June 19, 2009

宮古

ここ三日、家族で宮古島へ行っていた。
宮古島は本島から飛行機で45分南西の方向へ行ったくらいのところにある。

7、8年ぶりくらい。


宮古島は素敵な場所で、そこは父の故郷であるということがかなり影響している。
昔から、宮古といえば父の育った土地であり、おばあであり、伯父であり、伯母であり、従兄弟であった。
父 は7人兄弟の末っ子で、4男である。男兄弟は4人とも雰囲気や話し方がよく似ていて、特に次男と父は似ている。次男の伯父は島に残っているが、他の男3人 は本島や東京へ出てそれぞれ生活をもっている。3人の伯母のうち1人はアメリカへ渡って家庭をもっていたが、何年か前に交通事故で亡くなった。あとの二人 はそれぞれ結婚して島にいる。各々が独立していて、立派で大人な兄弟たちだと思う。

今回の旅の主目的は、そういった親戚、兄弟をまわることとおばあに会うことだった。


宮古島はほとんど畑でできている。さとうきび畑がどこまでも続く。土は赤土で、それらが日光を浴びてとても鮮やか。空も青い。広い。高い建物はどこにもない。畑の中に農具置き場としての小屋がぽつぽつとある。スプリンクラーが噴水のように畑に水をまいている。
父の家の畑の一部(畑はあちこちに離れてある)を見せてもらい、畑をして暮らすのもいいなと考える。伯父の人生に思いを致す。


宮古島の海はとてもとてもきれいだ。透明で、空より何倍も青くて(それでいつも海が青いのが空を映しているというのが本当なのかわからなくなる)、リーフのあるところが浅くなってエメラルドグリーンに見える。

ひたすら暑い。でもその暑さが最近懐かしい。
高校のとき環境問題に熱心な生物教師がいて、彼がオゾン層の破壊による紫外線の増大とその危険性について語るのを聞いた後に、友人が言った「でも、太陽の光を避けて暮らすより、太陽いっぱい浴びて早く死ぬ方がいいな」という言葉を思い出す。
じりじりと肌の焼ける感覚も、目が開けられないほどの眩しさも、やけに静かで物憂い空気も、昔から知っている。
宮古島は、本島ほど矛盾を抱えていないし、まだ素朴だ。そういう雰囲気も、単純でいい。


また、写真では全然お伝えできないけれども、一応Flickrに上げる。


おばあ、つまり祖母は、病院にいた。
7 人兄弟の母親であり、たくさんの畑を人を使い自分も働いて切り盛りし、あの時代に兄弟7人全員を大学まで出した。腰は全く曲がっていなくて、とても堂々と していた。私の知っている祖母は、パワフルで優しく、純粋な人で、何でも出してきては食べなさいとすすめ、お小遣いをくれるときは「これで鉛筆と帳面を 買って勉強しなさいね」と言い添える人だった。眠るときは必ず同じ話をした。ウエリントン公爵という人の話で、すぐ下の妹と私は、その中のある台詞を今で も物真似付きでそらで言える。


祖母は病院のベッドで静かに横になっていた。小さくなって、子供のようになっていた。
認知 症のためにもう私たちのことはわからなくなっている。父や伯父でさえあまり覚えていない。それでも、首を傾け目を上げて、いろいろな顔を見つけては小さい 子供のように嬉しそうに笑う。身内だということはわかるみたいだと伯父が言う。あの聡明さ、パワフルさはないのに、でもたしかにその子供のような無垢さは 昔からずっと持っていたものなのだろう、祖母は昔からそういう人で、ただ純化されただけのように見えた。


二度目、本島に帰る日に 訪ねたとき、祖母は何度も長女、次女、三女、と確認していたけどその記憶はすぐに失われて、またすぐに確認しはじめる。私を次女と言ったり、母を三女と 言ったりする。私たちが訪ねたことも、数分後には忘れただろう。でも祖母を囲んでいるとき、彼女は幸せそうに笑った。その一瞬もし祖母が幸せだったのな ら、記憶に残らないとしてもそれは素晴らしいことだろうと思った。


帰路につく。
空港も新しくなった。

子供のころ宮古島で過ごしたあの記憶は。
草 むらをかき分けて行った海。浮いたサンダル。山羊小屋。クーラーボックス。浮き輪。おばあの家。柱に貼られたシール。従兄弟たちとのトランプ。おじさん達 の飲み会。トラックの荷台に乗って見た夕日。さとうきびをかじったこと。鎌が使えなくておばあに笑われたこと(でも小学生だった)。深夜やしがにを捕りに 行ったこと。向かいの商店にアイスを買いに行ったこと。

久しぶりに掘り起こされて、その時間はとても今取り戻せるものじゃなくて、本当に眩しすぎて、随分遠いところまで来てしまったんだなと思った。


帰る場所は本島ではなくて、もしかしたらここなのかもしれないな、ここだったらいいなと漠然と思う。

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