June 18, 2009

いきの構造

引用。

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生きた哲学は現実を理解し得るものでなくてはならぬ。


媚態の要は、距離を出来得る限り接近せしめつつ、距離の差が極限に達せざることである。


野暮と化物とは箱根より東に住まぬことを「生粋」の江戸児は誇りとした。


「いき」は垢抜がしていなくてはならぬ。あっさり、すっきり、瀟洒たる心持でなくてはならぬ。


要するに、「いき」という存在様態において、「媚態」は、武士道の理想主義に基づく「意気地」と、仏教の非現実性を背景とする「諦め」とによって、存在完成にまで限定されるのである。


派手とは葉が外へ出るのである。「葉出」の義である。地味とは根が地を味わうのである。「地の味」の義である。


「い き」を好むか、野暮を択ぶかは趣味の相違である。絶対的な価値判断は客観的には与えられていない。しかしながら、文化的存在規定を内容とする一対の意味 が、一は肯定的に言表され、他は否定的の言葉を冠している場合には、その成立上における原本性および非原本性に関して断定を下すことができるとともに、そ の意味内容の成立した公共圏内における相対的な価値判断を推知することができる。


渋味は甘味の否定には相違ないが、その否定は忘却とともに回想を可能とする否定である。逆説のようであるが、渋味には艶がある。


「いき」の質量因たる二元性としての媚態は、姿体の一元的平衡を破ることによって、異性へ向う能動性および異性を迎うる受動性を表現する。しかし「いき」の形相因たる非現実的理想性は、一元的平衡の破却に抑制と節度とを加えて、放縦なる二元性の措定を妨止する。


我々はロダンが何故にしばしば手だけを作ったかを考えてみなければならぬ。


現実界の具体的表象に規定されないで、自由に形式を創造する自由芸術の意味は、模様としては、幾何学模様にのみ存している。


鼠色、すなわち灰色は白から黒に推移する無色感覚の段階である。そうして、色彩感覚の全ての色調が飽和の度を減じた究極は灰色になってしまう。


(灰色は)メフィストの言うように「生」に背いた「理論」の色に過ぎないかもしれぬ。


「四十八茶百鼠」


赤、橙、黄は網膜の暗順応に添おうとしない色である。黒味を帯びてゆく心には失われ行く色である。


色に染みつつ色に泥まないのが「いき」である。


「いき」な空間に漂う光は「たそや行灯」の淡い色たるを要する。そうして魂の底に沈んで、ほのかに「たが袖」の薫を嗅がせなければならぬ。


具体性に富んだ意味は厳密には悟得の形で味会されるのである。


いかに色と色とを分割してもなお色と色との間には把握しがたい色合が残る。そうして聴覚や視覚にあって、明瞭な把握に漏れる音色や色合を体験として拾得するのが、感覚上の趣味である。


道徳的および美的評価に際して見られる人格的および民族的色合を趣味というのである。


「媚態」といい、「意気地」といい、「諦め」といい、これらの概念は「いき」の部分ではなくて契機に過ぎない。それ故に概念的契機の集合としての「いき」と、意味体験としての「いき」との間には、越えることのできない間隙がある。


意味体験を概念的自覚に導くところに知的存在者の全意義が懸っている。


意味体験と概念的認識との間に不可通約的な不尽性の存することを明らかに意識しつつ、しかもなお論理的言表の現勢化を「課題」として「無窮」に追跡するところに、まさに学の意義は存するのである。


人間の運命に対して曇らざる眼をもち、魂の自由に向って悩ましい憧憬を懐く民族ならずしては媚態をして「いき」の様態を取らしむることはできない。

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