかたまりとはよく言うけれど、それって結構あたりまえというか、そういうものっていうか、と思う。
欲っていうのは、言い換えると「モチベーション」だろうと思う。
この、言い換えというのはすごく便利だ。すべてが、「成長へのモチベーション」とかに置き換わる。名誉欲が強い人も、モチベーションの高い人になる。それで、それは別に悪いことじゃないし誤魔化しでもないと思う。あるものを下から見るか横から見るか、てな話である。
逆に欲は、義務でもある。食欲はいくら制御したとてなくすことはできない。どんなに頭で食べたくないと思っていても。我々は欲に縛られているともいえる。

ちょっと前までそういう欲だのモチベーションだのが低くなっていて、地面すれすれだったりとかしたのだけど、これは疲れによる。なんか、いろいろ。エネルギーの支出は避けたいというか。省エネモードというか。それで、結構諦めがよくなった。
でも最近すこしずつ欲とかモチベーションとかが上昇し始めていて、これは元気になってるなと思っている。ふーんって感じである。

でも、デフォルトはそんなにエネルギッシュな人ではないと思う。
働 いていた時の会社の社長は、まあ大抵の社長にあるようにバイタリティがすごくて前へ前への人で、会社をより大きく、より価値を提供し、より魅力あるものに して、より大きな仕事をしたがっていた。私は面接の時そんな社長に、君は僕と似ている、といわれたり(まあリップサービスにせよ)、バーで隣に座った時に 互いの手相を見てお互いますかけ相で、やっぱり似てるよ的な話になったけれど、こう前へ前への姿勢というかベクトルというかそういうのが違っていたし、そ の違いはもはや決定的な違いに思えた。違う種類の人間だ、と思った。

社長はいつか言っていた。プロフェッショナルというのはモチベーションを高く持ち続けられる人だと。まあテレビ番組の受け売りだったのだけど、でも、私なんかはそれを聞いて、プロフェッショナルにはこの業界ではなれそうにない、と普通にすんなり思ったのだった。

貪欲であること。

スティーブジョブズの言葉を確かに私は引用していた。
Stay Hungry.Stay Foolish.

システム畑

働いていた頃、上司と、自分の作ったパワポを一緒に見ながらデスクでレビューというのがあった。

「軸がちょっと」
「(ロジックが)流れてないな」
「メッセージがいまいち」
「もうちょっといい感じになんない?」

というアバウトな感じから、

「直観的じゃないなあ」
「ここ色味が。もう少し薄く」
「ここインデント揃ってる?」
「これ(文字の大きさ)何pt?」

という見た目の指摘に加えて、たまに言われたのが、言葉の使い方だった。

「ここの『フラグシップ』はね、『フラッグシップ』に直して」
「どうしてですか」
「なんか、システム系の人みたいじゃん。IT事業部だったらいいけどさ、うちマーケティングだから。お客さんもそういう人たちだからね」

で、なるほどーと思ったことがある。
フラグって、システム系っぽいのか。と。いわれてみれば、そんな気がする。
正当に読めば、フラッグだ。

たぶんその理論で行けば、私のようなシステム畑とは縁もゆかりもない者が使用する場合、エントリはエントリーと言うべきなのだ。

と、「エントリ」と打つたびに思っている。
でも今更変えられない。

甘やかした

何か書くことがあっただろうか。

私は一応自分の胸の中を調べて見た。けれどもそこは案外に空虚であった。思いあたるようなものは何にもなかった。

という「こころ」の言い回しはいつも、エントリの作成画面に向かうと浮かぶ、もはや反射のような、まあそんな感じだ。


書 きたい時に書くというのが一番いい、と信じて疑わない今日この頃だが、書きたいのに書くことが見当たらない、どこを探しても、いやあったはず、ここに置い といたんだけど、おっかしいなあ、まあいいや、携帯くらいなくても死なないでしょ、と出かけるみたいな気分で書き始めてしまった、いつだって見切り発車で ある。


見切り発車は得意だ。得意であってもうまくいくわけではない。見切るのが早いというだけで、見切った結果がついてくるわけ ではない。ここでも自身の根気の無さがうかがい知れる一つのエピソード、短編好きが思い起こされるところではある。根気ないなあとわかったのは結構最近 で、というか、年々根気が失われていっている。根気は婚期に通ずる。いや通じない。

長編を読むのが億劫になったというのもその一つだし、見切り発車もそれだ。
論 文試験の記述の際も、ろくに答案構成をしないで書き始めてしまう癖というのが学部の頃からあって、学部の頃というのはそれですんなり単位がとれてしまって いたし(相対的にまわりが勉強していなかったため)、院でもなんとかなってしまった(しかし惨憺たる成績)。それで、答案構成に時間をかけるよりはある程 度固めたらあとは書きながら考えればいいやなんて思ってしまっているのである。まあ書くのが遅いから、構成に時間をかけていられないってのは一応ある。で も、多分に根気の問題がある。

ブログのエントリも、何書こうかなんて全然考えてない。全然。なんだかワードが一個転がって、書き始めだけ 浮かんだらあとは筆の向くまま気の向くままで、まあそんなことは読んでいればわかる。ちゃんと構成して書けないのである。そういう性格というか、自分の甘 やかしがこういう感じで発露。書くことをずいぶん考えてから書いたんだろうなという文章に出会うと、頭が下がる。そうかそれで、創作とか超不得手なのか。 ああいうのは構成が必要だから(多分)。
で、タイトルは、書いたものをざっと読み返して適当につけている。


甘やかしというのはここ最近の自分についての発見である。
根気がないのも、タイムマネジメントが壊滅的に下手なのも、見切り発車癖も、断る力のなさも、ブログの文章のクオリティを上げる努力のなさも、全てここ数年の甘やかしのせいである。
厳しくしなければならない。(あ、でも、ブログのクオリティは上がらないと思う、あしからず。)

外からのプレッシャーが無い今、内からのプレッシャーというかコントロールが必要で、そんなものは26にして気づくべきところではないのである。未熟すぎて力が出ない。顔もふやけるわけだ。
最 近はあまり無いけど、たまに鬱鬱とするとき、決まってスキルの無さと一緒に思い浮かぶのが意志薄弱であるという点。意志薄弱にして俗物、碌々として瓦に伍 する、とか思っている。そろそろ虎になるのではないか、いやむしろ今虎になっているのではないか、虎になれたらいいのに、しかしいも虫は嫌だな、いも虫も 漢詩を詠んだら格好いい、なんて思ったりする。
まああくまで、超ダウナーな時に思っているのであって、普段は、根気無いなあ、くらいである。

こうやって書き進めてくると、つまり風の向くままに旅をしていると、着地点が定まらずに探していく過程でどんどん文章が長くなっていくという傾向がみられる。もう眠い、というときは仕方がないので海上でも無茶して降りる。
そうして、この文章もまた、着地点を見つけられないままに、うまく見失ってくれただろうかと思いながら、筆を擱く。

記録について。主に写真を材料に。

picasaで写真を整理していると、その写真を撮ったその時一緒にいた人とか、その時考えていたこととか、気分とか、そういうのがぼやーっと蘇る。

例 えば台場のきりんを撮ったのは1度や2度ではないけれど、その時付き合いそうになっていた人が一緒であったり(今思えばこれがミステイクだった)、バイト の同僚が福岡から電話をかけてきていたり、会社の先輩が一緒だったり、家族が一緒であったり、もちろん一人であったり。まあ一人が圧倒的に多いけど(台場 は一人に限る。誰かと一緒に来れたらいいのにと思いながら一人で歩く台場が一番いいのだと最近気づいた)。
その時それぞれできりんはそこにいるのだけど、どのきりんがどの時のきりんかというのは撮った本人にしかわからなくて。
それはその時の気分と一緒になって写真の中に封じ込められていて、なんでもかんでもひもづいていて、それはそれでいい。

ひもづいている、というのはすごく便利だ。何かは何かからの連想で思い出せるから。
ひもづける、というのが結構好きだ。

た とえば2008年の4月のことを思い出したい時には、ブログの2008年4月のエントリをざっと眺めれば大体何があったか、少なくとも頭の中で何があった かというのは思い出せる。データが文字となって表示され、文字が文章を構成し、文章が意味をもって私に認識され、その認識がひもづいた記憶を意識に浮上さ せるなどというプロセスを経て。
それは自身固有の特殊なひもづけであるかもしれない。
私がたまに書くあのメモエントリなる単語の羅列は、連想による記憶の呼び起こしを可能にする最小限ver.の記述である。
書いてしまえば安心して忘れられる。記憶のバックアップである。
そうして、このブログは存在意義の一を全うする。


そうやって考えていくと、なぜ私はいちいち記録しておきたいのかしら、と、思う。
何かを考えたこと、学んだこと、経験したこと。
行った店、場所、展示、本、音楽。

我々は、残しておけないものを記録しておくことに、多くの時間とお金を費やしている気がする。音楽なら楽譜やデータで、思考なら文章で、料理ならレシピで、映像ならデータや写真で。
それは他者との共有の目的もあるし、自分の足がかりのためでもあろうと思う(つまり記録しておけば思い出すことが簡単になって次のステップへ行きやすいということ)。
で、それ以外のなんというか、もっと情緒的なものというのがあると思う。感情やなんかを写真や音楽にひもづけたりすること。
それを狙ってする記録は、過去の感情に浸りたいときが将来あるであろうことを予見して、しているのかもなあ。無意識だけど。

私は写真を携帯で撮るのが常なのだが、携帯越しの景色というのは、当たり前のことだがあまりにチープだ。それにいつも気づいていなければならないと思っている。
写真もメモエントリの単語の羅列と同じように、記憶や感情を想起させる単なる最小限の記述なのであって、そこでの体験をおろそかにして写真を撮ることに時間を費やし過ぎてはならない。写真は決め打ちで数枚。よし。以上。


あ、補足。
記録としての写真と、芸術としての写真は、その目的の違いに応じて自ずと撮る時の態度も変わってくる。証拠保全としての写真も、説明のための写真も、それぞれ。

日時の不可思議と本屋の不平等ととシングルタスクの利点

・日時について
今、何年の何月何日何時何分何秒か、ということについて。
これが即座に答えられる人というのはもしかするといるのかもしれないけれど、大概答えられないと思う。

何時何分何秒とまでいわずとも、何月何日だったか、果ては何年だったかすら、いまいち覚えていないのが自分で。

そんな認識の中、要件事実論の本を読んでいて、ふと、思ったのだった。その本にはこう書かれていた。
「顕著な事実は、立証の必要がない(民訴179条)。要件事実の学習において、しばしば登場するのは、確定期限の到来や経過である。『7月14日が到来した』ということは、世人の皆が知っていることであって、証明する必要がない。」
用語法は置いておいて、つまり今日が何月何日であるかというのは、世人の皆が知っている事実なんだなあということ。いや、そうなのだけど。
何らかの問い合わせを必要とする自らを省みて、それってすごいなとなんか思ったのであった。
私は大抵携帯を見るけれども、携帯が壊れたら。誰かに聞く。その人もなんか怪しいとしたら、117(だっけ)に電話する、とかいろいろ手段はあると思うんだけど、コンピュータや世界中の時計が無効になったら。

た ぶん今日が何月何日かというのは、ずっとちゃんと見ている人がいないと、あっというまにわからなくなってしまうのじゃないかという恐怖。確かあの日が何日 でそれから何回眠ったから多分何日、くらいはわかる(でもこれも怪しい。昨日の晩御飯と一昨日の晩御飯とか間違うし)。日時もまた、壮大な全世界を巻き込 んだフィクションであって、それに逆らう者がいないという興味深いもの。なんてことを思ったりした。

まあ、太陽の軌道とか星の位置なんかで割り出すことはできるのかもしれないんだけどね。

こういうことを考えていると、要件事実論は頭に入らないのさ。


・本屋日和
次。
先日、沖縄に堂々オープンしたジュンク堂書店へ行った。三階建てでフロアを存分に使っていて、椅子もちゃんとあって、ああジュンク堂だわここ、という感じ。
法律の分野も大分充実していて、素晴らしい。法律書の本棚を見て回って悩むっていうのを久々にした。悩める喜びとでも言おうか。

本 をネットで注文できるとはいえ、本というのは中をパラパラ見て買うものだし、大体どんな本があるのかを知らなければ買いようが無いわけで、実際に本を揃え て提示するというのはもう必須だと思うわけである。AIDMAなら最初のAttentionである。認知、理解、行動の認知。これがもう決定的。
と、常々思っていて、ようやくそんな不満が満たされつつあるわけである。

満たされた、のではなく、満たされつつある、というのは、件の新刊がどこにもないということ。
店員さんたちも忙しそうだったから聞かないで結局「海辺のカフカ」を買ったけれど(まあこれもいずれ読もうと思ってたからいいんだけど)、品薄なのか僻地だからなのか、ない。当然平積みかと思っていたのに無い。
そうして更に数日後、違う書店へ行ったところ、ここにも無い。春樹棚はあるのだけど、新刊はない。そういうもんなんだな、という軽い失望。


・Come back to me.
最近は音楽を聴いている。
結構歌詞を聴いていないことが多い。
私は、基本的に一つのことしかできない。シングルタスクである。これは大分不利で、人の話を聞いていないという場合には、聞いていないのではなくていっぺんに二つ以上のことをしていて聞けていないのである。そういう性質だと思っていただければ。
妹曰く、「女の風上にも置けんな」。

そんなわけで、曲に集中しているから歌詞の意味とか味わってないのである。意識すれば(つまり曲をあんまり聴かずに詩にばかり注意を向ければ)、聞ける。
私 はm-floの「Come back to me」という曲(アルバム「Planet Shining」に入っている)が結構好きだったのだけど(某tube参照)、昨日意識的に詩を聞いたら、全然、全然好きじゃないことに気付いたというこ と。僕はそらまめのスープなんか、全然好きじゃない。全然好きじゃないんだよ。みたいな感じである。
でも音は好きだなあと思って。多分、未確認だけど、m-floの曲って大部分がそういう曲かもしれない。
歌詞を聴かずにおれることの良さを見出したのだった。

時は金か

「時間をつぶす」っていう言葉があるけれど、子供の時分その言葉を聞いたときには、ずいぶん大人っぽい言葉だと感じた記憶がある。

タ イムマネジメントに躍起になる昨今だけれども、子供の頃って、時間をコントロールするものだと思っていなかった。たぶん時間だけではないのだが、今コント ロールすべきとされているいろいろなもの、つまり体力とか健康とか人間関係とか、はコントロールする対象ではなかった。明らかに。
だからマネジメントなんて思想はなかった。


先日NHKの番組でちらっと見たけれど、人脈術のようなものをやっていた。勝間さんがインタビュアーで、藤巻幸夫氏が取材されていたのだけど。
沢 山の人と知り合えばそれだけ楽しいし、わいわいとやるのもサシで話すのも面白いけれど、それをこう、金脈のように人脈って言っちゃうと、ちょっと違う意図 が前面に出てきてしまうから、微妙だよなと思ってしまった。そうやってテレビで、人脈はこうやって作るんです、活用するんです、とやってしまうと、なんか 動機を疑われたり、自分でもそういう動機で仲良くなるようになってしまうのじゃないか。
そこらへんの割り切りというか、むしろ割り切らないで併存させるスタイルというのが大人だ。
これもまた、人間関係をマネジメントするっていう発想だと思う。それ自体は別にいいことだと思う。実際いろいろなことをするのに役に立つし、大抵そういう人がやりたいのは何かでっかいことで、そういうでっかいことは大抵、ある程度以上社会の役に立つことなのだ。


横道にそれるけれども、金儲けが悪だ、という思想っていうのはあって、そういうことを昔思っていたと人から聞いたこともあるし、今も多分そう思っている友人もいる。

金 儲けは相対的な問題で悪とみなされることが多いのだろうと推測する。つまり、金儲け自体そこだけを見たら、ある価値を出して、もしくは合法的な仕組みを利 用して、お金を得ているわけで別に問題ないと思うのだけど、同時に貧しい人がいるということがよくない、とか、金儲けの過程で誰かが損をしているというバ ランスの問題でよくない、とか、そういうこと。金儲けの反対側で、儲からない人々、損する人々がいるということ。
似たような話が、映画「クワイエットルームへようこそ」にも出てきたな。あれは食べ物だったけど。
で、金儲けの先に何があるのかっていうところまで、考えてもいいと思う。金を儲けてその人は何をするのか。
いずれにしても、金というのは大きな大きなインセンティブなわけだから、これを原動力にするのは間違っていないと思うし、まあうまく使ったらいいと思う。自分も含めて。


で、それまくったけど、時間をつぶす、の話。
時間って、つぶすものなの?って思っていた。時間を有効に活用する、とかも、時間に有効も無効もあるかい、なんて思ってはいないけど、なんか大人って大変だねと思っていた。
子 供の時は、目の前にはやることが沢山あったし、時間は潤沢にあったから糸目をつけずにつかっていた。学校で授業受けて、遊んで、目の前の宿題とかやって、 夕方になったらご飯食べて、また好きなことして、寝て、っていうのを繰り返して、マネジメントなんて考えもせず、ただすくすくと、それでものんびり成長し てたよなあと。でもそんな子供時代にも、余所の子はもしかするとタイムマネジメントを叩き込まれて育ったのかもしれない。

で、マネジメントマネジメントって言われると、そういう自然児には適応の限界があるんだよーという話。

「なぜ」について

「なぜ」という発問には複数の意味があるなと思っていた。

「なぜ、葉は緑なのか」
と いう発問には、葉が緑に見える「原理」を問う、という意味がある。どのようにして葉は緑色に見えるのか、という意味。その答えは葉緑体の話だとか、光の波 長の話だとか、人間の眼の細胞の話だとか脳の話だとかに帰着するだろう。それは、そうなっているから、という状態の説明になる。
一方で、葉が緑である「目的」を問う意味も見つけることができる。なぜ赤でも黄色でもなく緑なのか、という意味。なんのために緑なのか。その答えはきっと出ない。推測の域を出ない。

もう一つ例を出すならば、「なぜ、人は生きているのか」という発問には、人がどのようにして生きているのか、という意味もあるけれど、何の目的で生きているのかという意味の方が多数であろう、と思う。


「なぜ」と問いを発する上で、それらは区別されなければならない。気がする。
「原理」を問うている場合、答えは全部はわからないかもしれないが、いくつかはきっと出せる。
しかし「目的」を問うている場合、その答えはそれをした者にしかわからない。たとえば「なぜ山に登るのか」を、山に実際登る人に聞けば、その目的をもっているはずだから、わかる。でも「なぜ葉が緑なのか」を問うても、葉を緑にした者に聞かなければわからないわけだ。
さらに悪いことに、それをした張本人にすらわからない場合もある。「なぜ生きているのか」などはそのよい例であると思う(ちゃんと目的を持った人も勿論いるけれど)。
これは、その発問の質の違いである。「原理」か「目的」か。
(もっとバリエーションがもしかしたらあるかもしれない。)


そ してさらに、その主体、つまり、それをしたのか、それともさせられたのかというのは、結構判断がつかない。例えて言うなら、生きているのか、生かされてい るのか、ということである。それらは別に相反するわけではないしどちらも正解と(つまり生きていると同時に生かされているとも)いえるわけだけど、目的を 誰が持っているのかということを考えるにあたっては、一応区別しないといけないのかもしれない。まあ目的も主体に応じて複数ありうるわけか。
これは、主体の違いである。


よく、「なぜ」を考える時、主に仕事をしていたとき感じていたことだけど、例のWhy5回っていうやつを実践するときに、どうも質の違う話が混じってくるし、主体の違う話が混じってくるので、気持ち悪いなと思っていたのだった。
それで暫定で整理してみた次第。
もう少しいい整理の仕方を思いついたらまたし直すかもしれない。


余談。
こ の整理癖というのは、いいのか悪いのかよくわからない。実益があるのかないのかという話。自分のすっきりのためにはいいのだけど、仕事だと周りもその話に 巻き込んでしまうので、実益が見つけきれないとこの整理癖を出すわけにはいかない。まあ結構やってしまっていたけど。ふむ。


このことを考えるに至った前提というのは、自然科学と法学の違いを考えていたことにある。
自然科学にはその「原理」を問う発問と、「状態としての答え」があるのに対して、法学には「目的」を問う発問とそれに対する法律や制度を作った者の「政策的答え」があるのだ、ということを思いついて。

自然科学は自然を相手にしているから、「目的」の発問をしようとしてもその目的をもっているはずの主体が見当たらず、これをしようとするときには哲学とかの守備範囲になってくるのかもしれない。
そ して法学が「目的」の発問をしてその答えが出るのは、法律が人間の作ったものつまり主体が明確にあってその意図を問うことができるというところに理由があ るのだな、ということ。別に法学で「原理」の発問をしてもいいけど、それはあまり問題にならない。それはわかりきってるからだ。(厳密に言えば、原理を読 み解くという部分もあるにはある。制度理解という意味で。)

この対象の質の違いだな、と思ったのだった。

春樹を出でて春樹に向かう心理状況

村上春樹を読んだといえるほど読んではいなくて。好きとか嫌いとか言うほどのこともなくて。それで、以下の質問とその答えを興味深く読んだ。

はてな:作家の村上春樹の良さがわかりません、教えてください。

こ ういうのを語り合うというのは一見無粋だとか、邪道だとか、思う人もあるのかもしれない。ちょっと攻略本を見るっぽい感じとかある気もするし。でも私なん かはその辺にこだわりもないので、なるほど、そんな楽しみ方が、とか、そうかそういうところが魅力なわけだね、なんて嬉しくなったりする。
少しこれから読むのが楽しみになってきた。

ノ ルウェイとか風の歌とかスプートニクとか羊をめぐったりとか中国行きとか、結構実は読んだ記憶はあるけど未熟すぎてわからなかったはずだし、更に言えば内 容を覚えていないので再読しなければならないと思っている(まあ大概の本はそうなのだけど)。しなければならないというよりは、したいが正しいな。
大学に入って付き合った男の子が春樹が好きで、なんだか勧められて何冊か貸してもらったはいいがさっぱり良さがわからない、という経験は、した。それを某氏に言ったら更に5冊ほど貸してくれた。
そんな親切な人々によってかどうか、今は好んで読もうと思う。


ちゃんと最近読んだのは、「カンガルー日和」「パン屋再襲撃」「東京奇譚集」「夢で会いましょう」あたりだな、と思ったところで、



全部短編!

とはたと気づく。

私は根気がないので、短編集が好きだ。
最近とみに持久力がなくて、その傾向が強まっている。ねじまき鳥にとりかかったりする気力がない。暗夜行路が積読になってるのもそのせいだ。東野圭吾の「手紙」もそのせいな気がする。まああれは重いからっていうのもある。

短編のキレというか、短くまとまってる感じもすきなのだと思う。
いろいろとだらだらと書いてあると、冗長にすぎる、とつぶやき本を閉じる。本ならまだいいが、挨拶なんかだと閉じるわけにもいかず、つぶやいてその人に念を送る、ということになる云々、というのはまた別の話。


長くても読みやすいやさしいのは好んで読む。江國香織とかまさにそれだ。文字と感覚の距離が短いというか、すぐピンと来るというのがいい。目に入ったのとほとんど同時にわかる、という明快さが楽々なのである。

余 談になるが、その点、法律書ときたら。古い権威のものであればあるほど、解読した時の喜びが大きいという仕様になっている。多分。最近の本でも何やら難し い言葉が出てくる。隔靴掻痒、読めなかった。(かっかそうよう。かゆい所に手が届かない様。)これは法律とは全く別のところで難しかった例なので適当では ない。
古い優れた本ほど、ミニマム!っていう感じなのだ。つまり最小限の説明でまとめ上げている。これは単に読者の力量が問題で読むのが難しいの だけど、そのまとめ方は素敵だったりする。格好いいから、好きではある。けどラフな気持ちで手にとると、数秒後に閉じる流れに、なる。母なる自然の法則に 従ってそうなる。そういうものだ。


こう書いてくると、いかに自分が怠け者かというのがわかる。楽ばかりしようとしている。
でも、開き直る。好きな本を好きなときに読むのが、一番いい。そういうときこそ吸い込まれるものだという持論。何でも旬というものがある。


そんなこんなで1Q84を読もうかなと思う次第。

生理的なんとかも後天的なのではという話など

気が向いて、その隣のものを手に取る、っていうことはある。よくある。良かれ悪しかれ。

それで、前回の
Podcast MEGASTAR-2 cosmos 『暗やみの色』
の「#5 谷川俊太郎×海部宣男 「137億光年の孤独」対談」を寝る時に聞いていたらなんだか面白かったという話。内容もまあまあ面白いんだけど、言葉の選び方がなんだかいいなあと思うことしばしばで、ついつい聞き入ってしまった。結構長いんだけどつい。ゆるゆる。


歯医者の帰りに、ものすごく早く歩く毛虫を見た。
毛虫を見ると嫌悪感を覚えるものなのだけど、その時ばかりはあまりに彼(または彼女)が急いでいたので、嫌悪感など覚えるどころか少しの尊敬すらした。
な ぜ彼彼女はあんなに急いでいたんだろう、とその後歩いていて考えていた。踏まれないように。暑かったから。待ち合わせに遅れそうだったから。タイムを計っ ていたから。私に対する挑戦。まあいろいろ考えられはするのだけど、もしかすると理由はないのかもしれない。気分的なものなのかもしれない。


派生して、毛虫というのはなんであんな容姿なのかしら、と考える。
あまり可愛らしくはない。と思う。可愛らしければもしかすると、生存率は上がるのに。他の動物の赤ちゃんは大概可愛いのに、虫はあまりに可愛くない。

と、可愛くないという判断基準はもしかすると、生理的に云々言っているけれども、須らく後天的なものなのかもしれない、と思う。
小さい頃って、バッタとかこおろぎとか結構平気だし、蝉とかカブトムシとかの裏側も別になんとも思っていなかった気がするのである。2歳くらいのとき蜘蛛はこわかった記憶があるけれど、それすらも後天的なものなんじゃないかしら。
み んなが、嫌だって言っているものを、ああこれは嫌なものなんだ、って認識するように刷り込まれて嫌だって思っているのではないか、なんて思うのである。逆 に、可愛いっていうのもそうで、子猫とか可愛いって最初は思っていなかったんじゃないかと思うのである。そういう価値観の社会だったら、つまり猫なんて毛 むくじゃらで変な声で鳴くし悪さをするし、嫌なものだ、っていう価値観の社会だったら、子猫=嫌なものっていう認識になるんじゃなかろうか。
まあ、極論ではある。
あと、この嫌悪とかって生物としての生命の危険とかそういうのにも関係している気がする。蜘蛛や蛇が嫌だとか。


で、これをセンスとかの話まで持っていける気がするのである。
こういうものはセンスがいい、洗練されている、という価値観がまず社会にあって、その延長線上にあるものを斬新だ、先鋭的だ、センスフルだ、みたいな感じで言っているのじゃないだろうか。
前に糸井氏が、センスも受け継がせることが出来るみたいな話を書いていたけど、そうだろうな、と私も思う。
な んだって模倣にはじまるしつまりセンスもそうだと思うし、新しい「センスのいいもの」というのもその土台の上での微妙な進化だと思うのである。強いて言う ならば、センスがいいというのは勘がいいということで、その土台をちゃんと理解できてそれを微妙に進化させていくことができるっていうことなのかもしれな いと思う。


日馬富士が初優勝である。素晴らしかった。
彼はね、センスがいい。

バースデイ

未来館未来館言っているけど、いい加減行きすぎ感は否めず、今回は行くか行くまいか一応迷った。しかし、プラネタリウム番組が新しくなっているのをホテルで知って、行くことを即決。

バースデイ~宇宙とわたしをつなぐもの~

※参考:今までのプラネタリウム番組


暗やみの色に続き、ハラカミおじさんが音楽協力。
ナレーターは日本を代表するめがね男子ことARATA。ピンポンのスマイル役の人。(ただ、ライブ版を見てしまったので聞けず。ちょっと聞きたかった)

今までに見た番組、つまり「暗やみの色」と「偶然の惑星」は、まず、MEGA-STARⅡすごいね!っていう、つまり基本的に星空が素晴らしくって。
そしてストーリーというか語りがアートで。谷川俊太郎の詩とか、クラムボンの人の朗読とか、ランダムに流れる詩のフレーズとか。一輪挿しの赤い花。
暗やみで星空を眺めて思いを馳せる、そう、「思いを馳せる」ということに重きを置いた、とてもゆったりとしていて雰囲気のある番組だった。ちょっと、アート過ぎて、気恥ずかしいけれど。
その一方で、確かに少し単調さもあるような。気はしていた。

今回の番組「バースデイ」は、飛び出す。3Dメガネをかけて見る。その中には本当に迫力がある映像もあって、自分が銀河の誕生に立ち会っているような錯覚すら覚えるし、非常に幻想的な場面もあるのだけれど。
ほとんど、未来館の別のところでやっている3Dの上映コンテンツ「4D2U」というか、インタープリターの解説とかそういったものが、現実感。ハラカミおじさんの音楽はあまり生きていないし、前の二作品に比べるとアートな要素もあまりない。少し残念。
やっぱり、暗やみの色が好きだったなあ。
でもハラカミおじさんとARATAを起用したところはいいと思う。もしかすると、ARATAの語りだったらまた別の感想を抱いたのかもしれない。


出がけに、知らない男の人が、
「ガキの頃に見たプラネタリウムと全然違う」
と言った。

いまどきのプラネタリウムだ。

むちゃくちゃお勧めというわけではないけれど、未来館に行く機会があれば是非。
常設展示も少し変わっていた。

お勧めは「暗やみの色」のCDだ。映像もよかったから、DVDになればいいのにと常々、思っている。ニッチすぎるのかな。

※参考:P.I.C.S. works 日本科学未来館プラネタリウムopening映像「暗闇の光」

追記:
「暗やみの色」映像あった。
iTunes Store:
Podcast MEGASTAR-2 cosmos 『暗やみの色』オープニング


ついでに西郡勲というクリエイターらしいので備忘メモ
Tokyo Video Magazine VIS:41

試験

東京へ行っていたかのようなメモエントリがあった。
東京へ行っていた。
法律の国家試験を受けに行っていたのだった。


試験について書くのは避けてきた。その試験は今まで受けたどの試験よりもハードで、アタックしてもふられることが確実な恋のような、その試験について考えるだけで自分がコンプレックスの塊になるような、試験だった。

実際、私は自分を受け入れてくれない人や場所を避けてきたきらいがある。もっと楽しい場所があることを知っていたし、わざわざ楽しくない場所にチャレンジしても時間が無駄になるかもしれないと思っていた。諦めがよかった。
そういう姿勢がいいのか悪いのかはわからないけれど、はじめて、避けるに避けられない、いや、避けようと思えば避けられるけれど、避けることに後ろ髪ひかれるものがそれだったのだった。

法律が好きなのは本当だった。それがなぜ試験となると嫌いになるのかよくわからなかった。上述のような、根本的な、自分の問題だということに気づいたのは最近だ。
受け入れてもらえないものに果敢に攻めいるということをしなかったこと。


このコンプレックスめいたものは3年間の院生活で醸成されたものだと思う。はっきりいって、ついていけていなかった。表面的には理解していたのかもしれないし単位はとっていたけど、場当たり的で、底の底の方では全然ついていってなかった。
実 務家になるという覚悟、なりたいという気持ち、法律を使い倒してやるのだという姿勢、試験を攻略してやるのだという気概、そういったものを持てずにいた。 周りが持っているそれとの温度差を感じていたし、それに取り残された感じがしていた。それは知識量や勉強量等々、つまり実力に、当然のように影響した。 バッドなスパイラルだった。


試験期間は5日間だった。1日目がマークシート式、2日目が論述式、3日目が休みで、4日目と5日目が論述式。試験時間はトータルで22.5時間。それでも時間は基本的に足りない。
眠くなったり少しでもぼんやりするような時間は、実際ない。問題は、法務省のWebサイトに掲載されているけれどまあまあ長い。各問、平均A4で4,5枚くらいだろうか。

体 力的にもシビアな試験で、長時間の筆記が肩や腕や手をくたくたにしてしまう。座りっぱなしなので座布団とか膝かけを持参している人も多い。人目をはばから ずバンテリンを首から肩に塗りたくる女子、とか、でこぼこフレンズ(NHK教育のちょっとしたアニメコーナー。お子さんのものかと思われる)の毛布を持参 する男性、とか、冷えピタを額に貼って闊歩する女子、とか、普段あまり見られない光景が見られる。メガネ率は異常に高いが、全然心踊らない。これはメガネ 好きではなかったのだということが改めて証明された出来事だった。残念なことだ。

なりふり構わない、ということの清々しさとか、そうは 言ってもちゃんとお洒落している人々とか(つまりGUCCIのバッグにたくさん本を詰め込んでGUCCIの靴でカツカツと登場するきれいな女の人とか、毎 日変わるシュシュが可愛い大きなカバンを持った女の子とか)もいて、そんないろんな彼らとは、敵同士のような、仲間同士のような。4日目、つまり最終日前 日の試験終了後はなんだか晴れ晴れとしていた。一週間で一番素敵なのは金曜日なのと同じだ。

ある程度の緊張感と敵愾心と不安が渦巻いているような空気の中で、顔見知りや友人に出会って、お互いの直面しているものには触れないままの、なんだか宙に浮いたようなやりとり。久々すぎるのだ。学部の卒業以来会ってないとか、そんな感じだ。にしても久々。

今は、無事全て受けおおせた(白紙答案でなしに)ということが満足であり、これは直前の体調を考えると奇跡に近いと思う。感動的にそう思うのではなく、事実としてそう思う。


結局、絶対的に勉強量が足りないのはわかっていて受けた。背中を押したのはスティーブ・ジョブズの
"If today were the last day of my life,would I want to do what I am about to do today?"
だった。そういわれた時、なんだか受けたかったし、勉強したかったのだ。ふられることがわかっていても、I was still in loveだった。

試験についてちゃんと向き合えずにいたのを、向き合えた今、総括すべきだと思った。

試験はただそこにあって、法律の知識と論理的思考力を問うていた。意地悪でも取って食われるわけでもなんでもなかった。怖くもずるくもなかった。
試験を怖がらなくなった、もっといえば、試験に落ちること、拒否されることを怖がらなくなった時、コンプレックスは消えていた。そこに試験があり、受験資格があったからそれを受けただけだ。

少なくとも、2年前に受けた時より多くのことがわかっている。と思う。
受けてよかったと思う。来年また受けたいと思えた。


友人の言に、「同じ負けるのでも負け方があると思う」というのがある。
至言だと思う。
負け試合を意気揚々と、とはブログ「椿ひらいて墓がある」の言葉だけれど。清々しくてよしとする。
勿論次は勝ちに行くけれども。
まあ人生総じて見れば負け試合なのかもしれぬ。

記号と再現性とその先にある共有について

音楽を聴いていて、ふと楽譜を思った。

楽譜というのは、ある一定の決まりごとの下、音の配置を示した一つの言語ではないかと思って。
それというのは、何のためにあるかというと、音楽をいつでも誰でも再現できるようにするためなのだと思って。
同じ楽譜を正確に読んで弾けば、同じものが再現できる。
厳密に言えばそれは全く同じものを再現できるわけではないのだけれど、何百年も前にモーツァルトの演奏した音楽を、今多少の誤差はあるにせよほぼ同じ状態で再現でき、その音楽に身を任せることができるということの浪漫というのは、あるなと思って。

で、 その音楽をCDで聴いていたわけだけど、CDというのもまた記録媒体というのか、CDが演奏をしてくれるわけでもCDを楽器のように鳴らしているわけでも なくその記録された信号で音を、また楽器ではないスピーカーで再現しているというそのことが、なんかものすごいことだと思って。いや、当たり前のことなん だけど、つまりものすごいということが当たり前なんだけど、そう思ったのだった。

あらゆる言語や信号というのは再現のためにあるのかもしれないなんて思う。お金もそうだ。一旦、一般的な記号に変換して、それを元に戻して、味わう。
そのための媒介物というか。
お金だったら、価値を、お金という記号に変換して、それを交換して価値を再現する。とか。


言葉を使うというのは、自分の体験した何かの感情や出来事や考えたことを相手に再現させるためにあるとも言えるのではなかろうか。伝えるというのは再現するということ?その先に共有があるというのはわかるけれど。

そう考えると、いつでも、どこでも、誰でも、という流れは、再現ということへの情熱であり、その先にある他者との共有への情熱なのやもしれぬ、とか。思ったりする。

人間には共有の欲求が、結構根源的な欲求としてあると思っていて。や、学問的なことはよく知らないけど体験ベースで。
覚え書き。

DM考

ダイレクトメール、というのが送られてくる。いわゆるDMである。
先日GmailにそのDMオファー的なものが送られてきて(転職セミナーのお知らせで、一斉送信的なやつだ)。DMオファー?とか思ったのだった。

そもそも、ダイレクトメールというのはどのへんがダイレクトなのか。
メールの中でもダイレクトなのか。これは違う。メールは皆ダイレクトだ。メールにそのような差別化をすることはできない。
ということは、他の広告手段よりもダイレクトだということだ。
でも、本当にそうだろうか、とか思うのである。ダイレクトメールの中のチラシと、新聞に挟まってるチラシと、テレビ・ラジオ広告と、店頭のポップと、云々かんぬんに、まあ違いはあるのだけど、ダイレクトメールの方がよりダイレクトというわけではないように見える。

そんなこんなで、困った時のwikipediaなのである。
ダイレクトメールというのは、ダイレクトマーケティングの一種らしい。

wikipedia:ダイレクトマーケティングより
「マ スメディアを使用したコミュニケーション施策に代表されるマスマーケティングと対になる概念。例えば、100人のターゲットに対して一種類のマーケティン グ活動を行うマスマーケティングに対して、ダイレクトマーケティングでは100人のターゲットに対して100種類のマーケティング活動を行う。」

オーダーメイドなんとか的な感じだろうか。
でも、多分、他の人にもおんなじチラシとかカタログが送られているのだと思う、普通。
それで、結局メールとか手紙という手段を使うものをひっくるめてDMと言っているのだろう。

結局私はダイレクトメールが上記の意味でのダイレクトマーケティングの一種とは認めがたいわけである。(※1)

で、ダイレクトメールがなぜダイレクトか、というところを私なりに考えてみるに、メールとか手紙というものを、人間が開封したくなる心理、というのをとらえてみたい。

皆 さんも、経験があるだろう。進研ゼミのDM。中には小さいサイズの漫画が入っていて、それは友情とか恋とかをちりばめた、進研ゼミの教材がいかに短時間で 終わり効率的かをアピールした、最終的にはライバルに勝てて恋もうまくいって部活とも両立できたよ的な話だとわかっているのに、開封してしまう、そして読 んでしまう心理。

いや、これは漫画の効用だな。

でもなんだかんだで来た郵便物を開封せずに捨て置くということは、人間あ まりしないんじゃないだろうか、ということ。テレビとか店頭では受け流すけれど、郵便物とか、封をしてあるものというのはつい気になるというか、そういう 作用があるのではないかということ。後日、封をするということについて書ければいいなと思う。
ダイレクトメール、というのは、中身は全然ダイレク トじゃないんだけど、その人宛に届く郵便物という体をとることによって、個人的な、「私に」届いたお手紙的な、そんな心持を少しは抱かせるものなのかもし れない。だって私の住所が書いてあって、私の名前が書いてあるし、的な。もう慢性的にDMの嵐に悩まされているような人は別として、特にDM黎明期の頃 は、結構効果的な方法だったのやも知れぬ。まあ、住所、氏名が封筒に表記されているという点においては確かに個々人にカスタマイズされた広告手法と言えな くもない。まあ、あまりいえないと思うけど。
ダイレクトマーケティングっていうものを、1対1と捉えるならば(マスが1対多ならば)、究極的な形は店頭販売か訪問販売とかなのかもしれないな。マーケティングの定義が難しいけれど。一応ここでは販促をイメージしている。

こうして考えると、つまりDMが1対1というよりは1対多の内容が入ったものだと考えると、普通の手紙やメールなんかは、すごく密な1対1で、手紙・メールの中ではDMは実はダイレクトじゃない方だったのだ、という発見をすることになる。別にしなくてもいい。
何にせよ、DMってあんまり嬉しくないよね、という話。


で、結局、そのDMオファーは私が過去面接で落ちた会社からだったので、目を通さずにtrash。
奇しくもDI。


※1:厳密には、購入頻度や金額等々である程度のカスタマイズはされている場合もあるらしい。100人100様ではないにせよ。
あと、接客した人が手書きのメッセージつきで送ってくれる店もあることはある。これはその意味でちゃんとダイレクトだなと思う。

山田先生のこと

いつまでも支離滅裂な話をトップに置くのもなんなので。
蔵出しシリーズ②。2007年3月に書いたもののようだ。


----------------------------------

山田先生のことを今朝起きるときに思い出した。


彼は高校の国語の先生だった。今もそうだと思う。

彼は沖縄の昔の男性にしては背が高い方で、教室ではサンダル履きで、たまにめがねをかけた。
目は大きく、まつげは長く、セサミストリートにでてくる大きな茶色い象のようだった。
声がなかなかよく、堂々としていて、最初は怖そうだと思ったが、意外にお茶目だった。

よく語尾に「なのだ」を使用し、自らが本土の大学に進学しその際正しく敬語をつかえたことを教授に驚かれたことを話し、軽く見られないためにも君たちも正しく日本語をつかえるようにならなければならない、と言っていた。
私としては口語で語尾に「なのだ」を使う人に彼以外会ったことがないため少々困惑した。しかし今ではそれは彼の芸術性だったのだと認識している。実際彼の話し方が好きだった。

彼 は最初の授業で、まず高校の隣にあるごみ処理場から発せられるダイオキシンについて話した。なぜ公立でうちにはクーラーがついているか、それはダイオキシ ンを吸わせないために窓を閉め切る必要があるからで、そのせいで教室がひどい暑さになり、勉強どころではなくなるからだった。

-----------------------------------------

と、このように回想されている山田先生もおそらくは今年で60歳くらいだと思う。もう定年されただろうか。

羅生門だとか、山月記だとかをやった。
羅生門の朱色とか、きりぎりすの緑だとか、下人の頬のにきびだとかをありありと浮かばせたのは、芥川の筆力のみではあるまい、と思う。

私 は先生に、文学作品を問題にするなんてナンセンスだ、と主張したことがあったが(なんか若い)、先生も「私もそう思う」と言った。そうして、私は国語の問 題を解くときには常に「ナンセンス」と思いながら解くことに自信すら持ち、解けなくてもかまやしないとか思うようになってしまった。案の定、私はセンター 国語が苦手なまま受験を終えたので、妹に現代文を教えるのに躊躇する。

古文の時間は、黒板に、さらさらと、本当にさらさらと文字を書き、単語を斜線で全て区切り、全ての単語の品詞と活用形を説明してくれたおかげで、その「む」はどの意味なのか、とかがわかるようになった。

山田先生の語り口というのは上記でも触れているが本当に独特で。
「なのだ」にとどまらず、「むむっ」とか、「ええい」とか、なんだか芝居のような感じだったのを覚えている。それでいてすごく自然体で、脱力感のある先生だった(弟子と称されたT先生の方が脱力感は数倍上だったけれど)。

卒業するときに寄せ書きをしてもらった。皆に同じ文句を書いたのだと思うけれど、「どこにいても必要とされる人になってください」と書かれていた。

これは結構難しい、と思う。
誰でも、必要といえば必要なのであって、でもいなければいないで回るものなので。なんて小癪なことを言ってみたり。
自 分がその場に必要かどうかなんて、他人に聞かなきゃわからないし、というか聞いてもわからない。多分、必要といえば必要だし、不要というわけではないけれ ど、でもいなけりゃいないで回るのだと思う。そういうものだ。でも、必要不可欠、ぽい人というのはいる。みんなが口をそろえてそりゃ必要でしょと言うよう な。
それで、結局私は寄せ書きをまた一つの目標として心に留め置くことになる。
数え上げたら私はいくつの目標を抱えているのだろうと思う。乱立するポップアップの如く。


に、しても、会いたい人ばかりだ。まあ、会いたいから思い出すのだろう、なんてまた小癪な。

いい年のとり方が顔に出るということ

BSで宮本武蔵シリーズがやっていて、ちらっと見かける。
若かりし頃の高倉健を見つけるも、高倉健であるかどうか確信が持てないほどに若い。そうして、高倉健はいい年のとり方をしたのだなと思う。

いい年のとり方をした人というのは、顔に出る、らしい。
まあ、顔を見ていい顔をしているから、つまりそこに結果があるから、いい年のとり方をしたね、といっているのかもしれない。多分そうだろう。
い い年のとり方をした、という場合のそう言われる人は、大抵50代とかそれ以上とかの年配の方で、世の中の半分くらいの人はその人より年下なのだからその人 の生き方を逐一観察できたわけでもなく、そもそも年のとり方つまり生き方をどうこう言えるほど他人を逐一観察するなんていう人はそんなにいないのだし、も しいたとしたら好きだから観察しているので文句なしに「いい年のとり方をしている」と言うのだろうし、とまあこんな感じで絡み合う因果関係を絡み合ったま まに眺めては、もう少しかわいく物事を考えたい、と思ったりもしなくもない。いや、しない。

高倉健は、読中の、沢木耕太郎「バーボン・ストリート」に出てくる。粋な出方だと思う。沢木氏の演出。詳しくは読んでみるとよろしいかと。

私は高校生の時分から、高倉健が格好良いと思っていて、何かで好きなタイプを書かなければならないときは大体、高倉健かハリソン・フォードと書いていた。いや、結構本気で書いていた。
高倉健の何がいいって、顔に甘さのないところだ。渡哲也氏などは甘い。甘いおじさまである。おじさまには興味がないのである。

ただ、高倉健のファンというわけではない。映画は「鉄道員」くらいのものだし、CMで「自分、不器用ですから」って言ってるな、くらいのもので。キリンラガーでも飲もうかなと、まあ思わなくもない、みたいな感じで。
でも見ればやっぱり、格好良いなあ、と思う。


で、若い高倉健よりは断然今の高倉健なのである。
同じく、若いハリソン・フォードよりは今のハリソン・フォードなのである。
年 をとったほうが渋みが増し、よい顔になる、というのはやっぱり、いい生き方をしてるんじゃないかしら、と思う。数々の出来事や悩みを咀嚼していい方向に自 分のものにしてきたのではないか、と。いいとか悪いとかは一概には言えないし、時間的にも幅のある話なのでやはり一概には言えないのだけど、いい顔をして いる、というその結果を指摘することはできるし、それが徴表だと言ってもいいと思うのだ。
つまり何かを失って、何かを身につけていく過程で、未熟 さを引きずったり、自分自身に納得のいかないものを諦めて飲み込んだり、何かいろいろとあるんだと思うのだけど、それが結果として顔に出るというのは、あ りそうな気がするのである。優しい気持ちでいれば顔が優しくなるように。

という雑感。

気の迷い

別れましょう
そんなのは一時の気の迷いだ
そんなことを言ったら、結婚は恒久的な気の迷いだわ

みたいな会話が確か、江國香織の「いくつもの週末」にあったけれど。

一時の気の迷い、の連続で人生はできている。
人生と言うよりは、生活といった方がいいのかもしれない。もう少し、生活感のあるものだ。

他 の人がどうかは知らないが、私なんかはこれが沢山あって、後から考えるとなんでああ思ったのだろうとか、なんでああいうことをしたのだろうとか、解せない 場合というのがままある。全然合理的でない、と思うこともあるし、テンションだけで行ったな、というときもある。そういうとき、「なんだ、一時の気の迷い だったのか」と片付けるのは結構小気味よい。

そういう風に片付けるということがある意味で思考停止で、そういう姿勢は良くない、良くないよ、と思っていた時期というのがあったし、まあこれからも度々ありそうなのだけど、そう思うことも一時の気の迷いなわけだ。言ってみれば。

今基準では解せないことも、未来のある一点においてはすごく合理的に感じることもあるし、逆もまた然りということが、気の迷いの連続というか、複合体というか、なんて流動的な人生かしらと思うのである。まあ、あくまで私の場合。
こういうのを、節操がないとか、流されやすいとか、影響を受けやすいとか、単純とか、ばかとか、っていうのかもしれないが、まあそういう性質なので大目に見てやってほしいのである。

そんなことを思う今日この頃。

格好良いについて

先日飲んだ時に、どういう時に惚れるか、という話になった。

で、私は「面白い話をされた時」と、答えた。

咄 嗟に浮かんだのがそれだったし、実際それは本質をついていたのかもしれないと思う。「面白い」というのは、おもしろおかしいという意味ではなくて興味深い というかinterestingの方、という付言までしたところで、ああじゃあ頭の良い人がいいんだ、と言われた。そういうことになるのだろうか。まあ、 なるのかもしれない。これは「頭の良い人」の定義問題になる。

格好良いということ、とか、魅力的であること、というのを一度考えてみたいと思っていた。
結論から言うと、
この人には敵わない、ということなのじゃあないか、
と思う。

さっきの話をもう少し抽象化すると、話が面白い時というのは、感心している時なのだ。
面白い話をされ続けると、その感心が積み重なっていって、凄い、敵わない、というのが確信になっていく。これが私にとっての「格好良い」の正体だと思う。

人によって、もしくは場合によって感心するポイントが違っていて、立居振舞を基準にする場合も、見た目を基準にする場合も、地位を基準にする場合も、スキルを基準にする場合も、あるわけだ。
例えば小雪のささ、とお茶を淹れる仕草に感心するとか、顔の整っていることに感心するとか、エグゼクティブっていう響きに感心するとか、この上司の技術力に感心するとか。
で、私は、格好良いと思う場合の中でも、惚れる、ということに関しては、話の面白さとか垣間見える考え方を基準にしがちだということ。これはまあ良し悪しある。口では何とでも言える、ということも忘れてはならない。
私の場合は話だったけれど、人によって様々で、それが格好良いのバリエーションなのだと思う。いろんな人がいるからいろんなニーズが生まれてそれに対応したいろんな人が必要とされるのだなあと思う。

で、その人が、「よく女性って尊敬できる人がいい、って言うけどあれ何なの」とお聞きになったので、「尊敬できない人は嫌だってことじゃないですか」と答えたが、あれは適当すぎたなと思う。
話や考え方を基準にして格好良いと思いがちな私の場合は、格好良いと尊敬がものすごくかぶるのか、という気づき。逆に、感心ってのは尊敬に似た感情だから、それがないと格好良いと思わない、ということもあるのか。トートロジー。
まあ、もうちょっとラフに使う時もある。
例:マクラーレンのカラーリング、メタリックでかっこいいよね。


感心することと格好良いと思うことと惚れることがごちゃ混ぜになっている気がするが、それぞれ後者が前者の集積の結果ということで整理しておきたい。

SHIFT_

最近になって考え方が変わってきた。

どう変わってきたかというと、以前ほど効率主義、完璧主義でなくなってきた。
完璧主義というのは完璧主義者の中でも中の下くらいの軽度な感じではあったけれど(病院なんかでもそういう結果が出たりとかしたから気づいた)、それも穏やかになってきている。

会 社にいた時というのは、とにかく時間がない人たちを相手にいかに要点をうまく伝えるかとか、いかに早い段階で提案できるかとかが大事で。結構社長直轄の部 署だったのでとにかく社長に時間がなくて、社長と話すときにその要点のまとめ方でGMですら何度でも怒られるわけで。ギリギリまでレビュー入って資料を直 してて急いでバインドするとか、なんかもうとにかくスピードを要求された。どんな仕事でもそりゃ要求されるけれど、なんか怒鳴られるし煽られる感じだっ た。
ファクトファインディングをしていても、芋蔓式に出てくる情報を次々にブックマークしていってしまったりした(これは仮説思考でやれと口を 酸っぱくして言われたがいまいちだった。仮説を立てる力などほぼ無かったのだ)。ただある種の完璧主義は会社では必要ではある。というか会社にとって必要 なのである。

仕事以外の何かをやるにしたって、効率というのはある程度重要で。
勉強であっても、試験までの時間が有限である以上、効率というのは大事になってくる。「この判例を読めば、あの判例は読めない」とは元クラスメイトの名言である。勉強法、速読、レバレッジ。
完璧主義の点でも、条文も判例も過去問も問題集も全部読みたいし、暗記しなければならないと思っていた。そのくらいの心意気自体は必要だと思うのだけど、まあどう考えても時間的能力的に無理なのだ。でも、本気で思っていた。

で、 沖縄に帰ってきた当初というのは、例えば「要するに何が言いたいの」って思うことが一日のうちに何十回もあった。家族の話すのを聞いても、テレビを見てい ても。そして結論をはっきりさせないまま論点がスライドしたり発散していくことがものすごく嫌だった。そんな自分に気がついて、偏狭さを反省するようにな る。

そのうち何かの拍子にモモの話を思い出す。時間どろぼうの話。なんだかはっとしたのだ。何かを焦っていた。時間がないと思っていた。 よくよく考えたら、あった。ないと思わされていたというか、ないということにしているフィクションにのっかっていたのだった。勿論それに気づいていてもそ のままのっかっていくほかない場合だってある。でも沖縄に帰ってきていてもなお、そのフィクションにのっかり続けていたのだった。
そんなことは親に会社を辞めろ辞めろと言われていた頃からいくらでも諭されていたというのに、私は親が一度も東京で働いたりしたことがないからわからないのだ、と思っていた。ごく最近まで。


それがやっと自分で気づけるようになったということ。
うつ病の治療法で認知療法というのがあるらしいが、それは気づくことがまず目的なのだ。気づくことができれば徐々にではあるが変えられる。


馬 車馬のように働くことが充実していて格好いいと思っていた時期というのは確かにあって。今働いてる院の同期なんかの話を聞くと朝から朝まで働いていて、馬 車馬のようにってのはこういうことなんだなと思うし、私はまだ人間らしかった方なのだけど、1年前のエントリなんか読むとそんな感じだ。今時点のプライオ リティとして、仕事が一番でその他の交際とか雑事とかが低いと。今死んでも満足だとまで確か言っていたと思う。でもそういうのってどうなのと、今は思うよ うになって。
何のために働いたり生きたりするのか、っていうことなのだと思う。私は自分の能力が認められる満足感とか、焦燥感とか、そういったものに動かされていた気がする。
今は大切な人たちのためというか、大切な人たちの傍で生きたい、と思うようになっている。そして大切な人っていうのは社長でも同僚でもクライアントでもなく、家族だなと思った。
(だから、家族を養うために馬車馬のように働くっていうのはわかる。)

先日一緒に泡盛を飲んだ人が割と同意見で。東京で弁護士をしているからてっきりそっちの価値観だと思っていたので、ああそうなんだ、と思った。働いて一旦退いた人はそうなのだろうか、なんて思ったりする。


もう一つ、変わったこと。
私はプライドが高いということにちゃんと気づいたということ。薄々知っていたけどちゃんと自覚したということ。
今でもまあ高いのだけど、これを挫きたいのだ。自分なんて全然大したものじゃないのだから。とるに足りず、力もなく、病気や怪我でもすれば動けなくなり、っていうことを学んでいる。驚くべきことに、大したものでもないくせに、プライドなんか持っているのだからつまらない。
目指すのは「ミンナニデクノボートヨバレ」ても「イツモシヅカニワラッテイル」人なわけだから。聖書にも、仕える人でありなさい、とある。
また、聖書に「さばいてはなりません。さばかれないためです」という言葉もある。これも響く。私ときたら、とるにたらないもののくせに人を評価していたのだ。
という気づき。


少しずつしか進めないのだということも学んだ。忍耐。私の嫌いだった言葉だ。
「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」(聖書 ローマ人への手紙5:3~4)

少しずつ学んでいこうと思う。

猿である。名前はまだない。
いや、あるのかもしれないが、関知しない。名前などというのはものすごく他者本位なものである。名前をつけられる方が知らなくても或程度までは通用する類のものである。もしかしたら、全然知らない名前でどこかでは呼ばれてるのかもしれないのである。ハムの人、とか。
と思ってるかどうかは知らないが、名前。


「名前って何?バラと呼んでいる花を別の名前に変えてみても美しい香りはそのまま」
-------------ウィリアム・シェークスピア「ロミオとジュリエット」より

この文句は、「ロミオとジュリエット」を読んでいて知ったのではない。「ロミオとジュリエット」は読んだことがない。シェークスピアは「ベニスの商人」しか読んでない。
で、何で知ったかというと、大学時代に金城一紀の「GO」で知ったのである。なぜかハードカバーが2冊あるのである。なぜかっていうか、まあ確信犯的に2冊あるのだけど。初めて映画を一人で見に行ったのも「GO」だった。それはさておき。

そうだよな、と思った。名前にどれほどの意味があるのか。
名前がなくてもそれはそれ、その人はその人なのであって。バラの美しい香りは変わらないのだ。
肩書きだとか所属だとか人種だとか学歴だとか、何かのラベルを貼られたからといって、それを本人が無視することは可能だし、他がそれを無視しないとしてもそのことを無視していくことは理論的には可能だ。
とか思ったのだ。本作品を読まれた方ならわかるだろうけれど、なんというか、そういう感じの話なのだ。


でも。実は名前ってそういうものでもないのではないか、とも思えて。

人間は生まれたらすぐに名前をつけられる。
名前というのは、ものすごく本人が一番使うのに、基本的には本人が決めないのである。決める場合もあるにはあるのだけど、多分皆、それが本当の名前だと思っていないのではないか。生まれた時につけられたその名を、本当の名前だと思っているのではないか(サンプルなし)。

世 の親はやがて生まれ出でる子の名を何ヶ月も考え続ける。語感や画数や苗字とのバランスや世代や。何かにあやかったり一字もらったり。この子の幼少時代、大 人時代、老人になってからのいわば名前生活にも勿論想像をめぐらせて、この子に相応しい、しかも願いをもこめた、名をつけようとするのだろうと思う。

それは名前が、ほとんどの場合一生自分を認識することとなる言葉だからである。
その言葉は自分を表し、その言葉で呼ばれ、その言葉を幾度も書き、その言葉に少なからず愛着を持ち、やがては自らの子にその名から一つ受け継がせることになるやもしれぬのである。という、事の重大さを、皆が皆、身をもって知っているのである。多分。

更にはその名に合わせて自分が変わっていくこともあるのではないか。私が違う名をつけられていたら、このような自分にはなっていなかったかもしれない、というか確実になっていなかった気がするのである。

たまに名前を褒める人がいるけれど、それってすごくコアな部分を褒めていると思うのである。それが嬉しいか嬉しくないかはまた個人的な問題だけれども。嬉しい気がする。というか、好きな人に褒められたらたといその名前が気に入っていなくとも、嬉しいのかもしれないけど。

名前というのは、自分だけに与えられた、特別な言葉なのかもしれぬ。


前に人と人との関係について考えたときと同じことを考えた。
その関係にどんな名前をつけるか、どんな関係としてカテゴライズするのか、それは無視したり、名づけないこともできるけれど、どういう関係かということを名づけたりはっきりさせることによって、その関係性への両者の認識がそれによって変わってくるという話。

名づけるっていうのは多分そういうことだ。

動物園のこと

文鳥はこの華奢な一本の細い足に総身を託して黙然として、籠の中に片づいている。
---------------------------夏目漱石「文鳥」より引用

先日、動物園へ行った。
動物園へ行こうと母と妹が言い出したのだった。

動物がたくさんいた。
よくよく考えると、ライオンだとかきりんだとか象だとかが、沖縄にいるということはかなり不自然なことだ。
動 物園というのは、絵本にもたくさん出てくるし、実際も遠足なり家族でなり行くものだから、動物園にはライオンや象がいるものだと疑いもしないしそのことを 不思議にも思っていなかったし、つまり動物園というものをごく自然に、自然すぎるほどに受け容れてきていて。全然珍しくないと思っていたふしがあった。
興味深い場所である。超不自然だ。それが面白い。
皆、それぞれの檻の中に、黙然として片付いていた。

動物園というのはものがなしい。動物たちの諦めがありありと見て取れる。
カンガルーの目は確かに物思いにふけるそれであり、餌箱の中に失われた音符を探す疲れた音楽家さながらであった(参考:村上春樹「カンガルー日和」)。
動物はいい。


勤めていた会社に、動物園好きの上司がいた。
彼 は土日の度に各地の動物園や水族館に出かけていき、将来は動物園経営がやりたいと言っていた。旭山動物園をべた褒めした。土日に撮った写真を、21時くら いになると別の用のついでというわけでもなく、見せに来たりした。そこでリアクションをとると、満足そうに(たまに私の席にあるお菓子を無断で持っていき ながら)自分の席に帰っていくのだった。
でも全然ファンシーさのかけらもなく、基本的には無表情で、「そう言い切れる?」「Why?」を繰り返したり、お時間ある時にレビューお願いしますと言うと「時間?ない。」といった捨て台詞を残していくような、人だ。

その上司に、始発待ちのファーストキッチンで、なぜ動物園が好きなのかと質問したことがある。すると、動物が好きだから、と返ってきた。
どうして動物が好きなんですか、と聞くと、動物は喋らないから、と答えた。
それって人間が嫌いって言ってるのだろうか、と思った。なんだか、そう聞こえた。

この話を会社にいた小児科医の先生とご飯を食べに行った際話したら、私も小児科がいいのは子どもが喋らないからっていうのはある、と言った。

誰しも誰しも、か。
喋らないものの方がいい、というのは。なんだかわかる気はする。言葉と沈黙。

そんな上司も3末で会社を辞めたらしい。お会いすることはあるのだろうか。会えたらもう少し、動物園の話を聞きたいけど。

遺産と我と

夏目漱石の「夢十夜」に、運慶が仁王像を彫っているのを見物しに行くという夢が出てくる。
漱石の生きる明治にはいるはずのない運慶が仁王像を彫っているのを、というか木の中から彫り出しているのを見て、漱石もまた家に帰って彫り出してみようとするものの、明治の木には仁王はいなくて、それで運慶が生きているのもほぼわかった、みたいな締めくくりである。

仁王像と、仁王像を彫った運慶と。
片や残り、片や滅び。

ということなどを考えていて、世界遺産というのは「遺産」なのだな、と思う。
昔誰かしらが産み出した、しかし今やその誰かは滅びてそれを遺した、ということなのだなと。
いや、当たり前のことかもしれないのだけど、私は言葉を深く吟味しないで使ってきているものだから、遺産っていうことを今まで大して考えたことがなかったのである。
今 は亡き誰かが遺したもの、だからこそ浪漫があるわけだな、なるほど。それをつくった人がいなくなったのに、それだけが残っているという点が。「その穴ぼこ は二つのことを教えてくれる。かつて何かがそこにあったことと、今はないということ」みたいなことを本多孝好氏が書いていた、たしか。

最近昔の手紙を読んで思ったのは、昔の自分が今はいないということで。
最近親から、小さい頃私が窓に腰かけてずっと歌っていたということを聞かされて(全く覚えていない)思ったのもそういうことで。
当時の自分を思い出せなくて、会ってみたいけど会えなくて。
昔書いたもの、記憶、そういった過去に関するものものというのはひとつ、広義でいえば遺産といえる気がする。

そ こで、自分が何かを「産み」出しただろうか、と思った時に、何一つ自分じゃ産み出していないのだよなと思う。考えも言葉も何もかも、模倣と受け売りとでで きている。文章を書いているとよくわかる。すべてはすでにあったこと。日の下に新しいことは一つもない。まあ、定義の問題になるのかもしれないけれど、し かし厳密に言えばやはり産み出してはいないのだろうと思う。


自分探しの旅はもうお腹いっぱいではあるけれどこれもまた片手に提げ た継続問題であって。旅だって相対的な問題だ。定義の問題だ。みんな旅人だといえば旅人だし、そうでないといえばそうでない。多かれ少なかれ、生きるため に何かしらは考えて生きていく。生きるっていうのはものすごく本能的なモチベーションで。なんなんだ。おや、脱線した。

最近、昔友人と交わした会話を思い出す。

「感情には意味があると思う」
「無いよ。感情は電気信号だよ。」

私とはものすごく違う価値観を持った、むしろそのゆえに私に多大な影響を与えた友人である。
我思う、ゆえに我ありとな。我の定義問題にまたしても帰着する。我は電気信号であろうか。
宮沢賢治は詩集「春と修羅」の序でこう言う。

---------------------
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
---------------------

団地

昨日は予定外の事態で、近所ではない場所を一人散歩することになった。
しばらく住宅街を歩いていたが、ふとなんだか懐かしい建物群に出会う。団地である。

私 は団地に住んでいた経験もないし、団地のプロというか団地に思いいれのある方々がいらっしゃるのは重々承知で、団地の雑誌というものも見かけたことはある が目を通したことすらなく、こんな団地未経験者が団地を語るというのも出すぎた真似かと思うけれども、と前置きをした上で書く(まあジャズも野球もそうな んだけどね)。


団地に住んだことはないものの、小学生の頃は団地の友達の家にちょくちょく遊びに行った。その子の家の「わたるがぴゅん」とか「YAWARA」とかを読むのも楽しかったけれど、団地という環境が面白かった。
集 会所のあたりで遊んでいると、隣のクラスの子が通りかかって一緒になって遊んだりだとか、クラスの男子が大きな声で悪口を言って逃げていくとか、この子が 誰の妹でお母さんで、と紹介されたりだとか、もう学校と家とが連続しているのである。そこら中知り合いだらけなのである。しかも、友達の家のはしごが簡単 にできる。勿論、自分の家の近くにも友達はいたので、そこらで遊んでいたらよく出会ったし、アパートの駐車場でよく靴投げとかだるまさんがころんだ的なも のをして遊んだけれど、団地というのは遊ぶ場所が限られているから、どうしても距離が近い。仲良くなりやすい。
夕方になるとどこの家の窓からも夕食の匂いがそれぞれしてきて、それが親しすぎて入り込めない家庭の匂いのような、全然別の家の匂いで、早く家に帰りたくなったものだった。


で、散歩をしていたら、団地があったわけである。
つい、団地の中を歩きたくなって、大回りする。
結 構大きな団地で、大分老朽化している。黒くすすけたような感じの外壁に、草木の茂った敷地。テレビなんかで見るように寂れているのかと思ったが、全然そん なことはなくて、春休みに入った子供たちが暇をもてあまし頭にビニールか何かをのせて遊んでいたり、けだるそうにおしゃべりしていたり、小さなベランダに 所狭しと洗濯物が干されていたり、自転車や三輪車が金網に立てかけてあったり、知らない人々の日常がそこにあった。ほぼ全ての住宅に人が住んでいるよう だった。狭いながらも平和な、親しげな社会があった。
私はその団地の持つ懐かしさと、その懐かしさが現在進行形であることと、その日常があまりに排他的であることにすっかり満足して、帰路についた。

そこらに植わった桜の木はもはや瑞々しい葉ばかりとなり、さくらんぼが鈴生りであった。桑の実もまた熟して落ちていた。
さくらんぼは小学校の裏に。酸っぱかった。
桑の実は家の庭に。甘かった。

何を見るにつけても何かが想起されるほど、記憶が積み重ねられたのだなと思う。

You Don't Know What Love Is

眠れぬ場合は音楽を聴くことにしている。
昨日はなぜか「4時から本調子」というフレーズが頭から離れなかったので、「電気グルーヴとかスチャダラパー
」を一通り聴いて、spanovaの「アポロ」あたりを聴いて、Sonny Rollinsの「Saxophone Colossus」聴いて、Asian Dub Foundationの「Community Music」聴いて、いつものプレイリスト(ハナレグミの「家族の風景」とか入ってる)に戻って眠った。ごちゃごちゃだ。

ベッ ドに座って、あー眠れん眠れんと思いながら音楽を聴いているのだけど、Sonny Rollinsの「You Don't Know What Love Is」を聴いていると、空調の効いたバーで、目の前にボウモアのロックとよく冷えたチェイサーと、チョコレートかドライフルーツかと、清涼感あふるる香り のついたおしぼりがあるような気さえするな、と思った。いや、これ目をあけたらあるんじゃないかしら、と。
超、ムーディーである。艶っぽくも暴力的にすら思える、わしづかみにされるようなサックスの音色に是非。You Don't Know What Love Is?なんてことだ。
以下で曲の全部を聴ける。
参考:last.fm「You Don't Know What Love Is」

そして和なら、八代亜紀の「舟唄」だよなと思う。お酒はぬるめの燗がいい。肴はあぶったイカでいい。

駄目だ、いろいろ駄目だ。と思う。
申し遅れたが、今は勉強をお休みしている。

WBC

WBCは、観ている。そりゃ観ている。
ここ最近、家で父とする話の半分くらいはWBCの話題である。
今日は打線がつながってたとか、ピッチャーがよくなったよなとか、原監督の采配がすごくいいよねとか、ピッチャーの使い方の贅沢さ加減が巨人ぽいよねとか、今日は代打も当たってたなとか。

先日の韓国戦では青木のセーフティバントがうまかった。ほれぼれする。
今日は川崎が素晴らしかった。その後のイチローがハイライトでは出ていたけれど、その前にサード寄りに転がしたショートゴロでセーフをとった上での打点とか、その後の盗塁とかはいかにも川崎ぽいというか足で稼ぐ野球というか。大分好みである。

是非明日、優勝したらいいなと思う。


スポーツはやるより観る、という立場の人間である。テニスはやるのも楽しいけど、野球なんかは今更できないし、観るものとして大分インフラが整っているというか。
スポーツはいろいろ観るけれど、野球は大分好きだ。一番好きかもしれない。F1も好きだけど、多分野球の方が好きだ。というのは多分小さい頃から父の傍でずっと観ているからだと思う。
特 にナイターが好きだ。高校野球も好きだけど、プロが好きだ。こう、安心する。あの決まった絵と、ピッチャーの間と、トランペットだかメガホンだかの応援の 音と、安定感のある実況・解説(実況は落ち着いていればいるほどいい。「おおっと!」とか言われないのがいい。つまり一番実況の中で好きなのは相撲だ)。

だ からって詳しいわけではない。川崎がどこかっていうのもはっきりとは知らなかった(巨人阪神とかのセ・リーグあたりじゃなくてソフトバンクかロッテあたり だろうとは思っていた)。杉内もなぜか巨人だと思っていた(ソフトバンク)。岩隈はちょっと好きだったので知っていた。近鉄がなくなって楽天へ行ったの だ。

野球を観なかった時期は結構ある。
院に入ってからは付き合った人が野球嫌いだったためにあまり観なくなったし、そもそもテレビ自体をあまり観なくなった。彼はサッカー好きだったから、たまに一緒にテレビでサッカーを観たけど、結局サッカーを好きにはならなかった(なぜかサッカーはあんまり観ない)。
仕事をしていたときは帰ってきたら野球なんてとっくに終わっていた。そんなものだ。
そんなわけで、今野球を、しかもWBCをゆっくり観ることができる(状況的にはともかく、物理的には)という環境におかれていることは結構幸せだと思う。

祖母が結構スポーツ観戦好きな人で、ルールとか選手をよくわかっていない節もまあないではないのだけど、いろいろ観る。スポーツとみると観たがる。野球、相撲、サッカー、ゴルフ、テニス。F1の時間はさすがに起きていない。
やっ ぱり相撲は気になるらしく、「今日相撲やってるね?」と話しかけてくる。明らかにやっていることは知っているので、テレビつけて、という意味である。彼女 は負けるとけなすのだけど、やっぱり琴欧州びいきである。イケメン好きなのだ。私も琴欧州は好きだ。ついでに、日馬富士も好きだ。頑張ってほしい。

カフェ風とか手紙とか

友人宅でランチ。カフェ風。というかカフェ。いずれカフェ。とても素敵だった。
これでもかというほど食べて飲んでしまった気がする。ごちそうさまでした。お母様によろしくお伝えください。

集まったのは4人で、いずれも高校の友人達だった。先日結婚式を挙げた子も。先日入籍した子も。というわけで半数が既婚者という集まりだった。
なんだかいろいろ話したけれど、今をときめく医者候補二人の話が中心で、なんかこう、前線、という感じがした。現場、というか。ナースは女医には厳しいとかね。どこの病院がどうとかね。今年の国試がどうとかね。土日はあるのでしょうか。
既婚者二人は県外へ行ってしまうけど、意外と会えるさという気もしている。

また最近いろいろ考える。考えない、と思っても考える。考えない。でも気づきたくはある。


あ る人に絵葉書を書き送ろうとして、何箇所かありそうなところを回ったのに、全然なくて、というかまあ回ったところが悪かったのかもしれないが、沖縄の人は 絵葉書を書き送らないのかもしれない、と思った。そんな気がする。観光客が行きそうなところに行けばよかったのだ多分。でも文具とか売ってたら少しくらい ありそうなものではないか。レターセットすら僅少だった。

高校時代には書きすぎたけれど、手紙はいい。手書きというのがいい。その人の字がいかに読みにくくても、それすら愛らしく見えてしまう。
勢いに任せて筆が進んでいってしまい、読み返してちょっと違ったかなと思っても書き直すのが面倒でまあいいかといって出してしまうというところもいい。出したが最後、手元にコピーなんて残さないから、何書いたか忘れちゃうのもいい。

手 「紙」だというのもいい。紙好きは妹の方だけど、私もまあまあ紙は好きだ。妹は和紙が嫌いだけど私は和紙も好きである。紙ってのは偉大な発明だと思う。封 筒の厚みだとかも。何かを「包む」というのは面白い行為だよなと思う。まだあんまり考えてないけど、なかなかにわくわくするものだと思う。

あと、郵送にしろ手渡しにしろ、時間差がいい。送って着くまでに時間がかかるところ。もう着いたかしら、まだかしら。と若い頃は思いをめぐらせたものである。隔地者間の法律行為ではそこが問題になっちゃったりもするのだけど(原則、到達主義)。

「車屋さん」も手紙。内緒で渡して内緒の返事が内緒で来るようにできゃせんかいな。

そんなわけで、もっと手紙を書く世の中になったら良いと思う。忌憚なく。

あ、そういえば、手紙は中国語だとトイレットペーパーのことなのだと、カフェ風の友人宅のトイレに貼ってあった。手紙は「信」だとのこと。賢くなるなあ、あのカフェ。
手紙が「信」ていうのはまた興味深い話である。漢和辞典でも読もうかしら。

食べたいについて

くるりの曲に、「ハム食べたい」というのがある。
別に好きだというわけでなし、歌詞に共感するというのでもなし。
ただ、何か食べたいと思ったときにふいっと浮かぶのである。「ハム食べたい」と。
いや、ハム食べたくない、と思う。

食 べることについては、特に人一倍食べることが好きです、というのでも、グルメです、というのでもない。どっちかっていえば、興味がない方だと思う。一日 ウィダー1個でも平気な時期もあったし(さすがに健康を害した)、断食してみたこともあった(これを思いついた当時は、食費がかからない上に食事の手間も 時間も省け、しかもやせる、ということで素晴らしい試みに思えた)(やはり健康を害した)。
美味しいものは食べると嬉しいし、あれば食べたくなるのだけど、ないと思い出せないのだと思う。だからあえてあのお店のあれが食べたい!といって出かけていくということはあまりない。開拓もしない。
例えば岩隈の得意な球種だとか今のヤクルトのだいたいの打順だとかが話の種に(まあならないけど)なるかもしれないと思って注意して見てみる、というのと同じで、何か食べてみる、ということはある。何にせよ、感覚を研ぎ澄ましてみるというのは世界を楽しむことだと思う。

偶然について

偶然について。

昔、偶然の対義語が必然だということに違和感があるという話を雑記的に書いたことがあった。
ちゃんと調べてみる。
偶然:①思いがけないこと。予想できないこと。②ふと。たまたま。はからずも。
必然:①必ずそうなること。②必ず。きっと。
(角川最新国語辞典)

私なんかはこの意味を見てもやっぱり、対義語ではないと感じる。だって両立するではないか。「偶然」というのはその人が意図していなかった、予想していなかったことで、「必然」というのはその主観とは全く別に、必ずそうなること、なのだ。

たとえば、三条大橋の上で「偶然」Kちゃんに会った、ということがあった。これは、私もKちゃんも意図していなかった、予想していなかったので「偶然」である。
し かし、私がその時刻に三条大橋の南側を西から東に歩いていてA地点に到達し、Kちゃんが同じ時刻に三条大橋の南側を東から西に歩いていてA地点に到達した という客観的事実があったら、それは「必然」的に出会うのである。そしてさらに、その時刻にその場所にいたというその事実は、その前の瞬間瞬間の事実の積 み重ね(例えばその30分前にはどこにいて、15分前にはどこで、3分前にはどこで、1分前にどこでという時間的場所的な事実とか、周囲を見物しながら散 策しようとか橋を渡ろうという意思決定だとか)の上にあるわけだ。それはそういうルートをたどれば、つまりそういう条件下では、「必然」的に「三条大橋の 上でKちゃんに出会う」という事象が起こるということになるが、それと同時に私もKちゃんもそれを予想していないから「偶然」出会ったということになっ て、その両者は全然相反しないことだと思う。我々の出会いは、「偶然」であると同時に「必然」であった。

と、ここまでは定義の話。だから、「偶然」と「必然」というのはそもそも立ち位置が違う話で、別にかぶりうる、と思う。
そして、その意味で、というか、その辞典に載っていた意味なら「偶然」というのは勿論あると思う。意図していないことや予想していないことなんてたくさんある。


対 義語だと言われてわからなくなっていたのは、仮に対義語であったとした場合、「必然」に相対する状態というのはどういうことだ、と思ったということ。そん なものありうるのか、ということ。少なくとも、見たことはない。そういう意味で、物事は起こるべくして起こる、と書いた。

これはあらかじめシナリオが決まっていて、皆その通りに動いているのだというニュアンスではない。究極的にその結論に行く可能性はあるとしても、今のところそこまで考えてはいない。
あ る事象は、膨大な事実の積み重ねの上に成り立っているというただそれだけのことが言いたかっただけである。今この時刻に私がパソコンに向かってこの文章を 打ち込んでいるという事象も、今までにあったすべての事実の積み重ねの上に成り立っているのであってそれのどれ一つが欠けても、成り立たない。というそれ だけのこと。そして今この文章を打ち込んでいるという事象はそれら事実があれば、つまりその条件下では確実に起こったであろうということで「必然」なのだ ということ。
だいたい、一つ条件が欠けたり異なったりした場合というのは、実際起こっていないんだから観測のしようが無いのである。それがつまり、「必然」に相対する状態がない、ということ。
昔タモリがプレゼンターをやってた「IFもしも」って番組があったけれど。あれなんかは一つ条件が違えばそのあとにおこることが変わってくる、みたいなのを扱ったドラマだった。なんかこわかったけど。ああやって想像はできるけど、観測はできない、厳密には。


つまりはその緻密な事実一つ一つの積み上げが驚異的だと思う、ということ。別に驚異的ともなんとも思わない人もいるだろうし、それはそれで自由だろうと思う。


で、「偶然」というのは「必然」ありきで、かつ「必然」の意味を押し上げる働きをしている気がする。
た とえば電車の中で席を譲ったおばあさんがいて、次の日浅草でお店に入ったらそのお店の主で、さらにその孫が大学の同期だった、なんてことがあったとしよ う。なんだか「浅からぬご縁」を感じたりしてそのことを友人に話したら、「そんなの偶然でしょ」っていわれたりすると思う。「すごい偶然だね!」もあるか もしれないけど。
前者は、「そんなの予想してなかっただけでしょ」っていう意味で、後者は「すごい思いがけないね!意図してないのにすごい ね!」っていう意味だけどこの違いは評価の違いだ。で、これらは「必然」つまりそうなっている事実やそれまでの因果関係がまずあって、そしてそれを予想で きなかった人に対する低い評価(前者)または、それらが人の予想や意図を上回っていることに対する驚嘆(後者)だと思う。


で、テーマと離れるけどついでにいうなら、神を数式で表すことについて。神は人知を超えているものというのを定義として含んでいるのであり、数式で再現できると置くこと自体が定義と矛盾している気がする。
というか、そもそも数式で再現できるものがあるのだろうか。数式以外に。数式は数式であって、それ以上でも以下でもない。コップも人間も数式でいくら表したところでそれはコップや人間ではない。単に名前をつけたい、表現したいだけならもう「神」という言葉がある。

再現ではなく証明に関しては、好みの問題というか、性質とかタイミングとか、まあ個人的な問題だと思う。程度問題とも言う。
前も書いたけど、「信じる」っていうのは根拠はないけどエイヤで飛び込む行為である。つまりばっちり証明されたら成り立たない行為だと思う。証明されていたらそれは「確認する」ということになると思う。証明されてないから「信じる」のである。
ただ、厳密にいえば根拠はあると思う。根拠まったくなしに何かを信じるというのは難しいし、逆に何でもそうだけど、絶対っていうのはほとんどない、と思う。結局、やっぱり、程度問題だということ。
地 方に住んでいる人が、東京タワーが存在する、ということを信じていたとしてその根拠は、前にテレビで見たから、くらいのものだろうと思う。テレビが東京タ ワーと称してエッフェル塔を映していない事実とか、テレビ局がジャックされてなかった事実とか、そういういろんなことを証明していかないと信じないという わけじゃない。
だから、何を見て、聞いて、感じて、どの程度で信じるかという話だろうと思う。私はこの世界を見たり、先の事実の積み重ねを見たりして信じうるとも思っている。それだけではないけれど。
目で見ないと信じない人もいれば、数式で表現されないと信じない人もいる、そういうことだ。
「神は人を正しい者に造られたが、人は多くの理屈を捜し求めたのだ。」(伝道者の書7章29節)
「あなたは妊婦の胎内の骨々のことと同様、風の道がどのようなものかを知らない。そのように、あなたはいっさいを行なわれる神のみわざを知らない。」(伝道者の書11章5節)


で、少しずれるけど、そんな人達は概念的なものはどうやって信じてるんだろうか。とか思う。信じる基準はなんなのか。
たとえば皆、数という概念は認めるのに。
私は「1」を目で見たことはない。1という字は見たことがある。1個のリンゴも見たことはある。でも「1」はない。でも「1」という概念の存在は当たり前のように信じて生きているのだと思う。というか、認めて。だからはじめて見た果物とかでも、1個と数えるのだ。
また、私は「優しさ」を目で見たことはない。でも当たり前のようにその存在を認めて生きている。
ああ、また存在とは何かって話だ。概念は存在するのか?存在の定義は?

もう一点。宗教についてはまだまだ勉強する必要があるけれど、宗教というのは生きる上で必要だから生まれたものだと思う。数がそうだったように。
そして私もまた、生きて行く上で必要だから、これを考えている。

ロゴスとデジタル

弁解は止した。
男らしくないからである。


最近、ヨハネの福音書の最初の言葉、
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」
という言葉がなんだかひっかかっている。
このあとに続く文章を読めばわかるのだけど、ここでいう「ことば」とは「イエス・キリスト」を指していると解されている。なぜ筆者はイエス・キリストを「ことば」と表現したのか。(ギリシア語で「ロゴス」)
それは人間に真理を述べ伝える「ことば」としての存在を意味している、とか言われていると思うのだけど。
なんだかまだ悟りきれない、含蓄があるような気がして。
「ロゴス」の意味は、「言葉」「論理」「真理」の意とのこと(wikipedia)。
そして、訳者はその中で「ことば」という意味を選んだ。なぜか。

頭では一応つながるのだけど、まだ腹に落ちていない。もっと「ことば」ということについて考察を深めるべきなのかもしれない。私が思っている以上に、「ことば」というのは重大なものなのかもしれない。


あと、2進法のことを考えていて。
あ れって、0と1じゃなくてなんだか違う記号でやった方がいいんじゃなかろうか。ЖとЭとか。いやこれはロシア語の文字だけれども。0と1でやると、なんか わかりにくい。2があるじゃんとか思ってしまう。考え方としてはそもそも、2進法ってのは二個しか記号を使わなくて済むものなので、別に10進法の記号を 使わなくたって、というか、本来その記号ではなかったはずなのである。まあ、でも今2進法は0と1で統一されてるから仕方ないんだけど。16進法だってそ うだ。10進法の表記方法に則っているからすべてがFになっちゃったりして、何Fて、っていうミステリアスな感じになっちゃったりするのだ。
そもそも2進法とか16進法とかいう言葉だって10進法基準じゃないか。デジタルって呼べばいいんだ。
と、思ったり思わなかったり。
というのも私はn進法の類を習った当時、よくこんがらがっていた。数学は得意な方じゃなかったのだ。


今日は
Muno no hito/little tempo

スチールドラムにほころぶ。

草食とかいくつか

・単数と複数
本棚の本の背表紙を見ていて思ったのだけど、「こ ども」っていう言葉は字面的には複数だよなと思って。「子」「ども」だよなあと。でも一人でも「こども」だよなあと。「大人」の反対は「こども」というよ り「小人」じゃないかなあと。チケットとかってそうだよな。あ、古くは複数だったそうな(goo)。
あと、「友達」というのも、「友」「達」ということで、複数じゃないのかなあと。
多分同じことを考えてる人ってたくさんいて、言葉にしないことっていくつもあるよなあと。


・言語
こんなに国が近いのに、全然言葉が違うんだもんな、と韓国ドラマを眺めていて思う。
あと、家の近くによく鳥が来て、ものすごく喋っている。確かに喋っている。と思う。いろんな声色を使って、一羽が鳴き終わるともう一方の鳥がどこかからまた鳴いているのである。MOONと いうゲームで(また!)ヨシダさんという鳥が出てきて、鳥語でむっちゃ喋る(しかも関西弁で訳されている)んだけど、多分鳥も喋ってるんだろうと思う。 だって何かを伝える目的で鳴いてるわけだから。まあ単純な意味にしろ。で、鳥にも国を超えると言語が違うってことがあるのかしら、とか。


・草食
草 食男子という言葉が今流行りだけれども、草食女子ってのもたくさんいるんじゃないかと思う。そういえば、院に草食動物の会というのがあって、友人がそれの 一員だったらしい。言われると、ああ、草食だなと思った。恋愛についてというんじゃなく、物事についてなんだか草食っぽいのだ。というか、草食男子と言わ れる人々は、別に恋愛だけじゃなくいろんなことに草食気味なんじゃないのとか思う。

未来予想図

あれは深夜に書いたので、昨日にカウント。

今日は
車屋さん/美空ひばり

東京事変のもよいけど、やはりあの間のつかみどころのなさは、本家本元美空ひばりのなせるわざ。まじリスペクトもの。
あれは演歌にはいるのだろうか。

最近疑問に思っていることは、演歌が好きな人たちって昔から演歌が好きだったのか、もしくは年齢を重ねてだんだん好きになったのだろうか、ということ。仮説は最初から好きだった説なんだけど。

いわゆる団塊の世代はフォークとかね、グループサウンズとか好きだよね。

そして更に興味があるのは、今の若い人々が老人になったとき、老人はみんなロックとかポップスとかテクノとか聴いちゃったりするんだろうか。それとも演歌のよさに目覚めていく人たちも出てくるんだろうか。


あ と、服。おばちゃんたちって、おばちゃんたちらしい服を着ているけど、昔はそうじゃなかったはずで、ふわっとしたワンピースとか、きれい色のスカートと か、着てたと思うんだけど、だんだんこう柄物のもの、派手目のもの、もしくは地味なもの、とか推移していくんだろうなと思うんだけれど。あれは年相応にな らなきゃと思って着ているのか、もしくは好き好んで着ているんだろうか。
自分がね、ああいう格好をすると思えないんだよね。するのかな。するのかもなあ。

で、今の若い人たちが年をとったら、ていうか今も、例えば志村けんがAPEとか若い感じの格好してるのとか、若作りの人とかいるんだけど、そういう風になっていくのかなと。
iPodとか使いこなして、ヘッドフォンでテクノ聴いて、なんかかっこいいTシャツ着て、ジーンズはいて、やたらパソコン使えて、一眼レフ首から提げて、っていうおじいちゃんとか闊歩してたりするのかな。
と、思う今日この頃。

洗濯ばさみ考

洗濯ばさみ。
何か、衣服とか、お菓子の袋とか、写真とか何でも いいのだけど、何かを「はさむ」ために作られたそれは、はさむということに命を懸けて、完成された機能美をそのフォルムに宿している。その小さな体からは 「はさむ」という気概が満ちあふれ、自分の存在意義は「はさむ」ことなのだということをいたってクールに理解している。
上の部分と下の部分を金属の輪っか又はばねで結び付けられ、それらに手の力が加わることによってしかその均衡は破られない。手の力と反発する力でもって、彼の力を誇示しているのだ。

夜の洗濯ばさみの多くは、ベランダにさらされ、夜風にふかれ、整然と、もしくは雑然と、洗濯紐に止まっている。
zippoコロンと鳴らして。みたい。
洗 濯ばさみのフォルムに今一度思いを致す。無駄のない。アルファベットのAにすら見える。もしかしてこいつは洗濯ばさみであると同時にAなのか。その可能性 は十二分。「わたしはアルファでありオメガである」という言葉は勿論私の脳裏から引き出されて、もしかしてAでありZだったりもするのか?と、解体した姿 を思い浮かべるも、どうもZにはなりそうにない。邪道だが2つでどうだ。2つかませるとZに見えなくもない。
つまり、こいつは、洗濯ばさみでありAでありZだったのだ。
洗濯ばさみ一つとってもいろんな面がある。メタファーとしての洗濯ばさみ。
洗濯ばさみに愛はある。彼ら同士で互いにかみつくとか、洗濯紐の上で寄り添うとか以外にも、洗濯ものの風にたなびくときの彼らの必死さといったら涙なしには語れない。それもラブ、これもラブ。

にしても、これは具体的被造物である。人の手による被造物である。彼の役割は「はさむこと」。または、こうして観察されること。欠けたり錆ついたりして愁いを誘うこと。なんだって、人は錆ついて使えなくなってしまったものを見ると悲しくなったりするんだろう。
仮説。同一視。人は何にでも自分を重ねかねない生き物である。我々は洗濯ばさみを擬人化したとたんに自身を無意識的に重ね合わせるのだ。

私が洗濯ばさみをもって思ったのは、こいつらの人生の目的があまりに明確で、こいつらの人生が大体において予想されるということ。
目 的は「はさむこと」。アイディアを出されて工場でつくられて、家とかで使われて、そのうちプラスチックがぱちんとはじけ折れ、もしくは錆ついて、捨てら れ、燃やすなり溶かすなりされて、新しい何かの構成の一部になったり、もしくは人工物以外のところへ帰っていくかもしれない。
こういう予想がだいたいできるのは、我々がそれを作った者であり、使いながら見ている者だからである。
彼らにはもちろん知らされていない。知らせる手段すらない。知らせなくてもいいと思っている。というのは、自らの意思でそれを変えてやろうなんて自由な意思や自由な行動が物理的にできないからだ。

そしてもう一つレベルを上げて見てみる。
人は被造物である。私たちを造った者がいるならば、目的も、人生の行く末もわかるんじゃないだろうか。私たちには洗濯ばさみのように簡単な「はさむ」というものではないにしろ、目的や用途というのがあって、創造主は人生のいろいろを知っているのではないか。
私 の用途は何なのだろうと、ずっと考えてきた。創造者よ教えてくださいと祈ってきた。もしそのようにすべきなのであれば、私はそのようにする。それは正し く、適した道だからだ。洗濯ばさみはハンガーにはなれない。跡をつけずには干せない。釘にも吊るせない。それは洗濯ばさみとハンガーの目的が違うからだ。 そして、ハンガーの役割をしようとした洗濯ばさみには苦労と疲弊と諦めが見える。私はエンジニアにはなれないし、どこかの大統領にもなれないし、兵士にも なれないということだ。いや、違うな。私は尊敬するあの人たちにはなれないのだ。というか、どんな別の人にもなれない。
ここで、洗濯ばさみとハンガーでは形が違うが、人間はほぼ同じ形をしている、他の人間にもできることはできるんじゃないか。という疑問。
そこ。人間はハンガーや洗濯ばさみではない。それよりもっと複雑だ。目的だって人生だって複雑なのだ。人知を超えているということを認めた方がいい。

何かしらの理由のもとに、いくつかの目的をもって創造され、いくつかのミッションを知らないうちにこなしながら生きていって、死ぬことでまた大きなミッションを終えていくのではないか。
という感想。

これ、MoonてPSのゲームに似ている(playを強く強く勧める。めっちゃアートである。古いけど。某ニコニコにplay動画あり)。
主人公はいろいろな、いいこと又は影響を与えることをしながらラブを経験値として得、レベルアップしていくのだ。例えば失敗ばかりの花火職人に花火玉を作ってあげて、感謝されてラブをもらい、偏屈なおじいさんに夜じょんがら節を聴かせてあげて怒られてラブをもらい。
これってば日常生活でやってるような割と些細なことが相手に影響を与えていたりすることと似ていて。

その一つ一つの総体が生きている目的なのではないか。真面目な話。
今 日友達にメールした、とか、家族にお茶淹れてあげた、とか、上腕二等筋が強くなった、とか、服屋の店員さんと仲良くなった、とか、目を合わせて挨拶をし た、とか。もちろん、仕事で世に情報を発信したとか、だれかの問題が解決してその人の気持ちが軽くなった、とかも。つねに目的は転がっているというか。目 的を一語で表すなんてことは無理だと思っているし、特に実益もないと思っている。どうせ抽象化されてわかりにくくなるだけだ。

何にでも理由はある、と頻出の友人の言葉。
何にでも理由はあるのだ、多分。それを知れるかどうかはまた別の話。


私はキリスト教を信じることにきめたけれど、神の計画を知っているかと言われたら全然知らない。目の前のこと、少しずつしか教えてくれないものだ。「明日のことは明日が心配します。」
どうしてこんなことになっているのですか、と聞いても、すぐにはわからない。3年くらいして、ああ、あのときあれがあったのはこういうことだったのか、っていう類の理解である。よくよく、考えればいくつもそういうのってある。伏線多すぎるのである。
忘却の生き物であることがたまにくやしいわけだが、過去に嬉しかったり悲しかったりすることとか、本当に些細な、にこやかに挨拶をしたというそれだけなんかまでが今につながっていて、結局すべてがO.K.になってるのだ。


こういうのに気づく度、信じたくなる。それに、そう考えること、つながりを発見することは楽しいではないか。
あ のときこれがなかったら、というのは何故か「人生に、もし、はない」とか(これは本来、「~だったらよかったのに」というネガティブ思考を排除する趣旨の 言葉だと思うのだけど)、「そんなの単なる偶然だよ」とか言われて、思考停止させられる。そんなことまでいちいち考えてられないよ、と。

少し脱線するが、私はどうもこの偶然というものがわからないのだ、偶然のもつニュアンスが。
偶然だった、というのは人間が意図せずしてという意味だと思うのだけど、この文脈では、物事を軽んじるときに使われる気がする。
でも、人が意図していなくたって、物事というのは起こるべくして起こる。物事は事実の膨大な積み重ねの上に成り立っている。ちょっと考えればわかることだ。
世界は一分の隙もなく、ものすごく膨大な数の出来事や言葉や時間や物質的何かやありとあらゆるもので構成されていてかつそれがものすごく流動的なのに、齟齬が全く生じないのだ。世界が空恐ろしくなる。奇跡的に、つじつまが合っている。


信じることもできるし信じないこともできる。無論、あなたの自由だ。
「人間は自由の刑に処せられている」と言ったのはサルトルらしい。得たり。

useful days

熊本にいる友人からメールがあった。
まあ、最近どうよ的なものだったけれど、私はもはや「熊本」という字を見ると「くまぽん」としか読めなくなってしまっているので、就職どうするのみたいな話をしながら「くまぽん・・・」と思っていたわけだが。(参考:不思議の国のニポン3/3
いくらか友人の今後について聞いて、そっちはどうよと振られたけど、私は語るべき何をももっていなかったため、「ぼちぼちですよ」と返し、それで全くすんなりといった。


私たちが使う言葉の中には、こう、困った時はこれを言っとけみたいな便利な言葉というのがあって。
「ぼちぼち」というのは全くその部類に入ると思う。だいたい、なんだ「ぼちぼち」って、といつも思う。なんだかいろいろあるけど、まあいちいち言うほどのこともなく、ひっくるめて、概ね問題なく、やってますよ、という意味だろうか。多分。

類似する語で、「普通に」というのもある。これは別に困ってない時でも使うけど、大分便利である。これはすごくスムーズに口に出てくる言葉なのだけど、大学の先生には「普通じゃないってどんなだ」とよく言われていた、皆。

これらは、それ以上立ち入って聞くことを少し相手に遠慮させてしまう効用をもっている。けどまあ聞かれても特に問題ない場合がほとんどである。単に特に話すべきこともないから言っているだけだ。


そ してこれは友人のブログでも前に指摘があったけれど、「個人的な意見」。これは、個人的な見解で、他のとこに責任ないからね、みたいな意味だろうけれど、 これをつけると大きなことを言っても一個人の単なる思いの表明、つまりは個人の思想・表現の自由に結びつき、それは私の価値観だから、ということで他人に 手出しのできない領域へ引き込むことができるのではないか。ないか。


あと、「アートだね」。これはよく使ってしまう。なんか個性 的で、なんか新しくて、いいところもあるんだけど新しいがために言葉で表現しきれなくて、というか言葉で表現できちゃうとなんか違う気もして、とりあえず なにか言わなきゃ、という時に使う。少し皮肉を言うときにも使うけど。
たとえば永い人の字があまりにひょろひょろの味のある字で、私はきれいとは 言えないその字をしかしなんだか気に入ってしまって、「アートですね!」と言って、院時代の名札の裏に書いてもらったことがある。それで、ロッカーの上に 忘れた名札が永い人のものだと思われてしまったこともある。(院では、双方向授業すなわちソクラテスメソッド、つまり教師と生徒がやりとりをしながら授業 を進めるということになっていて、名前がわからないと不便だということで、学生は皆名札を机の前に出すことが義務付けられていた)

江國香織の「ホテルカクタス」で、帽子の部屋に数字の2が行ったとき、「文学的ですね」と言い、帽子が「わかるかね」みたいな受け答えをする場面があるのだけど、そのとき2にとってはよくわからないものはみな「文学的」なのだ、という解説があって。これと似ている。
あとは「新しいね」「個性的だね」「とんがってるね」あたりも似たような感じだろうか。


今日は
ROCK AND ROLL HIGH SCHOOL/pre-school

これもなつい。皆解散しちゃって。

2月の諸々

雑記。まとめる努力をしないもの。

・方言
18年くらい沖縄に住んでいたけど、方言はあまり使わなかった。が、祖母と暮らすようになった今、いろいろ聞ける。
にへーでーびる、とか、めんそーれ、なんかはこう、観光客の人にも馴染みのある言葉だし、でーじ、とか、あきさみよー、とかは我々の年代でもよく知ってる言葉で。

でも、「けーぶー」というのは最近知った。「けー」というのは食うという意味、「ぶー」というのは福、食べることに福がある人、つまり食いっぱぐれないというか、ちょうど食べ物があるときに「こんにちはー」と言って訪ねてくるような人のことを言うらしい。
そして、父が本当にタイミングよく夕食のできたころに帰ってきたり、二階から下りてきたりするために、使う。

あと、「ゆんぢち」というのも。これは旧暦の話で、閏月のことだ。旧暦だとなんか33ヶ月に1ヶ月くらい足りなくなるらしく、二回同じ月、つまり2月が二回、みたいになるらしいのだ。いや知らなかった。1ヶ月も足りないの、って感じである。

沖縄では何かと旧暦のイベントがあって、正月も新暦の正月もやれば旧暦の正月もあるし、その上旧暦上で1月16日が祖先の正月みたいなものらしくて(今年は2月10日だった)その日もなんか道が混む。前に書いた清明(しーみー)も旧暦のイベントだ。
うちではそんなにちゃんとやらないけど、祖母は昔の人なので、そわそわする。


・好きな音
JUDY AND MARYというバンドがあったが、その「ラッキープール」の前奏部分が好きだった。前奏部分のみといってもいい。
あと、くるりの「屏風浦」のギター部分と、
コーネリアスの「toner」の中ほどから現れるぴたぴたした音と、
Digitalismの「POGO」全体的に、
LAVAの「Fascinio Gladston Galliza」の最初のドラムぽいような金属の板をべこべこ鳴らしてる感じの音と、
m-floの「Planet Shining」の「intro」の最初の音(機内のお知らせ的な)と、
「THE REPLACEMENT PERCUSSIONISTS」の「Deep Within Audiomusica No12 [Edit]by Sunaga t’ Experience」の前奏と、
Massive Attackの「Protection」のなにあれ的な音と、
Montaの「Blizzard」のなんだいあれは、オーボエ?みたいな音と、
Oscar Petersonの「Fly me to the moon」の最初の和音と、
Polarisの「はじまるまえのしずかなとき」の全体と、
Radioheadの「KID A」の「Everything In Its Right Place」の最初の音と「KID A」のパタパタした音と、
Rei Harakamiの・・・
というかあまりに用語を知らないのでだめだ。

要するに、ピアノとアコースティックギターとバイオリンとなんかぴたぴたした音が好きらしい。
ピアノはなんだかストレートだし、アコースティックなギターは趣があるし(あとギィっていう音がいい。あれなんて言うんだろう)バイオリンはぐっと豊かになる。めくるめく世界。
ぴたぴた音にも程度はあるんだけど、かわいい電子音からごついのまで好きらしい。fit感がなんかいいのだ。ハラカミおじさんに聞き入るのも、テルアビブに電話してしまうのもそのせいだ(いやしないけど)。

June 27, 2009

木も河も

きもい、という言葉が褒め言葉である件について。
何にせよそんなにいい言葉ではない、多分。以下頻出するが気分を悪くされないようお願いしたい。

この言葉というのは、ご存知の通り「気持ち悪い」の略語として誕生したのであるが、ただ少しニュアンスが変わってきているなという印象。
でも相変わらず、「きもい」と言われたら、ええ、気持ち悪いの、とショックを受ける層もあるだろうし、というかそっちの方が多数派なのかもしれない。関東と関西で「馬鹿」という言葉の意味が異なるのと似ている。関西ではショックが大きいというよく聞く話。
私 とかは妹とかが使うので慣れた。ていうか私自身たまに言われるので慣れた。言われてわかるのは、あの言葉って結構軽いのだ。あいつら結構気軽に使うのだ。 たとえば数学とか教えていて、姉ちゃんすげーみたいな言葉のあとに「きもい」とか言うのだ。傷ついた、と言えばごめんそうじゃなくて、となる。そういう用 法らしい。

その、少しニュアンスが変わってきてるなと思ったのは、やはり「きもかわいい」という言葉の出現による。きもいけど、かわいい。むしろきもいところがかわいい。つまりはきもいということが一つの個性として認められ、それがなんとなく可愛くみえてきた、そんな感性。

一 般にどう使われているかサンプルとったわけではないので、もう主観甚だしいけれども。私が、おおきもいな、と思う時は大抵「すごいな」のニュアンスを含ん でいる。なんかすごすぎて、それが最早きもいのである。のめり込み過ぎている人、とか、才能が突出している人、とかいうのは、なんかよくわかんないけどす ごすぎるわ、という意味で、人間離れしている、という意味で、きもいのである。気持ち悪いくらいすごいね、という意味で使っている。勿論私はそういう人た ちが大好きである。

勿論、本来の、「気持ち悪い」という意味での用法も生きているとは思うのだが、そもそもそんな意味で使うのは私の趣味ではなくて、大体上述のようなニュアンスで使っている。
そもそもね、そんなこといったら人間なんてみんなきもいのである。

で、小林賢太郎がきもかっこいいというのはそういうこと。なんかすごい。すごくてきもい。きもいところがかっこいい。


余談。
昔、かわいいという言葉がかっこいいという言葉よりもプラスのニュアンスを含んでいるという説を唱えたことがあって。若手弁護士の人たちと飲んだ時にそれを言ったらそれ少数説でしょ、読まなくていい説でしょ、と予備校ライクなことを言われたわけだが、私の中では根強い。
かわいいは愛の対象で、かっこいいは恋の対象である人に使われるのではなかろうかという仮説。異性について使う時。
そ もそも、ずっとかっこいい人なんていないわけで。絶対かっこわるいところがあって。しかし、かっこわるいというのはかっこいいとは相反するけれども、かわ いいには内包されたりもするわけで。だってきもいところがかわいくもなるわけだから、このかわいいという概念はものすごく広い。懐が深い。
つま り、かっこいいの方が確かに希少性はあるんだけれども、かわいいの方が真理であって愛なのだと思う。そしてかっこいいというのは慣れるとあんまりかっこよ くなくなる気がする。(ただ、その一過性のかっこいいを追求していくのもまたよい。かっこいいものもそれはそれで好きである。)

女子高生の使う「かわいい」が話題になったことがあったけれども、私はそれを是としたい。べつに山がかわいくてもパプリカがかわいくてもなんでもいいけど、それはいい感性だと思う。荒んでいない。豊かにすら感じる。

私と妹は、古田新太が押し入れで泣いている姿を、強烈にかわいいと思った。心打たれた。あのおじさんの武器はそこである。おじさんなのにかわいい。おじさんだからかわいい。長州小力にも同じことが言えよう。賛否両論あるのは承知している。あくまで私の感性で。


というなにがしかの主張を縷々。
結局のところ、言いたかったのは、誤解しないでくれということだ。

小林賢太郎テレビ

先日、NHKのBS-hiで「小林賢太郎テレビ」というのがあった。

小林賢太郎といえば、ラーメンズの脳というか、片桐仁と共に時代を先ゆくアーティスティックな笑いのプレゼンターであるが、妹がこの人を「小林さん」と呼んで非常に敬愛している。たまに「コバケン」と言う。私は「ケンコバ」と間違える。ので、小林さんでお願いしている。

かく言う私も高校生の頃継続して見ていたテレビ番組は「爆笑オンエアバトル」のみで、あの時代の新人お笑い芸人はまあまあ把握しているのだが、ラーメンズは異色で、知的だった。なのにラーメンズって、と思っていた。
基 本的にオンエアバトルというのは観客の投票により上位5組のみがオンエアされるがそれ以外は脱落する、というシステムの番組で、ほとんど東京で収録されて いるのだけど、たまに地方収録がある。それで、東京での収録だとラーメンズは通るのだけど、大阪とかだと難しい。そういう類の笑いである。某tubeには いろいろある。是非観ていただきたい。もしかしたらお笑いの中でいちばん好きなコンビである。「日本の形」シリーズとか「金部」とか「日本語学校アメリカ 編」とか「たかしと父さん(オンバトver.)」とかいい。


最近はとんとテレビには出ず、たまにCMに出るくらいのもので、大体活動は公演形式らしい。友人に「FLAT」と「雀」という公演はDVDを貸してもらって見た。
公演は基本的にラーメンズファンしか来てないので、雰囲気がいい。


それで、小林賢太郎テレビ、というのがやっていた。一昨日かな。
基本的にはテレビ用に作ったコント集の合間にインタビュー、仕事風景。この人の仕事場はすごくいい。黒板がある。糸鋸とかもある。
私はあの手の計算されたことが好きで、たとえばピタゴラ装置なんかにすごく感動してしまうタイプの人間で。それでなかなかよかったという話。
妹なんかは「かっこいい」「すごい」「きもい」を、コント以外のインタビューのところでも発していた。そう、彼はきもかっこいい、と思う。この場合、きもいは褒め言葉である。

「0から1は無理ですけど、0から0.1ならなんとか作れるんですよ。それを10かい繰り返せばいいっていう」
「もともと人を笑わせるタイプじゃなかった人が、一生懸命考えて作ってる」
「できたぁー」

で、再放送が22日(日)17時~。
よろしければ是非。

外見について

2月12日(木)のほぼ日「今日のダーリン」で、こんなのがあった。
以下引用。

--------------------------------
静かに「あさりなっとうしめじスパゲティ」などを
食べているときのことでした。
ふと、ずっと長い間ショートヘアの家人が、
長い髪の女になったらどうなんだろうと思いまして。

他人のようにさえ思えるかもしれない。
本人にしても、ロングヘアになって暮らすのは、
人生やりなおしという感じなのではないか。

(中略)

女性が「髪の短い女」として生きていくか、
「髪の長い女」として生きていくかというのは、
かなりの、大きな分岐点になるのではないでしょうか。
それとも、長くしたり短くしたり、どっちでもいいのか?
--------------------------------

私は絶対長くする、という人も、いや短い方が性にあってる、という人もいるのであろうけど、わたしは、おそらく、どっちでもいいんだと思う。
短い方が似合っていると思うけど、彼氏がのばせと言ったらのばしていたし、美容師さんがこの長さにしたいなぁと言えば、じゃあそれで、となることもある。
まあ短い方がいいな。じゃまじゃない。顔とか身長にもその方が合っているとは思う。

糸井さんの奥さんは樋口可南子さんだから、なんだかずっと髪の短い人、というイメージがあるけれど、髪型というのは結構変わる人も多い気がする、女性の場合。
でもまあある年齢を超えると、大体固まってくる気はたしかにする。


妹は高校生の半ばからアメリカに留学していたのだが、そこの学校がミッション系のなかなかに保守的なところで、いろいろ変わった校則があった。デートは立会人を入れて3人ですることとか、女性はロングスカートでなければならないとか、肘より長い丈の上着を着ることとか。
その中で、女性は髪を切ってはいけない、というのがあった。
聖書に切るなと書いてあるわけではないのだけど、長い髪は女の誉れ、みたいな箇所があるのだそうだ。その当時髪の短い女性は遊女だったという歴史もあるらしい。

それで彼女は郷に従い、髪を長く伸ばしていた。ものすごく、大変そうだった。好むと好まざるとにかかわらず、そんな場合もあるのだ。


確 かに、年齢を重ねるごとにだんだん固定化していく気はして。髪の長い女として生きるのか、短い女として生きるのかは、どこかの時点で分かれていて、長い方 の人に共通することと、短い方の人に共通することというのはあるのかもしれない。あるのかもしれないけれど、髪のいいところは切っても伸びるということ、 取り返しがつく(少なくとも一生そのままではない)ということなのだから、まあどちらも選べるし、結局決めなくてもいい。

糸井さんの奥さんは、「そんなでもないんじゃない?」と言ったそうな。


外見に関して、こういう風にいこう、と決めることというのがあるかというと、あるとも思えるし特にない気もする。
芸 能人というのは、キャラクターを立たせることが必要だから、やっぱりあるんだろうなと思うけれど、普通に生活している人たちというのは、どちらかといえば 会う相手だとかTPOだとか、そういうのに合わせるものじゃないかしら。ズボンだってスカートだってそれなりに適切にはくんじゃないかしら。ジャケット だってパーカーだって、ブーツだってスニーカーだって。

いや、そういうことじゃなくて、もしや割合の問題か。それかTPOに制約条件がないときの話か。
ファッション雑誌とかにはタイプ別で着回し例が載っている。大抵クールとフェミニンとか、大人系と可愛い系とか、外回り系と内勤系とかだ。それか?最後のはなんか違うな。

確かに、自分の外見をコントロールするというのは、興味深いことかもしれない。それを決める時って、自分の好みや性格なんかの内面をよく見て、自分に合っているか確かめて、自分をよりよく表現する手段を選んでいるのかもしれない。
現代の日本においては、おそらく大体の人が服を買える状況にあるのだから、積極性の程度はあるにしろ、こう見てくれ、という他者に向けた表示ではある。服に気を遣っていないという人も、積極的ではないにしろ、服に気を遣っていない自分を表示している。

そ して、AS ISとTO BEじゃないけれど、そうである自分を表現するときと、ありたい・あるべき自分を表現するときがある気がする。卑近すぎて恐縮な自身の例で言えば、グレー のパーカーを羽織っているときはAS ISで、黒のストライプのジャケットを羽織っているときはTO BEな感じがする。また背のびの話だ。
ありたい・あるべき自分ばかりを表現している人もいれば、あるがままの自分を表現し続けてる人もあるだろう。志向性の違い。

時があること。好むものとわかること。

以前にも書いたけれども、聖書にこんな文句がある。

「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。」
(伝道者の書3章1節)


時があるのだよなぁと思う。皆そう思っている。

少し話は違うのかもしれないが、植物をすごくいとおしいと思う時期がある。その中でも、特に花が好きな時期もあれば、木が好きな時期もある。かといって、植物に興味を示さなくなる時もある。

空が好きな時期もある。雲を見ていたら2時間経っていたなんてこともある。かといって、毎日空や雲ばかり見たい日というわけでもない。

音 楽にもそんな風なものがある。椎名林檎なんかをじっくり聞いて感嘆する時期もあれば、五月蝿く思ってハラカミおじさんのかわいらしさにノスタルジックな日 もあるし、それをまたつまらなく感じてハルカリの身の丈感にすっきりする時もあれば、少し疲れてジャズが染み入る時もあり。


好むものはある程度決まっているのだけど(つまりなんでも良いわけではないのだけど)、こんな風に好きなものが変わる、というのは、つまり気分が変わっているのだろうと思う。
そして個人差はあるけれども、ある一定の対応があり得る気がする。
つまり、アンビエントを好む時の気分というのは、あまり元気ではない気がする。少なくとも落ち着いている。落ち着いちゃっている。
テクノを聴ける時というのは、心に余裕のある時だとも思う。
しっとりしたジャズを本当にいいなあと思う時というのは、少し疲れている気がする。大人がジャズを好むのは、ちょっと疲れているからではないだろうか。いや、ジャズはそんなのばっかりではないんだけれども。

植物も空も、すごく感動的に見えるときというのは、何か悲しい気分だったりとか、何かに追われていたのを我に返る時だったりとか、する。

いや、超個人的感想だな。
なんだか落ち着いちゃっているし、アンニュイだし、少し悲しいここ最近の自分のデフォルトが出ているというだけの話かもしれん。
たとえば昔ジャズをおとなしく聴けなかったのは、単に疲れていなかっただけなのかもしれない、とかは思う。


それで、時があるという話。
何かをわかるのに時がある。
わ かりたいと思って努力しても、わからない時はわからないものだったりする。物事には順序があるし、何かをわかるには経験が必要で、それらが全部そろった時 に腹落ちするというものだ。最近では「信じる」ということがそうだった。「自分」というのもだんだんわかってきた(一般的な「自分」ではなくて、ごく個人 的な「自分」について)。

私たちはいろんなことをいつもわかりたいけれど、そしていろんなものを集めてはつなげたりするのだけど、結局、自分という人間に深く関わっている何かの経験でしか腹には落とし込めない。
と、こういうことを考えていると、「こころ」から引用した、先生と私とのやりとりが少し興味深いのである(3番目の引用)。
その思想を生み出した先生の過去とセットで知りたいのだ、という話。
自身の過去というのはあまり明け透けにはできないもので、なぜかといえば、それはなんとはなしに恥ずかしいからであり、たとえばその過去を話すことによりその抽象化したあるいは抽出した思想が陳腐化するということを恐れるからかもしれない。

サ イトでもメールでも口頭でも関係なく、何か自分の体験を話すというのは、ある程度コミットしていないと話せないと思う。何かの考えを話すことよりも。何か の考えの元になるような体験であればこそ、そうなる。緑茶を飲むようになった経緯だとか、ジャズを聴くようになった経緯とかは全然問題なく話せる。信じる ことを考えるに至った経緯の方が話しにくい。
汎用性が低くて相手の役には立たないだろうと思うのか、身の上話みたいになってしまうのが嫌なのか、個人的すぎて恥ずかしいのか。大体において、そういう考えを深めるようなインパクトのある体験というのは何かしら(本人にとって)深刻な面をもっているのかもしれない。


そんなこんなで時がある。
私も随分変わった気がする。昔のブログの記事を読んでいると、少しそう思う。
それで、最近演歌いいなあと思っているという話。

光も影も「さす」こととか

努力は「実る」
恋には「落ちる」
愛は「育む」
音楽は「流れる」 
心は「はずむ」し、「踊る」
耳は「澄ます」

言葉というものは元々は表現であるけれども、私たちは言葉に慣れて、反射的に、音楽は流れるものとして使っている。
慣用句としてすら挙げられなくなってしまっているものは意外に多いのではないか。とか思ったこと。

詩や小説を書く人達は、こういう何かと動詞、あるいは形容詞、つまり何かと何かの組み合わせを一つ比喩でも作るように組み合わせて、新しい表現を、しっくりくる組み合わせを探しているように見える。
たとえば江國香織は、ひっそりした横顔、たっぷりとしたコーヒーカップ、を発見し、目をほどいて笑ったり、くっきりと笑ったりする女の人を描いた。

さて、いい土曜日。
コーヒーでも飲みに。

背のびのこと

ちょっと前まで、結構背のびをしていたなぁと思う。
多分これからもするだろう。

たとえばジャズは、私にとって背のびだった。
今 は、詳しくはないにせよジャズいいなぁと思えるようになったけれど、初めて聴いたときは、聴きどころがいまいちわからなくて。つまりポップスやロックやク ラシックなんかは慣れているから、多分自然と聴くポイントというのが自分なりにあったのだと思う、たとえば声がいいなとか、バイオリンの流れるような音が いいとか、まあいまいち表現しにくいけれど。

ところがジャズときたら私の幼少期には触れたこともない音楽で。別に父も母もジャズを聴かないし、友人だって聴かないし、ジャズの流れる店にもいかないし。
私 の場合はEGO-WRAPPIN'が入口だった、今にして思えば。あれは格好良かったし、割にすんなり来た。ポップスぽくもありボサノヴァぽくもありロッ クな感じもあり、なんというか、まさにジャズへの入り口的な音楽だと思う。ジャズとカテゴライズされるかどうかはよくわからないけど。

ともあれ、ジャズっていうのは敷居が高いと思う。イメージがそもそも、「大人」「バー」「気障」「おっさん」「黒人」「お洒落」「ウイスキー」とかそのへんだ。

大学2年くらいのときに、同じサークルに一人でバーに飲みに行っちゃう文学部の女の子がいた。
彼 女ともう一人服ばかり高いことでサークルでは有名な先輩とで「Nの会」というのを結成していたのだが(単にN響の定期公演を年間チケット買って毎月聴きに 行き、帰りにご飯を食べるだけの会。学生だと席は遠いが一回1000円くらいで聴けてしまう。ABCの三つのコースみたいのがあって、Bだけサントリー ホールでなんか豪華だがACはNHKホールで指揮もだいたいデュポワさんとかで、しかしBはいっぱいだったため断念した。)、その女の子にN響帰りに貸さ れたのがオスカー・ピーターソンの「愛とバラの日々」で。
若かった私は、「Fly me to the moon」くらいしか聞かずに返してしまった(今でもこの曲は大分好き)。
しかし後々良さがわかる。かくしてジャズといえばオスカー・ピーターソン、ジャズといえばピアノになった。


もう一つ背のびをしたのが院時代で、これも年上の友人から、これ!というジャズの名曲ばかりをいくつか教えてもらい、聴いた。
院に入ってから、ジャズのかかる店に連れて行かれたりすることが少し増えて、なじめるようになったのかもしれない。この頃から好んでジャズを聴く。

それからジャズ喫茶にいくつか行き、結局中野新橋の「ジニアス」でゆっくりジャズを聴くことに背のびなしで幸福を見出すようになった。

生演奏で印象的だったのは、自分では絶対行けない、パークハイアットのバーだった。田舎娘に都会の洗練された素晴らしい場所を教えたいという物好きな友人のご厚意にあずかったのだった。


いくつか背のびをテーマに書こうと思ったらジャズ回想録になってしまい。

でも背のびをしてるなぁと思っていても、背のびをしていれば後々その背丈にはなれるのであって、たとえば数年前に背のびをしていなければ今その背丈にあるかはわからないなとか思う。
ということで背のびは推奨。

F1の好さについて

F1が好きだった時期がある。一時期は2誌買っていた。
今も好きは好きだが、深夜起きて見るほどではなくなってしまった。


F1のどこがいいかというと、一つには格好いいということ。
車だとかドライビングテクニックだとかヘルメットだとかチームワークだとか、そういうわかりやすい格好よさがある。


そして、戦略。
事前のテストでの情報収集とか、車体をそのコースにあわせてカスタマイズしたりとか。コーナーが多いとダウンフォースを得るために空気抵抗を大きくするとか。ここは詳しくなれなかった。
タ イヤはもうブリヂストンのワンメイクになってしまったけど、見始めた2005年当時はまだミシュランが参戦していて、どっちのタイヤメーカーを使っている のか、どっちのタイヤ戦略がいいのか、ソフトとハードどちらをどのタイミングで使うのか。これが周回を重ねるごとに微妙なタイム差になって結果へつながっ ていく。
ピット戦略も。どのタイミングで、どれだけ燃料を補給するのか、ドライバーごとに変えるのか。ここはミスの出やすいところでもあって、折角ドライバーが稼いだタイムをピットクルーのミスで失ってしまったりとかする。


そして勿論レース展開。
最初のポジショニング、最初のコーナーでの順位。そこで無理をするとクラッシュしたり、ペナルティを課されたりする。
基本的に、F1は皆がチェッカーを受けるということはほとんどない。ひどい時は最初で3台とかいなくなる。そして途中でクラッシュしたりエンジンから火が出たりして1,2台いなくなる。
破 片がコース上に散らばったりすると、それを踏んだ車がパンクするのでセーフティーカーというのが入る。これが入ると追い越し禁止になって、セーフティー カーはゆっくり走るのでその後に連なってタイヤを冷やさないように摩擦をかけながら皆破片が掃除されるのを待つ。ここで稼いでいた後続とのタイム差をチャ ラにされたりする。この隙にピットインする車もある。
そして、オーバーテイク、追い越し。
2006年だったかモナコでミハエルがごぼう抜きをして最下位から2位まで上がり、アロンソと激闘を繰り広げたことがあった。


レースを見るにあたっては、やはり贔屓のチームやドライバーがいた方が断然愉しい。

私はスペイン出身のフェルナンド・アロンソだ。2005年にルノーで当時最年少ワールドチャンピオン、2006年も連覇した。ちょうどミハエル・シューマッハの引退がささやかれていた時期で、この二人の闘いに象徴される世代交代、というのは一つのテーマだった。
2007年にはマクラーレンに移籍し、ロン・デニスの秘蔵っ子と言われたルイス・ハミルトンとチームメイトになるも、このハミルトンとの仲が悪くて大変で、結局この年はライコネンに持ってかれた。ハミルトンはいいドライバーだが、良くも悪くも若い。
2008年はまたルノーに戻り、建て直し。私が偶然見た2つのGPに限って優勝してくれて、ついmixiに日記を書いてしまう事件。

アロンソのいいところは、強いところだ。冷静で、ぶれない。そしてフェア。汚いことをしない。無駄なことを言わない。あと、喜び方がかわいい。
あと、ミハエルファンにすごい攻撃されてたところ。右京とか。頑張れ!って思った。
余談だが、同じスペインのラファエル・ナダル(テニス)も好きだ。アロンソと同じ匂いがする。

F1はフジテレビ系でやっている。3月29日(日)のオーストラリアGPから。
是非。

信じること

最近、信じるということについて考える。
その契機というのは宗教であり、「こころ」であり、自身の行く末について思いを馳せることである。
「スタンスについて」という最近のエントリは、信じるということを意識している、実は。あれは相当に言葉足らずなエントリで正確さには大分欠けるのだが、とりあえず言いきってみたかった。

こうしてブログをやっていて、何かについていろいろと考えたりするけれども、結構生きる上でコアになる素材はたくさんある。信じるというのも一つ、大きなものだと思う。
「信じる」という動詞がある、ということがなんとなくすごい。


特に何かトラウマ的なものが思い当たるわけではないが、信じるということがどうも苦手だった。臆病なのだった。何かを信じて、でも本当はそうじゃなかったらどうしよう、と思うのだった。
私がどっちつかずのスタンスをとるようにしていたのも、できるだけ自分の納得したものを選びたいという気持ちと共に、どちらに転んでも振れ幅が少なくて済む、つまりショックを最小限に抑えるためのリスクヘッジだった、ともいえる。

以前、君には自信と覚悟が足りない、と言われたことがある。
これはそこと繋がっていると思う。
自 信は自分の考え方が正しい、自分に価値がある、という自分に対する信頼だし、覚悟というのはたとえそうでなかったとしても(たとえそうでないとの評価を人 から受けたとしても)そのショックを受けとめること、責任をとること、又は自分の考えでよいと居直れること、だと思う。


スタンスを決める、信じるためには根拠が必要だと思っていた。信じるための根拠を、そして信じられない根拠を、探していた。
しかし信じられない根拠はいくらでも出てくるし、結局信じられない根拠を克服しない限り信じることができなくて、それってば結局信じないことに縛られているのではないかと気づいて。なんだか立証責任の話に似ているけど。

人が何かを信じるとき、というのは、根拠はほとんど効果をもっていないなと思う。
目をつぶって飛び込むことなんだなと。


でも、そんなに大げさに決意することではないのかもしれなくて。
私たちは常に些細な何かを信じながら生きているよなと思って。
信号が赤ならあの車は発進しないだろう、とか。天気予報で晴れだっていうなら晴れなんだろう、とか。メールでこの日時に会議って言ってたからあの人は来るだろう、とか。スーパーの営業時間は21時までって書いてあったからまだ開いてるだろう、とか。
目をつぶって飛び込んでいるわけではなくても、小さく信じながら軽いステップで実は生きていて。
勿論、それらの信頼が裏切られることはあって。でもそんなに裏切られた!みたいなのはなくて。晴れっつってたのに、でもまあ傘買うか、みたいな。
そういう軽い感じで信じられたらいいよなぁ、と思う。

茶の緑

私も祖母も、一人暮らしをしていたのを引き払って実家で一緒に住むようになったので、うちには家電とか調理器具とかがかぶってある。
オーブンレンジは3つある。ついでにオーブントースターもあって機能がかぶっている。
炊飯器は2つ。ポットも2つ。
でも意外とあればあったで使う。
泡立て器とかおたまとか、計量カップとかボウルとかも2つから5つくらいある。


部屋が2階で階下に降りるのが手間なので、ポットと急須を部屋に持ち込んでいる。ちなみに急須は4つある。
不 思議なことに、実家のやつの方が新しくても、自分が使っていたものの方がいい。いわゆる愛着というやつだ。東京で買った急須は耐熱ガラスでできていて、茶 の色がきれいに見えていい。本当は小さめのガラスの華奢なマグカップもあったのだけど、なにせ華奢ゆえにいつか割ってしまった。

我が家で はいわゆるお茶を飲むという習慣がなかったので、急須は滅多に仕事をしなかった。麦茶は冷蔵庫に冷えていたけど、それはあくまで麦茶だ。紅茶もお客様が来 たときだけだった、気がする。両親は珈琲派だ。かくして、両親それぞれの好きなミルクと砂糖の量を心得た小学生の私は珈琲を淹れる係になったのだった(思 えば結局コーヒーメーカーの普及した今日でも私が珈琲の係だ。自分は飲まないのに)。


緑茶をいつ頃から飲むようになっただろうかと考える。
東 京で初めにお付き合いした人が緑茶を好み、なんだか粉末の緑茶を持っていた。抹茶か。それもまた、縁のないものであった。彼はポットを買った方がいい、と アドバイスした。ポットもまた縁のないものであった。ポットを買わず、お湯すらミルクパンで沸かしていた私に、結局彼は見かねてお下がりでやかんをくれ た。それでも当分緑茶は私の生活に介入しなかった。その間、折角のやかんはほぼ日の目を見なかった。
なんとなくある日羊羹を口にしたくなって(羊羹はじめ和菓子もまた実家では縁がなかった)、和菓子には緑茶だろうと勢い込んで、急須を買ったのだった。そういう人なのだった。



今日の沖縄はまさにシエスタ日和、EGO-WRAPPIN'。

静かめの曲が気分。
昼はBrian Enoの1/1
夜は某Sony君recommendsの、Evening Tone/Kenmochi Hidefumi
あたり。

傍らには緑茶。

優柔不断の謗りへ

そして気づけば四日が経っていて。
おお、「こころ」か、読んだ読んだ、と思ったりした。

何か書くことがあるかと、私は一応自分の胸の中を調べて見た。けれどもそこは案外に空虚であった。


そうそう、よく私は「どっちでもいい」と言ってしまう人間で、よくそれで怒られて、優柔不断だとなじられたりもするのだけど、糸井氏のコラム「食わず嫌いと、食ってみるか。」において擁護されていたので、そうそうそうなんだよ、と思ったりした。
以下引用。
----------------------------
「どっちでもいい」ってのは、
無関心だとか思われているけれど、
それだって、
「どっちでもいい」っていう概念に対しての
食わず嫌いだと思うよ。
たいへんに愛情に満ちた「どっちでもいい」ってのは、
あるよ! 
神田のとんかつやに行くと、いつもそうなるよ。
ロースかつ丼にするか、ロースかつ定食にするか、
ほんとに決めかねるんだよ、いつもさ。
ほんとに「どっちでもいい」んだよ。
熱く、言えるよ、「どっちでも・いい!」んだよ。」
------------------------
以上引用


結構、どっちでもいいことは多くて、それ自体は悪いことじゃあないと思っている。何より、どちらでも、よい、というのは楽。心の持ちようとして楽。ストレスフリーに生きていこう。

ただ、相手方に選択の手間をまずは投げている、というのはひとつあるので(勿論相手の好きな方があるのならそうした方が最善だと思うからなのだが)、難しいところ。結局譲り合いになってぐだぐだになるというのはよくある。

それにつけても「どっちでもいい」と言うことが不当に評価を受けている気がする。逆に、「どっちかじゃなきゃだめ」と主張するのは果たして良い評価を受けているかというとどうなのか。
Me,first!って感じに映りはしないか。
そしてそれは日本においては角が立つと言うのではないか。
「草枕」読みたいな。

とりとめがない。

情報の性質と、恋が罪悪だということ

会社にいたときに、飲み会で会社の会長と話す機会があった。
その時いろいろな話をしたのだけど、その中で情報収集の話になった。
彼は、「情報にはストックの情報とフローの情報がある」、と言った。

その時は、ふむたしかに、と思って
情報には一時的に意味があるものと長期的に意味があるものとがあるようになんだか思っていたのだけど、
実際どの情報がどちらに入るのかを考えた際にはよくわからなくなるのだった。
と、いうか、フローの情報の蓄積がストックの情報になっていくというか。
日経平均が今日反発したとてそれはフローの情報なのだけど、それが蓄積することにより、また違う情報と組み合わさることにより一つの法則なりが見出され、それはストックなのだろうかと。

いやもっと深い言葉なのかもしれないんだけど、未熟すぎてわからぬ。

何かといろいろなものに造詣の深い、しかし子供っぽいところのあるお人であった。

まあ何か蓄積すれば見えてくるだろうということでメモパッドを作成。



最近は「こころ」。
なぜ今「こころ」かというと、よくわからない。別に「スカイ・クロラ」でもよかった。
ただ、なんだか手に取ったら読み始めてしまった。「こころ」が漱石にしては読みやすかったイメージも手伝って。再読だが、初読当時は今より更に未熟だったため、発見も多かろう。
結局文学作品というものは適齢期というのがあって(もしくは適したステージがあって)、その域に達していないと理解ができず、そこを過ぎてしまうと面白みがなくなってしまう。

「こころ」の時代というのは、とてもゆったりしている。家の裕福な書生、というのもあるけれど。散歩をしながら語り合ったり、書簡を交わしたり。
漱石は好きだな。と思う。バランスがいい。後日レビューできれば。


「しかし君、恋は罪悪ですよ、解っていますか」

イノダコーヒとか結婚とか

いただきものがあった。
Sleep well、という趣旨のものと、Study well、という趣旨のものもの。
ありがとうございました。


京大式、というB6サイズのカードがひたすら気になるけれども、用途を模索中である。確かに某司法試験予備校ではあのサイズの論証カードというものが配布されていた。よいサイズなのかもしれない。
お菓子などもいただいた。イノダコーヒって聞いたことある。行ったことはないけど。
いずれ遊びに行かせて頂きたく。


そ ろそろ結婚の話が周りで聞こえてくる年齢であることは、なんというか社会常識みたいのでわかっていたけど、近しい人も結婚するんだなあと思う。結婚するっ て、何かそれを境にその友人に対する見方とかが私なりに変わったりするのかと思っていたけど、あんまり変わらないんだなという感想。
既に結婚している人には結婚していない人に比べてある種のバイアスがかかっているのが自分でもわかるんだけど。
結婚前から知ってる人にはかからない。なぜかしら。
既婚者に素敵な人が多いのは、結婚しているから素敵に見えるのか、素敵だから結婚できたのか、という話があるけれども、なんか両者だなと思う。例外はある。
結婚している、ということになんか立派な感じを受ける。それは単にイメージだけど、よくよく考えたらいろいろなことを引き受ける覚悟を決める、というのを通過した人たちなので、やっぱり立派なのかもしれない。


家では母と祖母が胃腸炎で一昨日から少し大変だった。母の友人が、ずっと独り身で、風邪でものすごく体調が悪いというので母が見に行って、そこでうつってきてしまったようだ。
独り身の母の友人を見ると、家族がいるって大事だよなとも思わなくもない。
そ して祖母を見るたびに、老いるっていうのは、ひいては生きつづけるっていうのは、すごく大変なことだなと思う。今は、結婚はしたいと思ったらすればいいと 思ってるし、友人も家族もいるから一人暮らしでも割と平気だけど、老いると親もいなくなるし友人はいなくなったり自由には動けなくなったりしているし、一 人では何もできない。
とはいえ、50とか80とかになる実感はまだわかない。30になる実感すらまだわかない、実は。

迷惑かけたくない、は無理で、迷惑かけるけど迷惑も違う機会に被るからよろしく、みたいな感じなんだろう。人生トータルでは。一人でいたくても一人ではいられず。今は迷惑被る時期かなと思う、本当は。

言葉のこと-2

言葉について様々。勉強したことがあるわけではないので、体験に基づいて感想を。


・言葉と沈黙
NHK教育を見た。
言 葉を用いる場面として大きく分けるとするならば、自己に向けた言葉なのか他者に向けた言葉なのか、という分け方ができる。これをきっと吉本氏は自己表出と 指示表出と言って分けているのだと理解するが、彼は、その人の根幹に近いものは前者、つまり相手とのコミュニケーションを意識せずに自己に語りかける言 葉、なんだかごにょごにょ言っている言葉、の方である、とする。そうして、言葉っていうのはオマケなのだという話につながっていく。人間の幹、沈黙から出 た枝葉。
人間というものを、その一瞬を切り取って完結したものとして、つまり自己と自己以外を完全に線を引いて見るならば、その話は正しいと感じ る。相手に語りかける言葉は確かに自己とはつながっているし自己から出たものではあるが、相手を、世界を、何かを意識したものであって、本当の自己という ものではない。黙っていることの中にその人の重要な基本要素があって。
ただ、ここからは定義の話になってしまうが、相手や何かを意識したその心理作用というか、それも含めて自己なのではないかと思える。そこが寧ろ人間らしさなのではないかと思える。
「議論とは、往々にして妥協したい情熱である」と言ったのは太宰だが、そういう他者への情熱めいたものが人間の中にあるからこそ、人間が好きである。煩悩と言うのはたやすいけれど。
ただ、沈黙の中にこそその人の重要な部分がある、というのもその通りだと思った。ほんとうに大切なことは目に見えないんだ、とキツネは言った。
沈黙を無きもののように扱い、沈黙に乗じて攻撃し、沈黙を言葉よりも軽んじる、という傾向は確かに世の中にたくさん見られて、私自身は決してそう思ってはいないけれど一つの確認事項だなと思う。

余 談ではあるが、このブログが当初から自己のためのブログであるというスタンスを勝手ながらとっているのは、無意識的に他者への語りかけというより自己への 語りかけというか呟き、いわゆるごにょごにょしたものであることを許容・肯定するところからはじまっているからだと思う。コミュニケーションつまり人様に 見せるということを1番の目的に置いていたら、きっとこのような形にはなっていない。



・言葉の限界
言葉の不完全性、未熟性という話。沈黙、という話とはまた別なのだけど。
言 葉には限界がある。しかも結構低い所にあるというのが実感だ。自分の語彙力の問題もある。例えば、音、香り、味、風景、なんでも、それを再現しようとする ときには言葉は無力だ。聴覚、嗅覚、味覚、視覚には絶対かなわない。足元にも及ばない。再現できたとしてもごく一部だと思う。それは、本来その感覚で感知 するものだからである。味なら味覚で。当然のことだ。
そういうとき言葉は、感知した経験やイメージを呼び出す形としての文字なり音声だと思う。それは読み手・聞き手の中の経験の蓄積や検索能力、想像力に大きく依存している。
ただ、言葉でしか到達できない地点というのもある、と思う。たとえば言葉が不完全であるという主張を、私は言葉をもってしか伝えられない。



・言葉の使い方のうまさ
言葉の使い方がうまい人、というのがいる。再現のうまさ、語彙力、的確な指摘、シンプルさ等々。言葉をうまく使える者が力を持つ、というのはある。私も言葉の使い方がうまい人に憧れたりする。
言葉には即効性がある。相手に何かをわからせるのに、早い。
その一方で、言葉それ自体には重みが無かったりもする。誰が言ったか、どういう時に言ったか、そういう状況と合わせて重みが決まったりする。
中には、言葉の使い方がうまいだけの人というのがいる。しかも悪意がなかったりする。



・手段と契機としての言葉化
思考というのは一部、言葉を使ってやっている。思考は言葉でやっている、と割と言われるけど、そんなに言葉は使っていない気も実はする。
単にふわふわ思考している時というのは、ロジックもそんなに必要ないから、ワードやイメージだけでやっているような気がする。あまり意識したことはないけれど。
文章が頭の中に浮かんでいるわけではなくて(文章のことや誰かが言ったことを考えている時は別)。ワード周辺のイメージがふわっとなって、その中の一つのワード・人・モノにまたフォーカスし、次の話題へ移っていく。意識して深堀りしたりもする。
で もちゃんと考えたり、形にして残しておきたいと思うなら、ひとまず目に見える形でアウトプットし、固定し、今時点RUNなフェーズを明らかにして、組み立 てていく。目に見える形、というのはこの場合文章になる。文章にすることは、思考を助けるとともに、自分のものになる。再インプットされるのだ。そうやっ てここ最近は自分が形作られている気がする。良かれ悪しかれ。

忘却は優しいことだと友人は言った。それでも思い出す契機を保証しておきた いのである。それは何かを考えた形跡でも、心象風景でも、単なる事象でも同じで。そういう記録をするときに、きっと何かを取りこぼしたり、何かがくっつい たりしてしまっている。そうやって文章にして不完全にしたものを再インプットしてしまう。
スナフキンは言った。「なぜみんなは、ぼくをひとりでぶ らつかせといてくれないんだ。もしぼくが、そんな旅のことを人に話したら、ぼくはきれぎれにそれをはきだしてしまって、みんなどこかへいってしまう。そし て、いよいよ旅がほんとうにどうだったかを思い出そうとするときには、ただ自分のした話のことを思い出すだけじゃないか。」
それでも、言葉にしてしまう。


1エントリ1テーマでも長いな。しばらく休憩。

25-26周辺

つい先日誕生日があって、はたして26歳になったわけだが、誕生日というものはたとえば元日とかクリスマスとか海の日とかみたいにみんなにとって共通して 定義されているものではなくて、他人にとってはものすごく普通の日なのに、でも覚えてて連絡の一手間をを割いてくれる人というのは、すごいなと思う。
疎遠になっていた人ほど、その人の丁寧さというか、「誕生日に連絡をする人層」の厚さというか、そういうのを感じて。今年の抱負は、誕生日を知ってる人にはメールを送る、にしようかしら、と思うほどだ(最低限、メールや電話をくれた人には送りたい、というか送るべきだ)。
私にとっても、mixiのトップ画面がいつもと違うなくらいの日だが、うっかりすると自分の歳を忘れているので(早生まれだと周りが先に一つ年上になるので、10月頃になると自分もそうなったような錯覚をする)、これを機に覚えようと思う。
二十歳をすぎたら時間の流れは人それぞれだから、絶対値云々よりも来し方を振り返り行く末を思うことに意義がある日かもしれない、との言葉をいただいた。確かに。


16歳の妹から思いがけずプレゼントをもらった。
「夢をかなえるゾウ」/水野敬也
本屋で平積みされている茶色いあの本である。まあまあ上位にランクインしたあれである。映画化もされちゃうあれである。
つい先日ドラマを見た(私は古田新太が好きなので)ときに、そうそうこれ読んでみたかったんだよね、と話したためである。
それにしても、あれは読みやすくした自己啓発本なので、妹から自己啓発本をもらう、というそのことに、良くも悪くも多少泣けるのだった。(妹曰く、一緒に読むとのこと。)


誕 生日とは全く関係なく、幼馴染が帰省していたため会った。関東の大学で、今はデータマイニングの手法の研究をしているらしい。M1だが年は1つ下で、背が 高くてイケメンでオシャレさんで超超社交的でとにかく目立つ理系男子だ。会うたびに若さが眩しすぎるため、本当に1つしか違わないのか疑問。彼は意外と真 面目で、PCを持っていたので論文やプレゼン資料を見せてもらいながら研究の話を聞いた。興味深く拝聴。
論文が英語なのはもちろん、書いてある数式とか、そもそもやりたいことがなんなのか一目で分からないところが理系だよなと思う。使用言語がそもそも違うというか。
「自分の研究を説明できないのは頭悪い証拠なんだよなぁ。頑張るからちょっと待って」
と言う彼の誠意ある説明により、やりたいことが何なのか、というところまではわかった。
つ まりデータマイニングがしたくて、膨大なデータを分類したくて、その分類をする方法として点同士の距離によるいくつかの方法(階層と非階層と言っていた気 がする)があって、それを効率化したりしているらしい。直線で切れるといいけどそうでないと難しいという話や、3次元までなら目でその手法の効果を確かめ られるけど5次元とか10次元とかになると無理なので、2次元3次元での効果が適応できるだろうという推測でやっていくという話。
「もし一緒に会社をやるとしたら、マイナス志向で、みんながいけいけな時にも最悪の事態を考えて水を差してくれる奴とやりたい。そいつが一番バイアスがかかっていない奴だと思うから。」
そいつが一番バイアスがかかっていないのかどうかは別として、そういう人が傍にいるのは必要だろうなと共感する。


そういえば、更に前になるが、久々に永い人とも会った。何もかもが相変わらずで、彼も私も雑談がひどいので、結局いつの間にか3時間半も話していたが、彼と話していてすごいところは、長時間話しているのに、話し終わった後何を話したかほとんど覚えていないところだ。
なんだか勝間本の話をしたことは覚えている。
彼女がグーグル化とかでダイヤモンドで特集されたころ、私も実は3冊ほど衝動買いして、結局読了したのは1冊。いや、読むよ。面白いよ。
そ んな中で彼が買った本が、ビジネス脳だかのビルゲイツの面接試験的なあの手のクイズ系の載ってる本で、永い人が案の定3問くらい問題を出してきて1問も解 けず、ビジネス脳ないなあと言われたのであなたは解ったのかと言い返し結局二人とも打ちひしがれるといういつものパターンだった。


長いな。1エントリ1テーマを心がけたいと随分前に思ったが実行できず。連想は止まらず。

言葉のこと

少し前に二つの文章を読んだ。
両方ほぼ日だけれども、言葉のこと。厳密に言うと、言葉以外のこと。
ダーリンコラム「沈黙の発見。」
谷川俊太郎質問箱 質問三

前者は結構大きなテーマというか、壮大に話していると思うのだけど、ことばの功罪、人間らしさとは何か、そういうものについて短いながら語られている。
「ことばをうまくあやつれるものが、力を持ち、ことばをうまく使えないと、生きていくことがとても難しくなる。」
「言葉というのはオマケです。沈黙に言葉という部分がくっついているようなもんだと解釈すれば、僕は納得します。」
「人からは沈黙と見えるけど、外に聞こえずに自分に語りかけて自分なりにやっていく。そういうことが幹であって、人から見える言葉は、「その人プラスなにか違うものがくっついたもの」なんです。いいにしろ悪いにしろ、「その人」とはちがいます。」


関連して、後者の谷川氏の、
「憶えていることは言語化できる意識に属していて
忘れていることは言語化できない意識化に
属しているんじゃないかな。
つまり忘れたことは、憶えていることよりも
深い心のどこかに保存されていて
それも自分をつくってる一つの要素だと考えたい。」
と言う文章。


知り合いのmixi日記で、語るべき言葉を見失い、語りたい言葉を紡ぎ出せないという話があった。彼のことも状況もよくは知らないが、なんとなくリンクした。


言葉の不完全性、未熟性というものについては前にも書いたことがあった。言葉で言い表せない領域が確実に、しかも大きな範囲で存在していることを意識してはいた。
ただ、明確に、言葉はオマケであるという考えや、言葉をうまく使える人が強い力を持つということや、それに対して疑問を投げかけるということを、自分にとって新しいなと思ったのだった。

また、このトピックについて改めて書く機会があれば。
今日の22時のNHK教育を見てから、また考えるかもしれない。

2009.1.1.

しょうがつ。

あらたまったり、のんびりしたり。
年賀状見たり。
お雑煮食べたり。
親戚の家に行ったり。
一年ぶりの従兄弟たちとぽつぽつ話したり。
年下の従兄弟に結婚を心配されたり。
少し桃鉄したり。

そんなしょうがつ。
いつも通りのしょうがつ。


・抱負のこと
一 年の抱負を朝食の前に一人ずつ話すのがうちのきまりなのだが、今年は朝食のあとにそれぞれが紙に書くことに(母が)して、結局それらは壁に貼られてしまっ た。ことあるごとに初心を思い出してしまうようになっている。七夕の短冊にすごく似ているのだけど、願いというよりもうすこし自分で何とかしようという感 じがみられる。


・価値のこととか
前に音楽が現在的だと書いてしまったけど間違っていて、音が現在的なのであって、音楽は 連続性の中に存在するものだよなとあのあと思っていた。音楽は音楽それ自体のよさというか、その人に響く何かがあるゆえに価値をもっていて、そしてミュー ジックコンテンツというものはその価値ある音楽を「いつでもどこでも聴けるということ」に更に価値を乗っけているのだよなぁということ。体験そのものだけ でなく、そのタイミングや場所をコントロールすることに価値を置く、ということを結構やっているのかもなと思う。携帯電話なんかのポータブル機器はその極 みだし。
ある場所でしかできなかったことを家でできるようになって、家でできたことを外でもできるようになって。それってば大衆なんとかから個人なんとかへの変化と比例している気がして。
基本的に個人というのが一つの基本単位だからか。


・関連して不均衡のこと
価値、というのを貨幣で計ることを図らずもやっているわけだけど、その、一方で一生懸命働いて何かを作っている人たちがいて、でも少ない貨幣としか交換してもらえなくて、一方で多くと交換してもらえる人たちがいて。その立場が変動して。
何かを作っている人はその物自体の価値、労働力を売っている人はその労働力の価値(二つとも希少なほど高いんだな)が需給の変化で変わって。さらに相場でのいろいろがあって。
生きていくってことは消費するということで、消費する対象を捻出するために生産して、その生産のために消費するという堂々巡りがシンプルなくせに、その軸を取り巻くとりどりの変化こそが人生であり世界で。

だからなんだってことはないんだけど、ただそうなんだなぁと思った。

そんなしょうがつだ。

芝生

なんか芝生が好きだ。

芝生。
字面も言葉の響きもいい。牧歌的で。
これで「ふ」と読ませるところもいい。


HALCALIの「芝生 feat.谷川俊太郎」を聞いていると、あたかも急に自分が芝生の上に立っていて、なすべきことはすべて私の細胞が記憶していて、だから私は人間のかたちをして幸せについて語りさえした、気分になる。
・芝生/HALCALI feat.谷川俊太郎 試聴
(注:音が出ます)

谷川俊太郎といえば、以前の未来館のプラネタリウムプログラム「暗やみの色」(音楽はハラカミさん)でも、詩「闇は光の母」で参加していて(ちなみに朗読はクラムボンの原田郁子さん)(いいプログラムだった。CDが出ている)。
おじいさんなのに若いなと思う。なんだかHALCALIすごいよなとも思う。


で、芝生。
今の携帯の待受画面は、ほぼ日のSentimental Territoryの「そらとおか」で、これも芝生の黄色に輝く緑が好き。
のんびりした、非日常感というか。
そういえばモエレ沼公園に行ってみたい。
・Sentimental Territory待受


寝転ぶとちくちくする記憶。
最後に芝生に寝転んだのは確か1年半前で、ビアガーデンのバイトで、シーズンを終了したその日、営業時間後真っ暗になった庭に、テーブルや椅子を倉庫まで運んで汗だくになった皆で寝転んだのだった。
その前は恵比寿のビール記念館で、友人と昼間からビールとワインを飲んだあとの散策中見つけた公園だった。こう書くとなんか頽廃的な感じがするけど、きわめて爽やかだったよ。


東京ドームの人工芝もきれいだ。
大 学入学当初、私は何故かジャイアンツ同好会に片足を突っ込んでいて(新歓では自己紹介がわりに好きな選手を言うことになっていて、それを言うとコールの代 わりにその選手の応援歌で一気飲みをするという風になっていた。私は確か桑田と二岡と答え、ジュースを一気飲みした気がする)、
先輩方とジャイアンツの応援をしに行ったのだった。
他大のオリックスファンの友人を誘って(後日、今度はオリックスの試合に付き合え、と言われ西武球場に行くことになる)。
その時巨人が勝ったのか負けたのかはさっぱり覚えていない。ただ外野席から見た芝生の鮮やかさと、松井の後姿を覚えている。

という芝生についての覚え書き。

オトナ語の謎。

そして最近は糸井氏がアイドルなのである。

オトナ語の謎。/監修・糸井重里、著・ほぼ日刊イトイ新聞

たとえば「お世話になっております」とか、「~~感」とか、「さくっと」とか、「ざっくり」とか、「コンセンサス」とか、「取り急ぎ」とか、広く社会人業界語をあつめたラフい定義集。
いわゆるあるある的で、ほんとに心の底から共感できる。だいぶ笑える。お勧め。
「いい感じにしといてよ」とか「悪いんだけど」とか「弱い」とか、上司の顔が浮かびすぎる。

木野子の話

自分があまりTVを見ないこともあってほとんど見かけなかった糸井重里だが、なぜか最近TVをつけると彼の出る番組に何度か出くわして、なんだろう。糸井月間かしら。単純に彼が最近よくでているのかもしれない。

今日見かけたのは、NHKの月刊やさい生活か何かで、きのこについて3人でマニアックなトークをしていた。
「なんだろうこの、憧れ感っていうか。隠されてる感じ」「埋蔵金?」
「きのこって若い時は単に食べるもんだと思ってるんだけど、いろいろわかっちゃった後によさがわかるんだよね」「釣りと似てて、生き物同士が合図し合ってるみたいな」
「知的なんだよなぁ」「推理して、ここにあるだろうと思って、そこにあったとき嬉しいんだよね」
「松茸はあがめられ過ぎだと思う。それって松茸にもほかのきのこにも失礼だと思う」「お金無いころに、あえて飽きるほど松茸を食うっていうのをやって、それから松茸コンプレックスは消えたんだけど」
「仏教的なんだよね」

私 としてはそもそもきのこって野菜なのってところからしっくり来ないんだけど(イメージ的に)、それを吹き飛ばすだけのトークのマニアックさ。NHKの趣味 系の番組かと思いきや深掘る深掘る。なんか好みの番組。というか多分糸井氏だ。そのトークの展開の仕方が友人によく似ている。

※追記:月刊やさい通信でした。

旅について

前エントリの「すきまのおともだちたち」は、「ぼくの小鳥ちゃん」のようなテイストの物語で、言うなれば旅に関する本だった。旅人はいつかは帰らなければならない、そんなの生まれたてのへびの赤ちゃんにだってわかること、なのだそうだ。


旅らしい旅をあまりしてこなかった方だと思うが、それでも旅の思い出というのはある。
旅 と言えるためには、日常を忘却していたことにふと気づき、その日常から離れたことに寂しさに似た戸惑いを感じられることが、少なくとも必要な気がする。だ から、日帰り旅行はあまり旅っぽくないし、近場への旅行もまた旅っぽくない。旅人はいつかは帰るものだというならば、東京生活こそ長い旅だったのかもしれ ない。

思い出深いのは京都。一人で行った、ということも要素なのだと思う。友人の何人かがよくふらりと京都へ行っていた。ある人は寺を巡 ると言ったし、ある人は日がな一日カフェにいると言った。旅ではいろんな過ごしかたができることを知った。それは旅慣れない私にとって新しい視点だった。

夜 行バスを待っていたカフェでの読書。夜行バスに乗り込んだとき、MP3プレーヤーからくるりの「赤い電車」が流れていたこと。結局ほとんど眠れなくて、早 朝の京都駅、漫画喫茶で顔を洗ったこと。早朝の京都タワーがきれいだったこと。朝から人を呼び出してしまったこと。鴨川がすごく長閑で、京都、という気負 いがそこでやっとほぐれた気がしたこと。何をするにも勇気が要って、一人で路上でコロッケを買って食べたり、古い定食屋に入って卵丼を食べたりしたのが精 一杯だったこと。宿が町屋風ドミトリーで、そこのオーナーやスタッフと京都について話したこと(彼は、「京都のカフェで、お冷のおかわりいかがですか、と 言われたらもう出て行けって意味だ」と私に教えた)。絵葉書を書いたこと。橋の上で偶然友人に会ったこと。
いわゆる観光名所にはあまり行っていない。それより関西弁を話す新しい友人と話をすることに没頭していた気がする。
帰りは、よせばいいのに新幹線を使わずにいくつもの電車を乗り継いで帰った。9時間半くらいかかった。ほとんどまどろんでいたが、夢うつつに地方によって変わっていく様子が面白かった。山手線に乗り換えたときの慣れた空気に心から安堵したのを覚えている。


あと、旅とは言いにくいが、東京は中野新橋のゲストハウス(部屋は個室だがキッチンやリビングなんかが共同)に2ヶ月半くらい住んでいた時期がある。住人は頻繁に入れ替わる。2週間以上の長期の滞在用の施設で、普通の宿より割安なのだ。
そ の頃は一人バイトと就職活動をしていて身分も定まらず、狭すぎる部屋と少ない荷物で、今までのコミュニティから外れて(たまに院の友人たちと飲むくらい だった)、よく、私はここで何をしているんだと思った。共用のキッチンがすぐ隣だったので部屋でもあまり落ち着けなくて、よく外へ出ていた。そこで一番居 心地が良かったのは近くにあった「ジニアス」で、よく夕食を食べがてら「ジニアス」で紅茶とハーパーを飲んだ。そうしてジャズに聞き入ってぼんやりしてい るとき、今までの人生からぽつりと離れてしまったような、旅に似た心細さを感じたものだった。


果たして、それらを含んだ東京生活 を終えて沖縄に帰ってきたわけだが、ここが帰る場所だということがはっきりした一方で、またああいう旅に出たいという気持ちが沸く。東京生活が長い旅だっ たと考えることはなんだか納得のいくことで、たくさんの旅人たちを応援したいと思いつつ、少し羨望も覚える今日この頃。

法学について

※追記:2008.11.22

最近法律の浅瀬を泳いでいる感じなのだが、なんというか、浅瀬は楽しい。浅瀬だからね。
す ごく根本からやっている。一番初めから。入門。いろいろな法律の分野がそれぞれ入口を用意してくれている。藤田宙靖最高裁判事の「行政法入門」は秀逸であ る。あと、所研(裁判所職員総合研修所)の「刑法総論講義案」もまた、いい本だと思う。入門として。(入門書と銘打ちながらわかりにくい本なんかたくさん ある。)
手順というのはすごく大事だ。
友人は言っていた、「飛び越えることはできないんだ、飛び越えてもどうせ戻ってしまうんだよ」。言い得ている。


法律を勉強していていいところは、法律そのものがきちんとしているから、気持ちがいいところだ。
きちんとしているというのは、論理的、という意味でも、範囲をきっちりカバーできている、という意味でもない。人格とでも言おうか、良心的な、という感じの意味である。


法というのは一つの思想で、それが生まれたストーリーがある。そこから派生してくるいくつもの考え方があり、それらが正当で理性的で合理的だと思う。

も ちろん論点(論争)はたくさんあるし学説は多岐にわたる。しかし同じ法という土俵でやっている以上根本の根本部分は同じで、ただロジックの構造が何通りか あって(というか先人達が考え出して)、もしくは価値観の微妙な差で、それらの学説は分かれている気がする。そのロジックの構造論なんかが法学の醍醐味と いえば醍醐味だし、多くのウェイトを占めているのも事実なのだが。
つまり法を論じる者は、いくら争おうとも、法という思想に立脚している。
私はそういう人たちの前提に、好感を持つのだと思う。
こう思うのは私が日本人であることや、君主の専制政治から法を勝ち取った世代でないことが理由としてあるのだと思う。その勝ち取った人々は生きるか死ぬかの話だったのだ。
そして、法は結構恐ろしい力をもったものである。


法学と、自然科学とかとの相違点は、出発点にある気がする。
後 者が現象から出発するのに対して、法学は思想発なのではないか。帰納と演繹の違い、というか。法学は、思想から出発して具体的な現象にたどり着くその過程 を理論で構造化したもの、というか。だから現実の現象との間で折り合いをつける作業が必要になる。それが解釈なり適用なりの場面。そういった割り切れなさ は、自然科学にはないのではないか。
仮説先行のやり方というのは他の学問でもある。けれど、そこでは実態と理論(仮説)が食い違っていれば仮説を 考え直す。違うのは、法学はまず当為(~するべき)であり、実学だから(実際社会がそれを使って成り立っているし、裁判所はわかりませんとは言えない)、 どうしても折り合いをつけなくてはならないという点にある気がする。


そんなようなことを漠と感じながら、千里の道を一歩ずつ、歩を進めているところ。

動物園のライオン何見て食べる

ここ最近の状況を一言で言い表すならば、リハビリテーションである。
そ れは体そのものにもいえるし(ごく基本的なこと、つまりご飯を胃で消化し腸で吸収するとか、睡眠をとって疲労を回復するとか、ができなくなっていたのをで きるようにするということ)、生活のリズムにもいえるし(つまりご飯を三食ちゃんと食べるとか眠るとか)、物事への向かい方にもいえる(勉強への姿勢とか 環境づくりとか方法とか)。それらのほぼ全ては昔できていたはずのもので、どうしてこういう風になってしまったのかはよく覚えていない。ゆるやかにできな くなっていったのだろう。

自然にできていたことを意識することによってできなくなる、ということはよくあって、卑近な例でいえば呼吸とか歩行とか。そういうことなのかもしれない。習慣化の大切さ。
よく膨大なタスクを目の前にしているように感じるけど、それは明確にするから。そして数え上げるからだ。タスク管理としてよくその必要に迫られるけれど、そういうのって萎える。


あ まり漫画は読まない方だけど、好きな漫画の一つに「泣かせやがってこのやろう」というのがある。そこでは小学生までは神童と呼ばれたほど勉強ができたけど 中学からドロップアウトして不良になった高校生の兄ちゃんと、小学生でこれも天才と呼ばれ勉強しつつもいろんな疑問に悩みつつ、兄ちゃんとのぶつかり合い のようなコミュニケーションの中で自分なりに暫定の解を出していく弟、という本当は仲睦まじく愛らしい兄弟が主人公である。
私は不良にはならなかったが、この兄ちゃんの気持ちというか、経験に共感することがある。動物園のライオンはあるとき急にエサを食べなくなるという話。

今までの何かが間違っていて、それを改善するのが正しいという単純な話ではない気がする。
ただ、振り返るならば、大学と院での6年間は課題はこなしていても習得はしていなかった気がする。どこかにひっかかりや、やり残しを感じながら結局それらと折り合いをつけられずに押し出されたような気がする。
それは法律の思考ルートの多義性によるところが大きく、またかの職業に就こうとしたときに結局ここまでやればいいという線引きが無い大海原へ放り出されることと、その覚悟がつかないということにもあった。
勉強はつまらないものになりつつあった。動物園のライオンがエサを食べなくなるみたいに。それはとても寂しい。加えて、生死にかかわる。

兄ちゃんは言った。
「そういうときどうするかっていうと、ほっとくんだってさ」


言葉の基になるものが経験というのは先日書いた話だが、人格の基になるのも経験だと思っていて、それである経験主義者に共感し尊敬している。その人は可能なかぎりの経験を集めているように見える。知ること、体得することへの欲求。共感はするけれど、タフだ。
今自分にできる経験は何なのか、それを経験として体得するために、気づくための感覚をできるだけ持ちたい。そして記録していたいと願う。

創作について

創作について

少し近い過去に、近所のサイトである企画があった。自前の文章を持ち寄るというもので、そのようなテキストサイトのコミュニティに属したことがないので、新鮮だった。

そこでは作者は実部と虚部のいずれかの部門を選択して、ある程度のまとまった文章を差し出すことになっていた。
これだけブログで日常を綴っているのだから、それは実部で参加するのに決まっていると思っていたのだが、なんだか改まってしまいどうしても書けない。そのうち実と虚の区別をどこですればよいのか、判断がつきかねるようになった。いつものことだ。

結局かなり断片的な文章を書いて見切り発車的に出してしまったのだが、いくつかその前に書きはじめていた話があった。
それはさっきテキストファイルの整理をしていて出てきたのだけど、私にはまったくの創作というものができないのだと思い知る。言葉は確信から、確信は経験から来るのだ。私の場合。
小説を書いている人々というのは、どうやってあの世界を紡ぎだしているのだろうと思う。前に友人が言っていた、本当に頭のいい人は体験せずに真理にたどり着くと。そういう人々なのだろうか。
成果しかしらない。過程が知りたい。


少しアングルがずれるが、江國香織が、なぜ書くか、という質問に答えているエッセイがある。「泣かない子供」に収録されている。
どうしてもそこに行ってみたくて、というのが彼女の答えだ。行ってみたら行ってみたで前後左右もわからず後悔する、と。それでも自分で歩いて自分で見て、自分で触ったものだけを書いていたいと。
想 像だが、彼女にとって書くことは見えるようにすることなのではないかと思う。表現していくことによって輪郭をはっきりさせていき、視界をどんどん広げてい く行為。それがエッセイでは実生活を、小説では頭の中の世界を、視界をクリアにしながら歩いて行っているのではないか。彼女が実生活と頭の中との区別を はっきりしているわけではなさそうなのだけど。

同書の中の「虚と実のこと」というエッセイで彼女はこう書いていて、私は納得した。
「受 賞後のインタビューのとき、お父様の影響は?とおなじくらいしばしば、どこまでがフィクションでどこまでがノンフィクションか、という質問をされた。そん なこと、作者にわかるわけがない。小説というのはまるごと全てフィクションである、と私は信じているし、それでいて、どんなに嘘八百をならべてみても、書 くという行為自体、作家の内部通過の時点で内的ノンフィクションになることはまぬがれない。そんなの、わかりきったことだと思う。」
「意識と無意識のはざま、現実と非現実の倒錯が、小説のエナジーだと思うのだ。」
私が上述の企画にあたり、文章を書こうとして立ち止まってしまったのはそういうことだったのかと思った。結局、虚部で出したのは正解だったのだと思う。


彼 女にとっては思い出もすでにフィクションで、ふと目を離すと思い出の中の彼女が動き出してしまうのだという。彼女はそうやって作品を生みだしているのだ。 行き当たりばったりに。そういえば彼女はあとがきで言っていた。正直なところ、生きていくのにいきあたりばったり以外に一体どんな方法があるのかわかりま せん。


綿密に計画を立てて、詳細な地図を作ってから出かける人もいるだろう。そういう風にしか書けないジャンルというのもある気がする。そういう風にして書く人の作業現場を見てみたい。フローチャートのようなものがあるのだろうか。

そういうわけで、私は創作ができる人を尊敬している。

ある友人と

最近友人のサイトでボウモアの話題が出た。
悲しいことに父が飲めなくなってしまったこともあり、帰郷してからはコップに半分ビールを飲んだ程度でほとんど酒を口にしていない。しかしキリンの一番搾りはなかなか美味しかった。

ボウモアといえば馬場のコットンクラブで、金曜の夜に12時を過ぎてから飲み始めるのがよかった。週末の人々を傍に見ながら、学生街のカフェで気の置けない友人と酌み交わす酒としてはベストで。
結局そこへ行くまでに大分飲んでいたりするのでそんなに飲めないのだけど。
同じ銘柄のお酒でも、そのシチュエーションや酔いの程度やなんかによって、大分味が違う。
アイラは特に、良いときと良くないときがある、個人的に。香りが舌になじむこともあれば薬っぽすぎると感じることもある。


今日そんな友人から久しぶりに、来月から九州の某県で生活を始める旨連絡があった。いい奴だと思う。他の数人の友人と同じように、個別的な、他と差別化された関係だ。そういう友人たちの多くに共通することは、私から踏み込んでいる点だと思う。

彼はマッカランを頼むこともあれば、一緒にボウモアを飲むこともあった。
タバコを吸う。銘柄は忘れた。
一人称が「僕」で二人称は「君」。
なんだか育ちがよく、真っ直ぐに育っている。よくイメージとの逆をつかれる。
彼が酔っている、と感じたことは無い。
彼とは抽象的な話をよくした。真っ当だよ、と言ったのは彼である。
決して似ていないしわかりあってもいないが、関係性についての認識はそんなにずれが無いと思う。

この機会になんとなくメモ。
分類項目の中にまたエントリが放り込まれる。
たくさんの文章群にはそれぞれ名前がついていて。
先日少し読み返したら、こんなもの今や書けない、というものが会社に在籍していた平日に多く、さもありなんと思う。あの頃が美しく、見えないこともない。
そんな日々に酌み交わした友人は、覚えていてもいなくても一人の目撃者であり、その時間を共有したやはり大切な人なのだろう。 最近友人のサイトでボウモアの話題が出た。
悲しいことに父が飲めなくなってしまったこともあり、帰郷してからはコップに半分ビールを飲んだ程度でほとんど酒を口にしていない。しかしキリンの一番搾りはなかなか美味しかった。

ボウモアといえば馬場のコットンクラブで、金曜の夜に12時を過ぎてから飲み始めるのがよかった。週末の人々を傍に見ながら、学生街のカフェで気の置けない友人と酌み交わす酒としてはベストで。
結局そこへ行くまでに大分飲んでいたりするのでそんなに飲めないのだけど。
同じ銘柄のお酒でも、そのシチュエーションや酔いの程度やなんかによって、大分味が違う。
アイラは特に、良いときと良くないときがある、個人的に。香りが舌になじむこともあれば薬っぽすぎると感じることもある。


今日そんな友人から久しぶりに、来月から九州の某県で生活を始める旨連絡があった。いい奴だと思う。他の数人の友人と同じように、個別的な、他と差別化された関係だ。そういう友人たちの多くに共通することは、私から踏み込んでいる点だと思う。

彼はマッカランを頼むこともあれば、一緒にボウモアを飲むこともあった。
タバコを吸う。銘柄は忘れた。
一人称が「僕」で二人称は「君」。
なんだか育ちがよく、真っ直ぐに育っている。よくイメージとの逆をつかれる。
彼が酔っている、と感じたことは無い。
彼とは抽象的な話をよくした。真っ当だよ、と言ったのは彼である。
決して似ていないしわかりあってもいないが、関係性についての認識はそんなにずれが無いと思う。

この機会になんとなくメモ。
分類項目の中にまたエントリが放り込まれる。
たくさんの文章群にはそれぞれ名前がついていて。
先日少し読み返したら、こんなもの今や書けない、というものが会社に在籍していた平日に多く、さもありなんと思う。あの頃が美しく、見えないこともない。
そんな日々に酌み交わした友人は、覚えていてもいなくても一人の目撃者であり、その時間を共有したやはり大切な人なのだろう。

人を見ず

人間には様々な欲というものがある。
全くないと生命を維持できないが、これを持ちすぎると悪しきものとする傾向にある。食欲、金銭欲、愛情を欲すること等々。

その中に人に認められたいという欲がある。これもある程度はないと社会的に生活ができないが、度を過ぎると自分も周りも苦しくなる。
過ぎたるは及ばざるが如し。

欲にも、よく断罪されるものとそうでないものとがあるように思う。認められたいという欲は後者で、むしろその欲求は向上心として肯定的に受け取られることが多い。それがよいか悪いかはわからないが、私を苦しめたのは事実であるし、また多くの人をも苦しめているように思う。


少 し前のエントリで書いた、何者かであることとそれによる自信のことについて考えていて違和感があったのは、私は自信についても今特に欲していない、という ことだった。一年前は自信が欲しくて就職活動をした、という側面も大いにあった。自分がそうして誰かに必要とされている証明が欲しかったしそうしないと無 価値だと焦っていた。今はきれいに消えている。

自信というのはそういうことなのかもしれないと思う。
常に人に認められて得るものではなく(その手助けは借りるかもしれないが)、終局的には自分で立つということ。人の評価は一定ではない。人も様々である。
と、頭では前から分かっていたことなのかもしれないが、すんなり受け入れられるようになったのはここ最近。

というスタイルについての変化があった。


母によく言われていたのは、人を見てはいけません、という言葉。

そのあとに、神様を見なさい、と続くこともあれば、自分は自分である、と続くこともあるし、実を見なさい、と続くこともある。
彼女自身が、人を見すぎることによって、本質を見誤ったり、混乱・失望した経験を通して学んだのだと。

私はそもそも人をそんなに信用したり尊敬しすぎない方だが、評価は割と気にしてしまう方で。
そんなとき芥川の河童を読むと、評価などどうでもよくなる。

参考:「河童」/芥川龍之介

報道不信

年に二回ほどだが訳もなく苛々することがあって、そういうときは自分で分かるのでカルシウムの錠剤を飲んでじっと神妙にしているのだが、その際に沢木耕太郎の「バーボン・ストリート」を読んでいて更に苛々する結果になった。

そ の短編では、友人である井上陽水氏が作曲をする際に沢木氏に宮沢賢治の「アメニモマケズ」の詞を聞いてきたというもので、結局よくは読んだことのない沢木 氏は本屋へ行ってその詩の載った本を買い求め、何食わぬ顔をして電話口で教えてあげた結果、井上氏が本歌取りをし、現代の問題を提示するような曲に仕上げ たという話。沢木氏はその歌に軽い衝撃を受けたのだと。いい歌だったと。
井上氏は歌でこう締めくくる。
----------------
君の言葉は誰にもワカンナイ
君の静かな願いもワカンナイ
望むかたちが決まればつまんない
君の時代が今ではワカンナイ
----------------
参考:「ワカンナイ」/井上陽水

落 ち着いた今なら問題を提起する井上氏の意図やその表現力をいくらか評価することもできる気がする。ただ、私は宮沢賢治のあの詩を大変敬愛しているし、心か ら共感している。それで、なんだか腹立たしく思ってしまったのである。ただ、なぜ腹を立てたかを腹を立てながら考えていたら、それはそれだけのことではな いのだと気づいた。
それはここ10年ほど私の中で積み重なってきたジャーナリズムへの不信である。
彼らがある事実をそのままの重さで(つまり彼彼女自身が感じたそのままの重さということだが)本当に正確に伝えようとしているのか、またその力量が備わっているのかということに対する不信である。


詩がわかんないならそれでよろしい。そういう時代だという表現もありだと思う。
私はおそらく沢木氏の見方に何か穿ったものを見たのだと思う。
沢 木氏は「アメニモマケズ」へのアンサーソングだと表現する。私にはそうは思えない。それは「アメニモマケズ」がアンサーを全く必要としていないと思うから である。それは彼の生き方である。独立している。言葉上でも彼は「ソウイフモノニワタシハナリタイ」と言っているのである。問いかけてなどいない。
また彼は言う、これはラブ・ソングともとれるのではないかと。
とれるか?断片的にすぎるだろう。

本当に沢木氏はそう受け取ったのか?
私は彼があるトピックから無理やりにいろんな解釈をひねり出していかにも美しく豊かに見せようとしているように見えた。過剰、だと思う。彼が非常にロマンチストであるということを差し引いても。
小 説ならばいい。それは小説の作者が決められることだからだ。自分のことに関しても半歩譲ってよしとしよう、事実でなくても。しかし何かの対象を表現しよう とするのなら、そのままに表現すればいいのであり、華美な装飾などいらない。彼の生業とするルポ・報道などというものはその正確さに価値があるのではな かったか。


私は少し前まで報道番組と言うものを見続けることができなかった。あたかも本当のように使い古された言葉を使い、感情を煽る様がとても嫌だった。今でもあまり見たくない。比較的すんなり見ることができるのは、テレ東のビジネスニュース。彼らはあまり煽らないから。
前に、感情を仕向けられるのがきらいだと書かれたブログエントリを見た。
もしかするとそういうことなのかもしれない。


何にせよ、当の宮沢賢治がそれを見たとしてもさらりと受け流したに違いない。彼はそう願って生きていた、ただそれだけのことだからだ。誰の承諾を得る必要もない。
彼 の時代にその価値観が支配的だったわけでは勿論ないだろうし、今も昔もワカンナイ人はワカンナイのだろう。もう一つ、現代は現代はと言いすぎる人々がいる が、今も昔も本質は多分変わってない。その時代その時代で現代人は、不埒だし課題に直面しているし混沌の中にいるのだ。


とここまで書いてはきたものの、これも結局は趣味の問題かもしれない、と考える。
私の趣味ではないということに尽きてしまうのかもしれない。なんでも大きく捉える人というのはいるのかもしれないし、それが好きな人もいるかもしれない。
ただ私はその影になっている作品を敬愛していたが故にそれに過剰反応したのかもしれない。

他の沢木氏の著作には優れたものも多いと思われる、念のため。

何者かであること

たとえば、私の何度か用いている「何者かである」ということについて考える。
それは広義において他からの評価である。狭義では肩書きや社会的地位である。

院 をでてから就職活動をした際に強く感じたことだが、人は全く知らない人を見るときに、属している組織、それまでの学歴、職歴、資格、そういった目に見える 社会的地位などでとりあえずの判断をする。それはそうすることが一応の基準になると考えられているからで、もちろんその人となりを知れば知るほどその人に とって彼は何者かになっていくのだろうと思う。ただそれまでは、肩書きなどというのは結局無いと不便なものではある。入り口のようなもの。そういえば社会 が納得するようなもの。


そこで、私は何を求めていたのだろうと考える。おそらくそれは何者かであることなのではなくて、自信だろうと思う。ちょうど去年の試験の終わった頃に、君に足りないものは自信と覚悟だと言われたことが思い出される。

何 者かでないと困ることというのはどちらかというと、社会的に認められていないことというよりは、社会的に認められていないと思うこと、それが自信のなさに 繋がってしまうこと。逆を言うならば、何者かになることは自信を得るための一つのルートになるわけで。というのもその友人の示唆。
自信をある程度 得ることができたという意味で会社に入る前と入ってしばらくした後とでは随分違った。ただ、会社に属していた頃と辞めた今とでは違わない。それはもはや何 かに属していることが問題なのではない。何者かであるということを離れ、単純な自信の問題に回帰しつつあるということだ。
そしてその何者かであるルートによる自信の回復は奏功した。

ただ周りの評価というものを私は把握しきれない。評価を評価と受け取らないこともある。結局は何を信頼するのかに行き着く。つまり私が、評価した人、シチュエーション、内容等を総合して「評価されているかどうか」を評価するのである。無意識下で皆やっていることとは思う。


そしてもう一つ言われた覚悟という話。ここへ来てそれが迫ってくるのを感じる。覚悟を決めるにはそれに懸けるだけの何か大切なものが必要で、その大切なものとは何であるのかをよく考える昨今になっている。全ての道はローマに通ずるのかもしれない。

atmosphere

最近ひたすら眠れない。何をかき分けても辿りつかない。
眠れないまま暗い中でぼんやりしたり、思いだしたり、シミュレートしたり、そうやって3時を回る。
くるりの「LV30」という曲がついと浮かぶ。「今何時だろう何時代だろう眠れないんだろう」。実際今何時なのか、何時代なのか、わかったものではない。

暗い中でいくら目をこらしたって世界は白黒にしか見えず、窓から見えるうす赤い空のみが色らしい色をしている、と思う。色つきの世界と隔てられている感じがする。それで、思いだそうとしてしまう。

で、ブログを書いてしまったりもする。

頑張らなきゃと思っているのを気取られるのは少し格好悪いと思うのだが、周りにはばればれらしく、あまり長女ぶるな、とは今日の友人の言。ゆっくり焦るなも割と言われる、けど私自身はこのブログの名前に見合うようには、初心のようには加速しようとしていない気がする。


森 美術館でのアネット・メサジェの展示は体のいろいろな部分をアップで撮った写真をざくざく貼り付けた展示や、それらをぬいぐるみでモディファイしたような 展示が結構あった気がした。それはその作者の視点を何らかの形で抽象化というか、芸術の体をとったというか、そういうものだったのだと思う。ああいう風に 断片化すると気持ちのいいものではないが、その視点は勿論私も持っているものだし、神は細部に宿るわけで。
私は人の手を見たりするのが好きなのだ が、手の持つ雰囲気というのがあって、それはブレイクダウンすれば指の細さだとか、骨の形だとか、質感だとか理由は見つけられるのだと思うが、「理由はあ る、けれど本質ではない」という友人の言葉がここでも当てはまるのかもしれない、と思う。その手の持つ雰囲気、というのは、説明しがたいいくつもの理由の 絶妙なバランスを含めた総体、ということなのだろう。事象全般において、それは当てはまる気もする。

一抹の寂しさと

おまへはひとりであの石原の草を刈る
そのさびしさでおまへは音をつくるのだ
-----------------宮沢賢治「告別」より


寂しいな、と思う。東京を、仕事を、友人たちを離れることが。
友人が言った、何かを実らせるには孤独が必要だ、と。
彼は人間を愛し、同じくらい孤独を愛しているのだなと思う。犀の角。


自分を商品として見ている、と言ったのは別の友人で。
それは主に対親で、そういう見方は私にとって新しかったし、とても真面目な感じがする、と思った。
彼は言った。「なんで会社やめたの?って聞いた方がいいのかな。」
僕が旅に出る理由は大体百個くらいあって(くるり「ハイウェイ」)、といいたいところを三つくらいにして、話した。
彼は言った。自分なら今までの投資を考えてしまうし、いつまでも魅力的な商品であり続けていたい、と。つまり投資対効果が一定以上ということと、ありきたりなことをして(彼または彼の親にとって)面白くないレールの上を歩きたくはないということ。
私は今まで彼のそういう姿勢を、若さからくる何かだとおもっていたのだけど、よくよく聞けばそういう親孝行のあり方なのだった。それが彼にも親にもwin-winになればいいなと思う。

私 は自分を商品だと思ったことはなくて、両親が私に注いだものは金というより愛であり、それに報いるのはやはり愛をもって、と思っている。両親も幸い投資対 効果には頓着していないようなので(とはいえそういう面でも報いたいけど)、多分本質はそこじゃない。うちの場合。で、こういう決断ができたりもするわけ だ。というか、いつもは帰ってこなくていいと言う親が結構な度合で帰ってきてほしいというなら帰るのは当然なのだ、うちの場合。


直感を大事にすべきだ、と違う友人は言った。
「そういうのって直感だよ。理由はあるにはあるんだけど、本質ではなかったりするんだよ。
で、理由積み上げて合理的に出した解でうまくいかなくなっちゃうと、なんでだ、ってなるけど、直感で決めてれば、ああちょっと勘がおかしかったんだね、で済ませられるじゃん。」
屈託なく笑う。
僕には旅に出る理由なんて何一つ無い、のかもしれない。


被害者意識みたいのは無いんだね、と違う友人は言う。
なんで私だけ犠牲に、とか、なんで他の人はすんなり進んでいるのに、とかいう意識って無いんだね。
まあ、あるわけない。犠牲ではなく機会だと思っているくらいだし、こうでもしないと私は実家に帰らなかった気がする。少し前まで、親の死に目に会えないというのも仕方ないとか思っていた人間である。
試験を一旦やめると決めた時から私はそのレールから外れているのだし、違う方面で得難い経験もしたと思うし、それが私には必要な工程だったし、そして今回のこともそうなのだろうと思う。
何がよかったか、悪かったかなんてわからなくて、問題は限りある人生の時間をどう過ごすかだ。それを考えるのもまた一興。何も諦めていない生意気な若人ゆえ。


今後は、地元で仕事を探し、家を見つつ、空いた時間を試験勉強に充てる予定である。


会社を辞めるにあたり、様々な反応をいただいた。
コンサルとしてのポテンシャルを語ってくれた上司、今後のキャリアを心配してくれた人、試験を受けることを歓迎してくれた人、家を心配してくれた人、また一緒に働こうと言ってくれた人、壮行会だ!と飲みたがる先輩。
そういった人々の言葉に支えられて積み上げていくものなら人生は素敵だなと思う。

「在る」について

メモ
問題点の整理

1.真値とは何か
真の値。数値で表すことを前提とする。
真値があるということと表現できるかということは別→exactly
面積2の正方形の辺長を√2としたように、究極的にはリンゴA1個の質量は1リンゴA、でもいいことになる?それ真値?意味ある?真値がある、というのは統一基準の単位のもと数値で表せる、ということなのではないか。
仮にグラムを単位として真値を導くとしよう。


2.真値を「観測しえない」とはどういうことか
リンゴAを手に持つ。手に持って質量を感じるという方法により観測はできていることになる。あますところなく。それをグラム単位の数値で表すとどこまでも先で見えない、つまり表現しきれないという意味ではないか。


3.真値を観測できないとき、それは「在る」といえるのか/「在る」とは何か
・「在る」の定義
「在る」とは「その状態である」ということを指すと考える。これは、「その状態を物質的に観測できる」という意味と「その状態を観念できる」という意味がありえ、またその都度「その状態」定義の内容は変わりうる。

・リンゴAの真値は「在る」か
「グラム数で定義した真値を観念できる」という定義ならば、観念できると思えば「在る」。「真値それ自体を観測できる」という定義ならば、真値を知りえない以上「在り」得ない。

・リンゴAは「在る」か
「リンゴAというものを観念できる」という定義ならば、「在る」。
「赤くて大きさがこぶし大で質量が200グラムぐらいのものを観測できる」のような定義の仕方だと、それを観測できれば「在る」しできなければ「無い」。※「目の前のものを観測できる」という定義の仕方だと、「在る」。(トートロジー的だがこれが割と多い気がする)

・正方形は「在る」か
この場合、定義がすでにある。「観念できる」という定義ならば観念できるので「在る」。
もし正方形を「観測できる」か、という意味であれば、「無い」。


4.リンゴA/世界の真値の出し方?
リンゴAの質量の真値を知るためには真値の定義(「リンゴAのグラムでの数値」)と、その観測時刻の固定が必要(時間軸をも含めてリンゴAを観測するなら時点ごとの観測が必要)。
そうすると、世界にも真値はある(値で表せるものに関して)。定義と時刻の固定(または観測期間における時点ごとの観測)により。ただし、時間の流れが各所で変化しないという前提のもと?時間の流れ方すら含めて真値としてもよい?


5.時間軸との関係
「その状態」の定義の際に、ある経験をもとにすることが多く、その場合その経験時点の状態を「その状態」とすることになる。なので、「その状態」との比較である状態を観測/観念するという意味で、「在る」は相対的なものである。
そしてその都度「在る」定義は更新されていく。


6.文法
無意識に使っている言葉の法則を探ること。

挑戦と共有への情熱について

友人の掲示板にやたらと長くわかりにくい文章を書いてしまって後悔。
そこでは「在る」とは何かの話をしていて、端的にいうと、全部主観、という主張。「在る」と思えば「在る」、みたいな。
これって結局単なる諦めで。ただ、今時点で一番正確に言うならそう言うしかないと思う。
しかし人間の能力的にどう考えても把握できない世界を把握しようとする人間の挑戦や情熱は好きだ。


たとえば観測という話。
これは数値で世界をとらえようとする試みで、おそらくはその単位の設定が難しいのだと思う。
その一番精度の高い、つまり一番小さい単位を見つけるのがポイントなのかもしれない。ほんとに挑戦しようと思ったら。

もうひとつは、共通のものさしをつくる、という試み。これは便益のためだ。ある王の胸から指先までの長さが1メートル、なんていうアバウトなやつはそういうこと。(今のメートルはもう少し厳密ですが用途はまあ同じこと)
ある価値を共有する、ということ。
人と人が、同じものを見て、ねえ同じものが見えてるよね、という確認をしたいがために、文化は発達してきたのだと思う。
共有するということへの情熱。
言語なんかその最たるものだし、もう少し精度が落ちると絵や音楽もそうだと思う。
そして結局、わかりあえない、と思うのだ。

で、先の単位への挑戦にしたって、結局、測り知れない、と思うのだ。多分。
しかしチャレンジは人間の幸福だと思う。

080726

書こうか。

天王洲アイルから永田町へ。永田町から八丁堀へ。八丁堀から赤坂へ。赤坂から台場へ。
今日はよく移動した。
それらの場所で、採血や閲覧や訪問や会食や散歩をした。

初めて会う人が二人いた。一人は紺の浴衣を着ていた。

台 場の空は都会の反射で赤く明るく、そこには黒い木々の葉やその梢がよく映えた。光を減ずると色が減ることを我々は経験的に知っていて、赤い空に黒い木とい うような、黒と何かの色の組み合わせは脳にとって刺激的なのかもしれない。プレミアムモルツのCMやシン・シティの映像が印象的なのもそのせいな気がす る。
色が減ると言ったのは、黒も色に含めているからだけど、光との関係でいえば黒は色ではないのかもしれない。非色。吸色。

帰り道にはくるりが歌っていた。




天王洲アイルは空いていて、カフェでお昼を食べながら、さけチーはモッツァレラに似ているから、代用にしていつかトマトパスタに入れてみようと思いついたのはそもそも食しているパスタがモッツァレラチーズの部分以外不味かったからだった。

会った感想を初対面の人にその場で言われることの久々。ちなみに感想は「息子の嫁に」で、言った彼女は27だった。光栄だ。


鎌倉の仏像の話から派生して、人の形をした造形に存在する何かしらと、それを求める心理について。キリスト教やイスラム教は偶像崇拝を禁じている。
ともすれば、人間は像をつくる。形にすることで信仰や意識の対象を選択し集中させているのだろうか。目的を明確にわかりやすく、つまり目に見え手でさわれるようなものに具現化したいのか。
カトリックのマリア像はOKなのか、プロテスタントの十字架はどうなのか。象徴はどこから象徴なのか。メタファーとしてのあしか。

そ もそも、なぜ偶像崇拝を禁じたのか、というのは、私の理解では、像を崇拝することによって像それ自体を独自の神として作り上げてしまい本来の神のことを歪 曲したりそむくようになるから、という理由かと思っている。それに像が神のように扱われることによる不都合(たとえば継承・所有の争いとか傷をつけたら何 だとか)もあるのかもしれない。

個人的な意見としては、何かを通して神を見る、というのはありなのだと思う。人間が使える手段は限られているから、目に見え耳に聞こえ手でさわれるものを通して神を見るというのは至って当然だとも思う。
ただ殊に人の形を模ったものは概して感情移入しやすいし、それ自身を神と信じこんでしまいやすいのかもしれない。人や像を信じるのではなくその先にいる神を信じるのだ、と強く思っていないと難しい。
私は割とアニミズムぽい考え方をもっていると思う(かといって虫も殺さないというわけではない)(人間が虫を殺すのは生態系の一部だと思う)。ので台場の木々の梢にもそれを見出すことはある。けど像を拝もうとはまだ思わない。
先日仏像に圧倒された経験は大事にしたいけど、多分あれを通して神を見るとするならば、ああいうものを作り上げた人間の情熱や、その人間を生み出し生かしているという点において神をみるのだと思う。あれに何かが込められているのは本当だと思う。


人間がつくった一流の物たちについて。
マッカラン18年の上質なストーリー性。ロードスターの「ワクワク感」ZOOM ZOOM。
こういうことが真のホスピタリティなのだと思う。し、黙っていいものをつくる、というのが格好いい。
最高の体験価値。


期待していないつもりなのに、少し傷つくことがある。
価値を出せないことに悩んだりするのは何も対仕事だけではない。

我に返るということ

また、時間は高さだとかエネルギーだとかそんな話を読んだから、いろいろ読みたくなった。

と きに執着し、ときにどうでもよくなり、何かが見えたと思ったり、詮無いことと気づいたり、その繰り返しで、そこで思うのはアウフヘーベン的な何かであった り、キルケゴール先生のあれかこれかであったり、死に至る病であったりする。それでもLife goes onなのであり、Going my wayであって、というかそれらは割とあらがえない事実を確認する言葉だなと思う。ひとつには諦めで、ひとつには意志。

時間がなんでもなぎたおすという表現はたいへん相応しく思われる。
ベ ルリンの壁を壊したのも、ローマ帝国を滅ぼしたのも、時間だと言われたら、その時歴史が動いたっていうか、つはものどもが夢のあとで、国破れて山河があっ たりなかったり、諸行無常な響きは時間の音だったのかもしれなくて、地球温暖化とかまさにそれじゃないかとか思うわけで。何にせよ、べつに誰が責められる べきとも思わない。
人はパンのみで生きるのではないけれども、パンなしでは生きられないのであって、WFPの活動は素晴らしいと思う。そういった 何か慈善活動的なものについて、それはポジティブにやればいいのであって、誰かを責めながらやるのは筋でないと思うのだ。募金活動は拠出しない人を非難し ながらやるべきではない。
と結構強く思うのは、歪んだ正義感なのかもしれないと思う。強いられることに対する抵抗。


ぢっと手を見る、というのをよくやってしまう。正気に戻ってしまい、形而上学的世界へ誘う行為である。勉強やら仕事やらというのはやってる最中は正気じゃないと思う。集中というのはそういうことだ。

memo_080705

上野
てんや
てんやのない場所
東京芸大
奏楽堂
チェンバロ
シャンデリア
シャングリラ
こども図書館
アンドゥ
モモ
レアチーズケーキの箱
島○君
ゆりかもめ
香港
きりん
石油
海苔
環境
百人一首
袖振ったり振らなかったり
足が小さかったり
宗教
垣根
定義
ルール
善悪
潮風
グリーンタワー
中華
センス
伸びしろ
便利士
物怖じしないこと
沖縄の男
香港の手
クラシック

後日京都で

旧友、その友さらに友。

高校時代の友人が東京に来ているというので、有楽町で逢いましょう的な。
曰く、ブログを見てると元気なさそうなのに実際会うと元気そうだとのこと。
Exactly.よく言われるけどそんなにひどそうなのか。大丈夫です。

イタリアンにカフェにベトナム。なんだよペニンシュラかよ的な話もありつつ。頑張った感の評価。結婚式があったらしい。
ベトナムは人数が増えていて、関西オンステージで、テンションの違いと喋んなくてもいいポジショニングにまったりしてしまい、全く積極性に欠けるかたちになったけど、それもまあいいか的な。名刺ある分交換。先刻あらゆる面で友人には消極性をアピールしていた。


なんだか久々に知らない人たちに会ったので、というかすこし違う世界の人たちと会ったので、興味深かった。皆京大だった。そういえば。気を遣って、結局コアの話をしないのが大人なのだろうけど、それってば楽しくない。
沖縄の話を熱く語ってくれる京都の人がいたりもして、それってすごくありがたいというかその人の傍にいる沖縄人の人徳なのかしらとか。
な んだかそういう人って結構いて、いわゆる沖縄フリークというか。そういう人たちの気持ちってすごく嬉しいし、自分としても当事者というよりその目線で最近 は沖縄を見ようとしつつあるなと思う。客観的に見えていてそれでいて好きだと言ってくれるのがいい。沖縄人が沖縄を好きなのはある意味当然なのだ、自分が 自分をなんだかんだいって庇うように。

なんとかしなきゃいけない、問題を解決しなきゃいけない、沖縄を変えなきゃいけない、そんな議論はたくさん聞いてきた。変えるにはどうすればいいか、何が必要で今何をすべきなのか、そればかり話してきた。
でも実際、私は、沖縄の何を大切に思っているのだろうと思った。何を大切に思うから、変えなきゃいけないのか。

基地の用地になっている土地じゃない。経済発展でもない。反骨の風土でもない。
私は多分、あの人々の決して裕福ではないが満ち足りた生活、血の騒ぐような伝統文化、言わなくてもわかるような根底に流れる絆、みんなが当たり前に助け合えること、人生に対する鷹揚さ、広い海に臨んで世界を感じられる心、そんなものを大切に思っているんじゃないだろうか。

そういう出発点を分析することを怠っていた気がして、なんだか気付きを与えられた。
それを確認したうえで動かなければ、よかれと思ってしたことで、大切なものを失うことになる。


というわけで、通勤で通るいつもの道で小一時間立ち話してしまった。
皇居の黒々とした緑は実際魅力的だった。


賢い人はたくさんいるし、それぞれがいろんなことを考えてて、そういうのを共有できていないのはなんだか惜しくて、というかそれを吸収したくて、つまりもっといろんな人と話したいなと、そう思う。
京都でも思ったのだけど、少し話すだけでも頭のよさとか考えてることの深さとかって見せてもらえることがある。それはその人が黙ってて隠そうとすれば隠れてしまうものなんだけど。
大人になるとそんなことがある。学生くらい自己主張をした方がもっと日本は良くなると思う。
ああ勉強しよう。