秋冬に人が寂しくなるのは、単なる温度の変化のせいなのかもしれないなと少し思った。
他の人はどうか知らないけど、夏の暑いさかりに手をつないで歩くという行動があまり好きでないし理解できない。
いや、暑いだろう。
しかしそこにはきっと、不快を超えた何かがあるのだろうと思う。
BUMP OF CHICKEN「スノースマイル」より
「冬が寒くって 本当に良かった
君の冷えた左手を
僕の右ポケットに お招きするための
この上ない程の 理由になるから」
実は、人のポケットにつないだ手を入れるという行動も理解できない。
しかし、冬に手をつなぎたくなるのはわかる。体温のシナジー。
それが傍らに人がいないと寂しく感じる理由なのではないかと考える。
隣に寄り添う人がいれば暖かいし、話せば体温も上昇する。それがないことが寒さにつながり、側に人がいればいいのにという気持ちになり、寂しいという気持ちになる。
仮説。
一年中寂しがってる人はたくさんいると思うけど、季節間の相対的な問題として。春夏より秋冬が寂しい理由。
先日、友人といろいろ話していて、受容しすぎるということを指摘された。
どんなに相手がダメになっても、それを見捨てたりするのではなく、ただ受容する。それは相手のためにならない、という話。相手はどんどんダメになる。私はそれを看過する。
江國香織の「ぼくの小鳥ちゃん」という作品の中で、主人公の「僕」が昔の小鳥ちゃん(スズメだった)に指摘されたことを回想するシーンがある。
多分どこか引用エントリで書いた。
あった。
http://kasokusuru.blogspot.com/2007/06/blog-post.html
でももっかい引用。
「―― 一羽の小鳥として、私ががまんならないとおもうあなたの欠点を教えてあげましょうか。」
「―― 欠点?」
「―― あなたはうけいれすぎるのよ。」
「―― いけないことかな。」
「―― ときどきとても淋しくなるの。」
相手が受け入れすぎると感じて寂しくなったことがあったから、この引用はしてあったんだけど、自分がそう指摘されるまで気づかなかった。
多分実際、なんでも受容してしまうんだろうなと思う。確かにその傾向はあって、同じようなことを言われたことがたしかにある。
それは、相手を拒絶しない、という意味の受容であり、その相手に心から共感するとか親身になるとかいうことではない。ただそのままをそのままとして善し悪しの評価をすることなく事実を受け入れることである。責任をおわないこと。悪く言うと「どうでもいい」ということ。
いい悪いの評価をするということはその評価について責任を負うことだと思う。
何かをした方がよい、しない方がよい、そのままではいけない、その他諸々のアドバイスは、そのアドバイスによって決定された事項について責任を伴う。それを追求されようがされまいが。
自分の立場を明らかにしないことが賢いやり方だと悟ったのは高校のときで、それは塾のある先生の模倣だった。
今の自分の立ち回りはそのときの先生の影響がベースになっていると思う。
結 局決めるのは自分だからね、というのはどこでも使われるフレーズで、実際その通りなんだけど、自分の場合それをエクスキューズとして使っていたことは否定 できない。その人の人生はその人が選び取るもの、それは当たり前のことだけど。その一言で、自分は情報だけを伝えた、決定に関しては責任を負わないよとい う一種の意思表示であろうと思う。
受容することが悪いことなのかどうかは、判断できない。
その友人は、それは良くないことだというニュアンスで言っていたけど、じゃあ見捨てた方がいいのか、拒絶した方がいいのか、そういう緊張感をその人は私に求めているということなのか。
でもどっちにしても受容しかできないとは思う。
そうか。と。
否定も肯定もない。だから拒絶するだけの理由がない。
評価をすることで責任を負いたくないという理由は多分あったけど、今はそれより善悪の評価ができなくなっているということの方が大きい理由な気がする。
昔 から、何が悪いのかは、それが悪いと言う理由ではなく、人に怒られるから、人が困るからという理由で悪いと認識していた。だから悪とは何ぞやというのはわ かってない。それには幼少の頃から薄々感じていて、それが劣等感でもあった。心からその事実のみを捉えて、悪と思えないこと。
みんなそんなもんだよ、と言うかも知れない。けどそうでない人たちを知ってる。
見切り発車でいつも書いてしまう。
もうちょっと考える必要がある。どんどんリンクしてって手に負えない。
June 19, 2009
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