June 19, 2009

ビル群と月の風景に思った何かしらについてのメモ

早稲田への愛を発揮したにもかかわらず、野球は敗戦で。
背脂いっぱいのラーメンを食し。
そのあとホテルの最上階のバーでの夜景はやけに象徴的で。


ビル群が眼下に見え、そのすぐ上をぼうっとした空気が覆い、その上に澄んだ空が広がり、黄色く赤い大きな月が浮かび。


そういう風景をジャズの生演奏を聴きつつ酒を飲みつつ観るという贅沢より、なんとこの地上が天に比べて小さいのだろうという確信のようなものの方が心を捉え。



これを見ながら、この景色から感ずるものを共有できる誰かと、人生観なり世界観なりあらゆる考察をとことん語れればいいのに、と思うと共に、そんなことは無理なのかもしれないと思い、とても寂しくなる。

私はもっといろいろなものを見るべきで、もっといろいろ考えるべきで。
酒はほんの少し酔うためだけに必要で。
音楽もとことん考えるという場面ではむしろ邪魔で。


もやがかかったビル群の海の上に浮かぶ低い月が、何かを象徴的に表していて。
同じ月が本物の海の上に浮かぶ月や、砂漠の上に浮かぶ月と重なり。
私がここにいる状況と、そこにいる状況を是非比べてみたいと思い。


重要なものを何に置くかということが時に危うさを含むものとして認識され。

今ここにいてバーボンを飲んでいる、つまりリッチな時間を過ごしているという事実よりも、この月が地球上のどこでも今現在認識されており、私がそれを観測しているのがたまたま東京のビル群の上であるという事実の方が遥かに重要だと評価している、と自覚する。

酔いながら、この感覚を覚えておかねばならないと、細かなタスクをこなしながらおぼろげに意識していた。


時 間軸というものを意識しながら、名も知らぬ外国人のトランペット奏者を見る。彼はあのとき私の目前でトランペットを情熱的に吹いていたのに、今この瞬間は きっと眠りについているかもしれないし、あのときトランペットの演奏に聴き入っていた観客の一人は、パソコンの画面に向かい、酔った頭で捉えようのない何 かをなんとか文字に起こそうとしている。

昨日の時計はありません、今日を打つのは今日の時計。

その名言が何を言わんとしているのかがわかるような気がした10月の終わりのこと。
時間軸のことは、改めて書く。

価値観について

価値観について。


価値観とは(goo辞書より)

「いかなる物事に価値を認めるかという個人個人の評価的判断。」


よく価値観の違いだということで議論を収束させることがある。
このブログでも、ある。



さっき集合知の話を書いていて、いろいろな情報が集合してDB化して、ある考え方やデータを検索できるようになるんじゃないかと思っていて、ていうかそれをgoogleなんかはしようとしてるんじゃないかと思うんだけど。
そのなかで、やっぱり価値観が違ってくるというのはあって、日本人の中でも結構違ったりするし、国が違えばもっと違ってくるんじゃないかと(言語が違うから思考方法も違ったりするかもしれないし)。
価値観ってなんだ、と思って。


ちなみに、価値観についての本はたくさん出ているけど、私は読んだことがないので言及できない。
いつもそうだけど、基本的には自分が肌感覚で感じたことから自分の頭の中(今までの経験)だけでつくった考えをこのブログでは述べているし、何かの本や誰かの考え方を焼きなおす場合は、その旨明記していると思う。多分。
なので、これに書いてあったよね、とかいうこととか、これで言われてることと違うんじゃないの、ということはままあるのでご承知置きいただきたい。とかいうのはサイドバーの方に書いておくべきなのかもしれないけどまあいいや。


なので、専門的にどのような議論があるのかは知らないけど、なんとなく、その価値観というか判断基準には、先天的なものと後天的なものがあるんじゃないかと思った。
性質みたいなものと、環境に影響を受けるもの。
まったく同じ刺激しか与えないで育った二人の人間というものがおそらく作為的にそう育てる場合しかありえなくて、つまりありえなくて。なのでこれを証明できるかと言われればわからないんだけど、でも先天的という言葉があるくらいなので、そういうのがあるんだろうと思う。
でもそれってどのくらいのバリエーションがあるのだろうと思う。


もし、その先天的なものを捨象していいのだとすれば、あとは後天的なものだから、自分がこういう経験をしてそこからこういうことを考えて、という説明をし、それを相手が多少なりとも理解すると、価値観が共有できたりするんじゃないかという気分。


たとえば。
レ・ミゼラブルのジャンバルジャンがパンを盗んだという事件で。
彼がものすごく貧しくて、おなかがすいて死にそうだったりした、という情報が作品中にはあるわけだけど(たしか)、この情報があるのとないのとでは評価が異なってくるのと同じで。


こういうことがあってそしたらこうなったことがあったんだ、とか、そのときこう言われてこう思ったのだ、とか、ある事例というか情報をその評価の際に添えられるのだとしたら、やはりわかりあえる度が違ってくると思う。
そこには相手にわかってもらいたいという情熱(自己の価値観に対する分析とか、表現力とか、情報の開示とか)と、相手をわかりたいという情熱(よく話を聞くこととか、イマジネーションとか)が必要で、その労力をもし惜しまなければ、割と平和になるんじゃないかと思う。
多分経験してることが大幅に食い違っていると、その分多く説明を必要とするから、めんどくさくなるんじゃないか。それを「価値観が違う」と言っているのではないか。という推測。
先天性の議論はちょっと知らないので捨象しています。


価値観のボーダーすらもしかしたら越えられるかもね、と思ったということ。

50

自己分析の一環として、人生の中でこれがしたい、ということを50個挙げてみた。
50個ってなかなか多くて、でも書いてみると意外にあるもので。


50個の一番最初は「親より長く生きる」である。

そのあとに「盆栽をやる」であったり「ウィーンフィルを聴く」であったり「自分でパンを焼いて朝食にする」などがある。

やりたいことなので、書いているうちに上がってくる。わくわくというか。
ネバーランドに行く前に、嬉しいことや楽しいことをウェンディ達が思い浮かべたように。その場面のせいで毎週日曜にやっていたハウス名作劇場のピーターパンがとても好きだった。


で、50個の最後は「守るものを見つける」である。


先日友人と夜を徹して語り合った際に、ちょうどこの話題が出て。
私は頭の片隅にこの50の項目があって、また、リンクした、と思った。

彼は守るものがほしいのだと言った。生きている意味について話していたときだ。
彼のイメージするそれは、さしあたって家庭であった。
私も「守るもの」として自分の家庭というのは想像していたけれど、それは家庭だけではないのだろうなと思った。たとえば何かの目標だとか。姿勢だとか。理念だとか。ある人でも、物でもいい。伝統でも。
守るものがある人は強い。
私が両親を尊敬しているのは、その点が大きいのではないかと思う。



ブログで何かしら考えていて、これはこうだからこうなっているのだと説明を試みるのだけど、それは的外れなことも多いのだろうと思う。最終的には、元々そういう風になっているのだということに辿り着く。つまり本能的なものだ、という結論。
感情がなぜ発生するのか。
そんなことわからない。わからないけどみんなどうにかこうにかやっている。
ただそこにある事実を受け入れるのみで、それに対応できるように作られているのだから、考えることはむしろ対応する速度を遅くしたり、対応できなくなってしまったりさせる弊害がある。
と、昨日の帰り道思っていた。歩いていて、歩くということは詳細に分析するとここの筋肉をこう収縮させて上へ持ち上げ後ろ足で地面に圧力を云々。そんなことを考えて歩いてる人なんていない。アシモとかを作ってる人たちくらいなものだ。
私たちはどうやって歩いているのかわからないまま歩く。
多分それと同じだと思う。
どうやって、なぜ、を考えることは時に有益だけど、時に有害で的外れだ。


生きている意味を考えること然り。
何のために生きているかわからないまま、生きる。そういうものだ。

デフォルト死んでいると思ってるの?とデフォルト生きていると主張する人に聞かれた。たしかにいつの間にかそう思っていた。キリスト教的、宗教的なのだろうか。

忙しいについて

よく見るブログで忙しさについて考えていたので、触発というか便乗というかそういうので書いてみようかと思う。


そこで設定されていたのは、忙しいことが善か悪か、という命題であるが、善悪の判断の問題というのは苦手分野で、まず善とは何ぞや、悪とは何ぞやという話になる。

そ もそも、昔々は道徳というものは無かったであろうと思われる。すなわち善や悪という概念も無かったであろう。ただ単純に、快と不快があったのではないだろ うかと思う。善とか悪とかというものは、やはり他者があってのものだと直感する。それは他者からの評価であると考えるからだ。
だから他人の快とするところがすなわち善であり、不快とするところが悪、それなら話は簡単であるし、納得がいく。けれども、そういうわけではないらしい。快であっても悪だったり、不快であっても善であったりするらしい。
例として思いつくのは。
本屋が青少年に有害図書を売ると、青少年にとっては快であってもそれは悪と評価され、犯罪になる。何か悪いことをやった子どもを叱ることは子どもにとっては不快であるけれども善である。とか。

じゃあ何を基準に善とか悪とか言ってるのだろう。
そこが解せない。

お そらくはその行為の対象者(先の例では青少年や子ども)だけでなく、その周辺の人々の快不快をも含めて評価しているということなのだろう。と思う。青少年 の親とかは本屋が有害図書を青少年に売ることによって暴力的な子になったりすることに不利益なり不快を被るわけで、また子どもの周囲の人たちは彼彼女が叱 られて悪いことをしなくなることによって利益なり快を得る、ということなのだろうかと。もっといえば、最大多数の最大幸福のような。それ基準で善悪を決め ているのではないかと推測する。

善なり悪なりを決める基準を仮にそういうものだと置くことにする。



で、やっと本論に戻る、忙しさは善か悪か。

忙しさの定義を例のブログの筆者は「時間が足りないと感じる心理状況」と置いている。
先の善悪の仮定話でいくと、善か悪かはその本人だけでなく他者、周辺をも巻き込むものだから、それらで分けて考える。

本人。
焦燥感、切迫感、圧迫感は彼彼女にとっては大きなストレスとなるだろう。体力的にも負担は大きい。健康を害する。嫌だと感じる。これがデメリット。
メリット。そのスキルが高いにしろ低いにしろ、自分のキャパシティを超えるか超えないかの量の仕事を負担しているわけで。容量いっぱいの仕事をしているから、自分が成長するに効率がよい環境であるとも評価できる。

他者。仕事と全く関係の無い他者。たとえば恋人や家族や友人。
デメリット。本人と共有する時間が減る。コミュニケーション不足に陥り関係が劣化する。
メリット。その本人が成長することによって魅力的になるかもしれない。話が面白くなったり給料が上がったり頑張っている姿を素敵に感じたり。

仕事と関係のある他者。
デメリット。忙しいことによるコミュニケーション不足で関係の劣化。
メリット。片付く仕事の量が増える。その本人がスキルアップすることにより仕事の質も上がる。


漏れが多い気がそこはかとなくしていますが。


つ まりは、メリットとデメリットのどちらを重視するのかという話にやはりなるのであろうと思われて、こういう検討を詳細にしていくと、個人的にはどういった 事柄でも価値観の問題に辿り着くと思っていて、それを決めるだけの精神力というか自信というか拠り所というかそういうものがまだ無い。いつも言っている善 悪の判断がつかないというのはそういうことである。ずるい話ではある。


一般的に、忙しいことは美徳であると考えられている、というのは最近揺らいではいるものの事実まだそうだろうと思う。肌感覚では。
ということは世間一般の人の多数は、メリットの方を重視しているということなのだろうか。成長に重きを置いているということなのだろうか。と推測する。
その個人の成長なり仕事なりが社会全体にとってプラスになるから、つまり世間一般の人々にとってプラスになるからという利害関係もあるかもしれないと思う。単に自分より忙しくない人をうらやんだりねたむ気持ちの裏返しだという推測もできる。


先に仮定した善と悪の判断基準、それに拘泥するのもどうかとは思っていて。
つまり最大多数の最大幸福を基準にすることが。

だって自分の人生じゃんとかも思うわけです。
善か悪かっていう命題自体への疑問ですね。
自分のメリットデメリットだけを考えてもいいんじゃないかとふと思ったりする。


そしてもう一点、忙しい自体が程度問題だという問題もあります。
過労死寸前なのか、1日使ってデートをする暇が無いなのか、単に残業が1,2時間あるなのか、とか。
仕事内容もそうだろうとは思う。成長できる仕事内容なのか、ルーティンワークで忙しいのか。


で、結局私も結論は出せないわけで。
何にせよ、中庸がいいと思うわけです。結局。

寂しいについて

なんだかいろいろあって、昨日は1時間睡眠のままここまで起きている。
寝た方がいい、それはたしかにわかっています。

1時間寝たというより1時間気を失って、はっと気がついて午前中から友人と会った。夕方に彼女と別れて一人カフェへ行った。最近一人カフェは毎日のようにしていて、たまに2軒以上行ってしまっている。主に時間を潰したり本を読んだりするために。

カフェに着いた頃には憔悴していたが、少し物を考えることくらいはできた。しかし文章を追うものの、頭には入ってこない。優れて美しい文章である本だったので、この状態で読むのは勿体無く思い、手を動かして気づいたことをメモをすることにした。


私が来る前から隣の席に座っていたカップルは、つい最近私も受けた試験の論文について議論をしていた。勉強会をしているようだった。
その会話や様子が月並みながらもいろんなものを思い起こさせて、ただでさえ憔悴していた私はまた厭世観というかそういうものに襲われたわけである。


「寂しい」と思うのは何故だろうと考える。
いやその前にむしろ「寂しい」とは何かを検討すべきだ。
そのための資料として「寂しい」を感じるのはどのようなときかという傾向をつかむべきだろう。

「寂 しい」を感じるとき、それは、失われたものを思うとき、そこにあるべきであると思っているものを思うとき、なのではないかと思う。時間、空間、人、動物、 物体等々、それらが「有る」と観念された経験と今ここに「無い」という事実との対比。特に思い入れがあるものについて。
「喪失感」と似ているけど、「喪失感」のように、かつて持っていたことは要件ではなくて、有ると観念されたことがあるとういうことが要件である。たとえば恋人がいたことがない人については、「喪失感」はなくとも「寂しい」はありうるという意味。


で、「寂しい」とは何か。
そこに有るべきものがない、という観念の下に発生し、その有るべきものを欲することを伴う感情。その感情を超えたところに諦めなり探究なりのスタンスはあると思われる。


なぜ「寂しい」という感情が発生するのか。
本能的に人間は、「持っている」ことによって満足しもしくは満足に近づく。生物一般についてそうなのかもしれないけど。
脱線するが、この「本能的」という言葉は本当はあまり使いたくない。本能的というのはそこから先の思考を放棄しているからだ。生物の構造上そうなっているのだ、と決めてかかることだから。検討の余地が無い。でも、仕方ない。

で。
持っていないよりも持っていた方が生きていく上ではより安定的だからだろうか。と考える。

一方で人間は持つのをやめることをしたりする。そこではしかし物質的な何かを捨てる代わりに何かを手に入れていて、それによる満足を得ていたりするのかもしれない。物を捨てると空間が手に入るように。恋人がいなくなると一人の時間が増えるように。
どちらの状態を「有る」と認識するかの問題なのかもしれない。一般的には目に見えて「有る」ものを追いがちではあるけれども。


では、「寂しい」という感情がネガティブなものになって生活に多少なりとも支障を与えていると感じる場合、どのように克服すればよいか。
上述より、①有るべきもの、という観念を放棄すること、または②「有る」という認識を逆にしてみること、の二つの方法が考えられる。


多分二つとかじゃないとは思う。
でも
眠すぎる。

立ち位置

物質的な立ち位置、すなわち今実際にいるその地点が、全ての個々人で違うのと同じように、あるいは同じことが絶対にありえないように、精神的な立ち位置とでも言おうか、そういうのが同じと言うことはありえないのだということを、改めて感じるのは秋のせいかもしれなくて。


今日、もう昨日だけど、試験の発表の日だった。
それぞれがそれぞれの立場で試験の結果を受け入れたり受け入れられなかったりしていると思う。

私は。
随分遠くに来てしまっていて、ああそうか、私もその試験を受けたんだったと思い出す。
あの会場。ペットボトル。チョコレート。あのとき必死で皆と試験を受けたこと。結果がダメだとわかっていても皆と一緒に受けたかったこと。そしてあのプレッシャーと連帯と孤独と極限を体験したこと。
そうやって思い返して、友人からの報告を受けたり情報を得たりするうちに、泣きそうになる。

今、私は、あのときとは全然別のことをしている。
はっきり言って、全然共有できない。完全に余所の世界で起きている出来事。
そのことにものすごい寂しさを覚える。あの日々やあの人々の世界から離れてしまっていることに。私はあの人たちやあの世界が好きだった。
今、すごくひとりぼっちだと思う。


もう受かって検察官をやってる友人からメールが来る。もう一年受けないのかと言われる。
何度も聞いた助言。誰もが同じことを言う。勿体無い。
わかるよ。わかるけどさ。頭から試験に受かることが至上命題のような言い方をされるのは気に食わない。受けないことが逃げのような。ドロップアウトのような。

そういった社会的な地位とか物事について、それが得られないと世界が終わるというようなことは、一切無い。無いのだよ。

試験に受からないといけないというプレッシャーは、有能な人材を潰す。有能な人材の貴重な時間と精神力を削る。周りを見ていて本当にそう思った。
意味のない絞りをかける、本当にくだらない制度だと思う。弁護士なんて、技術的にはそんなたいした仕事じゃない。少なくとも、あの院行ってれば誰でもできる。



志を高く。
目線を正しく。
というのは物産の社訓かなんか。うまいこと言う。
そう、目線を正しく。


今やりたいこと。やっていること。考えていること。
バイトにも慣れてきた。

今やろうとしていることが、無謀に近いことはわかっている。決まらなければ今年一年を棒に振ることになるかもしれない。そういう意味での不安はある、もちろん。故郷にもそろそろ帰りたい。帰ってきなさいと強く言われたら帰ってしまうかもしれない。

今やりたいことを友人に説明しようと情熱を傾けてみることがある。伝わる人と、伝わらない人がいて、伝わらない人に関して、冒頭のようなことを思う。
立ち位置が日本とブラジルのように正反対で、まったくその事柄について共通点が無いのだろうと。でもある経験をすれば、その瞬間地球を突き抜けてすごく近いフィールドで話ができるようになるかもしれないと。
それまでは仕方ない。
伝えることを諦めたくはないけど、伝わらないこともある。多分、タイミングの問題だ。

伝わらないと、やっぱり自分が荒唐無稽なことを話しているように感じる。そういう意味で自信はなくなったり不安になったりする。
しかしいずれにせよ、人生という長期計画においては、やっていける自信があるし、不安は無い。それはおそらく誰でもやっていけるのだろうと思う。
やっていけるというのは、たとえば死というものがあったとしてもそれは人生の一部で。今死んでも、それはそれでいいと思える。そういう意味で、やっていけると思う。
そう考えると、重大なことなんてそんなにない。死ぬより重大なことは今のところ見つけていない。



遠回りかどうかなんて人生が終わってみないとわからない。
就活やバイトで経験してることや出会いだけでもたくさん得てるものがあると思うし。
今、楽しいし。やりたいことやれてるし。それが一番だと思う。


よく見ているブログから久々に引用。
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手垢にまみれた慣用句や常套文句は人間を思考停止するのに最適なツールだと、かの筒井氏は「言語姦覚」で看破した(少しニュアンス違うかも)。
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然り。
手 垢にまみれた言葉が多すぎて、その言葉の表すところを実際に体験してそれを伝えようとするときに、その言葉がありきたりに出回っていることによって、結局 伝えられない。ただの慣用句や常套文句の繰り返しや焼き直しになっていることがよくあって、それはもどかしい思いをするのである。伝わってるのかわからな い。

たとえば、先の「人生が終わってみないとわからない」とか。

その言葉が言葉として機能せずに、ある記号としてぺらっと貼られてそこで思考停止する。
人生が終わるときをイメージして、そこで本当に描き上げた一枚の絵を細部までしみじみ眺めて、ああ、と思っている風景。それが伝えたいイメージで。



つまり、今は絵を描いてる途中で。
そこにもし試験という猫か何かが描けなくても、絵は立派に成立する。もちろん、猫を大きく描きたい人はそうすればいい。それも立派な絵になりうるし、それが彼彼女の人生ならばそれもまた素晴らしい。
でも、猫を描くのに失敗しても、上から絵の具は塗れるし、描くのは必ずしも猫じゃなくていいのだということだ。

受容

秋冬に人が寂しくなるのは、単なる温度の変化のせいなのかもしれないなと少し思った。


他の人はどうか知らないけど、夏の暑いさかりに手をつないで歩くという行動があまり好きでないし理解できない。
いや、暑いだろう。
しかしそこにはきっと、不快を超えた何かがあるのだろうと思う。


BUMP OF CHICKEN「スノースマイル」より

「冬が寒くって 本当に良かった
君の冷えた左手を
僕の右ポケットに お招きするための
この上ない程の 理由になるから」


実は、人のポケットにつないだ手を入れるという行動も理解できない。
しかし、冬に手をつなぎたくなるのはわかる。体温のシナジー。

それが傍らに人がいないと寂しく感じる理由なのではないかと考える。
隣に寄り添う人がいれば暖かいし、話せば体温も上昇する。それがないことが寒さにつながり、側に人がいればいいのにという気持ちになり、寂しいという気持ちになる。
仮説。
一年中寂しがってる人はたくさんいると思うけど、季節間の相対的な問題として。春夏より秋冬が寂しい理由。



先日、友人といろいろ話していて、受容しすぎるということを指摘された。
どんなに相手がダメになっても、それを見捨てたりするのではなく、ただ受容する。それは相手のためにならない、という話。相手はどんどんダメになる。私はそれを看過する。


江國香織の「ぼくの小鳥ちゃん」という作品の中で、主人公の「僕」が昔の小鳥ちゃん(スズメだった)に指摘されたことを回想するシーンがある。
多分どこか引用エントリで書いた。

あった。
http://kasokusuru.blogspot.com/2007/06/blog-post.html

でももっかい引用。

「―― 一羽の小鳥として、私ががまんならないとおもうあなたの欠点を教えてあげましょうか。」
「―― 欠点?」
「―― あなたはうけいれすぎるのよ。」
「―― いけないことかな。」
「―― ときどきとても淋しくなるの。」


相手が受け入れすぎると感じて寂しくなったことがあったから、この引用はしてあったんだけど、自分がそう指摘されるまで気づかなかった。

多分実際、なんでも受容してしまうんだろうなと思う。確かにその傾向はあって、同じようなことを言われたことがたしかにある。


それは、相手を拒絶しない、という意味の受容であり、その相手に心から共感するとか親身になるとかいうことではない。ただそのままをそのままとして善し悪しの評価をすることなく事実を受け入れることである。責任をおわないこと。悪く言うと「どうでもいい」ということ。


いい悪いの評価をするということはその評価について責任を負うことだと思う。
何かをした方がよい、しない方がよい、そのままではいけない、その他諸々のアドバイスは、そのアドバイスによって決定された事項について責任を伴う。それを追求されようがされまいが。


自分の立場を明らかにしないことが賢いやり方だと悟ったのは高校のときで、それは塾のある先生の模倣だった。
今の自分の立ち回りはそのときの先生の影響がベースになっていると思う。


結 局決めるのは自分だからね、というのはどこでも使われるフレーズで、実際その通りなんだけど、自分の場合それをエクスキューズとして使っていたことは否定 できない。その人の人生はその人が選び取るもの、それは当たり前のことだけど。その一言で、自分は情報だけを伝えた、決定に関しては責任を負わないよとい う一種の意思表示であろうと思う。



受容することが悪いことなのかどうかは、判断できない。
その友人は、それは良くないことだというニュアンスで言っていたけど、じゃあ見捨てた方がいいのか、拒絶した方がいいのか、そういう緊張感をその人は私に求めているということなのか。


でもどっちにしても受容しかできないとは思う。
そうか。と。
否定も肯定もない。だから拒絶するだけの理由がない。
評価をすることで責任を負いたくないという理由は多分あったけど、今はそれより善悪の評価ができなくなっているということの方が大きい理由な気がする。

昔 から、何が悪いのかは、それが悪いと言う理由ではなく、人に怒られるから、人が困るからという理由で悪いと認識していた。だから悪とは何ぞやというのはわ かってない。それには幼少の頃から薄々感じていて、それが劣等感でもあった。心からその事実のみを捉えて、悪と思えないこと。
みんなそんなもんだよ、と言うかも知れない。けどそうでない人たちを知ってる。


見切り発車でいつも書いてしまう。
もうちょっと考える必要がある。どんどんリンクしてって手に負えない。

最近天気が悪くて、少し過ごしやすくなった。
秋の気配すら感じる9月のはじまりである。


日中でも光の量が少なくて、電気をつけていないと部屋の中が薄暗い。


夏の終わりに全力で抵抗しているという人を見かけた。
夏は嫌いではないけれど、私は秋という季節が好きで。夏そろそろ終わればいいのに、と30度を超した次の日には思っている。


昔ミクシの日記に書いた気もするけど、私の夏に対するイメージは、所謂ビールや日焼け止めのCMのような、底抜けに明るいようなものではない。


夏は忍耐の季節であり、抵抗を断念する季節である。
暑さに対し。日焼けに対し。汗に対し。まぶしさに対し。
あきらめる。
流れる汗やじりじりする肌の熱に、されるがままになっている。なすすべなし。人間の無力さを感じる。


加えて、沖縄では夏、陽射しが強い時間帯に、外を好んで出歩く酔狂はいない。
海も、陽射しが衰える時間帯、しかも時間を短くして入る。
長時間泳ぐと全身火傷を負うことになるので、沖縄で夏海に入る際はご注意いただきたい。


で、沖縄の住宅街には夏、人影が無いことが多い。


子供の頃、夏休みは家の中にいても暇で、放課後はいつもそこらじゅうに遊んでいるはずの子供たちは、昼間はいない。
歩いてみても人がいない。蝉だけがうるさい。
けだるい午後。



そういうわけで、どうしたって夏のイメージは明るくない。
景色だって美しいというよりもまぶしすぎて白とびしているし。
布の色は日光で褪せてしまう。

海に行けばきれいなんだろうけど、沖縄(本島)の人は一部を除いてそんなに海に行かない。
年1,2回くらいだろう。

海だってそんなに明るいイメージの場所ではないと私は思っている。



今だって夏は忍耐の季節であることに変わりは無い。
それで、夏が好きだという人がもし、その忍耐を好きであるということなのであれば、間違いなくマゾだろうと思ったりする。




どんな風景でもどんな状況でも、ありのままを見ようとすると、何かしらのかなしみを見てしまう気がする。
夏の住宅街でも、夜の花火でも、祭りでも。夏に限らず。春の川辺でもいい。

少し距離を置いて見ると。
決して滑稽という意味のかなしみではなく。

そこにそういう景色があるということや、その状況になっているということが、圧倒的な事実としてそこにあって。
でもそれってどうしてそうなってるのかとか、誰がそうしたのかとか、どう変えられるのかとかどうしようもなく、今現在そうなっている、ということが、なんか諦めをもって受け入れるべき事実のような。
ああ、世界がそこにあるんだな、と思う。全く手に負えないものとして。



秋は自然とニュートラルに戻る感じがしていい。
といっても沖縄では冬くらいの気候。
デフォルト独りであるということを、一人で歩くだけで感じられる季節だと思う。

覚悟

ある助言。
覚悟。


たしかに何もかもが他人事で。
いつの頃からか、何かに入り込みすぎることで自分がばかを見たり、一生懸命やったことが無に帰するのを見ることがいやになった。
結局、うまくいかなかったとき少なからず責められるのは私だったし、うまくいったとき評価されるのは結果だった。
割に合わない。そうしたければ、すればいい。私は責任をとれない。


中学校で生徒会に立候補したときに、友人が推薦文にたしか「責任感が強く」とか書いてくれたことを思い出す。
あのころはたしかに責任感が強かったんだろう。


いつからか責任というものを避けるようになった。
責任をとる、ということが、うまく逃げられなかった人が押し付けられてすることのように見えていた。
それは大人になるにつれ、とても恐ろしいことのように感じられた。
何かとてつもなく重いものを負わされるような、それで人生が終わってしまうような。


責任というものの実体を見ずに、あるブラックボックスのようなものとして怖がっていたのだろう。

多分、責任ってケースバイで重いのもあれば軽いのもあって。そして一生懸命やったうえでの責任であればそんな重いものではなくて(少なくとも自分にとっては精一杯やったという自負があるから)、こわがることではないのかもしれないと思った。
結局、責任で払わされるのは物質的な何かであって、一生懸命やったという自負があるのであれば、自分はつぶれない。誰も腹を切れとは言わないし、多分。

リスク管理をちゃんとしていれば、責任だってコントロールできる。大抵は。多分。


で、覚悟。
そういう責任を背負う可能性を認識した上で、ある物事にコミットしていくこと。
ある物事に入り込んでいく覚悟。
自分の意思で、自分の責任で。全力で。


私にさしあたって欠けているものはそれだろうと指摘してくれた人は、私という人間にコミットしてくれていて、それが無性に嬉しかった。



自分に今欠けていると気づいたものは、昔持っていたもので、ああ回復しなければ、と思う。
それはこういった責任感であったり、物事に関わっていく勇気や情熱であったり、何かに本気になるということであったり。
人の人生を生きているような気がしていた。ある人の人生を。ああ、この人は試験を受けなきゃいけないんだな、とか、この先どうなるんだろうな、とか。私は自分の人生に対してすら責任を放棄していたことに気づく。
私は責任をすり抜けて、もしくは責任をとらずに最近生きていたけれど、虚無感はすさまじかった。しかも自分の人生からは逃げられない。自分の選択で自分の人生は構築されていく。それに対して責任がとれるのは自分だけだ。


早く自分の人生を引き戻さなくてはと思う。何でも自分に引き寄せて考えること。今まさに自分の身に起こっていることとして。大事なことだ。

自己分析的職業論

弁護士か?弁護士なのか?
という疑問は昔からあって、それはずっと続いていた。


高 校のころ成したいと思っていたことは、ある問題を解決することだった。その認識は結構はっきりしていて、というのはそのことを考えるときは私のいつもは動 かない情熱が動くのを感じられたからだった。自分のこと以外で自分が泣きたくなったりするのは奇妙なことだったから、それが私にとっての大事なことなのだ ろうと感覚的に思った。


アプローチとして、そのとき考えられたのは、政治や行政の世界だったけど、そんなしがらみの世界は向いていないし、御免こうむりたいと思った。そしてリンクするのかもわからずに、ひとつのアプローチとして法律を選んだ。興味もあった。
そのアプローチも有効な場合があるだろう、と。
それはしかしやはり迂遠だと感じていた。


そ の一方で、やりはじめると法律という学問自体の面白さは私を惹きつけていて、それに触れていたいという気持ちがうまれた。それは単に、子供がゲームが好き だからやり続けたいと思うような感覚でそう思っていて、そのゲームだけをやって暮らせるなら、なんて気楽でいい人生だろうと思っていた。


でもそれはかつて自分がしたかったこととはかなり離れたことで、したかったことに対する背信のような後ろめたいものを感じていた。


少したつと、違う分野に興味をもった。それはやはりゲームのような興味だろうと思う。しかしその分野は、一生法律を研究者としてやるという道よりは幾分、やりたかったことに接近したものだった。


ここ数ヶ月の間、思考を続け、定期的にブログを書いたことで、自分がどういうことで悩んでいて、どういう考え方をしていて、どう生きたいのかを立ち返って考えることができた気がする。
思考の中にはどうしようもなくとりとめもないこともたくさんあったし、それを話したときに、ああそういうことを考える時間があるほど暇なんだねという顔をされたことももちろんある。
多分暇なのではなく、他のことをできなくなってたから思考してただけのことだと自分では思うけど。暇というものはない、多分。


そうやってとりとめもないことを多く含んだ自分やその周囲に関する考察を深めてきた結果、一番リンクしそうだと判断して今就活をはじめようとしている分野があって、それを確信したのはでもつい一昨日くらいのことだ。それまではやっぱり弁護士の呪縛にとらわれていた。

善は急げで、昨日はその分野に身をおいていた人から話を聞き、さらに自己分析をしはじめた。このエントリもその一環。


そもそもその分野に興味を持ったのは、その人の話を聞いたからだ。その業界のことは何やってるのかすら知らなかった。

一番のインパクトはビルマ料理店での会話で。
ああそうか、そうだった、と私はそのとき高校時代に、自分の根本に引き戻された。
何らかの問題を解決したいということ。
そのためのアプローチ。スキーム構築のノウハウ。問題の考え方。考慮すべき事項の抽出。底辺に流れる理念や価値観、世界観。諸々。
それらが必要だったのだということ。


そのアプローチやノウハウに、法律というものが含まれうることはいうまでも無い。だから、無駄とかはないし、資格だって無いよりはあった方が便利だと思う。でも、それだけの位置にまで落とせるようになったのが、つい一昨日だという話。

その分野に行くことが、全体を見渡せる近道な気がしていて、願わくばそういう場所に身を置いてみたい。



そう思い始めたら、就職活動はちょっと切ない。

真のに関して

リンクしているサイトで、このブログの言葉を引用した上でのある論が展開されていたので、それに関して書いてみようかと思う。

以下引用。

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在 るのか無いのか分からない、その定義も分からない、漠然とした唯一無二の愛情、友情、信頼を追いかけるより、発生と消滅を爆発的に繰り返す無数の真実達に 囲まれている方が絶対楽しいと思う。傷つくのを恐れて「絶対的」以外受け入れられない、「絶対的」が見つからないので何も受け入れられない、に比べたら建 設的だと思う。そして楽だ。
かなりリアルタイムな引用になるが、あるブログに「客観的になりたがる。楽しようとしてるのだろう」とあったけど、僕は主観的の方が断然楽だと思う。

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僕の主張は「誰かが絶対的だと思う愛情」を「絶対的ではない」と切り捨てるものではなく、「絶対的な」愛情、友情、信頼を各人が各人なりに見出せば良い、というものだ。ポイントは絶対的という概念を安売りする事にある。

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無断引用ですが、それは許されるだろう。

彼の主張は、各人が各人なりの「絶対的な」友情なり愛情なりなんなりを見出せばよいのであって、それをわざわざ客観的に吟味することは建設的ではない、もっといえばあまり意味がない、という主張、と私は捉えたのだが。

私もそうできればそれにこしたことはないと思う。
それが絶対的だと思えるなら思えばいいし、それはその人にとっての真実だろうし。それについて誰も干渉することはできないだろうし。


問題なのは、それができないことで。


それは自分なりの「絶対的」、というのは自分の主観だけで構成されるものではないからだ、私の場合。

たとえば友情。自分が友達だと思ってても相手がそうじゃないという場合を想定して、その場合に自分が友達だと思ってればそれはその人にとって友情が成立していて、それはそれでいいじゃないのという主張だと思う。

けど私は、自分が相手を友達だと思うかどうかというその段階で、大抵相手が自分を友達だと思ってるかどうかっていうことを気にせずにはいられない種類の人間だということだ。
相手に合わせているとまで言ってしまってもかまわない。
相手がそう思っているのならそういう関係なのだろうと思う。相手の主観に連動させたいというか。相手がそういう主観を持ってるか否かという判断すらも自分の主観なわけだけど。それはもう仕方がないので程度問題で。自分基準で蓋然性が高いといえるくらいなら。


相手に合わせていると感じるのは、関係性の場面だけで、一方的、片面的な感情の場合は全て主観で解決できている。と思う。
人や物を好きになるとか。あるいは嫌に思うとか。そういうのは自己完結できる。
しかし愛情や友情やなんかは相手があってのことなので、そういう人間関係的な何かは相手の主観が多分に関係する、関係しなくてはならない、と思うタイプの人間なのだろうという分析。



私 が客観的になるほうが楽だと書いたのは、相手の主観を考えるのがいちいち面倒な上に絶対確定的な答えが出ないし程度問題でもあって、そういうのを考えなが らこの人との関係がどうだとかこうだとかに一喜一憂するのを嫌って、そうするということだ。つまり、彼彼女のこの関係に対する主観がどうであれ、この関係 を評価する意味は無いんじゃないか、とぐっと下がって見るようになる。


その前の段階で、そういう人間関係的なものでさえ主観で解決できる人なら、それはその段階で客観を考える必要なんかないんだろうし、それなら主観的でいたほうが楽だろうと思う。


という考察。というのか弁解というのか。


結構でもこのスタンスは固まりつつある気はする。

宮古

ここ三日、家族で宮古島へ行っていた。
宮古島は本島から飛行機で45分南西の方向へ行ったくらいのところにある。

7、8年ぶりくらい。


宮古島は素敵な場所で、そこは父の故郷であるということがかなり影響している。
昔から、宮古といえば父の育った土地であり、おばあであり、伯父であり、伯母であり、従兄弟であった。
父 は7人兄弟の末っ子で、4男である。男兄弟は4人とも雰囲気や話し方がよく似ていて、特に次男と父は似ている。次男の伯父は島に残っているが、他の男3人 は本島や東京へ出てそれぞれ生活をもっている。3人の伯母のうち1人はアメリカへ渡って家庭をもっていたが、何年か前に交通事故で亡くなった。あとの二人 はそれぞれ結婚して島にいる。各々が独立していて、立派で大人な兄弟たちだと思う。

今回の旅の主目的は、そういった親戚、兄弟をまわることとおばあに会うことだった。


宮古島はほとんど畑でできている。さとうきび畑がどこまでも続く。土は赤土で、それらが日光を浴びてとても鮮やか。空も青い。広い。高い建物はどこにもない。畑の中に農具置き場としての小屋がぽつぽつとある。スプリンクラーが噴水のように畑に水をまいている。
父の家の畑の一部(畑はあちこちに離れてある)を見せてもらい、畑をして暮らすのもいいなと考える。伯父の人生に思いを致す。


宮古島の海はとてもとてもきれいだ。透明で、空より何倍も青くて(それでいつも海が青いのが空を映しているというのが本当なのかわからなくなる)、リーフのあるところが浅くなってエメラルドグリーンに見える。

ひたすら暑い。でもその暑さが最近懐かしい。
高校のとき環境問題に熱心な生物教師がいて、彼がオゾン層の破壊による紫外線の増大とその危険性について語るのを聞いた後に、友人が言った「でも、太陽の光を避けて暮らすより、太陽いっぱい浴びて早く死ぬ方がいいな」という言葉を思い出す。
じりじりと肌の焼ける感覚も、目が開けられないほどの眩しさも、やけに静かで物憂い空気も、昔から知っている。
宮古島は、本島ほど矛盾を抱えていないし、まだ素朴だ。そういう雰囲気も、単純でいい。


また、写真では全然お伝えできないけれども、一応Flickrに上げる。


おばあ、つまり祖母は、病院にいた。
7 人兄弟の母親であり、たくさんの畑を人を使い自分も働いて切り盛りし、あの時代に兄弟7人全員を大学まで出した。腰は全く曲がっていなくて、とても堂々と していた。私の知っている祖母は、パワフルで優しく、純粋な人で、何でも出してきては食べなさいとすすめ、お小遣いをくれるときは「これで鉛筆と帳面を 買って勉強しなさいね」と言い添える人だった。眠るときは必ず同じ話をした。ウエリントン公爵という人の話で、すぐ下の妹と私は、その中のある台詞を今で も物真似付きでそらで言える。


祖母は病院のベッドで静かに横になっていた。小さくなって、子供のようになっていた。
認知 症のためにもう私たちのことはわからなくなっている。父や伯父でさえあまり覚えていない。それでも、首を傾け目を上げて、いろいろな顔を見つけては小さい 子供のように嬉しそうに笑う。身内だということはわかるみたいだと伯父が言う。あの聡明さ、パワフルさはないのに、でもたしかにその子供のような無垢さは 昔からずっと持っていたものなのだろう、祖母は昔からそういう人で、ただ純化されただけのように見えた。


二度目、本島に帰る日に 訪ねたとき、祖母は何度も長女、次女、三女、と確認していたけどその記憶はすぐに失われて、またすぐに確認しはじめる。私を次女と言ったり、母を三女と 言ったりする。私たちが訪ねたことも、数分後には忘れただろう。でも祖母を囲んでいるとき、彼女は幸せそうに笑った。その一瞬もし祖母が幸せだったのな ら、記憶に残らないとしてもそれは素晴らしいことだろうと思った。


帰路につく。
空港も新しくなった。

子供のころ宮古島で過ごしたあの記憶は。
草 むらをかき分けて行った海。浮いたサンダル。山羊小屋。クーラーボックス。浮き輪。おばあの家。柱に貼られたシール。従兄弟たちとのトランプ。おじさん達 の飲み会。トラックの荷台に乗って見た夕日。さとうきびをかじったこと。鎌が使えなくておばあに笑われたこと(でも小学生だった)。深夜やしがにを捕りに 行ったこと。向かいの商店にアイスを買いに行ったこと。

久しぶりに掘り起こされて、その時間はとても今取り戻せるものじゃなくて、本当に眩しすぎて、随分遠いところまで来てしまったんだなと思った。


帰る場所は本島ではなくて、もしかしたらここなのかもしれないな、ここだったらいいなと漠然と思う。

用途

昨夜ベランダで考えていて、一度自分の全てが悲しくなって、ああ何も無いなと思いながら物質世界に目を落としたら、そこに自分の手があった。


そこで、何もかもが不完全だと思ったあとで、この手はなんて完全なのだろうと思った。
何かをするのに完全である、という意味で。過不足なく。
一 つ一つの細胞や組織がしっかりと結合し、血管や骨が通り、生命体の一部として維持されていて、爪が指先を守り。この手はそれだけにとどまらずいろいろな動 作をすることができる。曲げたり伸ばしたり掴んだり書いたり。怪我をしても元通りになる。この手があるせいで何か環境を破壊するでもなく。


そう考えて、この手だけじゃなく、脳なり足なり顔なり体中全てが、何かをするのに完全なのだと思って、でもなんでこんなに悲しいのだろうと思って。
それは内面が不完全だからだと思うに至って。
発生する感情をコントロールしたり処理することができず、またこの体を何に使うべきなのかをわからず。無駄に持て余し、使わずに遊ばせている。そんな権利が私にあっただろうか。


死のことを最近考える。次の瞬間死んだら、私は後悔するだろうと思う。何一つ為していないから。

それで、生まれてきた甲斐について考える。何を為せれば私は生まれてきた甲斐があったと感じることができるのだろうと。

人 がこの世界でできることについて考える。自然法則を変えることはできないし、無から有を創ることもできない。自然を破壊しようが、あたらしい化合物を作り 出そうが、それは自然界において、前と後で変わらないことなのだろうと思う。だったら人ができるのは物質面でなく精神面で他の人に影響することだろうと考 える。他の人を一瞬でも幸せにすることなのではないかと考える。

思い返せば、私はいろいろな場面で幸せを感じてきていて、それは夏の暑い 日に食べるかき氷であったり、好きな人と見る花火であったり、試験の後の酒であったり、友人の何気ない一言だったり、気分によく合った音楽であったり、小 説の一行であったり、テレビの美しい映像だったりするわけだ。
それらは背後に、かき氷を発明した人やその場で作ったおじさんや、時間を割いてくれ た好きな人や花火職人や、酒を作った酒造の職人や場所を提供した店の人や、一言を放った友人や、音楽を作曲した人やCDを製造した業者や販売した店の人 や、小説家や出版社や本屋さんや、撮影スタッフやテレビ製作のエンジニアたちの働きがあるわけだ。

そういう人たちのいい仕事のおかげで、 私はその瞬間瞬間に嬉しくなったり楽しくなったりすることができていて、その人たちが私を喜ばせようとしていようがいまいが、人一人を幸せにしているのは 事実で、実際それで結構私は救われていると思う。そうやって何かいいことが人間の生活の中には起こるから、人々は一日一日を乗り切っていると思う。それら は偶発的に起こっているように見えたり、誰の手も借りずにそこにあるように見えたりするけど、必然的に人の手を経て起こっている。
当たり前のことだけど。


それに一つ一つ感謝するのを忘れたくない、とまでは言わない。
ただ、そういうことがしたいと思った。この体とそれに与えられた時間を使うならば、誰かを一瞬でも幸せにできるようなことができたらいい。
願わくば、自分の好きな分野で。ビジョナリー・ピープルの考え方に従えば。


今まで自己投資しかしてこなかった。そろそろ利益を上げて、配当を出すべき時期だろうと思う。
私が、ではない。この物質としての身体が。
この身体を使うのに私の精神が追いついていない。



人を幸せにすることが、是か非かという問題はあると思っている。
それは言い換えれば、人の欲を満たし、次の欲を生み出すともいえる。その人の幸せのために、誰かが犠牲を強いられているかもしれない。それっていいこととは言えない気もする。
あ る子供が勉強をするために、木が一本切り倒されるかもしれない。ある人が食べるために、どこかの土地が痩せるかもしれない。できれば誰かの犠牲なく幸せに なれればいいけど、でもそのときそのとき対応している相対立する利害は、どちらかが我慢しなければならない。他の場面で幸せを分配するしか方法がない、と 思う。
多分、ここで浮かんでくるのは、地球のどこかの貧しい地域にその犠牲を強いてるんじゃないかという発想で。それとこれとはちょっと問題を異 にする。単純に考えてみれば、お金を払い、物を得る。一方は物を売ってお金を得る。それでどっちもハッピーなわけで。そういう話。他の場面での分配ってい うのはそういうこと。物は失うけど、お金は入ってくる。そこで幸せは分配されている。
分配するまでもなく、与えることそのものによって幸せを得られる場合もあると思う。理想的。
地球規模の格差の問題は、多分、富の集中。富=幸せかという問題もあるけど。一応それはある面で真ではあると思う。その話はまた今度。


結局是か非かとかはわからない。
私は、是でも非でもどちらでもいいと思っていて。幸せになるというのは(その内容がいかなるものであれ)人間が究極的に求めているものだから、人間にとって最も重要なことの一つなのだろうと考えている。それだけ。
是 か非かとか善か悪かとかいう評価はもう全てにおいて意味がないと言い切ってしまうのは言いすぎだろうか。けど根本的にはそう思っている。評価という行為自 体。意味というものも。相対的、主観的なものにすぎないから。人によって違うことなんて本気で相手にしてたら身が持たない。
それで客観的になりた がっていて、でも多分客観なんて昔友人が言ったように存在しないのかもしれなくて。あったとしても、完全に客観的になることなど絶対できなくて、それなら 主観世界で折り合いをつけるように何かを評価したり感情や意味を認めたりしなければならないのかもしれないけど。
でも少しほとぼりが冷めるとすぐに客観的になりたがる。楽しようとしてるのだろう。

ああそろそろ道家になってしまう。


話がそれている。
で、 ただ人を喜ばせる何かができたらいいと、それをできるだけ誠実にできたらいいと、なんとなく思った。それは何か気分のようなもので、何も根拠とかなくて、 ただなんとなくそれがこの身体を使ってできることなんだろうと思っただけで、それに意味があるかどうかとかそれが人生の目的なのかとかそういうのはわから ない。


全然まとまらなかった。キャパ不足。

カテゴリ

 前回のエントリと関連して。
人間関係をカテゴライズすることについて。

たとえば私たちはよく「友人」というカテゴリを使う。「親友」というカテゴリがあったりするし、「知り合い」というカテゴリがあるかもしれない。
それらって多分、親しさや信頼の深さの程度を基準に分けている。

ここで、「高校の同級生」や「サークルの先輩」や「取引先」っていうのは程度の問題ではなく、知り合ったきっかけとか所属した場所とかいう明確なものを基準としていて、それは別次元のカテゴライズといえるんだろうと思う。属性といってもいい。この種類のものは置いておく。


で、前者のカテゴライズ、つまりは親しさの程度とかによって分けることが、やっぱり難しい。私はこの人とどれだけ親しいのだろうか、というのは結構わからない。ので、そのファクターについて考えてみた。多分きりがないとは思うけど。


人間関係は、その関係それ自体についての相互の認識に尽きると、言ってみたばかりだが、相手の認識というのもやっぱり親しさの程度には影響する。
何 をどれだけ話せるかという基準もあろうが、自分の弱さを見せることにその基準を置けばいいのか、感情的な問題について吐露することがそれなのか、素直にな れることがそれなのか、とか考える。それらは総合的に、ひっくるめてどれだけ話せるかという基準でもいいのかもしれない。
どれくらい互いの情報を知っているか、というのも基準になりうるかと思う。どういう話が好きだとか、どういう反応をするかとか、物の考えかただとか、果ては食べ物や酒の好みまで。
一緒にどこへ行けるか、というのもあるかもしれない。どういう時間を共有できるか。
黙ってても苦にならないとか。つまりそれくらい気を遣わずに済むとか。

やっぱりきりがなかった。



で、その人間関係をカテゴライズするのにどれだけ意味があるのかという話。
つまりは他人にその関係を説明する便宜上、そのような名称を使う必要があるというだけの話なんじゃないかと思う。(当たり前の話なのかもしれないが、意外と我々はそれ以上の意味を名称に与えている気がする。以下考察。)

「友人」という名称をつけられてる関係たちは、各々個別に全く違うわけで、それは誰しも認識していることで、それをあえて「友人」、と一緒くたにしてしまうのは、その関係をいちいち説明するのが難儀だからである。
それだけの話なんじゃないかと思う。
「恋 人」とか「付き合ってる」とかいう名称も、それを対外的に説明する際に便宜的に用いるワードであって、その名称がつけられているこの世にあまたある関係た ちはやっぱり個々に全く違っている。と思う。恋愛感情という共通点でくくられているという意味で、「友人」とは差別化できるのかもしれないが、「友達以上 恋人未満」とかいうカテゴリがあったりするし、「恋人」でも恋愛感情が無い場合だってあるかもしれなくて、そもそも恋愛感情って何かという話にもなり(こ れがまた最近わからない)。
だから「恋人」って言ったって、それもまたそれぞれ違う。
もっといえば、それは他の人から見れば「恋人」ではないかもしれないわけで。


そう考えることによって、私はその名称の有する意味を減少させようとし、その名称とその人間関係とのつながりを弱めようとしている。

た とえば「恋人」という名称を付した関係にある場合、おそらくほとんどの場合、私たちは「恋人」だ、という相互認識があって、それにしたがって「恋人」らし く考え、振る舞うということが要求され、行動の範囲が拡張されたり縮小されたりとかする気がしているのだが、それってその名称に認識や行動を縛られてるこ とになる。それが本末転倒に感じるというか。
本来、名称が先にくるのではなくて、関係が先にくるんだろうと。それに単に名称を便宜的に付しただけだろうと。
だから、自分の認識と他者に説明するときの名称は、乖離していても構わないんじゃないかと思う。そう説明するのが便宜だからその名称を使うという以上の意味がないのであれば。

「名前ってなに?」である。



一応私も社会生活を営んでいるので、名称を使って関係を説明してきているし、少なからずその名称に縛られて考えたりつきあったりしてきている。
けど最近、特に院に入ってからだけど、結構そういうカテゴライズに意味を見出せなくなって。つまり、その名称でその人との関係性を全然表現できてないって思うことがよくあって。それは言葉や時間の限界として受容されなければならない。



もちろん、名称にしたがって、関係を認識し、行動することもまた一興かもしれない。それを信念にする人もいるかもしれなくて、それはそれで美しい何かであると思う。

「恋人」や「友人」や「親友」の定義をきっちりできる人もいる。
けど自分にはどんな定義もしっくりこなくて、それは個人個人の感覚や経験だと思う。
定義できないものは無理して定義を考えずにそのまま置いといていろんな面を発見していくほうが、しっくりくる。し、今は多分その段階なんだろうと思う。もしかしたらいつか定義できる日がくるのかもしれない。

披露宴に出て思うこと

昨日、小学校来の友人の結婚披露宴に出席した。
私は中学に上がるときに引っ越したので、そこでほとんど小学校の友人とは縁が切れているのだが、その子とは高校くらいまでたまに連絡をとりあった。
最近互いに東京にいることがわかり、この前5年ぶりくらいに中目黒で会って、それで今回の結婚披露宴に呼ばれたという経緯。


月並みではあるが、披露宴の最中には、結婚か、とやはり考えた。知ってる子が一人しかいなくて(しかも小学校卒業以来会ってない子)、黙々と料理を食べるか余興を見ているだけだったので、考える時間があったのもある。
披露宴とかってやるんだろうか、自分なら誰を呼ぶんだろうか、誰に挨拶を頼むんだろうか。

結婚か。するのか?

彼らはなんで結婚しようと思ったのだろう。世の人はなぜ当然のように結婚するのだろう。永続的な幸せの保障のためだろうか。子供のためだろうか。なぜ私は結婚したいと思っているのか。



制度としての結婚と、人間的関係としての結婚とは多分分けて考えたほうが良くて(もちろん相互に干渉しあうけど)。

制度として結婚をしているとメリットとしては(反面、デメリットともいえるけど)扶養をうけることができるとか、慰謝料云々とか、同居義務で一緒にいられるとかそういう感じだろうか。
そこ重視するのもありだとは思うけど、やっぱりどちらかといえば人間関係としての結婚とは何ぞやと。思うわけです。


そ もそも人間関係なんて本当に多種多様で、相対的に見たときに(つまりAさんとBさんの関係と、CさんとDさんの関係とか、EさんとFさんとか、AさんとD さんとか、を比べたときに)、結婚してるということが何らかのカテゴリになるかといえば全くそんなことはない、と思う。ある共通点ではありうる。直線とか で考えれば、ある一点で交差してるんだろうと思う。
けどそれって日本に住んでるとかそういうレベルの共通点というか。うまく表現できないけど、そんなに絞りをかけられるファクターじゃない気がしている。
人間関係っていうのはすごく個別的で、深い浅いのグラデーションですらない、と思う。多層構造で。2次元とかじゃなくて。カオス。


そこで結婚って、どういう事象なんだろうと思うわけです。
点 なんじゃないかなっていう認識。その結婚という時点である一定の愛情の合意というか、そういうのを確認できる。その事象を経験した関係であるという事実。 それをどういう風に位置づけるかっていうのはそれぞれで、そこを重く見てより深く人間関係を構築していく場合もあれば、それは過去のある時点にすぎないと 見る場合もあるかもしれなくて。逆に結婚の弊害ってあると思うんですよ。ケースによっては。結婚したから二人の人間関係がおろそかになるとか。


本質的に人間関係は(結婚のみならず)、二人の認識につきるとは思う。
二人の関係に対する各々の認識と、互いの認識のずれの発見と、修正と。もしくは修正ではなくずれたままでの受容と。発見すらできないときもあるけど。

この人とはこういう関係なのだと認識することによって感情が生まれることも結構あると思っていて、独占欲なんかには結構それが当てはまる。打ち解け具合とか。態度とか。
結婚もその関係性の認識のためのファクターになっているとすれば、結婚しているからこういう感情が生まれるとか、こういう態度になるとかっていうことはありそうな気がする。



個人的には結婚を手放しでしたいものだって決めてかかるのもどうかと思って、一応の検討を加えるべき事柄なのかなとか思うのでこうして書いてみたわけだけど。

そうはいっても結婚というのは制度上もそうだけど、やはり不可逆的で重要な何かではある。少なくとも社会一般の共通認識として。
この社会の認識っていうのは結構厄介だと思う。気にしない、と言うことはできても、気にしないことは滅多にできない。私の場合は。
だからあらかじめ考えておくのは選択をする際に楽になるんじゃないかと思う。
慎重すぎる。


こういうことを披露宴の最中考えていたわけではもちろんないけど。


帰宅して、母に「何か思うところがありましたか」と聞かれた。
はい。


追記(7.10)
追記しようとして途中で保存したら、エントリまるごと下書きに落とされていた。

結 婚がカテゴリとして機能しない的なことを書いたけど、それって程度問題だと後で思って。そんなこといったらカテゴリとして何が機能するのかという話になっ て。多分人間関係をカテゴライズするのはナンセンスで、しかしそれをあえてするとするならば、単なる共通点レベル(そんなに絞れないもの)でもそれはカテ ゴライズといえるのだろうと。思って追記した。結婚をしていないからこその片面的な考察になっていることを自覚していることをも付言したい。結婚をしてい ればなんらかの共通点が生まれることはぼんやりとわかるが、私が思っているよりも多くの共通点がうまれているかもしれない。

週の初めに読むいくつもの

引越しの準備をしている。

近くのスーパーで段ボールをもらって、適当にパックして、郵便局に電話して取りに来てもらう。もう12個くらい送った。


今日は物を処分することも並行してやっていたので、結構物が無くなった。少しすっきりした。もともと可愛げのかけらも無い部屋なので、物が減っても殺風景になったという気はしない。でも、ああ引っ越すんだな、という実感は沸いてきた。


書類やら書籍が多い。当然といえば当然。
小説も、ほとんど読んでないとはいえ、6年も東京にいるとそれなりに買っていたようで。
引越しは実は人生7度目だ。毎度のことながら、写真やら文庫やらを読み返してはその当時を思い出したりして見入ってしまい、我に返る、というまあ誰にでもありがちなのをもう今日だけで4度くらいやっている。これもまた引越しの一部ということで。


圧倒的に江國香織の本が多い。多分、ほとんど買っている。
彼女の書くものが好きというよりは、自分にすごく近くて気づかされることが多いから買ってるのかもしれない、と思う。

作 品を読む限り、性質として彼女と私は似ていると思う、かなり。それは別にファンだからとかそういうことではなく。それも特に嬉しいことではない。たまに自 分と重なりすぎて目もあてられない、ということがある。誰しもあることなのかもしれない、たとえば昔の友人は村上春樹をそういう風にとらえていたし、実際 そういう男の子は多いのかもしれない(推測)。

ともあれ。
私たちは単純で身勝手で曖昧で、それを分析したうえではっきりわかっていて、でも渦中にあるとそうせざるをえないのだと思い込もうとする。それは正当化ともいえる。そして自らがそうしていることもわかっている。その点において、我々は似ている、と思う。


分析したことをほんとうに適切に(ほとんど寸分の狂いもなく)表現する、また、言いたいことを確実に伝える彼女の筆力は、本当に素晴らしいと思う。
彼女は言葉を丁寧にじっくり選んでその語感をも吟味し、ひらがなと漢字を使い分け、表記にもこだわっている。言葉の手ざわりを大事にする。一番伝わりやすい言葉を選ぶ(そういう意味ではすごく合理的だ)。彼女は妥協をしない。
話の筋を追うあまり、表現を軽視している作家はたくさんいると思うのだが。私は彼女の書き方が好きだ。小説の内容とか彼女の考え方とかじゃなく。


で、 彼女と私が似ているのが確信に至ったのは彼女のエッセイを読んでからなのだが、中でも「いくつもの週末」という作品がその当時の自分とかぶりにかぶったと いうか、大いに共感したものだった(しかし痛々しい共感だったと今は思う)。引越しの最中につい読んで、フラッシュバックした。あの頃。


「い くつもの週末」は、彼女と夫についての、または結婚生活についてのエッセイである。私は結婚していないので共感っていってもその程度ではあるのだが、恋愛 をしていた私にとっては結婚への憧れとも相まって、甘やかだが切なく苦しくやきもきする、しかし圧倒的な幸福感で満ちたそのエッセイを何度も読み返したも のだった。
名言がいくつも出てくる。ほんとにいくつも。ぴったりくる。

恋愛をしている最中に読んだとき、「甘やかされることについて」というのを読んで、同じ気持ちになりながらも、絶望的な気持ちにもなった。
「正しさなんて全然問題じゃない」
今はそうは思ってない。元来フェアなのが好きだし。でも恋愛すればまたそう思ってしまうのかもしれない。と思う。


「猫」という文章では、男と女の狡さについて触れてある。
彼女の考察結果は、「女の狡さは積極的でつめたい(あるいはあつい)けれど、男の狡さは消極的でぬるい(あるいはあたたかい)」そうで、「もしもそうだとするならば、消極的でぬるい(あるいはあたたかい)狡さの方が絶対により狡い、と思う。」そうだ。

なんて鋭い考察、かつ表現力だろう、と思う。

「それはたとえば、何かを主張するのに結果がどうなろうと知ったことじゃない、というのが女の身勝手さであるのに対し、結果だけは正確に見据えて、あとはまあ知ったことじゃない、と考えるのが男の身勝手さであるのと似ている。」

なるほど。たしかに。思い当たる。


いつのまにか「いくつもの週末」のレビューになっている。


私は今冷静だし(相対的に)、このエッセイを読んで、「あの頃」なんかを、ばかばかしく幸せだが苦しかった日々として思い出すだけだし、今の状態が正常値というか安定した状態であると把握しているのに。
それでもいつか結婚するんだろうかと思っていて、それがある意味本来であるかのように待ち望んでいるふしがあって、それに気づいた日でもあった。今日。


それは逆に言えば、そんなことはない、と思えるようになったということでもあり。


どちらにしても、江國さんは
「無論結婚は”struggle”だ。」
という。

ふむそうか。

恋とはどんなものかしら

先日のエントリの恋という現象についてっていうのを考えてみる。長編。


割とよく語られている話題ではあると思う。それが具体的ケースについてであるにせよ抽象論であるにせよ(大概の場合それは一緒に語られるものだけど)。


あと、恋、恋、って言ってるのは別に他意はない。
恋がしたいと主張しているのでも、恋をしていると主張しているのでも、ない。そんなのプライベートなことだし、あったとしてもそういう叫び的なものはここには書かない(遡って読み返さないように)。
きっかけをあえて挙げるとするならば、最近思い出した昔書いてたブログである。そこには恋愛してた当時の感情を観察したものが記されていて、それを拙いながら抽象化しようとした跡が残っている。今でも拙いとかいう批判はおいておく。

よ くよく考えると、そのブログとこのブログは雰囲気が接近しつつある。その旧のブログは今もwebのどこかに放置されているが、それを教えたのは一人だけ で、とても他人には見せられたもんじゃないと思っていたのに、このブログがそれに接近しているという事実は結構衝撃的である。まあいいか。

話がそれた。


で、恋ね。

・定義
goo辞書から。
「異性に強く惹(ひ)かれ、会いたい、ひとりじめにしたい、一緒になりたいと思う気持ち。」

あと、「恋愛」だったらwikipediaにあった。「恋愛ニート」なる言葉もあるらしい。ひとごとではない。興味のある人はどうぞ。
ここで「恋」と「恋愛」は同義ではない。


恋の定義を、思考というエントリでは
「新しく、相手の心を自分の方へ向けたいという欲求を伴い、胸を焦がすような、性急なもの。」
としたけど、自分の中ではこういうイメージ。
加えるなら、一過性もかな。

1.新しく
というのは、それまでの関係とは別の、というようなニュアンス。

2.相手の心を云々、
というのは、やっぱ恋特有だと思う。恋は「実る」と表現するけど、愛は「実る」とはいわない。恋が実るっていうのは、つまり両想いになるということで、そこがある到達点なわけである。相手の心を得ると成功。

3.胸を焦がすような、性急なもの
というのも恋特有というか。ここが多分楽しい部分なんだろうな。2とも関係するけど。今すぐ会いたいだとか、メールに一喜一憂するとか。相手の心を求めるが故の。

4.一過性
この状態は継続しないのがほとんどで、一過性のある意味異常(常態でない)な状態である。成就するとほとんど常態に戻る。
これを結婚してからも維持し続けたいというのが一部の人の関心事であるらしいことはテレビドラマなどで知った。


今後もっと加わるかもだけど。
私の乏しい恋の知識と経験からは今のところこんな感じである。


ちなみにここで恋という言葉は、「恋人」や「恋愛」においての「恋」という文字の部分とは必ずしもリンクしてないと思う。つまりは、ここでいう「恋」+「人」が「恋人」というわけではなく、「恋人」とはまた別の意味づけがなされるべきものである。


・物欲との差異
よく思うのは、定義の2に関連して、恋が相手の心をほしがるということが、何か物をほしがることとどう違うのかということだ。感情の構造としてね。
たとえば欲しいものがCDだとして。そのCDには好きな曲が入ってる。好みの。ジャケットも素敵だ。自分のもとにおいて、いつでも聴いたり眺めたりしたい。だからほしい。
一緒じゃない?とか思ってしまうわけだ。


・底辺の愛情につながるか否か
CDなら、手に入れて数ヶ月経つともう棚にしまわれて見向きもされない状態というのがままある。恋の場合はどうだろう。
CD同様、手に入れたら興味を失う、という人もいる。その過程が楽しいだけだと。
私見だが、そこは底辺に流れる愛情につながるか否かだと思うのだ。愛情があったうえでの恋だったならば、その一過性の病的状態が終了しても、愛情に戻り(もしくはさらに深い愛情になり)その関係はCDとのそれとは違ったものになる。
前恋愛的ななにかっていうのはそういう意味で書いた。かなり前のエントリだけど。

CDに愛情を感じる人もいるのかもしれないが、私の場合そのような経験がないので。
もし例が不適切なら詫びる。


・愛されたいという欲
これはろまん燈篭の2個目の引用で書いたのとリンクするけど、この中に入るものだと思う。
そこが愛とは違う。相手の気持ちを求めるか否か。

ろまん燈篭っていうのは、ある兄弟たちが連作で小説を書くというもので、その中の次女がここの部分を担当し、しかもこれは次女の本心ではありませんと断って書いているので、太宰の本心かどうかなんていうのは全くわからないわけだが。

「ひとの真の謙虚とは、その、愛するよろこびを知ることだと思います。
愛されるよろこびだけを求めているのは、それこそ野蛮な、無智な仕業だと思います。」

とある。私は同感するけど。
見返り無し。無償。能動的。
見返り無しは結構きついけど、愛されるよろこびのみを求めるとCDと同じになる気がする。
それは私のごく主観的な意見だけど、不幸だ。


・この現象が起こる理由
これはまさに神のみぞ知るって感じだけど。
なぜ人は恋をするのか。
物欲とプロセスは同じといえば同じかもしれない。
好ましいものに出会う。→自分のものにしたくなる。


プロセスが同じかもしれないと言っているだけで、現象が同じだというつもりはない。たとえば、恋だと人の気持ち相手だからそうそううまくはいかなくて、もしかしたら自分が否定されるかもしれなくて、そんなリスキーなところは物欲じゃありえないわけで。

まあありそうなのは、生物として人間を維持するためにそういう情熱みたいなものは必要で、そういう風にプログラムされてるとか。で、恋という現象が起こると。



ちょっ と別の話になるけど、独占欲っていうのがなぜあるのかを友人と話していたとき、生物学的観点から説明された。つまり、雌性は餌を自分と自分の子のためだけ にとってきてもらうことが必要で、それが独占欲につながると。雄性は自分の子を残すために他の雄の子を極力排除することが必要で、それが独占欲につながる と。

まあ説得的といえば説得的ではあった。けど私たちは餌どうこうを考えて、独り占めしたいと思うわけでは当然なくて、まあそこは多分他 の女の子といちゃいちゃしてると単にむかつくとかそういう理由なわけだけど、でもなんでむかつくのかと考えるとそれが生物的本能だと言われてしまえばそれ もそうなのかなと思ってしまう。
餌とかはおいといて、他のところに行ってほしくない、と思うという意味では共通する。餌ではなく、共有する時間とか、寂しさなのかもしれない。好ましいものが自分のもとを去っていくのが嫌、という心理。
あと、こういうことされたらむかつかなくちゃいけないという固定観念なんじゃないか説も考えた。そうそれ、思い込み。


独占欲からの開放は、一昔前の私のテーマだった。そういえば。
みんな仲良くできればいいのに、ていう。それを許せない自分や相手ってなんなんだと。一夫多妻制の国の女の人たちの気持ちを考えたりもした。
そうこう考えてるうちに、自分のもとを離れるとか離れないとかって、勝手にイメージしてるフィクションなんじゃないかと思っていた。
物理的に考えれば距離は変わらないし。つきあってるかどうかという認識の違いなだけというか。そこに重きを置きすぎてるんじゃないかとか。つきあうつきあわないで何が変わるのかとか。まあありがちな。


すごい中途半端な感じがするけど、今の時点で書けるのはこんなことくらい。
問題提起に終始した気がする。答えを出す努力は今後するかもしれないししないかもしれない。


余談。
goo辞書には「恋」の2個目の意味が載っていた。

(2)古くは、異性に限らず、植物・土地・古都・季節・過去の時など、目の前にない対象を慕う心にいう。

そういえばそういう使い方もする。
物欲とは違う。ここでは所有欲を伴わない(はずだ)。
素敵。


長いな。書いてる途中で昼寝してしまったくらい長い。

京都2007.6

いっきに。なのにメモ。


・京都行きを決めたのは

バイト不採用になる→なんかすごい暇な気になる→京都行くか→夜行バスあるかな→あるじゃん→宿→あるじゃん→よし


・夜行バスまで
管理人さんにもらったスイカは明日京都に旅立つ身としては誰かに託さねばならぬ→みんなが集うところに持っていく→本屋でるるぶと文庫を買う→水買う→帰宅→新宿西口は叩き売り系おじさんたちの天下→カフェる→バス


・夜行バス
なかなかきれい→隣いない→ラッキー→宮沢賢治詩集→赤い電車→どきどきする→うとうとする→起きる→繰り返し→到着


・京都に着きました
早朝すぎる→人生初の満喫→着替え→ロッカー→待ち合わせ(7時)→人々はなんか落ち着いている(派手でない)→いやーすいません朝早くに→カフェ開いてなくね?→朝食→とりあえず移動


・京都大学
行きたかった時代→時計台ってこんなんだっけ?→国立大→チャリ多し→大学ってよい


・銀閣
中学生多い→寺→すげー儲けてる→絵葉書買う→ていうか店の人にさっさと買えって言われる→女の子って歩きにくい靴履くよね→ニーズをつくってるのは男だともいえる


・再び京大
カフェる→レーダー→風→干渉波→かたち→カメラとの相互侵食→エンジニアリングとサイエンス→法律→え、その場合どうなんの→多分こう、多分ね


・飯
四条→阪急デパ→パスタ→京風→トイレでのおばちゃんたちの会話→「あんた肌きれいやなーほんまに」「なにゆうてんのーあんたこそ色白でーあたしいつもそうおもてるわー」「いややわーあんたこそー」→3人くらいで入れ替わりこの会話→尊敬


・甘味
パフェかー→玉露と蒸しパン→玉露塩はいってんじゃないの→結局食べきれず


・鴨川
ゆったり→語らい→暑い→白鷺とんび→かめ石→死とはなんぞや→遺伝子系→恋愛系(何でこの人こんなしゃべってんねやろ)


・飲み
web→普遍的なものについて→軸は1本か2本か→真摯→メリットがないことのデメリットはあるのか→変わってる?→文章のこと→具体性→ミニマム→自負→オフラインとリアルタイムが対義語


・町屋ドミトリー
ただいまー→レトロでかわいい→絵葉書→大日本人は見るな→でも見ちゃうんでしょ→京都論→鴨川ときどき寺→JAZZ→レトロ喫茶→のっこめのっこめ→意固地で冷たい→しかしラブリー→そんなやつらが作った小さな王国なわけですよ→女ってめんどくせー→おにぎり


・次の日
四条河原町→店開いてない→商店街をぶらつく→コロッケ食ってるおじさん→買ってみる→どうせ一個でしょと譲ってくれる→ありがとうおじさん→路上で食べる→空はどこだって同じだった→店まだ開かない→仕方ないので隣の店に入る→たまご丼


・偶然の再会
四条大橋→偶然→わーすごい→写真


・鴨川再び
鴨川ぶらぶら→足痛い→はだし→これが本来の足だし本来の精神状態だ


・さらば
京都タワーを満足に見たかった→またくる→東海道線てどれですか→あれです→ありがとう→離れがたし

talk

昨日は3人の人と別々の機会に会った。
メモはそれで分けて書いた。
男の子→女の子→男の子(年上ですが)の順だ。

それぞれ違った話をした。

今一番考えてることとリンクした話ができたのは、男の子たちの方だった。
でもそれは男の子だからというわけじゃなくて、そういう人たちだからってことだろう。


最初の男の子は同い年の子で、私は彼と何度か飲んだり話したりする機会があったんだけど、以前はその子の話していることの半分くらいしか理解できなかった。そしてその旨開示してみたら笑っていた。
気取っていやがる、とまあ少なからず思っていたふしはある。でも興味はあったけどね。
それは自分のやる気のなさもあったのかもしれないけど、でも実際そこまで考えたことが無いっていう経験不足からくる理解不足だった。今回はかなりの範囲を理解・共有することができた。と思う。


話しているときに相手の言っていることを理解できないというのは嫌なことで、それは自分の勉強不足、経験不足だなと捉えることもあるし、逆に、こいつとは考え方が合わないだけだという結論を導いてしまったりすることもある。
後者だと、もう放棄である。
実際そういうことももしかしたらあるのかもしれない。
けどその人が語っていることはそのように考えるに至った理由が必ずあるわけで、それを理解することはある程度可能だし、また時期がくれば可能になることもある。
「大人になれば解かるのさ 子供のままじゃ解からないそうだ」(byくるり)
最近私はとみにそれを感じていて、価値観が違う、と切り捨てることは結構もったいないし、理解できたときには、あ、失礼だったなと思う。

私が存在論的なことを考え出したり、マクロな視点で物事をみようとするようになったのは本当につい最近のことで、まあこのブログをはじめる少し前くらいからだから半年かそこらのことだ。
これってかなり遅いんじゃないかと思う。
それを考えるのは実際詮無いことだし、実益がないと思っていた。
哲学という学問は、暇人が暇つぶしのためにやるもので、云々。とか。趣味の領域。
それを考えてどうするのか、それより重要なのは目の前の勉強であり、恋愛であり、生活だと。

なんでそう考えていたのに、結局こんな抽象論満載の宙に浮いたようなあやふやなブログを書くようになったのかといえば、必要に迫られて、というのが一番正確だ。
実益がないと思っていた領域を必要に迫られて考えるというのはまあ私の考えが誤っていたということだ。
実益・必要は大いにあったわけである。
これを考えないと次に行けない、という状況に陥った。
これってすごく幸せなことだと思う。


2番目に会ったのは一個上の女の子で、かわいらしい子だ。
健気で、やさしくて、品性があって、思慮深い。思慮深いというのがポイントで、この子もかなり賢い子だ。
明日(つまり今日)彼の実家に招待されているのだと言って、緊張していた。
思慮深い女の子というのは、言い方を変えれば冷静で計算ができている女の子ということだ。
「蛇のように聡く、鳩のように素直でありなさい」(by聖書)
計算が出来るというのは、決して非難さるべきものではない。むしろ自立であり、品性である。
馬鹿なのは可愛いし純粋に見えるかもしれないが、それは多分単なる甘えなんだろうなと思う。それかそれも計算か(それなら要は使いどころがあってるかどうかだろう)。保護される環境になければ、否が応でも考えるし、計算する。

しかし女の子はいろいろ計算している、と思う。割と誰でも。複雑な。もともとあまりオープンではない、と思う。
相手との距離感、全体でのポジショニング、踏み込める範囲、踏み込ませる範囲等々。
女の子社会は、小学生の頃から結構複雑である。なんでグループ化するんだろうな。


3番目に会った人は年上の人で、憧れの人である。
私はこうやってブログを書いて今の思いを伝えられるけど、その人はブログなどやっていないので、直に話を聞くしか考えに触れる機会がない。しかもなかなか稀有な機会である。
そういうわけで、結構全神経を集中させて話を聞いていたように思う。

最初に、ちゃんと覚えていたい、と思った。その言葉も空気も。

だ から私はお酒のペースも守った。保守的でちょっとつまらなかったかもしれない。酔って眠気と闘いながら話半分で聞くような(これがよくあるのだ)ことは避 けたかった。まあ最初に会った男の子とはそれがかなり多くて(ほんとにあんまやる気なかったんだね)、「それ前も話した」と何度も言われる。いや失礼。
先のメモエントリにも書いたけど、そのおかげで割と覚えていた。

いろんな話をした。素敵で有意義だった。
とか、直に言えばいいんだけど、やっぱりはずかしい。気づけば5時間弱話していた。

今度最初の男の子と3人で飲もうよという話になって、かなり面白そうだと思った。

そして一人旅に出ようと思った。

赤い電車

最近、くるりの「赤い電車」がヘビロテで、常に頭に流れてて口ずさんでいる。

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赤い電車は歌い出す
ファソラシ♭ドレミファソー
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赤い電車っていうのは羽田(京急線)とか成田(京成線)とか行ったり、急に都営浅草線になったりする路線のことで、確かに走り出すときファソラシドレミファソーっていう音がする。その音も曲中に入ってる。お、って感じ。


学 部生の頃、家庭教師のバイトに行くとき品川から使ったのが京急で、私はその頃やたらと電車がものめずらしくて、新たな発見をしては一人で嬉しくなったりし た初々しい時期だった。山手線に新しい車両が入ったときなんか(多分学部1年のときだ)、かなり感動した。ディスプレイがついているなんて。しかも広く なってるし。座席の間に棒が立ってるし。と、隅々を観察した。


私は電車が割と好きだ。ちなみにマニアとかではない。

地下鉄では南北線が一番好き。ホームにドアがあるから。
モノレール系も好き。これは眺めがいいからだ。
りんかい線も結構ホームがよかった気がする。大江戸線もホームはいいけど車体が小さいしあまりに深いので好きではない。
あと、東急東横線も結構好き。お洒落なとこが多いイメージ。中目黒、祐天寺、代官山、自由が丘。ちなみに昔、学芸大学が最寄駅だったことがある。東急田園都市線なんかは東急電鉄の開発がいいんだろう。
こう見ると、JRってやっぱり強い。なんだかんだで駅は大きいし。


で、赤い電車。
ファソラシドレミファソーの音階だったってのはくるりの曲聴いてなるほどと思ったんだけど、音楽みたいな音がする電車だな、とは思っていた。

あと、電車がホームに入ってくるときのアナウンスが他の線よりも一番よかった。女の人の凛とした声が告げる。
「三崎口行き 電車が参ります」。
しかも結構丁寧に説明付。

駅名もなかなか面白い。平和島とか、新馬場(しんばんば)とか、青物横丁とか、金沢文庫とか。文庫て、と思ったものだ。

ただ、駅はかなり垢抜けない感じだ。ぼろい。西武線といい勝負。
エアポート快特の車体とかは新しくてきれいなのに、金沢文庫行きのような各停は赤くて古い。木目とかだったりする。で、座席は緑だった気がする。ひどい。


なんかそういうの思い出してると、懐かしくなった。
最近あっちの方面には行かなくなった。用事無いし。

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赤い電車に乗っかって
夢を探しに行くんだよー
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私にとって京急はそんなに夢のある電車じゃなかったけど、岸田繁にとってはそういう電車だったのかもしれない。
都心へ出るときに必ず使う電車だったとか。もしくは好きな人が沿線に住んでいたとか。
そういうのって確かにある。

電車や駅にまつわるエピソードなんかを一人一人が語りだしたら、その人々各々の短編集ができそうだ。
しかも結構それを共有できそうな気がする。

ひとりぼっちのこと

たくさん人に会ってるけど、会いすぎて疲弊している。
これこそ本末転倒である。量こなせばいいってもんじゃない。
生きてりゃ会えるんだから、そんなに焦ることもない。


それに

本当に会いたかった人たち、語りたかった人たちとは、まだあまり会えていないし語れていない。とも思う。
不本意なこともあった。

それが疲弊のせいだったりするのだ。だから本末転倒。
気づかないうちに。



最近考えることは、現状の客観的分析に終始している気がする。
そこから発展しない。
ので発展させるよう試みてみる。


なんかたくさん人に会っても、結局ひとりだなと思う。今更だけど。
咳をしても。云々。
そう、わかってたよ。


ひとりぼっちっていうのは寂しいイメージだけど、そんなことはなくて、これも多面的に見れば、楽なことでもあり、自由でもあり、そしてそういった評価を離れた、単なる事実状態でもあり。ん。そうかな。

だいたいひとりぼっちってどういう状態なのかも定義しかねる。かなり主観的。
誰かしらとのつながりがある以上ひとりぼっちな人はいないともいえるし、逆に個である以上ひとりぼっちじゃない人はいないともいえる。
ひとりぼっちだと思えばそんな気もするし、そうじゃないと思えばそんな気もする。


何にせよ、人は孤独感を感じることがある。
多分状態としてはそんなに変わらないのに、ふいに孤独だと思いつくときがある。
それは本当に、思いつく、とか、我に返る、とかいう感じで、急に「降って沸く」ような感覚だ。と江國香織の表現を借りてみる。
なぜだろう。


江國香織は小説の中でこう言った。

「誰にも、天地神明にかけて誰にも、他人の孤独は救えない。」

(江國香織「つめたいよるに」の中の短編「ねぎを刻む」より)


これを読んだのは中学生の頃だったけど、理解したのは大学生になってからだった。

そうなんだよ。
私のことを「ほっとけない」という類稀な人(拒否した)が過去にいたけど、そしてそのことについて若干相談?検討?したけど(結局、男はみんな変態だということを教示いただいた)、私は江國さんのこの言葉を持ち出したい。
誰にも。
私は、誰かを救えると思ったことは一度も無い。



最近、孤独感から逃れるために人と会うことが必要なのではないかと仮定していたきらいはある。
だから約束を入れたというわけではなく、約束を入れたあとにそう思っただけだけど。

でも多分そんなに忙しくする必要はないんだろう。
ひとりぼっちは主観的な問題だから。


くるりの歌詞をよく引用するけど、彼らの歌詞の中にはひとりぼっちな雰囲気が漂っている。
よく、さよなら、というフレーズを使うし。

くるりはその音楽性やメンバーなどにいろいろ変遷があるけど、歌詞は一貫して岸田繁というvocalの人が書いている。
彼の歌詞の言葉の選び方が的確なところや、素直なところが好きだ。
そして何より最近その歌詞に共感することが多い。そうそう、そういうこと考えるよね、っていう。全部は知らないけど。



今音楽と孤独感の関係について少し思ったけど、エントリを改めていずれポストする。

賢い女の子

見ているサイトに、賢くて可愛い女の子がいないだろうかという問いかけがあって、いますいますと思った。


少なくとも周りにいる子たちはまず賢い。これは間違いない。
これは勉強が出来るとかいう意味ではもちろんない。まあ勉強もできるけど。
性質的なものとしての賢さ。
思えば賢い子ばっかりだ。


脱線。
私が、賢いな、頭がいいなと思う女の子は、私がそう思う男の子とちょっと違うような気がする。
あくまで周りだけを見ていってるのであしからず。
(私の周りの)賢い男の子の思考は大抵筋道だっていて、(私の周りの)賢い女の子の思考は飛躍する。
飛躍は筋道だっていることと必ずしも矛盾しないけど。
すっ飛ばして別の地点に着地して、そこの間の説明は後からついてくる(なので実際説明がつかないこともままある)。
説明は必要なときだけする。相手がついてこれるなら説明をしない。だいたい説明なんて愚かしい場合もある。
筋道だってなきゃいけないのか?というのが女の子のスタンスな気がする。スピードが速い。


しかしもしかすると、男の子の場合も本当は同じで、思考過程を理解することが私にとって女の子よりも困難なので、彼らに説明を強いている結果見られる傾向という可能性も考えられる。
または一般的に男の子が親切ということか(ちゃんと過程を説明してくれるから)。


話を元に戻す。
可愛い、の点に関しては人それぞれで好みがあるので一概にはいえないが、可愛い子も普通にいる。頭のよさと外見は反比例の関係にはない。
賢い人はそれなりに何でもできるというのが私の持論で、だから賢いその子たちはお洒落にも気を遣える。


ただ賢い女の子は(女の子に限らないが)賢いがゆえに恋愛向きじゃない場合がある。
プライドというだけではなく。何かしら深く考えてしまったり。
大抵考えが大人びていて、周りに見合う男がいないということもある。


なんでこんなことを書いたかっていうと、昨日飲んだメンツが美人ばっかりだったからだ。
隣の席から合コンの誘いは来るわ、常連のおじさんにからまれるわでめんどくさかった。
美人と一緒にいると、美人は大変だってことがわかった。

でも彼女らは賢いので、軽く相手をし、お酒はおごりで、ある程度相手をしたら自分たちのスピードで内輪の会話をして置いて行くという感じで切り抜けていた。勉強になる。


私なら、そういう人たちの相手をするのは嫌だ。お金は自分で払うからほっといてくれって感じだ。
だから教授の側や向かいの席も嫌だ(好きな先生除く)。なんで教授の周りは女の子で固めなきゃいかんのだ。意味がわからない。

とか思ってても、女の子なら仕事上もそういう場面てありそうだし、そのときは仕事は自分ひとりでやりますなんて言えないわけで、やっぱ身につけたほうがいい技なんだろう。

そろそろそういう系のパーティがある。人脈は大事。でも。

前恋愛的なもの

最近ブログに影響を受けるとすればだいたいこの人のブログに影響を受けている。
「またいつか会う日までという言葉の。」
関連するのは冒頭部分のみ。


魅力的な友達がいて、その人は異性で、というときに、恋人にはなりたくないなと思う。という話。



江國さんがエッセイで、男友達の事を書いていたのを昔読んだ。昔なので記憶がおぼろげだけど、彼女曰く。

彼と恋人同士になるという可能性が、私達二人にとってはどうでもいいことなのだ。
大切なのは、同じ瞬間に生きていて、同時に世界を目撃できることだ。

多分こんな感じ。
同感である。


大切なのはそのことだ。
同じ瞬間に生き、目撃し、語り合うこと。時間や感情や体験を共有すること。
恋人になるか否かというのは「ついで」である。


何も恋愛関係を軽く見ているのではない。恋愛は素晴らしいと思う。
恋人同士という関係になれば、友人よりも更にその人を知ることができる(と思う)。し、関係としても素晴らしい。何はばかることなく愛情を注ぎあえるから。

問題は、恋人になることではなく、恋人関係を解消することにある。
友人に戻ることが出来る場合もある。でも出来ない場合もある。
少なくとも恋人になる前の関係には戻れない。何かがそこなわれる。


この人と恋人同士にならなければ、今でも友人として楽しく語り、笑いあえたのに、と思うことが実体験としてあるのでこういうことを書くわけだけど。

もし友人のままだったら、と考える。
たまにメールをするだろう。飲みにも行き熱く語る。ブログだって教えるだろう。

残念ながら彼らとはそういう関係にはない。なぜかはよくわからない。多分傷が残っているんだと思う。関係に。残念なことだ。
いずれまた語り合うことができるようになるかもしれない。けど多分それは何かの留保がついた友情になるんだろう。



江國さんは、恋人同士になる可能性がとるにたらないものであるというけど、その意図は多分、その人との関係が、恋愛関係という絞りがかかったものになる以前に在るものである、ということなんじゃないかと思う。
ある大切な人との友情は、前恋愛的なものである。
恋愛という絞りをかけて破綻させるのにはもったいないものである。
むしろそのように破綻するような軟弱なものではない、といいたいのかもしれない。


こうやってみると、恋愛関係というのはかなり脆いものだと思う。排他的であるが故だろう。
友情はいくつも立つけど、恋愛は一つしか立たない(原則。例外あり。例外な人あり。)。両立しない。人間の気持ちの浮動性を考えれば、脆いのは当たり前だ。あと、恋愛関係というのは距離が近すぎるのかもしれない。


気が合って好意があると迂闊に恋愛関係に陥りがちだけど、あとあとその人との人間関係を考えたら、慎重に友人関係を継続することが必要な場合もあると思う。
と、後悔と共に思う次第。


刹那的に判断するのではなく。長い目で見ておつきあいする。クールダウンを学習。

そんな感じで。リンク先の引用の人は賢明であると思う。

tabi

ある人の旅行記を読んで、ものすごく一人旅に出たくなった。


私 は、学生のうちに旅行しとけっていう多くの助言を、めんどくさいとか金が無いとか学校があるとかの理由で今まで何気なく流していた。サークルの女の子はそ の間に一人でがんがんアジアを旅していたし(中退したけど)、ある友人はインドに40日何をするでもなく滞在していた(留年した)し、ある友人はツアコン のバイトをしながら各国を回っていたし、当時の彼も私を置いてあちこち行っていた。院で出会った子もアジアやら南米やら何カ国も回っていて、旅はいいとい つも言っていた。


しかしその様子を見ても特に、旅にでたいとは思わなかった。言語が通じない国へ行っても困るだけだし、危険だ し、そこの雰囲気はテレビがいくらでも伝えてくれると思っていたからだ。私は現状に満足だったし、大事な人は日本にいた。留年するなんて選択肢はなかった し、バイトしまくる気概もなかったし、日本より安全な国はないし。
合理的に考えても、「僕には旅に出る理由なんて何一つない」(BYくるり)のだった。


いつもそうなのだ。
私は、他人は他人で、どんなにいいと言われても、その人が旅はいいと思っているという事実のみを受け止めるだけなのだ。
友人の旅行記を読んでも、大概、「ふうん。楽しそうだな。」くらいである。


まず現実感がない。行けるはずが無い。行くほどの動機も無い。ひどく内向的。


が。現金なもので、昔から、好きな人、興味のある人の話は手放しで受け入れ、かつ自分のものにしようとする傾向があって。
今回もその例にもれず。興味のある人の旅行記を読んだので、強くそう思った。っていう話。
今までもある思想やある考え方が、そうやって私に取り入れられていった。
好きな人のいうことは聞く。まあ人間の基本的性質ではある。

しかし今回のは多分それだけではない。
くるりの歌も関係しているし、今あてがわれている部屋も関係しているし、人間関係状況も関係している。
それに興味のある人の書いた文学的な旅行記が「旅」への憧れを増す後押しをした。
ヤシの木のくだりなんて最高である。
ヤシの木が沖縄にあるにもかかわらず、である。


何にしたって遅咲きだ。
みんなそういう旅なんてものは大学生のうちにしているものだ。



そんなこんなで、旅に出ることを夢見ながら勉強でもする。

それが今まで私が旅に出ないかわりにやっていたことでもあるわけだし。

今日は模試中休み。

図書館へGO。入れるかドキドキする。入れた。
お昼に辛くないと言われて頼んだラーメンと何かの炒め物が辛くてひりひりする。ながい人め。だまされた。ということでながい人に半分食べてもらう。

夕方病院。もうここは最後かもなあ。
頑張ってね、といわれる。はい是非。



今日も用があってなんなちゃんとお見舞いに行く。
連日お見舞いとか本気で好きっぽくて申し訳ないのでちょっと躊躇した。けどいいや、もう本試験まで会えないだろうし。

お見舞いの品を雑誌にしようということで本屋に寄ると、互いに趣味のコーナーへまず吸い寄せられる(なんなちゃんは鉄道。私はF1。)。

いかんいかん。ということで
なんなちゃんは団地の雑誌を購入。団地て。いや私も勧めた感はありました。だってちょっと熱いよね。団地て。
ニッチな分野の雑誌が多いことに驚く。すきま産業。
私はある本のコピーをお見舞いの品にした。これが用事といえば用事だったので。


着いた。
団地の雑誌にかなり食いつきがよい。多分彼は割とどんなものにでもあの反応する気はする。しかも半分以上本気が入って。さすがです。

昨日より物が増えている。
ニュートンとか、司馬遼太郎の沖縄旅行記ぽいやつとかを勧められてちら見する。
Gさんが「今月のニュートンは熱いですよ!」と言ったので買い、私に沖縄の話をされたので沖縄旅行記を無料文庫で持ってきたらしい。

「いやーたしかに熱いんだよニュートン。見てよこれ。」
カンブリア・ビッグバンだって。カンブリア紀の海の生物が載っていた。ナウシカに出てくる系の足が多い系。ニュートン結構イメージと違って読みやす系。てか見やす系。もっと学術系かと思っていた。
来月は天文系らしいのでちょっと興味ある。けど1000円。高いな。もう少しでF1速報が2冊買える。

飲み物はOKになったらしい。よかったね。
私は特に食にあまり執着がないので、一人だと絶食とかもたまにしちゃうからあれだけど、飲めないのはつらいだろうなーって思う。



せっかくなので、彼について少しメモる。


すごく本を読む。知識欲や好奇心や行動力がすごい(ように見える)。
気さく。明るい。雰囲気が。
回転が速くて行動や話す速度も速いんだけど、どこかでスローな時間を作ってる感じ。
すごくいろんなことを考えている。たまにそういうところがぽろっと出る。
酒は飲めるしまとめるのもうまいし盛り上げるのもうまい。
努力もしている、しかし半分は天性でやってる(ように見える)。
そしてGさん同様まっすぐ。おかしいと思えば主張する。


子どもっぽさと大人っぽさをいい意味で兼ね備えた人だ。まっすぐなところは子供っぽいけど、気を遣ったり人を思いやったりするところは大人。それでいて自然体。そういう人はやっぱり魅力的だ。

暇なのがダメそうで、いつも忙しくして人に囲まれている。
私はそのコミュニティには基本いなかったので話すのはほぼ一瞬だったから、そこまで彼について知っているわけじゃないけど。
この人は初めて見たときに、魅力的だってわかって、友達になりたいって思う人だった。

脱線。
たまに、運命の人みたいに「この人と友達になりたい」って思うことがあって、それが初めて起こったのは高校1年のときだった。
それまで友達はできるものだったし、自分から友達になりたいと思った人はいなかった。友達ってのは、雰囲気や相手が近づいてくることによって自然とそうなるものだった。
でもその子に会ってわかった。ああ、自分から動いてでも友達になるべき人がいるな、と。そういう人は出会ったときにわかる。アンテナみたいのがあるんだと思う。
案の定その子はすごく気が合ったし、今も連絡はあまりとらなくても会えば平気で話ができる。


とにかく彼が入院してくれたおかげでちょっとは話せた気がする。本人はきついだろうからこんなこと言っちゃいけないんだけどさ。
でも少し休んだ方がいいってことなんじゃないかな。とか思う。結局疲労からきてるものっぽいし。ただ彼こそは法曹になるべき人なので、早く治るといいと思う。


彼が昨日も今日も
「模試ちゃんと受けろよ、俺の分まで」
と言ったので、明日も頑張ることにした。
本会場の様子もわかったし、もういいかなとか実はちょっと思ってたんだけど。

なんか本当にこの日記、彼のこと好き風すぎる。好きだけど。大丈夫です。ほんと。
好きな人はたくさんいます。

男の子と女の子

・そうだったのか。って思ったこと。

今日の会話より---------------------------------------

「春樹読んでると、こんな女の子いないだろ、って思う。不思議なことを真面目に言う女の子ばっかり出てくるけど、そんな女の子なんてそうそういないでしょ。」
「え、そう?結構女の子って不思議なこと言ってない?」
「そんなことないでしょ」
「でも大概そういう会話のシーンって男の子のほうも変なこと言ってるじゃん。」
「男の子は変なこという子結構いるでしょう。。あ。」
「だから男の子の方は、女の子のことをそう思ってるんだよ。」
「わかりあえない!」

-------------------------------------------------------

ということで、男の子と女の子は互いに不思議だと思っていることがわかった。

単純にあれは春樹さんの理想なんだと思っていた(多分それもあるんじゃないかな)。
たとえば真面目な顔で、パン屋を再襲撃することを提案するとか。そんな子やっぱいないだろう。いるか?まあ極端な例がそれで、多分多かれ少なかれそういうとこが女の子にはあるんだろうけど。


「カンガルー日和」より----------------------

「なんだか、この機会を逃すと二度とカンガルーの赤ちゃんを見られないような気がするのよ」
「そんなものかな」
「だってあなた、これまでにカンガルーの赤ちゃんを見たことある?」
「いや、ないな」
「これから先、見るだろうって自信ある?」
「どうだろう。わからないよ」
「だから私は心配してるのよ」
「でもね」と僕は抗議した。「たしかに君の言うとおりかもしれないけれど、僕はキリンのお産だって見たことないし、鯨が泳いでるところだって見たことがない。なぜそれなのにカンガルーの赤ちゃんだけが今問題になるのだろう」
「カンガルーの赤ちゃんだからよ」と彼女は言った。
僕はあきらめて新聞を眺める。これまで女の子と議論して勝ったことなんて一度もない。

--------------------------------------------

よくありそうだねこれくらいなら確かに。


くるりの「男の子と女の子」という歌の中にも

「女の子はわがままだ よく分からないいきものだ
でもやさしくしてしまう 何もかえってこないのに」

っていうのがあって、
なんか技巧とか全く無い歌詞だなと思う。
ふーんそうかーと思うだけだけど。なぜなら女の子だから。

江國さんの「ぼくの小鳥ちゃん」という本を思い出した。



・あとやっぱり男の子のほうが夢見がちだって話になった。
まあ女の子もそういうとこあるけど、それはちょっと種類が違う気がする。

男の子はいくら現実的に考えてても、なんか遠いところを夢見てる気がする。漠としたもの。女の子の場合は近いところを。具体的なこと、もの。遠いところはあまり見ない、と思う。まあ人によるかもだけど。

「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」考えているのは結構ありえない系の話で、男の子ってそうなのかなと思う。はい、人によると思います。


そういえば今日フォーチュンクッキーなるものを初めて食べた。おみくじ入り生姜焼き菓子って感じだったけど。
運命的な出会いがあるらしい。おお。4月のある晴れた朝に100パーセントの人と出会えるのだろうか。
そして自分から動かず成り行きを見守るとき、らしい。最近そんなことばっか言われてる気がする。


・男の子は女の子の話なんて聞いてないということも判明した。

・女の子は男の子の話を大抵途中で「もういいや」って思うことも開示した。
でも個人的には話の中身を「もういいや」って思ってても話してるその様子を見ているのは楽しかったりするから、話しててほしいではある。

取捨選択について

卒業のときある人に言われたのは、

心が折れやすいのは個性として受け入れなよ

ってことだった。

受け入れた上で折れそうになったときの対処法を決めておくといい、と。
折れそうなときに食べるべきもの、話すべき人、やってみること。


そんなに親しくない(会わない)人だけど、そして不思議な(胡散臭い)人だけど、その人は結構的確なことを言う。
その人にとって私は、心配になる子だそうで。得なキャラだねといわれた。
この人はこういうので金とってたこともあるような人(だったと思う)で、話がうまいのはわかってるんだけど、まあお金払ってないし。


その人に影響されるのもされないのも自分の選択次第だけど、自分に有利なものは取り入れていくのがいいと思っている。まあそれが宗教がかっててもね。気をつけるけど。

宗教の何が危ないかって、信じ込んで他の考えをシャットアウトしてしまうこととか、それにあらゆるものを捧げてしまうことだと思うんだけど、でもこういう人生における考え方とか思想とか信念とかっていうのは、多かれ少なかれそういうものになってくるとは思う。

信じた生き方、それに対する投資。
自己啓発の本を買うことだって、ファッション雑誌や服を買うことだって、あるライフスタイルを実現するための投資で、それってその人にとってはいいと思うからやってるだけなんだけど、それをちょっと精神論にもってくと宗教がかるっていう。


それを食い物にする人間がいると、「だまされている」感があるだけで、本質的にやってることは同じな気がする。
何を信じようが、信じまいが、自由。

人のそういう真剣な思い悩みとかを食い物にする人間はほんと最低だと思うけど。

聞く耳を持ち軌道修正できる柔軟性と危険を察知する注意深さがあれば、何をとりいれるにせよ、大丈夫だとは思う。


ともあれ。
心が折れそうになったときの対処法を考えておくことは有益であると私も思うので、それは取り入れようと思う。

risk

総じて。

知り合う男の子で魅力的な子は、やっぱり頭のいい子で、そして自分なりにいろんなこと吸収し考えて、かつ結構そのスタイルを確立している子だなって思う。あ、柔軟性も。
そしてそれは大学の付属校上がりの子に多かった気がする。好きなことする時間があったんだろう。なぜかみんなニッチな分野に詳しかった。

ち なみに今はどうかわかんないけど、付属上がりは遊んでいるというのが結構定説だったりした。実際は個人差があるけど平均的にはそうかも。個人的には、あま り女の子を大切にせず、男友達や自らを大切にする人が多いと思ってた。ステータスとして彼女つくってるんじゃないかとか思う人もいた。


最近、恋愛対象としての男の子は誠実で真面目なのが一番だと思おうとしているふしがあって(まあ母に言われたからだけど)確かにそれって大事なことだ。

母曰く
あなたが幸せになるような人とお付き合いなり結婚なりしなさい。
迂闊に行動してはいけません。
あなたは頭のいい人ばかり好きなんだから。
頭がよくて魅力的な人はたくさんいるけど、女の人を大切にする人は少ないのよ。

まあこういう感じのことをよく言われる。もっと話し言葉だけど。

たしかに。

魅力的な人はたくさんいる。
それはまあ大学という環境もあるだろうし、今の環境もあるだろうし、東京という環境もあるだろうし。ほんとに、そういう人たちは刺激的である。今までもかなり彼らの影響を受けてきた。
ち なみに彼らは必ず何かしらに傾倒していた過去を持っている。それは、春樹だったりUKロックだったりクラシックだったり政治思想だったりインターネット だったりオーディオ機器だったり車だったり司馬遼太郎だったりする。それが彼らの柱となっていたり、味になっていたりするからだ。
それで、自分も単純にそういうものを取り入れる試みをするんだけど、結局男の子と女の子は違うって事とかがわかる。思考回路がほんとに違う。あとのめりこみ方が違う。たまにすごいバランスだ、って思う人もいる。

そういう人に魅力を感じがちなのは、もうそれは仕方ないことだと思う。
単純に、「すごい」んだもん。
まあそれをすごいと感じる自分の感性とかが変わることはありうるんだけど。
なかなか変わらないよね、なんだかんだで。


で、 上述のように自分にとって魅力的な人って、探究心とか好奇心とか行動力とか旺盛で、やっぱりそれは誠実・真面目と両立はできるけどしにくいものだと思って いる。静と動というか。あと、そういう人は他の人にとっても魅力的であることが多いので、とかく安心できないというのも大きい。

そう考えると、誠実・真面目と魅力的は二者択一っぽくなる。


最近ちょいちょい読んでるブログで、リスクのことが書いてあったんだけど、それに恋愛なり結婚もあてはめられるんじゃないかと感じたというか。

以下引用--------

「リスクを見積もるならば「うまく行く確率」×「うまくいった時の効用」と、現状のままのリスクを比較さえすれば答えはでる。」
「リスク見積もりには、その数値的に出す方法ともう1つあると思っていて。それが一番大きいマイナスが生じた場合に、それを引き受ける覚悟があるかどうか、という点。」
「つまりさ、リスクを取るってのは、バカするわけじゃないのですよ。何か、それをした時に「最悪の事態」が生じても、腹をくくってそれを受け入れられるか。それをリスクを取るっていうんじゃないかなぁ、と思うのです。」

以上引用--------


「結婚がうまくいく確率」×「結婚がうまくいったときの効用」と「結婚しない現状」との比較。
プラスの「結婚がうまくいかなかった場合の最悪の事態」が生じても受け入れられる覚悟があるか。
で、結婚のリスクをとる、ということになると。


こ の「結婚がうまくいく確率」っていうのがその誠実・真面目VS魅力的で、多分前者の方が高いわけです(私見)。でも「結婚がうまくいったときの効用」は、 そりゃ魅力的な人の方がきっと楽しいわけです(私見)。で、「結婚がうまくいかなかった場合の最悪の事態」を受け入れる覚悟があるかっていうのは、まあ 「最悪の事態」が浮気なのか協力体制がなってないなのか離婚なのか、そういうのは各々違うと思うけど。


で、最近悟ったことなんだけど、好きになるっていうのは、魅力的に感じているとか楽しいから一緒にいるとか独占したい、ということではなくて、相手を大切に思うことだと思うんです。
当たり前と思われるかもしれないけど、結構忘れてる。恋愛の最中とかそうだけど、結構自分本位になる。
こ の人が傷つくことはしない、とかある程度思ってるけど、それと自分の楽しさとかが天秤にのると、そっち優先してしまう傾向があります、少なくとも自分に は。たとえば些細なことでいえば、他の男友達との飲み、とか。まあとくにサシ飲み、とか。こういうのって普通彼氏は嫌だと思うんだけど、こっちとしては自 分の交友関係とか楽しみを優先してしまいがち。たまにならいいかもしれないけど、これが積み重なると相手にも結構なストレスになる。結婚したらやっぱり もっと重大になったりする。

これを、自然にその人優先にすることができるような気分、とかが好きってことなのかなとか思います。ほんとは飲みに行きたかったのにっていうようなストレスもあまりなく。

で、そう思える人ならば、多分結婚して「最悪の状態」になったとしてもそれすら受け入れられるんじゃないかと。つまりリスクをとることができる、ということになる。


そんな人いるんでしょうか、と思うけど。あとそう思えるように自分がなれるか、っていうのもあるけど。理想。


考察終わり。