June 19, 2009

寂しいについて

なんだかいろいろあって、昨日は1時間睡眠のままここまで起きている。
寝た方がいい、それはたしかにわかっています。

1時間寝たというより1時間気を失って、はっと気がついて午前中から友人と会った。夕方に彼女と別れて一人カフェへ行った。最近一人カフェは毎日のようにしていて、たまに2軒以上行ってしまっている。主に時間を潰したり本を読んだりするために。

カフェに着いた頃には憔悴していたが、少し物を考えることくらいはできた。しかし文章を追うものの、頭には入ってこない。優れて美しい文章である本だったので、この状態で読むのは勿体無く思い、手を動かして気づいたことをメモをすることにした。


私が来る前から隣の席に座っていたカップルは、つい最近私も受けた試験の論文について議論をしていた。勉強会をしているようだった。
その会話や様子が月並みながらもいろんなものを思い起こさせて、ただでさえ憔悴していた私はまた厭世観というかそういうものに襲われたわけである。


「寂しい」と思うのは何故だろうと考える。
いやその前にむしろ「寂しい」とは何かを検討すべきだ。
そのための資料として「寂しい」を感じるのはどのようなときかという傾向をつかむべきだろう。

「寂 しい」を感じるとき、それは、失われたものを思うとき、そこにあるべきであると思っているものを思うとき、なのではないかと思う。時間、空間、人、動物、 物体等々、それらが「有る」と観念された経験と今ここに「無い」という事実との対比。特に思い入れがあるものについて。
「喪失感」と似ているけど、「喪失感」のように、かつて持っていたことは要件ではなくて、有ると観念されたことがあるとういうことが要件である。たとえば恋人がいたことがない人については、「喪失感」はなくとも「寂しい」はありうるという意味。


で、「寂しい」とは何か。
そこに有るべきものがない、という観念の下に発生し、その有るべきものを欲することを伴う感情。その感情を超えたところに諦めなり探究なりのスタンスはあると思われる。


なぜ「寂しい」という感情が発生するのか。
本能的に人間は、「持っている」ことによって満足しもしくは満足に近づく。生物一般についてそうなのかもしれないけど。
脱線するが、この「本能的」という言葉は本当はあまり使いたくない。本能的というのはそこから先の思考を放棄しているからだ。生物の構造上そうなっているのだ、と決めてかかることだから。検討の余地が無い。でも、仕方ない。

で。
持っていないよりも持っていた方が生きていく上ではより安定的だからだろうか。と考える。

一方で人間は持つのをやめることをしたりする。そこではしかし物質的な何かを捨てる代わりに何かを手に入れていて、それによる満足を得ていたりするのかもしれない。物を捨てると空間が手に入るように。恋人がいなくなると一人の時間が増えるように。
どちらの状態を「有る」と認識するかの問題なのかもしれない。一般的には目に見えて「有る」ものを追いがちではあるけれども。


では、「寂しい」という感情がネガティブなものになって生活に多少なりとも支障を与えていると感じる場合、どのように克服すればよいか。
上述より、①有るべきもの、という観念を放棄すること、または②「有る」という認識を逆にしてみること、の二つの方法が考えられる。


多分二つとかじゃないとは思う。
でも
眠すぎる。

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