June 19, 2009

ひとりぼっちのこと

たくさん人に会ってるけど、会いすぎて疲弊している。
これこそ本末転倒である。量こなせばいいってもんじゃない。
生きてりゃ会えるんだから、そんなに焦ることもない。


それに

本当に会いたかった人たち、語りたかった人たちとは、まだあまり会えていないし語れていない。とも思う。
不本意なこともあった。

それが疲弊のせいだったりするのだ。だから本末転倒。
気づかないうちに。



最近考えることは、現状の客観的分析に終始している気がする。
そこから発展しない。
ので発展させるよう試みてみる。


なんかたくさん人に会っても、結局ひとりだなと思う。今更だけど。
咳をしても。云々。
そう、わかってたよ。


ひとりぼっちっていうのは寂しいイメージだけど、そんなことはなくて、これも多面的に見れば、楽なことでもあり、自由でもあり、そしてそういった評価を離れた、単なる事実状態でもあり。ん。そうかな。

だいたいひとりぼっちってどういう状態なのかも定義しかねる。かなり主観的。
誰かしらとのつながりがある以上ひとりぼっちな人はいないともいえるし、逆に個である以上ひとりぼっちじゃない人はいないともいえる。
ひとりぼっちだと思えばそんな気もするし、そうじゃないと思えばそんな気もする。


何にせよ、人は孤独感を感じることがある。
多分状態としてはそんなに変わらないのに、ふいに孤独だと思いつくときがある。
それは本当に、思いつく、とか、我に返る、とかいう感じで、急に「降って沸く」ような感覚だ。と江國香織の表現を借りてみる。
なぜだろう。


江國香織は小説の中でこう言った。

「誰にも、天地神明にかけて誰にも、他人の孤独は救えない。」

(江國香織「つめたいよるに」の中の短編「ねぎを刻む」より)


これを読んだのは中学生の頃だったけど、理解したのは大学生になってからだった。

そうなんだよ。
私のことを「ほっとけない」という類稀な人(拒否した)が過去にいたけど、そしてそのことについて若干相談?検討?したけど(結局、男はみんな変態だということを教示いただいた)、私は江國さんのこの言葉を持ち出したい。
誰にも。
私は、誰かを救えると思ったことは一度も無い。



最近、孤独感から逃れるために人と会うことが必要なのではないかと仮定していたきらいはある。
だから約束を入れたというわけではなく、約束を入れたあとにそう思っただけだけど。

でも多分そんなに忙しくする必要はないんだろう。
ひとりぼっちは主観的な問題だから。


くるりの歌詞をよく引用するけど、彼らの歌詞の中にはひとりぼっちな雰囲気が漂っている。
よく、さよなら、というフレーズを使うし。

くるりはその音楽性やメンバーなどにいろいろ変遷があるけど、歌詞は一貫して岸田繁というvocalの人が書いている。
彼の歌詞の言葉の選び方が的確なところや、素直なところが好きだ。
そして何より最近その歌詞に共感することが多い。そうそう、そういうこと考えるよね、っていう。全部は知らないけど。



今音楽と孤独感の関係について少し思ったけど、エントリを改めていずれポストする。

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