June 28, 2009

欲とモチベーション

眠れないでいるとき、最近強い空腹感がやってくる。
床につく前に何かを食べていても、やってくる。それは「パン屋再襲撃」の中の呪いのような空腹である。湖の上から見下ろした海底火山のような空腹である。
それはお腹の部分だけを取り外したくなるような耐えがたい空腹で、でも多分、仮に取り外せたとしても消えない、骨まで沁み渡るような空腹である。

大抵寝る体制に入ってからは、物を食べたりしない。
寝る準備をしてから何か食べるなんて「どこか間違っている」と思うからであるし、また面倒だからである。歯磨きも終えたし、とか、太るし、とか、そういうのも含めて。
それでもやりきれないほどの空腹に至る場合というのがある。
そういう空腹は、大抵冷蔵庫から牛乳をまたは豆乳を取り出してコップに注ぎ、それをリビングで胃に収めることによってやりすごす。少しはいい。うちの冷蔵庫に牛乳があってよかった、と思う。たまねぎとバターと脱臭剤しかないなんて悲劇以外の何物でもない。


なんだってこう一日に何度も食べ物を補給しなければ生きていかれないようになっているのだろうと、思う。
鳥を見ていて思うのは、一体彼らは食べるために生きているのか、生きるために食べているのか、というか食べることと生きることが同義なのかもしれないということ。
彼らは体が小さいために、養分を蓄えておけないのだという。それで、常に餌を探して食べていなければならない。きっと鳥だけじゃなくて体の小さな動物は皆そうなのだろう。

「わしらは最近、ご飯を食べるのに二時間もかかりよる。いれ歯のせいではない。食べることと生きることとの、区別がようつかんようになったのだ。」
江國香織「晴れた空の下で」(「つめたいよるに」収録)より引用。


欲のかたまりとはよく言うけれど、それって結構あたりまえというか、そういうものっていうか、と思う。
欲っていうのは、言い換えると「モチベーション」だろうと思う。
この、言い換えというのはすごく便利だ。すべてが、「成長へのモチベーション」とかに置き換わる。名誉欲が強い人も、モチベーションの高い人になる。それで、それは別に悪いことじゃないし誤魔化しでもないと思う。あるものを下から見るか横から見るか、てな話である。
逆に欲は、義務でもある。食欲はいくら制御したとてなくすことはできない。どんなに頭で食べたくないと思っていても。我々は欲に縛られているともいえる。

ちょっと前までそういう欲だのモチベーションだのが低くなっていて、地面すれすれだったりとかしたのだけど、これは疲れによる。なんか、いろいろ。エネルギーの支出は避けたいというか。省エネモードというか。それで、結構諦めがよくなった。
でも最近すこしずつ欲とかモチベーションとかが上昇し始めていて、これは元気になってるなと思っている。ふーんって感じである。

でも、デフォルトはそんなにエネルギッシュな人ではないと思う。
働 いていた時の会社の社長は、まあ大抵の社長にあるようにバイタリティがすごくて前へ前への人で、会社をより大きく、より価値を提供し、より魅力あるものに して、より大きな仕事をしたがっていた。私は面接の時そんな社長に、君は僕と似ている、といわれたり(まあリップサービスにせよ)、バーで隣に座った時に 互いの手相を見てお互いますかけ相で、やっぱり似てるよ的な話になったけれど、こう前へ前への姿勢というかベクトルというかそういうのが違っていたし、そ の違いはもはや決定的な違いに思えた。違う種類の人間だ、と思った。

社長はいつか言っていた。プロフェッショナルというのはモチベーションを高く持ち続けられる人だと。まあテレビ番組の受け売りだったのだけど、でも、私なんかはそれを聞いて、プロフェッショナルにはこの業界ではなれそうにない、と普通にすんなり思ったのだった。

貪欲であること。

スティーブジョブズの言葉を確かに私は引用していた。
Stay Hungry.Stay Foolish.

システム畑

働いていた頃、上司と、自分の作ったパワポを一緒に見ながらデスクでレビューというのがあった。

「軸がちょっと」
「(ロジックが)流れてないな」
「メッセージがいまいち」
「もうちょっといい感じになんない?」

というアバウトな感じから、

「直観的じゃないなあ」
「ここ色味が。もう少し薄く」
「ここインデント揃ってる?」
「これ(文字の大きさ)何pt?」

という見た目の指摘に加えて、たまに言われたのが、言葉の使い方だった。

「ここの『フラグシップ』はね、『フラッグシップ』に直して」
「どうしてですか」
「なんか、システム系の人みたいじゃん。IT事業部だったらいいけどさ、うちマーケティングだから。お客さんもそういう人たちだからね」

で、なるほどーと思ったことがある。
フラグって、システム系っぽいのか。と。いわれてみれば、そんな気がする。
正当に読めば、フラッグだ。

たぶんその理論で行けば、私のようなシステム畑とは縁もゆかりもない者が使用する場合、エントリはエントリーと言うべきなのだ。

と、「エントリ」と打つたびに思っている。
でも今更変えられない。

甘やかした

何か書くことがあっただろうか。

私は一応自分の胸の中を調べて見た。けれどもそこは案外に空虚であった。思いあたるようなものは何にもなかった。

という「こころ」の言い回しはいつも、エントリの作成画面に向かうと浮かぶ、もはや反射のような、まあそんな感じだ。


書 きたい時に書くというのが一番いい、と信じて疑わない今日この頃だが、書きたいのに書くことが見当たらない、どこを探しても、いやあったはず、ここに置い といたんだけど、おっかしいなあ、まあいいや、携帯くらいなくても死なないでしょ、と出かけるみたいな気分で書き始めてしまった、いつだって見切り発車で ある。


見切り発車は得意だ。得意であってもうまくいくわけではない。見切るのが早いというだけで、見切った結果がついてくるわけ ではない。ここでも自身の根気の無さがうかがい知れる一つのエピソード、短編好きが思い起こされるところではある。根気ないなあとわかったのは結構最近 で、というか、年々根気が失われていっている。根気は婚期に通ずる。いや通じない。

長編を読むのが億劫になったというのもその一つだし、見切り発車もそれだ。
論 文試験の記述の際も、ろくに答案構成をしないで書き始めてしまう癖というのが学部の頃からあって、学部の頃というのはそれですんなり単位がとれてしまって いたし(相対的にまわりが勉強していなかったため)、院でもなんとかなってしまった(しかし惨憺たる成績)。それで、答案構成に時間をかけるよりはある程 度固めたらあとは書きながら考えればいいやなんて思ってしまっているのである。まあ書くのが遅いから、構成に時間をかけていられないってのは一応ある。で も、多分に根気の問題がある。

ブログのエントリも、何書こうかなんて全然考えてない。全然。なんだかワードが一個転がって、書き始めだけ 浮かんだらあとは筆の向くまま気の向くままで、まあそんなことは読んでいればわかる。ちゃんと構成して書けないのである。そういう性格というか、自分の甘 やかしがこういう感じで発露。書くことをずいぶん考えてから書いたんだろうなという文章に出会うと、頭が下がる。そうかそれで、創作とか超不得手なのか。 ああいうのは構成が必要だから(多分)。
で、タイトルは、書いたものをざっと読み返して適当につけている。


甘やかしというのはここ最近の自分についての発見である。
根気がないのも、タイムマネジメントが壊滅的に下手なのも、見切り発車癖も、断る力のなさも、ブログの文章のクオリティを上げる努力のなさも、全てここ数年の甘やかしのせいである。
厳しくしなければならない。(あ、でも、ブログのクオリティは上がらないと思う、あしからず。)

外からのプレッシャーが無い今、内からのプレッシャーというかコントロールが必要で、そんなものは26にして気づくべきところではないのである。未熟すぎて力が出ない。顔もふやけるわけだ。
最 近はあまり無いけど、たまに鬱鬱とするとき、決まってスキルの無さと一緒に思い浮かぶのが意志薄弱であるという点。意志薄弱にして俗物、碌々として瓦に伍 する、とか思っている。そろそろ虎になるのではないか、いやむしろ今虎になっているのではないか、虎になれたらいいのに、しかしいも虫は嫌だな、いも虫も 漢詩を詠んだら格好いい、なんて思ったりする。
まああくまで、超ダウナーな時に思っているのであって、普段は、根気無いなあ、くらいである。

こうやって書き進めてくると、つまり風の向くままに旅をしていると、着地点が定まらずに探していく過程でどんどん文章が長くなっていくという傾向がみられる。もう眠い、というときは仕方がないので海上でも無茶して降りる。
そうして、この文章もまた、着地点を見つけられないままに、うまく見失ってくれただろうかと思いながら、筆を擱く。

記録について。主に写真を材料に。

picasaで写真を整理していると、その写真を撮ったその時一緒にいた人とか、その時考えていたこととか、気分とか、そういうのがぼやーっと蘇る。

例 えば台場のきりんを撮ったのは1度や2度ではないけれど、その時付き合いそうになっていた人が一緒であったり(今思えばこれがミステイクだった)、バイト の同僚が福岡から電話をかけてきていたり、会社の先輩が一緒だったり、家族が一緒であったり、もちろん一人であったり。まあ一人が圧倒的に多いけど(台場 は一人に限る。誰かと一緒に来れたらいいのにと思いながら一人で歩く台場が一番いいのだと最近気づいた)。
その時それぞれできりんはそこにいるのだけど、どのきりんがどの時のきりんかというのは撮った本人にしかわからなくて。
それはその時の気分と一緒になって写真の中に封じ込められていて、なんでもかんでもひもづいていて、それはそれでいい。

ひもづいている、というのはすごく便利だ。何かは何かからの連想で思い出せるから。
ひもづける、というのが結構好きだ。

た とえば2008年の4月のことを思い出したい時には、ブログの2008年4月のエントリをざっと眺めれば大体何があったか、少なくとも頭の中で何があった かというのは思い出せる。データが文字となって表示され、文字が文章を構成し、文章が意味をもって私に認識され、その認識がひもづいた記憶を意識に浮上さ せるなどというプロセスを経て。
それは自身固有の特殊なひもづけであるかもしれない。
私がたまに書くあのメモエントリなる単語の羅列は、連想による記憶の呼び起こしを可能にする最小限ver.の記述である。
書いてしまえば安心して忘れられる。記憶のバックアップである。
そうして、このブログは存在意義の一を全うする。


そうやって考えていくと、なぜ私はいちいち記録しておきたいのかしら、と、思う。
何かを考えたこと、学んだこと、経験したこと。
行った店、場所、展示、本、音楽。

我々は、残しておけないものを記録しておくことに、多くの時間とお金を費やしている気がする。音楽なら楽譜やデータで、思考なら文章で、料理ならレシピで、映像ならデータや写真で。
それは他者との共有の目的もあるし、自分の足がかりのためでもあろうと思う(つまり記録しておけば思い出すことが簡単になって次のステップへ行きやすいということ)。
で、それ以外のなんというか、もっと情緒的なものというのがあると思う。感情やなんかを写真や音楽にひもづけたりすること。
それを狙ってする記録は、過去の感情に浸りたいときが将来あるであろうことを予見して、しているのかもなあ。無意識だけど。

私は写真を携帯で撮るのが常なのだが、携帯越しの景色というのは、当たり前のことだがあまりにチープだ。それにいつも気づいていなければならないと思っている。
写真もメモエントリの単語の羅列と同じように、記憶や感情を想起させる単なる最小限の記述なのであって、そこでの体験をおろそかにして写真を撮ることに時間を費やし過ぎてはならない。写真は決め打ちで数枚。よし。以上。


あ、補足。
記録としての写真と、芸術としての写真は、その目的の違いに応じて自ずと撮る時の態度も変わってくる。証拠保全としての写真も、説明のための写真も、それぞれ。

日時の不可思議と本屋の不平等ととシングルタスクの利点

・日時について
今、何年の何月何日何時何分何秒か、ということについて。
これが即座に答えられる人というのはもしかするといるのかもしれないけれど、大概答えられないと思う。

何時何分何秒とまでいわずとも、何月何日だったか、果ては何年だったかすら、いまいち覚えていないのが自分で。

そんな認識の中、要件事実論の本を読んでいて、ふと、思ったのだった。その本にはこう書かれていた。
「顕著な事実は、立証の必要がない(民訴179条)。要件事実の学習において、しばしば登場するのは、確定期限の到来や経過である。『7月14日が到来した』ということは、世人の皆が知っていることであって、証明する必要がない。」
用語法は置いておいて、つまり今日が何月何日であるかというのは、世人の皆が知っている事実なんだなあということ。いや、そうなのだけど。
何らかの問い合わせを必要とする自らを省みて、それってすごいなとなんか思ったのであった。
私は大抵携帯を見るけれども、携帯が壊れたら。誰かに聞く。その人もなんか怪しいとしたら、117(だっけ)に電話する、とかいろいろ手段はあると思うんだけど、コンピュータや世界中の時計が無効になったら。

た ぶん今日が何月何日かというのは、ずっとちゃんと見ている人がいないと、あっというまにわからなくなってしまうのじゃないかという恐怖。確かあの日が何日 でそれから何回眠ったから多分何日、くらいはわかる(でもこれも怪しい。昨日の晩御飯と一昨日の晩御飯とか間違うし)。日時もまた、壮大な全世界を巻き込 んだフィクションであって、それに逆らう者がいないという興味深いもの。なんてことを思ったりした。

まあ、太陽の軌道とか星の位置なんかで割り出すことはできるのかもしれないんだけどね。

こういうことを考えていると、要件事実論は頭に入らないのさ。


・本屋日和
次。
先日、沖縄に堂々オープンしたジュンク堂書店へ行った。三階建てでフロアを存分に使っていて、椅子もちゃんとあって、ああジュンク堂だわここ、という感じ。
法律の分野も大分充実していて、素晴らしい。法律書の本棚を見て回って悩むっていうのを久々にした。悩める喜びとでも言おうか。

本 をネットで注文できるとはいえ、本というのは中をパラパラ見て買うものだし、大体どんな本があるのかを知らなければ買いようが無いわけで、実際に本を揃え て提示するというのはもう必須だと思うわけである。AIDMAなら最初のAttentionである。認知、理解、行動の認知。これがもう決定的。
と、常々思っていて、ようやくそんな不満が満たされつつあるわけである。

満たされた、のではなく、満たされつつある、というのは、件の新刊がどこにもないということ。
店員さんたちも忙しそうだったから聞かないで結局「海辺のカフカ」を買ったけれど(まあこれもいずれ読もうと思ってたからいいんだけど)、品薄なのか僻地だからなのか、ない。当然平積みかと思っていたのに無い。
そうして更に数日後、違う書店へ行ったところ、ここにも無い。春樹棚はあるのだけど、新刊はない。そういうもんなんだな、という軽い失望。


・Come back to me.
最近は音楽を聴いている。
結構歌詞を聴いていないことが多い。
私は、基本的に一つのことしかできない。シングルタスクである。これは大分不利で、人の話を聞いていないという場合には、聞いていないのではなくていっぺんに二つ以上のことをしていて聞けていないのである。そういう性質だと思っていただければ。
妹曰く、「女の風上にも置けんな」。

そんなわけで、曲に集中しているから歌詞の意味とか味わってないのである。意識すれば(つまり曲をあんまり聴かずに詩にばかり注意を向ければ)、聞ける。
私 はm-floの「Come back to me」という曲(アルバム「Planet Shining」に入っている)が結構好きだったのだけど(某tube参照)、昨日意識的に詩を聞いたら、全然、全然好きじゃないことに気付いたというこ と。僕はそらまめのスープなんか、全然好きじゃない。全然好きじゃないんだよ。みたいな感じである。
でも音は好きだなあと思って。多分、未確認だけど、m-floの曲って大部分がそういう曲かもしれない。
歌詞を聴かずにおれることの良さを見出したのだった。

時は金か

「時間をつぶす」っていう言葉があるけれど、子供の時分その言葉を聞いたときには、ずいぶん大人っぽい言葉だと感じた記憶がある。

タ イムマネジメントに躍起になる昨今だけれども、子供の頃って、時間をコントロールするものだと思っていなかった。たぶん時間だけではないのだが、今コント ロールすべきとされているいろいろなもの、つまり体力とか健康とか人間関係とか、はコントロールする対象ではなかった。明らかに。
だからマネジメントなんて思想はなかった。


先日NHKの番組でちらっと見たけれど、人脈術のようなものをやっていた。勝間さんがインタビュアーで、藤巻幸夫氏が取材されていたのだけど。
沢 山の人と知り合えばそれだけ楽しいし、わいわいとやるのもサシで話すのも面白いけれど、それをこう、金脈のように人脈って言っちゃうと、ちょっと違う意図 が前面に出てきてしまうから、微妙だよなと思ってしまった。そうやってテレビで、人脈はこうやって作るんです、活用するんです、とやってしまうと、なんか 動機を疑われたり、自分でもそういう動機で仲良くなるようになってしまうのじゃないか。
そこらへんの割り切りというか、むしろ割り切らないで併存させるスタイルというのが大人だ。
これもまた、人間関係をマネジメントするっていう発想だと思う。それ自体は別にいいことだと思う。実際いろいろなことをするのに役に立つし、大抵そういう人がやりたいのは何かでっかいことで、そういうでっかいことは大抵、ある程度以上社会の役に立つことなのだ。


横道にそれるけれども、金儲けが悪だ、という思想っていうのはあって、そういうことを昔思っていたと人から聞いたこともあるし、今も多分そう思っている友人もいる。

金 儲けは相対的な問題で悪とみなされることが多いのだろうと推測する。つまり、金儲け自体そこだけを見たら、ある価値を出して、もしくは合法的な仕組みを利 用して、お金を得ているわけで別に問題ないと思うのだけど、同時に貧しい人がいるということがよくない、とか、金儲けの過程で誰かが損をしているというバ ランスの問題でよくない、とか、そういうこと。金儲けの反対側で、儲からない人々、損する人々がいるということ。
似たような話が、映画「クワイエットルームへようこそ」にも出てきたな。あれは食べ物だったけど。
で、金儲けの先に何があるのかっていうところまで、考えてもいいと思う。金を儲けてその人は何をするのか。
いずれにしても、金というのは大きな大きなインセンティブなわけだから、これを原動力にするのは間違っていないと思うし、まあうまく使ったらいいと思う。自分も含めて。


で、それまくったけど、時間をつぶす、の話。
時間って、つぶすものなの?って思っていた。時間を有効に活用する、とかも、時間に有効も無効もあるかい、なんて思ってはいないけど、なんか大人って大変だねと思っていた。
子 供の時は、目の前にはやることが沢山あったし、時間は潤沢にあったから糸目をつけずにつかっていた。学校で授業受けて、遊んで、目の前の宿題とかやって、 夕方になったらご飯食べて、また好きなことして、寝て、っていうのを繰り返して、マネジメントなんて考えもせず、ただすくすくと、それでものんびり成長し てたよなあと。でもそんな子供時代にも、余所の子はもしかするとタイムマネジメントを叩き込まれて育ったのかもしれない。

で、マネジメントマネジメントって言われると、そういう自然児には適応の限界があるんだよーという話。

「なぜ」について

「なぜ」という発問には複数の意味があるなと思っていた。

「なぜ、葉は緑なのか」
と いう発問には、葉が緑に見える「原理」を問う、という意味がある。どのようにして葉は緑色に見えるのか、という意味。その答えは葉緑体の話だとか、光の波 長の話だとか、人間の眼の細胞の話だとか脳の話だとかに帰着するだろう。それは、そうなっているから、という状態の説明になる。
一方で、葉が緑である「目的」を問う意味も見つけることができる。なぜ赤でも黄色でもなく緑なのか、という意味。なんのために緑なのか。その答えはきっと出ない。推測の域を出ない。

もう一つ例を出すならば、「なぜ、人は生きているのか」という発問には、人がどのようにして生きているのか、という意味もあるけれど、何の目的で生きているのかという意味の方が多数であろう、と思う。


「なぜ」と問いを発する上で、それらは区別されなければならない。気がする。
「原理」を問うている場合、答えは全部はわからないかもしれないが、いくつかはきっと出せる。
しかし「目的」を問うている場合、その答えはそれをした者にしかわからない。たとえば「なぜ山に登るのか」を、山に実際登る人に聞けば、その目的をもっているはずだから、わかる。でも「なぜ葉が緑なのか」を問うても、葉を緑にした者に聞かなければわからないわけだ。
さらに悪いことに、それをした張本人にすらわからない場合もある。「なぜ生きているのか」などはそのよい例であると思う(ちゃんと目的を持った人も勿論いるけれど)。
これは、その発問の質の違いである。「原理」か「目的」か。
(もっとバリエーションがもしかしたらあるかもしれない。)


そ してさらに、その主体、つまり、それをしたのか、それともさせられたのかというのは、結構判断がつかない。例えて言うなら、生きているのか、生かされてい るのか、ということである。それらは別に相反するわけではないしどちらも正解と(つまり生きていると同時に生かされているとも)いえるわけだけど、目的を 誰が持っているのかということを考えるにあたっては、一応区別しないといけないのかもしれない。まあ目的も主体に応じて複数ありうるわけか。
これは、主体の違いである。


よく、「なぜ」を考える時、主に仕事をしていたとき感じていたことだけど、例のWhy5回っていうやつを実践するときに、どうも質の違う話が混じってくるし、主体の違う話が混じってくるので、気持ち悪いなと思っていたのだった。
それで暫定で整理してみた次第。
もう少しいい整理の仕方を思いついたらまたし直すかもしれない。


余談。
こ の整理癖というのは、いいのか悪いのかよくわからない。実益があるのかないのかという話。自分のすっきりのためにはいいのだけど、仕事だと周りもその話に 巻き込んでしまうので、実益が見つけきれないとこの整理癖を出すわけにはいかない。まあ結構やってしまっていたけど。ふむ。


このことを考えるに至った前提というのは、自然科学と法学の違いを考えていたことにある。
自然科学にはその「原理」を問う発問と、「状態としての答え」があるのに対して、法学には「目的」を問う発問とそれに対する法律や制度を作った者の「政策的答え」があるのだ、ということを思いついて。

自然科学は自然を相手にしているから、「目的」の発問をしようとしてもその目的をもっているはずの主体が見当たらず、これをしようとするときには哲学とかの守備範囲になってくるのかもしれない。
そ して法学が「目的」の発問をしてその答えが出るのは、法律が人間の作ったものつまり主体が明確にあってその意図を問うことができるというところに理由があ るのだな、ということ。別に法学で「原理」の発問をしてもいいけど、それはあまり問題にならない。それはわかりきってるからだ。(厳密に言えば、原理を読 み解くという部分もあるにはある。制度理解という意味で。)

この対象の質の違いだな、と思ったのだった。

春樹を出でて春樹に向かう心理状況

村上春樹を読んだといえるほど読んではいなくて。好きとか嫌いとか言うほどのこともなくて。それで、以下の質問とその答えを興味深く読んだ。

はてな:作家の村上春樹の良さがわかりません、教えてください。

こ ういうのを語り合うというのは一見無粋だとか、邪道だとか、思う人もあるのかもしれない。ちょっと攻略本を見るっぽい感じとかある気もするし。でも私なん かはその辺にこだわりもないので、なるほど、そんな楽しみ方が、とか、そうかそういうところが魅力なわけだね、なんて嬉しくなったりする。
少しこれから読むのが楽しみになってきた。

ノ ルウェイとか風の歌とかスプートニクとか羊をめぐったりとか中国行きとか、結構実は読んだ記憶はあるけど未熟すぎてわからなかったはずだし、更に言えば内 容を覚えていないので再読しなければならないと思っている(まあ大概の本はそうなのだけど)。しなければならないというよりは、したいが正しいな。
大学に入って付き合った男の子が春樹が好きで、なんだか勧められて何冊か貸してもらったはいいがさっぱり良さがわからない、という経験は、した。それを某氏に言ったら更に5冊ほど貸してくれた。
そんな親切な人々によってかどうか、今は好んで読もうと思う。


ちゃんと最近読んだのは、「カンガルー日和」「パン屋再襲撃」「東京奇譚集」「夢で会いましょう」あたりだな、と思ったところで、



全部短編!

とはたと気づく。

私は根気がないので、短編集が好きだ。
最近とみに持久力がなくて、その傾向が強まっている。ねじまき鳥にとりかかったりする気力がない。暗夜行路が積読になってるのもそのせいだ。東野圭吾の「手紙」もそのせいな気がする。まああれは重いからっていうのもある。

短編のキレというか、短くまとまってる感じもすきなのだと思う。
いろいろとだらだらと書いてあると、冗長にすぎる、とつぶやき本を閉じる。本ならまだいいが、挨拶なんかだと閉じるわけにもいかず、つぶやいてその人に念を送る、ということになる云々、というのはまた別の話。


長くても読みやすいやさしいのは好んで読む。江國香織とかまさにそれだ。文字と感覚の距離が短いというか、すぐピンと来るというのがいい。目に入ったのとほとんど同時にわかる、という明快さが楽々なのである。

余 談になるが、その点、法律書ときたら。古い権威のものであればあるほど、解読した時の喜びが大きいという仕様になっている。多分。最近の本でも何やら難し い言葉が出てくる。隔靴掻痒、読めなかった。(かっかそうよう。かゆい所に手が届かない様。)これは法律とは全く別のところで難しかった例なので適当では ない。
古い優れた本ほど、ミニマム!っていう感じなのだ。つまり最小限の説明でまとめ上げている。これは単に読者の力量が問題で読むのが難しいの だけど、そのまとめ方は素敵だったりする。格好いいから、好きではある。けどラフな気持ちで手にとると、数秒後に閉じる流れに、なる。母なる自然の法則に 従ってそうなる。そういうものだ。


こう書いてくると、いかに自分が怠け者かというのがわかる。楽ばかりしようとしている。
でも、開き直る。好きな本を好きなときに読むのが、一番いい。そういうときこそ吸い込まれるものだという持論。何でも旬というものがある。


そんなこんなで1Q84を読もうかなと思う次第。

生理的なんとかも後天的なのではという話など

気が向いて、その隣のものを手に取る、っていうことはある。よくある。良かれ悪しかれ。

それで、前回の
Podcast MEGASTAR-2 cosmos 『暗やみの色』
の「#5 谷川俊太郎×海部宣男 「137億光年の孤独」対談」を寝る時に聞いていたらなんだか面白かったという話。内容もまあまあ面白いんだけど、言葉の選び方がなんだかいいなあと思うことしばしばで、ついつい聞き入ってしまった。結構長いんだけどつい。ゆるゆる。


歯医者の帰りに、ものすごく早く歩く毛虫を見た。
毛虫を見ると嫌悪感を覚えるものなのだけど、その時ばかりはあまりに彼(または彼女)が急いでいたので、嫌悪感など覚えるどころか少しの尊敬すらした。
な ぜ彼彼女はあんなに急いでいたんだろう、とその後歩いていて考えていた。踏まれないように。暑かったから。待ち合わせに遅れそうだったから。タイムを計っ ていたから。私に対する挑戦。まあいろいろ考えられはするのだけど、もしかすると理由はないのかもしれない。気分的なものなのかもしれない。


派生して、毛虫というのはなんであんな容姿なのかしら、と考える。
あまり可愛らしくはない。と思う。可愛らしければもしかすると、生存率は上がるのに。他の動物の赤ちゃんは大概可愛いのに、虫はあまりに可愛くない。

と、可愛くないという判断基準はもしかすると、生理的に云々言っているけれども、須らく後天的なものなのかもしれない、と思う。
小さい頃って、バッタとかこおろぎとか結構平気だし、蝉とかカブトムシとかの裏側も別になんとも思っていなかった気がするのである。2歳くらいのとき蜘蛛はこわかった記憶があるけれど、それすらも後天的なものなんじゃないかしら。
み んなが、嫌だって言っているものを、ああこれは嫌なものなんだ、って認識するように刷り込まれて嫌だって思っているのではないか、なんて思うのである。逆 に、可愛いっていうのもそうで、子猫とか可愛いって最初は思っていなかったんじゃないかと思うのである。そういう価値観の社会だったら、つまり猫なんて毛 むくじゃらで変な声で鳴くし悪さをするし、嫌なものだ、っていう価値観の社会だったら、子猫=嫌なものっていう認識になるんじゃなかろうか。
まあ、極論ではある。
あと、この嫌悪とかって生物としての生命の危険とかそういうのにも関係している気がする。蜘蛛や蛇が嫌だとか。


で、これをセンスとかの話まで持っていける気がするのである。
こういうものはセンスがいい、洗練されている、という価値観がまず社会にあって、その延長線上にあるものを斬新だ、先鋭的だ、センスフルだ、みたいな感じで言っているのじゃないだろうか。
前に糸井氏が、センスも受け継がせることが出来るみたいな話を書いていたけど、そうだろうな、と私も思う。
な んだって模倣にはじまるしつまりセンスもそうだと思うし、新しい「センスのいいもの」というのもその土台の上での微妙な進化だと思うのである。強いて言う ならば、センスがいいというのは勘がいいということで、その土台をちゃんと理解できてそれを微妙に進化させていくことができるっていうことなのかもしれな いと思う。


日馬富士が初優勝である。素晴らしかった。
彼はね、センスがいい。

バースデイ

未来館未来館言っているけど、いい加減行きすぎ感は否めず、今回は行くか行くまいか一応迷った。しかし、プラネタリウム番組が新しくなっているのをホテルで知って、行くことを即決。

バースデイ~宇宙とわたしをつなぐもの~

※参考:今までのプラネタリウム番組


暗やみの色に続き、ハラカミおじさんが音楽協力。
ナレーターは日本を代表するめがね男子ことARATA。ピンポンのスマイル役の人。(ただ、ライブ版を見てしまったので聞けず。ちょっと聞きたかった)

今までに見た番組、つまり「暗やみの色」と「偶然の惑星」は、まず、MEGA-STARⅡすごいね!っていう、つまり基本的に星空が素晴らしくって。
そしてストーリーというか語りがアートで。谷川俊太郎の詩とか、クラムボンの人の朗読とか、ランダムに流れる詩のフレーズとか。一輪挿しの赤い花。
暗やみで星空を眺めて思いを馳せる、そう、「思いを馳せる」ということに重きを置いた、とてもゆったりとしていて雰囲気のある番組だった。ちょっと、アート過ぎて、気恥ずかしいけれど。
その一方で、確かに少し単調さもあるような。気はしていた。

今回の番組「バースデイ」は、飛び出す。3Dメガネをかけて見る。その中には本当に迫力がある映像もあって、自分が銀河の誕生に立ち会っているような錯覚すら覚えるし、非常に幻想的な場面もあるのだけれど。
ほとんど、未来館の別のところでやっている3Dの上映コンテンツ「4D2U」というか、インタープリターの解説とかそういったものが、現実感。ハラカミおじさんの音楽はあまり生きていないし、前の二作品に比べるとアートな要素もあまりない。少し残念。
やっぱり、暗やみの色が好きだったなあ。
でもハラカミおじさんとARATAを起用したところはいいと思う。もしかすると、ARATAの語りだったらまた別の感想を抱いたのかもしれない。


出がけに、知らない男の人が、
「ガキの頃に見たプラネタリウムと全然違う」
と言った。

いまどきのプラネタリウムだ。

むちゃくちゃお勧めというわけではないけれど、未来館に行く機会があれば是非。
常設展示も少し変わっていた。

お勧めは「暗やみの色」のCDだ。映像もよかったから、DVDになればいいのにと常々、思っている。ニッチすぎるのかな。

※参考:P.I.C.S. works 日本科学未来館プラネタリウムopening映像「暗闇の光」

追記:
「暗やみの色」映像あった。
iTunes Store:
Podcast MEGASTAR-2 cosmos 『暗やみの色』オープニング


ついでに西郡勲というクリエイターらしいので備忘メモ
Tokyo Video Magazine VIS:41

試験

東京へ行っていたかのようなメモエントリがあった。
東京へ行っていた。
法律の国家試験を受けに行っていたのだった。


試験について書くのは避けてきた。その試験は今まで受けたどの試験よりもハードで、アタックしてもふられることが確実な恋のような、その試験について考えるだけで自分がコンプレックスの塊になるような、試験だった。

実際、私は自分を受け入れてくれない人や場所を避けてきたきらいがある。もっと楽しい場所があることを知っていたし、わざわざ楽しくない場所にチャレンジしても時間が無駄になるかもしれないと思っていた。諦めがよかった。
そういう姿勢がいいのか悪いのかはわからないけれど、はじめて、避けるに避けられない、いや、避けようと思えば避けられるけれど、避けることに後ろ髪ひかれるものがそれだったのだった。

法律が好きなのは本当だった。それがなぜ試験となると嫌いになるのかよくわからなかった。上述のような、根本的な、自分の問題だということに気づいたのは最近だ。
受け入れてもらえないものに果敢に攻めいるということをしなかったこと。


このコンプレックスめいたものは3年間の院生活で醸成されたものだと思う。はっきりいって、ついていけていなかった。表面的には理解していたのかもしれないし単位はとっていたけど、場当たり的で、底の底の方では全然ついていってなかった。
実 務家になるという覚悟、なりたいという気持ち、法律を使い倒してやるのだという姿勢、試験を攻略してやるのだという気概、そういったものを持てずにいた。 周りが持っているそれとの温度差を感じていたし、それに取り残された感じがしていた。それは知識量や勉強量等々、つまり実力に、当然のように影響した。 バッドなスパイラルだった。


試験期間は5日間だった。1日目がマークシート式、2日目が論述式、3日目が休みで、4日目と5日目が論述式。試験時間はトータルで22.5時間。それでも時間は基本的に足りない。
眠くなったり少しでもぼんやりするような時間は、実際ない。問題は、法務省のWebサイトに掲載されているけれどまあまあ長い。各問、平均A4で4,5枚くらいだろうか。

体 力的にもシビアな試験で、長時間の筆記が肩や腕や手をくたくたにしてしまう。座りっぱなしなので座布団とか膝かけを持参している人も多い。人目をはばから ずバンテリンを首から肩に塗りたくる女子、とか、でこぼこフレンズ(NHK教育のちょっとしたアニメコーナー。お子さんのものかと思われる)の毛布を持参 する男性、とか、冷えピタを額に貼って闊歩する女子、とか、普段あまり見られない光景が見られる。メガネ率は異常に高いが、全然心踊らない。これはメガネ 好きではなかったのだということが改めて証明された出来事だった。残念なことだ。

なりふり構わない、ということの清々しさとか、そうは 言ってもちゃんとお洒落している人々とか(つまりGUCCIのバッグにたくさん本を詰め込んでGUCCIの靴でカツカツと登場するきれいな女の人とか、毎 日変わるシュシュが可愛い大きなカバンを持った女の子とか)もいて、そんないろんな彼らとは、敵同士のような、仲間同士のような。4日目、つまり最終日前 日の試験終了後はなんだか晴れ晴れとしていた。一週間で一番素敵なのは金曜日なのと同じだ。

ある程度の緊張感と敵愾心と不安が渦巻いているような空気の中で、顔見知りや友人に出会って、お互いの直面しているものには触れないままの、なんだか宙に浮いたようなやりとり。久々すぎるのだ。学部の卒業以来会ってないとか、そんな感じだ。にしても久々。

今は、無事全て受けおおせた(白紙答案でなしに)ということが満足であり、これは直前の体調を考えると奇跡に近いと思う。感動的にそう思うのではなく、事実としてそう思う。


結局、絶対的に勉強量が足りないのはわかっていて受けた。背中を押したのはスティーブ・ジョブズの
"If today were the last day of my life,would I want to do what I am about to do today?"
だった。そういわれた時、なんだか受けたかったし、勉強したかったのだ。ふられることがわかっていても、I was still in loveだった。

試験についてちゃんと向き合えずにいたのを、向き合えた今、総括すべきだと思った。

試験はただそこにあって、法律の知識と論理的思考力を問うていた。意地悪でも取って食われるわけでもなんでもなかった。怖くもずるくもなかった。
試験を怖がらなくなった、もっといえば、試験に落ちること、拒否されることを怖がらなくなった時、コンプレックスは消えていた。そこに試験があり、受験資格があったからそれを受けただけだ。

少なくとも、2年前に受けた時より多くのことがわかっている。と思う。
受けてよかったと思う。来年また受けたいと思えた。


友人の言に、「同じ負けるのでも負け方があると思う」というのがある。
至言だと思う。
負け試合を意気揚々と、とはブログ「椿ひらいて墓がある」の言葉だけれど。清々しくてよしとする。
勿論次は勝ちに行くけれども。
まあ人生総じて見れば負け試合なのかもしれぬ。

記号と再現性とその先にある共有について

音楽を聴いていて、ふと楽譜を思った。

楽譜というのは、ある一定の決まりごとの下、音の配置を示した一つの言語ではないかと思って。
それというのは、何のためにあるかというと、音楽をいつでも誰でも再現できるようにするためなのだと思って。
同じ楽譜を正確に読んで弾けば、同じものが再現できる。
厳密に言えばそれは全く同じものを再現できるわけではないのだけれど、何百年も前にモーツァルトの演奏した音楽を、今多少の誤差はあるにせよほぼ同じ状態で再現でき、その音楽に身を任せることができるということの浪漫というのは、あるなと思って。

で、 その音楽をCDで聴いていたわけだけど、CDというのもまた記録媒体というのか、CDが演奏をしてくれるわけでもCDを楽器のように鳴らしているわけでも なくその記録された信号で音を、また楽器ではないスピーカーで再現しているというそのことが、なんかものすごいことだと思って。いや、当たり前のことなん だけど、つまりものすごいということが当たり前なんだけど、そう思ったのだった。

あらゆる言語や信号というのは再現のためにあるのかもしれないなんて思う。お金もそうだ。一旦、一般的な記号に変換して、それを元に戻して、味わう。
そのための媒介物というか。
お金だったら、価値を、お金という記号に変換して、それを交換して価値を再現する。とか。


言葉を使うというのは、自分の体験した何かの感情や出来事や考えたことを相手に再現させるためにあるとも言えるのではなかろうか。伝えるというのは再現するということ?その先に共有があるというのはわかるけれど。

そう考えると、いつでも、どこでも、誰でも、という流れは、再現ということへの情熱であり、その先にある他者との共有への情熱なのやもしれぬ、とか。思ったりする。

人間には共有の欲求が、結構根源的な欲求としてあると思っていて。や、学問的なことはよく知らないけど体験ベースで。
覚え書き。

DM考

ダイレクトメール、というのが送られてくる。いわゆるDMである。
先日GmailにそのDMオファー的なものが送られてきて(転職セミナーのお知らせで、一斉送信的なやつだ)。DMオファー?とか思ったのだった。

そもそも、ダイレクトメールというのはどのへんがダイレクトなのか。
メールの中でもダイレクトなのか。これは違う。メールは皆ダイレクトだ。メールにそのような差別化をすることはできない。
ということは、他の広告手段よりもダイレクトだということだ。
でも、本当にそうだろうか、とか思うのである。ダイレクトメールの中のチラシと、新聞に挟まってるチラシと、テレビ・ラジオ広告と、店頭のポップと、云々かんぬんに、まあ違いはあるのだけど、ダイレクトメールの方がよりダイレクトというわけではないように見える。

そんなこんなで、困った時のwikipediaなのである。
ダイレクトメールというのは、ダイレクトマーケティングの一種らしい。

wikipedia:ダイレクトマーケティングより
「マ スメディアを使用したコミュニケーション施策に代表されるマスマーケティングと対になる概念。例えば、100人のターゲットに対して一種類のマーケティン グ活動を行うマスマーケティングに対して、ダイレクトマーケティングでは100人のターゲットに対して100種類のマーケティング活動を行う。」

オーダーメイドなんとか的な感じだろうか。
でも、多分、他の人にもおんなじチラシとかカタログが送られているのだと思う、普通。
それで、結局メールとか手紙という手段を使うものをひっくるめてDMと言っているのだろう。

結局私はダイレクトメールが上記の意味でのダイレクトマーケティングの一種とは認めがたいわけである。(※1)

で、ダイレクトメールがなぜダイレクトか、というところを私なりに考えてみるに、メールとか手紙というものを、人間が開封したくなる心理、というのをとらえてみたい。

皆 さんも、経験があるだろう。進研ゼミのDM。中には小さいサイズの漫画が入っていて、それは友情とか恋とかをちりばめた、進研ゼミの教材がいかに短時間で 終わり効率的かをアピールした、最終的にはライバルに勝てて恋もうまくいって部活とも両立できたよ的な話だとわかっているのに、開封してしまう、そして読 んでしまう心理。

いや、これは漫画の効用だな。

でもなんだかんだで来た郵便物を開封せずに捨て置くということは、人間あ まりしないんじゃないだろうか、ということ。テレビとか店頭では受け流すけれど、郵便物とか、封をしてあるものというのはつい気になるというか、そういう 作用があるのではないかということ。後日、封をするということについて書ければいいなと思う。
ダイレクトメール、というのは、中身は全然ダイレク トじゃないんだけど、その人宛に届く郵便物という体をとることによって、個人的な、「私に」届いたお手紙的な、そんな心持を少しは抱かせるものなのかもし れない。だって私の住所が書いてあって、私の名前が書いてあるし、的な。もう慢性的にDMの嵐に悩まされているような人は別として、特にDM黎明期の頃 は、結構効果的な方法だったのやも知れぬ。まあ、住所、氏名が封筒に表記されているという点においては確かに個々人にカスタマイズされた広告手法と言えな くもない。まあ、あまりいえないと思うけど。
ダイレクトマーケティングっていうものを、1対1と捉えるならば(マスが1対多ならば)、究極的な形は店頭販売か訪問販売とかなのかもしれないな。マーケティングの定義が難しいけれど。一応ここでは販促をイメージしている。

こうして考えると、つまりDMが1対1というよりは1対多の内容が入ったものだと考えると、普通の手紙やメールなんかは、すごく密な1対1で、手紙・メールの中ではDMは実はダイレクトじゃない方だったのだ、という発見をすることになる。別にしなくてもいい。
何にせよ、DMってあんまり嬉しくないよね、という話。


で、結局、そのDMオファーは私が過去面接で落ちた会社からだったので、目を通さずにtrash。
奇しくもDI。


※1:厳密には、購入頻度や金額等々である程度のカスタマイズはされている場合もあるらしい。100人100様ではないにせよ。
あと、接客した人が手書きのメッセージつきで送ってくれる店もあることはある。これはその意味でちゃんとダイレクトだなと思う。

山田先生のこと

いつまでも支離滅裂な話をトップに置くのもなんなので。
蔵出しシリーズ②。2007年3月に書いたもののようだ。


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山田先生のことを今朝起きるときに思い出した。


彼は高校の国語の先生だった。今もそうだと思う。

彼は沖縄の昔の男性にしては背が高い方で、教室ではサンダル履きで、たまにめがねをかけた。
目は大きく、まつげは長く、セサミストリートにでてくる大きな茶色い象のようだった。
声がなかなかよく、堂々としていて、最初は怖そうだと思ったが、意外にお茶目だった。

よく語尾に「なのだ」を使用し、自らが本土の大学に進学しその際正しく敬語をつかえたことを教授に驚かれたことを話し、軽く見られないためにも君たちも正しく日本語をつかえるようにならなければならない、と言っていた。
私としては口語で語尾に「なのだ」を使う人に彼以外会ったことがないため少々困惑した。しかし今ではそれは彼の芸術性だったのだと認識している。実際彼の話し方が好きだった。

彼 は最初の授業で、まず高校の隣にあるごみ処理場から発せられるダイオキシンについて話した。なぜ公立でうちにはクーラーがついているか、それはダイオキシ ンを吸わせないために窓を閉め切る必要があるからで、そのせいで教室がひどい暑さになり、勉強どころではなくなるからだった。

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と、このように回想されている山田先生もおそらくは今年で60歳くらいだと思う。もう定年されただろうか。

羅生門だとか、山月記だとかをやった。
羅生門の朱色とか、きりぎりすの緑だとか、下人の頬のにきびだとかをありありと浮かばせたのは、芥川の筆力のみではあるまい、と思う。

私 は先生に、文学作品を問題にするなんてナンセンスだ、と主張したことがあったが(なんか若い)、先生も「私もそう思う」と言った。そうして、私は国語の問 題を解くときには常に「ナンセンス」と思いながら解くことに自信すら持ち、解けなくてもかまやしないとか思うようになってしまった。案の定、私はセンター 国語が苦手なまま受験を終えたので、妹に現代文を教えるのに躊躇する。

古文の時間は、黒板に、さらさらと、本当にさらさらと文字を書き、単語を斜線で全て区切り、全ての単語の品詞と活用形を説明してくれたおかげで、その「む」はどの意味なのか、とかがわかるようになった。

山田先生の語り口というのは上記でも触れているが本当に独特で。
「なのだ」にとどまらず、「むむっ」とか、「ええい」とか、なんだか芝居のような感じだったのを覚えている。それでいてすごく自然体で、脱力感のある先生だった(弟子と称されたT先生の方が脱力感は数倍上だったけれど)。

卒業するときに寄せ書きをしてもらった。皆に同じ文句を書いたのだと思うけれど、「どこにいても必要とされる人になってください」と書かれていた。

これは結構難しい、と思う。
誰でも、必要といえば必要なのであって、でもいなければいないで回るものなので。なんて小癪なことを言ってみたり。
自 分がその場に必要かどうかなんて、他人に聞かなきゃわからないし、というか聞いてもわからない。多分、必要といえば必要だし、不要というわけではないけれ ど、でもいなけりゃいないで回るのだと思う。そういうものだ。でも、必要不可欠、ぽい人というのはいる。みんなが口をそろえてそりゃ必要でしょと言うよう な。
それで、結局私は寄せ書きをまた一つの目標として心に留め置くことになる。
数え上げたら私はいくつの目標を抱えているのだろうと思う。乱立するポップアップの如く。


に、しても、会いたい人ばかりだ。まあ、会いたいから思い出すのだろう、なんてまた小癪な。

いい年のとり方が顔に出るということ

BSで宮本武蔵シリーズがやっていて、ちらっと見かける。
若かりし頃の高倉健を見つけるも、高倉健であるかどうか確信が持てないほどに若い。そうして、高倉健はいい年のとり方をしたのだなと思う。

いい年のとり方をした人というのは、顔に出る、らしい。
まあ、顔を見ていい顔をしているから、つまりそこに結果があるから、いい年のとり方をしたね、といっているのかもしれない。多分そうだろう。
い い年のとり方をした、という場合のそう言われる人は、大抵50代とかそれ以上とかの年配の方で、世の中の半分くらいの人はその人より年下なのだからその人 の生き方を逐一観察できたわけでもなく、そもそも年のとり方つまり生き方をどうこう言えるほど他人を逐一観察するなんていう人はそんなにいないのだし、も しいたとしたら好きだから観察しているので文句なしに「いい年のとり方をしている」と言うのだろうし、とまあこんな感じで絡み合う因果関係を絡み合ったま まに眺めては、もう少しかわいく物事を考えたい、と思ったりもしなくもない。いや、しない。

高倉健は、読中の、沢木耕太郎「バーボン・ストリート」に出てくる。粋な出方だと思う。沢木氏の演出。詳しくは読んでみるとよろしいかと。

私は高校生の時分から、高倉健が格好良いと思っていて、何かで好きなタイプを書かなければならないときは大体、高倉健かハリソン・フォードと書いていた。いや、結構本気で書いていた。
高倉健の何がいいって、顔に甘さのないところだ。渡哲也氏などは甘い。甘いおじさまである。おじさまには興味がないのである。

ただ、高倉健のファンというわけではない。映画は「鉄道員」くらいのものだし、CMで「自分、不器用ですから」って言ってるな、くらいのもので。キリンラガーでも飲もうかなと、まあ思わなくもない、みたいな感じで。
でも見ればやっぱり、格好良いなあ、と思う。


で、若い高倉健よりは断然今の高倉健なのである。
同じく、若いハリソン・フォードよりは今のハリソン・フォードなのである。
年 をとったほうが渋みが増し、よい顔になる、というのはやっぱり、いい生き方をしてるんじゃないかしら、と思う。数々の出来事や悩みを咀嚼していい方向に自 分のものにしてきたのではないか、と。いいとか悪いとかは一概には言えないし、時間的にも幅のある話なのでやはり一概には言えないのだけど、いい顔をして いる、というその結果を指摘することはできるし、それが徴表だと言ってもいいと思うのだ。
つまり何かを失って、何かを身につけていく過程で、未熟 さを引きずったり、自分自身に納得のいかないものを諦めて飲み込んだり、何かいろいろとあるんだと思うのだけど、それが結果として顔に出るというのは、あ りそうな気がするのである。優しい気持ちでいれば顔が優しくなるように。

という雑感。

気の迷い

別れましょう
そんなのは一時の気の迷いだ
そんなことを言ったら、結婚は恒久的な気の迷いだわ

みたいな会話が確か、江國香織の「いくつもの週末」にあったけれど。

一時の気の迷い、の連続で人生はできている。
人生と言うよりは、生活といった方がいいのかもしれない。もう少し、生活感のあるものだ。

他 の人がどうかは知らないが、私なんかはこれが沢山あって、後から考えるとなんでああ思ったのだろうとか、なんでああいうことをしたのだろうとか、解せない 場合というのがままある。全然合理的でない、と思うこともあるし、テンションだけで行ったな、というときもある。そういうとき、「なんだ、一時の気の迷い だったのか」と片付けるのは結構小気味よい。

そういう風に片付けるということがある意味で思考停止で、そういう姿勢は良くない、良くないよ、と思っていた時期というのがあったし、まあこれからも度々ありそうなのだけど、そう思うことも一時の気の迷いなわけだ。言ってみれば。

今基準では解せないことも、未来のある一点においてはすごく合理的に感じることもあるし、逆もまた然りということが、気の迷いの連続というか、複合体というか、なんて流動的な人生かしらと思うのである。まあ、あくまで私の場合。
こういうのを、節操がないとか、流されやすいとか、影響を受けやすいとか、単純とか、ばかとか、っていうのかもしれないが、まあそういう性質なので大目に見てやってほしいのである。

そんなことを思う今日この頃。

格好良いについて

先日飲んだ時に、どういう時に惚れるか、という話になった。

で、私は「面白い話をされた時」と、答えた。

咄 嗟に浮かんだのがそれだったし、実際それは本質をついていたのかもしれないと思う。「面白い」というのは、おもしろおかしいという意味ではなくて興味深い というかinterestingの方、という付言までしたところで、ああじゃあ頭の良い人がいいんだ、と言われた。そういうことになるのだろうか。まあ、 なるのかもしれない。これは「頭の良い人」の定義問題になる。

格好良いということ、とか、魅力的であること、というのを一度考えてみたいと思っていた。
結論から言うと、
この人には敵わない、ということなのじゃあないか、
と思う。

さっきの話をもう少し抽象化すると、話が面白い時というのは、感心している時なのだ。
面白い話をされ続けると、その感心が積み重なっていって、凄い、敵わない、というのが確信になっていく。これが私にとっての「格好良い」の正体だと思う。

人によって、もしくは場合によって感心するポイントが違っていて、立居振舞を基準にする場合も、見た目を基準にする場合も、地位を基準にする場合も、スキルを基準にする場合も、あるわけだ。
例えば小雪のささ、とお茶を淹れる仕草に感心するとか、顔の整っていることに感心するとか、エグゼクティブっていう響きに感心するとか、この上司の技術力に感心するとか。
で、私は、格好良いと思う場合の中でも、惚れる、ということに関しては、話の面白さとか垣間見える考え方を基準にしがちだということ。これはまあ良し悪しある。口では何とでも言える、ということも忘れてはならない。
私の場合は話だったけれど、人によって様々で、それが格好良いのバリエーションなのだと思う。いろんな人がいるからいろんなニーズが生まれてそれに対応したいろんな人が必要とされるのだなあと思う。

で、その人が、「よく女性って尊敬できる人がいい、って言うけどあれ何なの」とお聞きになったので、「尊敬できない人は嫌だってことじゃないですか」と答えたが、あれは適当すぎたなと思う。
話や考え方を基準にして格好良いと思いがちな私の場合は、格好良いと尊敬がものすごくかぶるのか、という気づき。逆に、感心ってのは尊敬に似た感情だから、それがないと格好良いと思わない、ということもあるのか。トートロジー。
まあ、もうちょっとラフに使う時もある。
例:マクラーレンのカラーリング、メタリックでかっこいいよね。


感心することと格好良いと思うことと惚れることがごちゃ混ぜになっている気がするが、それぞれ後者が前者の集積の結果ということで整理しておきたい。

SHIFT_

最近になって考え方が変わってきた。

どう変わってきたかというと、以前ほど効率主義、完璧主義でなくなってきた。
完璧主義というのは完璧主義者の中でも中の下くらいの軽度な感じではあったけれど(病院なんかでもそういう結果が出たりとかしたから気づいた)、それも穏やかになってきている。

会 社にいた時というのは、とにかく時間がない人たちを相手にいかに要点をうまく伝えるかとか、いかに早い段階で提案できるかとかが大事で。結構社長直轄の部 署だったのでとにかく社長に時間がなくて、社長と話すときにその要点のまとめ方でGMですら何度でも怒られるわけで。ギリギリまでレビュー入って資料を直 してて急いでバインドするとか、なんかもうとにかくスピードを要求された。どんな仕事でもそりゃ要求されるけれど、なんか怒鳴られるし煽られる感じだっ た。
ファクトファインディングをしていても、芋蔓式に出てくる情報を次々にブックマークしていってしまったりした(これは仮説思考でやれと口を 酸っぱくして言われたがいまいちだった。仮説を立てる力などほぼ無かったのだ)。ただある種の完璧主義は会社では必要ではある。というか会社にとって必要 なのである。

仕事以外の何かをやるにしたって、効率というのはある程度重要で。
勉強であっても、試験までの時間が有限である以上、効率というのは大事になってくる。「この判例を読めば、あの判例は読めない」とは元クラスメイトの名言である。勉強法、速読、レバレッジ。
完璧主義の点でも、条文も判例も過去問も問題集も全部読みたいし、暗記しなければならないと思っていた。そのくらいの心意気自体は必要だと思うのだけど、まあどう考えても時間的能力的に無理なのだ。でも、本気で思っていた。

で、 沖縄に帰ってきた当初というのは、例えば「要するに何が言いたいの」って思うことが一日のうちに何十回もあった。家族の話すのを聞いても、テレビを見てい ても。そして結論をはっきりさせないまま論点がスライドしたり発散していくことがものすごく嫌だった。そんな自分に気がついて、偏狭さを反省するようにな る。

そのうち何かの拍子にモモの話を思い出す。時間どろぼうの話。なんだかはっとしたのだ。何かを焦っていた。時間がないと思っていた。 よくよく考えたら、あった。ないと思わされていたというか、ないということにしているフィクションにのっかっていたのだった。勿論それに気づいていてもそ のままのっかっていくほかない場合だってある。でも沖縄に帰ってきていてもなお、そのフィクションにのっかり続けていたのだった。
そんなことは親に会社を辞めろ辞めろと言われていた頃からいくらでも諭されていたというのに、私は親が一度も東京で働いたりしたことがないからわからないのだ、と思っていた。ごく最近まで。


それがやっと自分で気づけるようになったということ。
うつ病の治療法で認知療法というのがあるらしいが、それは気づくことがまず目的なのだ。気づくことができれば徐々にではあるが変えられる。


馬 車馬のように働くことが充実していて格好いいと思っていた時期というのは確かにあって。今働いてる院の同期なんかの話を聞くと朝から朝まで働いていて、馬 車馬のようにってのはこういうことなんだなと思うし、私はまだ人間らしかった方なのだけど、1年前のエントリなんか読むとそんな感じだ。今時点のプライオ リティとして、仕事が一番でその他の交際とか雑事とかが低いと。今死んでも満足だとまで確か言っていたと思う。でもそういうのってどうなのと、今は思うよ うになって。
何のために働いたり生きたりするのか、っていうことなのだと思う。私は自分の能力が認められる満足感とか、焦燥感とか、そういったものに動かされていた気がする。
今は大切な人たちのためというか、大切な人たちの傍で生きたい、と思うようになっている。そして大切な人っていうのは社長でも同僚でもクライアントでもなく、家族だなと思った。
(だから、家族を養うために馬車馬のように働くっていうのはわかる。)

先日一緒に泡盛を飲んだ人が割と同意見で。東京で弁護士をしているからてっきりそっちの価値観だと思っていたので、ああそうなんだ、と思った。働いて一旦退いた人はそうなのだろうか、なんて思ったりする。


もう一つ、変わったこと。
私はプライドが高いということにちゃんと気づいたということ。薄々知っていたけどちゃんと自覚したということ。
今でもまあ高いのだけど、これを挫きたいのだ。自分なんて全然大したものじゃないのだから。とるに足りず、力もなく、病気や怪我でもすれば動けなくなり、っていうことを学んでいる。驚くべきことに、大したものでもないくせに、プライドなんか持っているのだからつまらない。
目指すのは「ミンナニデクノボートヨバレ」ても「イツモシヅカニワラッテイル」人なわけだから。聖書にも、仕える人でありなさい、とある。
また、聖書に「さばいてはなりません。さばかれないためです」という言葉もある。これも響く。私ときたら、とるにたらないもののくせに人を評価していたのだ。
という気づき。


少しずつしか進めないのだということも学んだ。忍耐。私の嫌いだった言葉だ。
「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」(聖書 ローマ人への手紙5:3~4)

少しずつ学んでいこうと思う。

猿である。名前はまだない。
いや、あるのかもしれないが、関知しない。名前などというのはものすごく他者本位なものである。名前をつけられる方が知らなくても或程度までは通用する類のものである。もしかしたら、全然知らない名前でどこかでは呼ばれてるのかもしれないのである。ハムの人、とか。
と思ってるかどうかは知らないが、名前。


「名前って何?バラと呼んでいる花を別の名前に変えてみても美しい香りはそのまま」
-------------ウィリアム・シェークスピア「ロミオとジュリエット」より

この文句は、「ロミオとジュリエット」を読んでいて知ったのではない。「ロミオとジュリエット」は読んだことがない。シェークスピアは「ベニスの商人」しか読んでない。
で、何で知ったかというと、大学時代に金城一紀の「GO」で知ったのである。なぜかハードカバーが2冊あるのである。なぜかっていうか、まあ確信犯的に2冊あるのだけど。初めて映画を一人で見に行ったのも「GO」だった。それはさておき。

そうだよな、と思った。名前にどれほどの意味があるのか。
名前がなくてもそれはそれ、その人はその人なのであって。バラの美しい香りは変わらないのだ。
肩書きだとか所属だとか人種だとか学歴だとか、何かのラベルを貼られたからといって、それを本人が無視することは可能だし、他がそれを無視しないとしてもそのことを無視していくことは理論的には可能だ。
とか思ったのだ。本作品を読まれた方ならわかるだろうけれど、なんというか、そういう感じの話なのだ。


でも。実は名前ってそういうものでもないのではないか、とも思えて。

人間は生まれたらすぐに名前をつけられる。
名前というのは、ものすごく本人が一番使うのに、基本的には本人が決めないのである。決める場合もあるにはあるのだけど、多分皆、それが本当の名前だと思っていないのではないか。生まれた時につけられたその名を、本当の名前だと思っているのではないか(サンプルなし)。

世 の親はやがて生まれ出でる子の名を何ヶ月も考え続ける。語感や画数や苗字とのバランスや世代や。何かにあやかったり一字もらったり。この子の幼少時代、大 人時代、老人になってからのいわば名前生活にも勿論想像をめぐらせて、この子に相応しい、しかも願いをもこめた、名をつけようとするのだろうと思う。

それは名前が、ほとんどの場合一生自分を認識することとなる言葉だからである。
その言葉は自分を表し、その言葉で呼ばれ、その言葉を幾度も書き、その言葉に少なからず愛着を持ち、やがては自らの子にその名から一つ受け継がせることになるやもしれぬのである。という、事の重大さを、皆が皆、身をもって知っているのである。多分。

更にはその名に合わせて自分が変わっていくこともあるのではないか。私が違う名をつけられていたら、このような自分にはなっていなかったかもしれない、というか確実になっていなかった気がするのである。

たまに名前を褒める人がいるけれど、それってすごくコアな部分を褒めていると思うのである。それが嬉しいか嬉しくないかはまた個人的な問題だけれども。嬉しい気がする。というか、好きな人に褒められたらたといその名前が気に入っていなくとも、嬉しいのかもしれないけど。

名前というのは、自分だけに与えられた、特別な言葉なのかもしれぬ。


前に人と人との関係について考えたときと同じことを考えた。
その関係にどんな名前をつけるか、どんな関係としてカテゴライズするのか、それは無視したり、名づけないこともできるけれど、どういう関係かということを名づけたりはっきりさせることによって、その関係性への両者の認識がそれによって変わってくるという話。

名づけるっていうのは多分そういうことだ。

動物園のこと

文鳥はこの華奢な一本の細い足に総身を託して黙然として、籠の中に片づいている。
---------------------------夏目漱石「文鳥」より引用

先日、動物園へ行った。
動物園へ行こうと母と妹が言い出したのだった。

動物がたくさんいた。
よくよく考えると、ライオンだとかきりんだとか象だとかが、沖縄にいるということはかなり不自然なことだ。
動 物園というのは、絵本にもたくさん出てくるし、実際も遠足なり家族でなり行くものだから、動物園にはライオンや象がいるものだと疑いもしないしそのことを 不思議にも思っていなかったし、つまり動物園というものをごく自然に、自然すぎるほどに受け容れてきていて。全然珍しくないと思っていたふしがあった。
興味深い場所である。超不自然だ。それが面白い。
皆、それぞれの檻の中に、黙然として片付いていた。

動物園というのはものがなしい。動物たちの諦めがありありと見て取れる。
カンガルーの目は確かに物思いにふけるそれであり、餌箱の中に失われた音符を探す疲れた音楽家さながらであった(参考:村上春樹「カンガルー日和」)。
動物はいい。


勤めていた会社に、動物園好きの上司がいた。
彼 は土日の度に各地の動物園や水族館に出かけていき、将来は動物園経営がやりたいと言っていた。旭山動物園をべた褒めした。土日に撮った写真を、21時くら いになると別の用のついでというわけでもなく、見せに来たりした。そこでリアクションをとると、満足そうに(たまに私の席にあるお菓子を無断で持っていき ながら)自分の席に帰っていくのだった。
でも全然ファンシーさのかけらもなく、基本的には無表情で、「そう言い切れる?」「Why?」を繰り返したり、お時間ある時にレビューお願いしますと言うと「時間?ない。」といった捨て台詞を残していくような、人だ。

その上司に、始発待ちのファーストキッチンで、なぜ動物園が好きなのかと質問したことがある。すると、動物が好きだから、と返ってきた。
どうして動物が好きなんですか、と聞くと、動物は喋らないから、と答えた。
それって人間が嫌いって言ってるのだろうか、と思った。なんだか、そう聞こえた。

この話を会社にいた小児科医の先生とご飯を食べに行った際話したら、私も小児科がいいのは子どもが喋らないからっていうのはある、と言った。

誰しも誰しも、か。
喋らないものの方がいい、というのは。なんだかわかる気はする。言葉と沈黙。

そんな上司も3末で会社を辞めたらしい。お会いすることはあるのだろうか。会えたらもう少し、動物園の話を聞きたいけど。

遺産と我と

夏目漱石の「夢十夜」に、運慶が仁王像を彫っているのを見物しに行くという夢が出てくる。
漱石の生きる明治にはいるはずのない運慶が仁王像を彫っているのを、というか木の中から彫り出しているのを見て、漱石もまた家に帰って彫り出してみようとするものの、明治の木には仁王はいなくて、それで運慶が生きているのもほぼわかった、みたいな締めくくりである。

仁王像と、仁王像を彫った運慶と。
片や残り、片や滅び。

ということなどを考えていて、世界遺産というのは「遺産」なのだな、と思う。
昔誰かしらが産み出した、しかし今やその誰かは滅びてそれを遺した、ということなのだなと。
いや、当たり前のことかもしれないのだけど、私は言葉を深く吟味しないで使ってきているものだから、遺産っていうことを今まで大して考えたことがなかったのである。
今 は亡き誰かが遺したもの、だからこそ浪漫があるわけだな、なるほど。それをつくった人がいなくなったのに、それだけが残っているという点が。「その穴ぼこ は二つのことを教えてくれる。かつて何かがそこにあったことと、今はないということ」みたいなことを本多孝好氏が書いていた、たしか。

最近昔の手紙を読んで思ったのは、昔の自分が今はいないということで。
最近親から、小さい頃私が窓に腰かけてずっと歌っていたということを聞かされて(全く覚えていない)思ったのもそういうことで。
当時の自分を思い出せなくて、会ってみたいけど会えなくて。
昔書いたもの、記憶、そういった過去に関するものものというのはひとつ、広義でいえば遺産といえる気がする。

そ こで、自分が何かを「産み」出しただろうか、と思った時に、何一つ自分じゃ産み出していないのだよなと思う。考えも言葉も何もかも、模倣と受け売りとでで きている。文章を書いているとよくわかる。すべてはすでにあったこと。日の下に新しいことは一つもない。まあ、定義の問題になるのかもしれないけれど、し かし厳密に言えばやはり産み出してはいないのだろうと思う。


自分探しの旅はもうお腹いっぱいではあるけれどこれもまた片手に提げ た継続問題であって。旅だって相対的な問題だ。定義の問題だ。みんな旅人だといえば旅人だし、そうでないといえばそうでない。多かれ少なかれ、生きるため に何かしらは考えて生きていく。生きるっていうのはものすごく本能的なモチベーションで。なんなんだ。おや、脱線した。

最近、昔友人と交わした会話を思い出す。

「感情には意味があると思う」
「無いよ。感情は電気信号だよ。」

私とはものすごく違う価値観を持った、むしろそのゆえに私に多大な影響を与えた友人である。
我思う、ゆえに我ありとな。我の定義問題にまたしても帰着する。我は電気信号であろうか。
宮沢賢治は詩集「春と修羅」の序でこう言う。

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わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
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団地

昨日は予定外の事態で、近所ではない場所を一人散歩することになった。
しばらく住宅街を歩いていたが、ふとなんだか懐かしい建物群に出会う。団地である。

私 は団地に住んでいた経験もないし、団地のプロというか団地に思いいれのある方々がいらっしゃるのは重々承知で、団地の雑誌というものも見かけたことはある が目を通したことすらなく、こんな団地未経験者が団地を語るというのも出すぎた真似かと思うけれども、と前置きをした上で書く(まあジャズも野球もそうな んだけどね)。


団地に住んだことはないものの、小学生の頃は団地の友達の家にちょくちょく遊びに行った。その子の家の「わたるがぴゅん」とか「YAWARA」とかを読むのも楽しかったけれど、団地という環境が面白かった。
集 会所のあたりで遊んでいると、隣のクラスの子が通りかかって一緒になって遊んだりだとか、クラスの男子が大きな声で悪口を言って逃げていくとか、この子が 誰の妹でお母さんで、と紹介されたりだとか、もう学校と家とが連続しているのである。そこら中知り合いだらけなのである。しかも、友達の家のはしごが簡単 にできる。勿論、自分の家の近くにも友達はいたので、そこらで遊んでいたらよく出会ったし、アパートの駐車場でよく靴投げとかだるまさんがころんだ的なも のをして遊んだけれど、団地というのは遊ぶ場所が限られているから、どうしても距離が近い。仲良くなりやすい。
夕方になるとどこの家の窓からも夕食の匂いがそれぞれしてきて、それが親しすぎて入り込めない家庭の匂いのような、全然別の家の匂いで、早く家に帰りたくなったものだった。


で、散歩をしていたら、団地があったわけである。
つい、団地の中を歩きたくなって、大回りする。
結 構大きな団地で、大分老朽化している。黒くすすけたような感じの外壁に、草木の茂った敷地。テレビなんかで見るように寂れているのかと思ったが、全然そん なことはなくて、春休みに入った子供たちが暇をもてあまし頭にビニールか何かをのせて遊んでいたり、けだるそうにおしゃべりしていたり、小さなベランダに 所狭しと洗濯物が干されていたり、自転車や三輪車が金網に立てかけてあったり、知らない人々の日常がそこにあった。ほぼ全ての住宅に人が住んでいるよう だった。狭いながらも平和な、親しげな社会があった。
私はその団地の持つ懐かしさと、その懐かしさが現在進行形であることと、その日常があまりに排他的であることにすっかり満足して、帰路についた。

そこらに植わった桜の木はもはや瑞々しい葉ばかりとなり、さくらんぼが鈴生りであった。桑の実もまた熟して落ちていた。
さくらんぼは小学校の裏に。酸っぱかった。
桑の実は家の庭に。甘かった。

何を見るにつけても何かが想起されるほど、記憶が積み重ねられたのだなと思う。

You Don't Know What Love Is

眠れぬ場合は音楽を聴くことにしている。
昨日はなぜか「4時から本調子」というフレーズが頭から離れなかったので、「電気グルーヴとかスチャダラパー
」を一通り聴いて、spanovaの「アポロ」あたりを聴いて、Sonny Rollinsの「Saxophone Colossus」聴いて、Asian Dub Foundationの「Community Music」聴いて、いつものプレイリスト(ハナレグミの「家族の風景」とか入ってる)に戻って眠った。ごちゃごちゃだ。

ベッ ドに座って、あー眠れん眠れんと思いながら音楽を聴いているのだけど、Sonny Rollinsの「You Don't Know What Love Is」を聴いていると、空調の効いたバーで、目の前にボウモアのロックとよく冷えたチェイサーと、チョコレートかドライフルーツかと、清涼感あふるる香り のついたおしぼりがあるような気さえするな、と思った。いや、これ目をあけたらあるんじゃないかしら、と。
超、ムーディーである。艶っぽくも暴力的にすら思える、わしづかみにされるようなサックスの音色に是非。You Don't Know What Love Is?なんてことだ。
以下で曲の全部を聴ける。
参考:last.fm「You Don't Know What Love Is」

そして和なら、八代亜紀の「舟唄」だよなと思う。お酒はぬるめの燗がいい。肴はあぶったイカでいい。

駄目だ、いろいろ駄目だ。と思う。
申し遅れたが、今は勉強をお休みしている。

WBC

WBCは、観ている。そりゃ観ている。
ここ最近、家で父とする話の半分くらいはWBCの話題である。
今日は打線がつながってたとか、ピッチャーがよくなったよなとか、原監督の采配がすごくいいよねとか、ピッチャーの使い方の贅沢さ加減が巨人ぽいよねとか、今日は代打も当たってたなとか。

先日の韓国戦では青木のセーフティバントがうまかった。ほれぼれする。
今日は川崎が素晴らしかった。その後のイチローがハイライトでは出ていたけれど、その前にサード寄りに転がしたショートゴロでセーフをとった上での打点とか、その後の盗塁とかはいかにも川崎ぽいというか足で稼ぐ野球というか。大分好みである。

是非明日、優勝したらいいなと思う。


スポーツはやるより観る、という立場の人間である。テニスはやるのも楽しいけど、野球なんかは今更できないし、観るものとして大分インフラが整っているというか。
スポーツはいろいろ観るけれど、野球は大分好きだ。一番好きかもしれない。F1も好きだけど、多分野球の方が好きだ。というのは多分小さい頃から父の傍でずっと観ているからだと思う。
特 にナイターが好きだ。高校野球も好きだけど、プロが好きだ。こう、安心する。あの決まった絵と、ピッチャーの間と、トランペットだかメガホンだかの応援の 音と、安定感のある実況・解説(実況は落ち着いていればいるほどいい。「おおっと!」とか言われないのがいい。つまり一番実況の中で好きなのは相撲だ)。

だ からって詳しいわけではない。川崎がどこかっていうのもはっきりとは知らなかった(巨人阪神とかのセ・リーグあたりじゃなくてソフトバンクかロッテあたり だろうとは思っていた)。杉内もなぜか巨人だと思っていた(ソフトバンク)。岩隈はちょっと好きだったので知っていた。近鉄がなくなって楽天へ行ったの だ。

野球を観なかった時期は結構ある。
院に入ってからは付き合った人が野球嫌いだったためにあまり観なくなったし、そもそもテレビ自体をあまり観なくなった。彼はサッカー好きだったから、たまに一緒にテレビでサッカーを観たけど、結局サッカーを好きにはならなかった(なぜかサッカーはあんまり観ない)。
仕事をしていたときは帰ってきたら野球なんてとっくに終わっていた。そんなものだ。
そんなわけで、今野球を、しかもWBCをゆっくり観ることができる(状況的にはともかく、物理的には)という環境におかれていることは結構幸せだと思う。

祖母が結構スポーツ観戦好きな人で、ルールとか選手をよくわかっていない節もまあないではないのだけど、いろいろ観る。スポーツとみると観たがる。野球、相撲、サッカー、ゴルフ、テニス。F1の時間はさすがに起きていない。
やっ ぱり相撲は気になるらしく、「今日相撲やってるね?」と話しかけてくる。明らかにやっていることは知っているので、テレビつけて、という意味である。彼女 は負けるとけなすのだけど、やっぱり琴欧州びいきである。イケメン好きなのだ。私も琴欧州は好きだ。ついでに、日馬富士も好きだ。頑張ってほしい。

カフェ風とか手紙とか

友人宅でランチ。カフェ風。というかカフェ。いずれカフェ。とても素敵だった。
これでもかというほど食べて飲んでしまった気がする。ごちそうさまでした。お母様によろしくお伝えください。

集まったのは4人で、いずれも高校の友人達だった。先日結婚式を挙げた子も。先日入籍した子も。というわけで半数が既婚者という集まりだった。
なんだかいろいろ話したけれど、今をときめく医者候補二人の話が中心で、なんかこう、前線、という感じがした。現場、というか。ナースは女医には厳しいとかね。どこの病院がどうとかね。今年の国試がどうとかね。土日はあるのでしょうか。
既婚者二人は県外へ行ってしまうけど、意外と会えるさという気もしている。

また最近いろいろ考える。考えない、と思っても考える。考えない。でも気づきたくはある。


あ る人に絵葉書を書き送ろうとして、何箇所かありそうなところを回ったのに、全然なくて、というかまあ回ったところが悪かったのかもしれないが、沖縄の人は 絵葉書を書き送らないのかもしれない、と思った。そんな気がする。観光客が行きそうなところに行けばよかったのだ多分。でも文具とか売ってたら少しくらい ありそうなものではないか。レターセットすら僅少だった。

高校時代には書きすぎたけれど、手紙はいい。手書きというのがいい。その人の字がいかに読みにくくても、それすら愛らしく見えてしまう。
勢いに任せて筆が進んでいってしまい、読み返してちょっと違ったかなと思っても書き直すのが面倒でまあいいかといって出してしまうというところもいい。出したが最後、手元にコピーなんて残さないから、何書いたか忘れちゃうのもいい。

手 「紙」だというのもいい。紙好きは妹の方だけど、私もまあまあ紙は好きだ。妹は和紙が嫌いだけど私は和紙も好きである。紙ってのは偉大な発明だと思う。封 筒の厚みだとかも。何かを「包む」というのは面白い行為だよなと思う。まだあんまり考えてないけど、なかなかにわくわくするものだと思う。

あと、郵送にしろ手渡しにしろ、時間差がいい。送って着くまでに時間がかかるところ。もう着いたかしら、まだかしら。と若い頃は思いをめぐらせたものである。隔地者間の法律行為ではそこが問題になっちゃったりもするのだけど(原則、到達主義)。

「車屋さん」も手紙。内緒で渡して内緒の返事が内緒で来るようにできゃせんかいな。

そんなわけで、もっと手紙を書く世の中になったら良いと思う。忌憚なく。

あ、そういえば、手紙は中国語だとトイレットペーパーのことなのだと、カフェ風の友人宅のトイレに貼ってあった。手紙は「信」だとのこと。賢くなるなあ、あのカフェ。
手紙が「信」ていうのはまた興味深い話である。漢和辞典でも読もうかしら。

食べたいについて

くるりの曲に、「ハム食べたい」というのがある。
別に好きだというわけでなし、歌詞に共感するというのでもなし。
ただ、何か食べたいと思ったときにふいっと浮かぶのである。「ハム食べたい」と。
いや、ハム食べたくない、と思う。

食 べることについては、特に人一倍食べることが好きです、というのでも、グルメです、というのでもない。どっちかっていえば、興味がない方だと思う。一日 ウィダー1個でも平気な時期もあったし(さすがに健康を害した)、断食してみたこともあった(これを思いついた当時は、食費がかからない上に食事の手間も 時間も省け、しかもやせる、ということで素晴らしい試みに思えた)(やはり健康を害した)。
美味しいものは食べると嬉しいし、あれば食べたくなるのだけど、ないと思い出せないのだと思う。だからあえてあのお店のあれが食べたい!といって出かけていくということはあまりない。開拓もしない。
例えば岩隈の得意な球種だとか今のヤクルトのだいたいの打順だとかが話の種に(まあならないけど)なるかもしれないと思って注意して見てみる、というのと同じで、何か食べてみる、ということはある。何にせよ、感覚を研ぎ澄ましてみるというのは世界を楽しむことだと思う。

偶然について

偶然について。

昔、偶然の対義語が必然だということに違和感があるという話を雑記的に書いたことがあった。
ちゃんと調べてみる。
偶然:①思いがけないこと。予想できないこと。②ふと。たまたま。はからずも。
必然:①必ずそうなること。②必ず。きっと。
(角川最新国語辞典)

私なんかはこの意味を見てもやっぱり、対義語ではないと感じる。だって両立するではないか。「偶然」というのはその人が意図していなかった、予想していなかったことで、「必然」というのはその主観とは全く別に、必ずそうなること、なのだ。

たとえば、三条大橋の上で「偶然」Kちゃんに会った、ということがあった。これは、私もKちゃんも意図していなかった、予想していなかったので「偶然」である。
し かし、私がその時刻に三条大橋の南側を西から東に歩いていてA地点に到達し、Kちゃんが同じ時刻に三条大橋の南側を東から西に歩いていてA地点に到達した という客観的事実があったら、それは「必然」的に出会うのである。そしてさらに、その時刻にその場所にいたというその事実は、その前の瞬間瞬間の事実の積 み重ね(例えばその30分前にはどこにいて、15分前にはどこで、3分前にはどこで、1分前にどこでという時間的場所的な事実とか、周囲を見物しながら散 策しようとか橋を渡ろうという意思決定だとか)の上にあるわけだ。それはそういうルートをたどれば、つまりそういう条件下では、「必然」的に「三条大橋の 上でKちゃんに出会う」という事象が起こるということになるが、それと同時に私もKちゃんもそれを予想していないから「偶然」出会ったということになっ て、その両者は全然相反しないことだと思う。我々の出会いは、「偶然」であると同時に「必然」であった。

と、ここまでは定義の話。だから、「偶然」と「必然」というのはそもそも立ち位置が違う話で、別にかぶりうる、と思う。
そして、その意味で、というか、その辞典に載っていた意味なら「偶然」というのは勿論あると思う。意図していないことや予想していないことなんてたくさんある。


対 義語だと言われてわからなくなっていたのは、仮に対義語であったとした場合、「必然」に相対する状態というのはどういうことだ、と思ったということ。そん なものありうるのか、ということ。少なくとも、見たことはない。そういう意味で、物事は起こるべくして起こる、と書いた。

これはあらかじめシナリオが決まっていて、皆その通りに動いているのだというニュアンスではない。究極的にその結論に行く可能性はあるとしても、今のところそこまで考えてはいない。
あ る事象は、膨大な事実の積み重ねの上に成り立っているというただそれだけのことが言いたかっただけである。今この時刻に私がパソコンに向かってこの文章を 打ち込んでいるという事象も、今までにあったすべての事実の積み重ねの上に成り立っているのであってそれのどれ一つが欠けても、成り立たない。というそれ だけのこと。そして今この文章を打ち込んでいるという事象はそれら事実があれば、つまりその条件下では確実に起こったであろうということで「必然」なのだ ということ。
だいたい、一つ条件が欠けたり異なったりした場合というのは、実際起こっていないんだから観測のしようが無いのである。それがつまり、「必然」に相対する状態がない、ということ。
昔タモリがプレゼンターをやってた「IFもしも」って番組があったけれど。あれなんかは一つ条件が違えばそのあとにおこることが変わってくる、みたいなのを扱ったドラマだった。なんかこわかったけど。ああやって想像はできるけど、観測はできない、厳密には。


つまりはその緻密な事実一つ一つの積み上げが驚異的だと思う、ということ。別に驚異的ともなんとも思わない人もいるだろうし、それはそれで自由だろうと思う。


で、「偶然」というのは「必然」ありきで、かつ「必然」の意味を押し上げる働きをしている気がする。
た とえば電車の中で席を譲ったおばあさんがいて、次の日浅草でお店に入ったらそのお店の主で、さらにその孫が大学の同期だった、なんてことがあったとしよ う。なんだか「浅からぬご縁」を感じたりしてそのことを友人に話したら、「そんなの偶然でしょ」っていわれたりすると思う。「すごい偶然だね!」もあるか もしれないけど。
前者は、「そんなの予想してなかっただけでしょ」っていう意味で、後者は「すごい思いがけないね!意図してないのにすごい ね!」っていう意味だけどこの違いは評価の違いだ。で、これらは「必然」つまりそうなっている事実やそれまでの因果関係がまずあって、そしてそれを予想で きなかった人に対する低い評価(前者)または、それらが人の予想や意図を上回っていることに対する驚嘆(後者)だと思う。


で、テーマと離れるけどついでにいうなら、神を数式で表すことについて。神は人知を超えているものというのを定義として含んでいるのであり、数式で再現できると置くこと自体が定義と矛盾している気がする。
というか、そもそも数式で再現できるものがあるのだろうか。数式以外に。数式は数式であって、それ以上でも以下でもない。コップも人間も数式でいくら表したところでそれはコップや人間ではない。単に名前をつけたい、表現したいだけならもう「神」という言葉がある。

再現ではなく証明に関しては、好みの問題というか、性質とかタイミングとか、まあ個人的な問題だと思う。程度問題とも言う。
前も書いたけど、「信じる」っていうのは根拠はないけどエイヤで飛び込む行為である。つまりばっちり証明されたら成り立たない行為だと思う。証明されていたらそれは「確認する」ということになると思う。証明されてないから「信じる」のである。
ただ、厳密にいえば根拠はあると思う。根拠まったくなしに何かを信じるというのは難しいし、逆に何でもそうだけど、絶対っていうのはほとんどない、と思う。結局、やっぱり、程度問題だということ。
地 方に住んでいる人が、東京タワーが存在する、ということを信じていたとしてその根拠は、前にテレビで見たから、くらいのものだろうと思う。テレビが東京タ ワーと称してエッフェル塔を映していない事実とか、テレビ局がジャックされてなかった事実とか、そういういろんなことを証明していかないと信じないという わけじゃない。
だから、何を見て、聞いて、感じて、どの程度で信じるかという話だろうと思う。私はこの世界を見たり、先の事実の積み重ねを見たりして信じうるとも思っている。それだけではないけれど。
目で見ないと信じない人もいれば、数式で表現されないと信じない人もいる、そういうことだ。
「神は人を正しい者に造られたが、人は多くの理屈を捜し求めたのだ。」(伝道者の書7章29節)
「あなたは妊婦の胎内の骨々のことと同様、風の道がどのようなものかを知らない。そのように、あなたはいっさいを行なわれる神のみわざを知らない。」(伝道者の書11章5節)


で、少しずれるけど、そんな人達は概念的なものはどうやって信じてるんだろうか。とか思う。信じる基準はなんなのか。
たとえば皆、数という概念は認めるのに。
私は「1」を目で見たことはない。1という字は見たことがある。1個のリンゴも見たことはある。でも「1」はない。でも「1」という概念の存在は当たり前のように信じて生きているのだと思う。というか、認めて。だからはじめて見た果物とかでも、1個と数えるのだ。
また、私は「優しさ」を目で見たことはない。でも当たり前のようにその存在を認めて生きている。
ああ、また存在とは何かって話だ。概念は存在するのか?存在の定義は?

もう一点。宗教についてはまだまだ勉強する必要があるけれど、宗教というのは生きる上で必要だから生まれたものだと思う。数がそうだったように。
そして私もまた、生きて行く上で必要だから、これを考えている。

ロゴスとデジタル

弁解は止した。
男らしくないからである。


最近、ヨハネの福音書の最初の言葉、
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」
という言葉がなんだかひっかかっている。
このあとに続く文章を読めばわかるのだけど、ここでいう「ことば」とは「イエス・キリスト」を指していると解されている。なぜ筆者はイエス・キリストを「ことば」と表現したのか。(ギリシア語で「ロゴス」)
それは人間に真理を述べ伝える「ことば」としての存在を意味している、とか言われていると思うのだけど。
なんだかまだ悟りきれない、含蓄があるような気がして。
「ロゴス」の意味は、「言葉」「論理」「真理」の意とのこと(wikipedia)。
そして、訳者はその中で「ことば」という意味を選んだ。なぜか。

頭では一応つながるのだけど、まだ腹に落ちていない。もっと「ことば」ということについて考察を深めるべきなのかもしれない。私が思っている以上に、「ことば」というのは重大なものなのかもしれない。


あと、2進法のことを考えていて。
あ れって、0と1じゃなくてなんだか違う記号でやった方がいいんじゃなかろうか。ЖとЭとか。いやこれはロシア語の文字だけれども。0と1でやると、なんか わかりにくい。2があるじゃんとか思ってしまう。考え方としてはそもそも、2進法ってのは二個しか記号を使わなくて済むものなので、別に10進法の記号を 使わなくたって、というか、本来その記号ではなかったはずなのである。まあ、でも今2進法は0と1で統一されてるから仕方ないんだけど。16進法だってそ うだ。10進法の表記方法に則っているからすべてがFになっちゃったりして、何Fて、っていうミステリアスな感じになっちゃったりするのだ。
そもそも2進法とか16進法とかいう言葉だって10進法基準じゃないか。デジタルって呼べばいいんだ。
と、思ったり思わなかったり。
というのも私はn進法の類を習った当時、よくこんがらがっていた。数学は得意な方じゃなかったのだ。


今日は
Muno no hito/little tempo

スチールドラムにほころぶ。

草食とかいくつか

・単数と複数
本棚の本の背表紙を見ていて思ったのだけど、「こ ども」っていう言葉は字面的には複数だよなと思って。「子」「ども」だよなあと。でも一人でも「こども」だよなあと。「大人」の反対は「こども」というよ り「小人」じゃないかなあと。チケットとかってそうだよな。あ、古くは複数だったそうな(goo)。
あと、「友達」というのも、「友」「達」ということで、複数じゃないのかなあと。
多分同じことを考えてる人ってたくさんいて、言葉にしないことっていくつもあるよなあと。


・言語
こんなに国が近いのに、全然言葉が違うんだもんな、と韓国ドラマを眺めていて思う。
あと、家の近くによく鳥が来て、ものすごく喋っている。確かに喋っている。と思う。いろんな声色を使って、一羽が鳴き終わるともう一方の鳥がどこかからまた鳴いているのである。MOONと いうゲームで(また!)ヨシダさんという鳥が出てきて、鳥語でむっちゃ喋る(しかも関西弁で訳されている)んだけど、多分鳥も喋ってるんだろうと思う。 だって何かを伝える目的で鳴いてるわけだから。まあ単純な意味にしろ。で、鳥にも国を超えると言語が違うってことがあるのかしら、とか。


・草食
草 食男子という言葉が今流行りだけれども、草食女子ってのもたくさんいるんじゃないかと思う。そういえば、院に草食動物の会というのがあって、友人がそれの 一員だったらしい。言われると、ああ、草食だなと思った。恋愛についてというんじゃなく、物事についてなんだか草食っぽいのだ。というか、草食男子と言わ れる人々は、別に恋愛だけじゃなくいろんなことに草食気味なんじゃないのとか思う。

未来予想図

あれは深夜に書いたので、昨日にカウント。

今日は
車屋さん/美空ひばり

東京事変のもよいけど、やはりあの間のつかみどころのなさは、本家本元美空ひばりのなせるわざ。まじリスペクトもの。
あれは演歌にはいるのだろうか。

最近疑問に思っていることは、演歌が好きな人たちって昔から演歌が好きだったのか、もしくは年齢を重ねてだんだん好きになったのだろうか、ということ。仮説は最初から好きだった説なんだけど。

いわゆる団塊の世代はフォークとかね、グループサウンズとか好きだよね。

そして更に興味があるのは、今の若い人々が老人になったとき、老人はみんなロックとかポップスとかテクノとか聴いちゃったりするんだろうか。それとも演歌のよさに目覚めていく人たちも出てくるんだろうか。


あ と、服。おばちゃんたちって、おばちゃんたちらしい服を着ているけど、昔はそうじゃなかったはずで、ふわっとしたワンピースとか、きれい色のスカートと か、着てたと思うんだけど、だんだんこう柄物のもの、派手目のもの、もしくは地味なもの、とか推移していくんだろうなと思うんだけれど。あれは年相応にな らなきゃと思って着ているのか、もしくは好き好んで着ているんだろうか。
自分がね、ああいう格好をすると思えないんだよね。するのかな。するのかもなあ。

で、今の若い人たちが年をとったら、ていうか今も、例えば志村けんがAPEとか若い感じの格好してるのとか、若作りの人とかいるんだけど、そういう風になっていくのかなと。
iPodとか使いこなして、ヘッドフォンでテクノ聴いて、なんかかっこいいTシャツ着て、ジーンズはいて、やたらパソコン使えて、一眼レフ首から提げて、っていうおじいちゃんとか闊歩してたりするのかな。
と、思う今日この頃。

洗濯ばさみ考

洗濯ばさみ。
何か、衣服とか、お菓子の袋とか、写真とか何でも いいのだけど、何かを「はさむ」ために作られたそれは、はさむということに命を懸けて、完成された機能美をそのフォルムに宿している。その小さな体からは 「はさむ」という気概が満ちあふれ、自分の存在意義は「はさむ」ことなのだということをいたってクールに理解している。
上の部分と下の部分を金属の輪っか又はばねで結び付けられ、それらに手の力が加わることによってしかその均衡は破られない。手の力と反発する力でもって、彼の力を誇示しているのだ。

夜の洗濯ばさみの多くは、ベランダにさらされ、夜風にふかれ、整然と、もしくは雑然と、洗濯紐に止まっている。
zippoコロンと鳴らして。みたい。
洗 濯ばさみのフォルムに今一度思いを致す。無駄のない。アルファベットのAにすら見える。もしかしてこいつは洗濯ばさみであると同時にAなのか。その可能性 は十二分。「わたしはアルファでありオメガである」という言葉は勿論私の脳裏から引き出されて、もしかしてAでありZだったりもするのか?と、解体した姿 を思い浮かべるも、どうもZにはなりそうにない。邪道だが2つでどうだ。2つかませるとZに見えなくもない。
つまり、こいつは、洗濯ばさみでありAでありZだったのだ。
洗濯ばさみ一つとってもいろんな面がある。メタファーとしての洗濯ばさみ。
洗濯ばさみに愛はある。彼ら同士で互いにかみつくとか、洗濯紐の上で寄り添うとか以外にも、洗濯ものの風にたなびくときの彼らの必死さといったら涙なしには語れない。それもラブ、これもラブ。

にしても、これは具体的被造物である。人の手による被造物である。彼の役割は「はさむこと」。または、こうして観察されること。欠けたり錆ついたりして愁いを誘うこと。なんだって、人は錆ついて使えなくなってしまったものを見ると悲しくなったりするんだろう。
仮説。同一視。人は何にでも自分を重ねかねない生き物である。我々は洗濯ばさみを擬人化したとたんに自身を無意識的に重ね合わせるのだ。

私が洗濯ばさみをもって思ったのは、こいつらの人生の目的があまりに明確で、こいつらの人生が大体において予想されるということ。
目 的は「はさむこと」。アイディアを出されて工場でつくられて、家とかで使われて、そのうちプラスチックがぱちんとはじけ折れ、もしくは錆ついて、捨てら れ、燃やすなり溶かすなりされて、新しい何かの構成の一部になったり、もしくは人工物以外のところへ帰っていくかもしれない。
こういう予想がだいたいできるのは、我々がそれを作った者であり、使いながら見ている者だからである。
彼らにはもちろん知らされていない。知らせる手段すらない。知らせなくてもいいと思っている。というのは、自らの意思でそれを変えてやろうなんて自由な意思や自由な行動が物理的にできないからだ。

そしてもう一つレベルを上げて見てみる。
人は被造物である。私たちを造った者がいるならば、目的も、人生の行く末もわかるんじゃないだろうか。私たちには洗濯ばさみのように簡単な「はさむ」というものではないにしろ、目的や用途というのがあって、創造主は人生のいろいろを知っているのではないか。
私 の用途は何なのだろうと、ずっと考えてきた。創造者よ教えてくださいと祈ってきた。もしそのようにすべきなのであれば、私はそのようにする。それは正し く、適した道だからだ。洗濯ばさみはハンガーにはなれない。跡をつけずには干せない。釘にも吊るせない。それは洗濯ばさみとハンガーの目的が違うからだ。 そして、ハンガーの役割をしようとした洗濯ばさみには苦労と疲弊と諦めが見える。私はエンジニアにはなれないし、どこかの大統領にもなれないし、兵士にも なれないということだ。いや、違うな。私は尊敬するあの人たちにはなれないのだ。というか、どんな別の人にもなれない。
ここで、洗濯ばさみとハンガーでは形が違うが、人間はほぼ同じ形をしている、他の人間にもできることはできるんじゃないか。という疑問。
そこ。人間はハンガーや洗濯ばさみではない。それよりもっと複雑だ。目的だって人生だって複雑なのだ。人知を超えているということを認めた方がいい。

何かしらの理由のもとに、いくつかの目的をもって創造され、いくつかのミッションを知らないうちにこなしながら生きていって、死ぬことでまた大きなミッションを終えていくのではないか。
という感想。

これ、MoonてPSのゲームに似ている(playを強く強く勧める。めっちゃアートである。古いけど。某ニコニコにplay動画あり)。
主人公はいろいろな、いいこと又は影響を与えることをしながらラブを経験値として得、レベルアップしていくのだ。例えば失敗ばかりの花火職人に花火玉を作ってあげて、感謝されてラブをもらい、偏屈なおじいさんに夜じょんがら節を聴かせてあげて怒られてラブをもらい。
これってば日常生活でやってるような割と些細なことが相手に影響を与えていたりすることと似ていて。

その一つ一つの総体が生きている目的なのではないか。真面目な話。
今 日友達にメールした、とか、家族にお茶淹れてあげた、とか、上腕二等筋が強くなった、とか、服屋の店員さんと仲良くなった、とか、目を合わせて挨拶をし た、とか。もちろん、仕事で世に情報を発信したとか、だれかの問題が解決してその人の気持ちが軽くなった、とかも。つねに目的は転がっているというか。目 的を一語で表すなんてことは無理だと思っているし、特に実益もないと思っている。どうせ抽象化されてわかりにくくなるだけだ。

何にでも理由はある、と頻出の友人の言葉。
何にでも理由はあるのだ、多分。それを知れるかどうかはまた別の話。


私はキリスト教を信じることにきめたけれど、神の計画を知っているかと言われたら全然知らない。目の前のこと、少しずつしか教えてくれないものだ。「明日のことは明日が心配します。」
どうしてこんなことになっているのですか、と聞いても、すぐにはわからない。3年くらいして、ああ、あのときあれがあったのはこういうことだったのか、っていう類の理解である。よくよく、考えればいくつもそういうのってある。伏線多すぎるのである。
忘却の生き物であることがたまにくやしいわけだが、過去に嬉しかったり悲しかったりすることとか、本当に些細な、にこやかに挨拶をしたというそれだけなんかまでが今につながっていて、結局すべてがO.K.になってるのだ。


こういうのに気づく度、信じたくなる。それに、そう考えること、つながりを発見することは楽しいではないか。
あ のときこれがなかったら、というのは何故か「人生に、もし、はない」とか(これは本来、「~だったらよかったのに」というネガティブ思考を排除する趣旨の 言葉だと思うのだけど)、「そんなの単なる偶然だよ」とか言われて、思考停止させられる。そんなことまでいちいち考えてられないよ、と。

少し脱線するが、私はどうもこの偶然というものがわからないのだ、偶然のもつニュアンスが。
偶然だった、というのは人間が意図せずしてという意味だと思うのだけど、この文脈では、物事を軽んじるときに使われる気がする。
でも、人が意図していなくたって、物事というのは起こるべくして起こる。物事は事実の膨大な積み重ねの上に成り立っている。ちょっと考えればわかることだ。
世界は一分の隙もなく、ものすごく膨大な数の出来事や言葉や時間や物質的何かやありとあらゆるもので構成されていてかつそれがものすごく流動的なのに、齟齬が全く生じないのだ。世界が空恐ろしくなる。奇跡的に、つじつまが合っている。


信じることもできるし信じないこともできる。無論、あなたの自由だ。
「人間は自由の刑に処せられている」と言ったのはサルトルらしい。得たり。

useful days

熊本にいる友人からメールがあった。
まあ、最近どうよ的なものだったけれど、私はもはや「熊本」という字を見ると「くまぽん」としか読めなくなってしまっているので、就職どうするのみたいな話をしながら「くまぽん・・・」と思っていたわけだが。(参考:不思議の国のニポン3/3
いくらか友人の今後について聞いて、そっちはどうよと振られたけど、私は語るべき何をももっていなかったため、「ぼちぼちですよ」と返し、それで全くすんなりといった。


私たちが使う言葉の中には、こう、困った時はこれを言っとけみたいな便利な言葉というのがあって。
「ぼちぼち」というのは全くその部類に入ると思う。だいたい、なんだ「ぼちぼち」って、といつも思う。なんだかいろいろあるけど、まあいちいち言うほどのこともなく、ひっくるめて、概ね問題なく、やってますよ、という意味だろうか。多分。

類似する語で、「普通に」というのもある。これは別に困ってない時でも使うけど、大分便利である。これはすごくスムーズに口に出てくる言葉なのだけど、大学の先生には「普通じゃないってどんなだ」とよく言われていた、皆。

これらは、それ以上立ち入って聞くことを少し相手に遠慮させてしまう効用をもっている。けどまあ聞かれても特に問題ない場合がほとんどである。単に特に話すべきこともないから言っているだけだ。


そ してこれは友人のブログでも前に指摘があったけれど、「個人的な意見」。これは、個人的な見解で、他のとこに責任ないからね、みたいな意味だろうけれど、 これをつけると大きなことを言っても一個人の単なる思いの表明、つまりは個人の思想・表現の自由に結びつき、それは私の価値観だから、ということで他人に 手出しのできない領域へ引き込むことができるのではないか。ないか。


あと、「アートだね」。これはよく使ってしまう。なんか個性 的で、なんか新しくて、いいところもあるんだけど新しいがために言葉で表現しきれなくて、というか言葉で表現できちゃうとなんか違う気もして、とりあえず なにか言わなきゃ、という時に使う。少し皮肉を言うときにも使うけど。
たとえば永い人の字があまりにひょろひょろの味のある字で、私はきれいとは 言えないその字をしかしなんだか気に入ってしまって、「アートですね!」と言って、院時代の名札の裏に書いてもらったことがある。それで、ロッカーの上に 忘れた名札が永い人のものだと思われてしまったこともある。(院では、双方向授業すなわちソクラテスメソッド、つまり教師と生徒がやりとりをしながら授業 を進めるということになっていて、名前がわからないと不便だということで、学生は皆名札を机の前に出すことが義務付けられていた)

江國香織の「ホテルカクタス」で、帽子の部屋に数字の2が行ったとき、「文学的ですね」と言い、帽子が「わかるかね」みたいな受け答えをする場面があるのだけど、そのとき2にとってはよくわからないものはみな「文学的」なのだ、という解説があって。これと似ている。
あとは「新しいね」「個性的だね」「とんがってるね」あたりも似たような感じだろうか。


今日は
ROCK AND ROLL HIGH SCHOOL/pre-school

これもなつい。皆解散しちゃって。

2月の諸々

雑記。まとめる努力をしないもの。

・方言
18年くらい沖縄に住んでいたけど、方言はあまり使わなかった。が、祖母と暮らすようになった今、いろいろ聞ける。
にへーでーびる、とか、めんそーれ、なんかはこう、観光客の人にも馴染みのある言葉だし、でーじ、とか、あきさみよー、とかは我々の年代でもよく知ってる言葉で。

でも、「けーぶー」というのは最近知った。「けー」というのは食うという意味、「ぶー」というのは福、食べることに福がある人、つまり食いっぱぐれないというか、ちょうど食べ物があるときに「こんにちはー」と言って訪ねてくるような人のことを言うらしい。
そして、父が本当にタイミングよく夕食のできたころに帰ってきたり、二階から下りてきたりするために、使う。

あと、「ゆんぢち」というのも。これは旧暦の話で、閏月のことだ。旧暦だとなんか33ヶ月に1ヶ月くらい足りなくなるらしく、二回同じ月、つまり2月が二回、みたいになるらしいのだ。いや知らなかった。1ヶ月も足りないの、って感じである。

沖縄では何かと旧暦のイベントがあって、正月も新暦の正月もやれば旧暦の正月もあるし、その上旧暦上で1月16日が祖先の正月みたいなものらしくて(今年は2月10日だった)その日もなんか道が混む。前に書いた清明(しーみー)も旧暦のイベントだ。
うちではそんなにちゃんとやらないけど、祖母は昔の人なので、そわそわする。


・好きな音
JUDY AND MARYというバンドがあったが、その「ラッキープール」の前奏部分が好きだった。前奏部分のみといってもいい。
あと、くるりの「屏風浦」のギター部分と、
コーネリアスの「toner」の中ほどから現れるぴたぴたした音と、
Digitalismの「POGO」全体的に、
LAVAの「Fascinio Gladston Galliza」の最初のドラムぽいような金属の板をべこべこ鳴らしてる感じの音と、
m-floの「Planet Shining」の「intro」の最初の音(機内のお知らせ的な)と、
「THE REPLACEMENT PERCUSSIONISTS」の「Deep Within Audiomusica No12 [Edit]by Sunaga t’ Experience」の前奏と、
Massive Attackの「Protection」のなにあれ的な音と、
Montaの「Blizzard」のなんだいあれは、オーボエ?みたいな音と、
Oscar Petersonの「Fly me to the moon」の最初の和音と、
Polarisの「はじまるまえのしずかなとき」の全体と、
Radioheadの「KID A」の「Everything In Its Right Place」の最初の音と「KID A」のパタパタした音と、
Rei Harakamiの・・・
というかあまりに用語を知らないのでだめだ。

要するに、ピアノとアコースティックギターとバイオリンとなんかぴたぴたした音が好きらしい。
ピアノはなんだかストレートだし、アコースティックなギターは趣があるし(あとギィっていう音がいい。あれなんて言うんだろう)バイオリンはぐっと豊かになる。めくるめく世界。
ぴたぴた音にも程度はあるんだけど、かわいい電子音からごついのまで好きらしい。fit感がなんかいいのだ。ハラカミおじさんに聞き入るのも、テルアビブに電話してしまうのもそのせいだ(いやしないけど)。