June 19, 2009

用途

昨夜ベランダで考えていて、一度自分の全てが悲しくなって、ああ何も無いなと思いながら物質世界に目を落としたら、そこに自分の手があった。


そこで、何もかもが不完全だと思ったあとで、この手はなんて完全なのだろうと思った。
何かをするのに完全である、という意味で。過不足なく。
一 つ一つの細胞や組織がしっかりと結合し、血管や骨が通り、生命体の一部として維持されていて、爪が指先を守り。この手はそれだけにとどまらずいろいろな動 作をすることができる。曲げたり伸ばしたり掴んだり書いたり。怪我をしても元通りになる。この手があるせいで何か環境を破壊するでもなく。


そう考えて、この手だけじゃなく、脳なり足なり顔なり体中全てが、何かをするのに完全なのだと思って、でもなんでこんなに悲しいのだろうと思って。
それは内面が不完全だからだと思うに至って。
発生する感情をコントロールしたり処理することができず、またこの体を何に使うべきなのかをわからず。無駄に持て余し、使わずに遊ばせている。そんな権利が私にあっただろうか。


死のことを最近考える。次の瞬間死んだら、私は後悔するだろうと思う。何一つ為していないから。

それで、生まれてきた甲斐について考える。何を為せれば私は生まれてきた甲斐があったと感じることができるのだろうと。

人 がこの世界でできることについて考える。自然法則を変えることはできないし、無から有を創ることもできない。自然を破壊しようが、あたらしい化合物を作り 出そうが、それは自然界において、前と後で変わらないことなのだろうと思う。だったら人ができるのは物質面でなく精神面で他の人に影響することだろうと考 える。他の人を一瞬でも幸せにすることなのではないかと考える。

思い返せば、私はいろいろな場面で幸せを感じてきていて、それは夏の暑い 日に食べるかき氷であったり、好きな人と見る花火であったり、試験の後の酒であったり、友人の何気ない一言だったり、気分によく合った音楽であったり、小 説の一行であったり、テレビの美しい映像だったりするわけだ。
それらは背後に、かき氷を発明した人やその場で作ったおじさんや、時間を割いてくれ た好きな人や花火職人や、酒を作った酒造の職人や場所を提供した店の人や、一言を放った友人や、音楽を作曲した人やCDを製造した業者や販売した店の人 や、小説家や出版社や本屋さんや、撮影スタッフやテレビ製作のエンジニアたちの働きがあるわけだ。

そういう人たちのいい仕事のおかげで、 私はその瞬間瞬間に嬉しくなったり楽しくなったりすることができていて、その人たちが私を喜ばせようとしていようがいまいが、人一人を幸せにしているのは 事実で、実際それで結構私は救われていると思う。そうやって何かいいことが人間の生活の中には起こるから、人々は一日一日を乗り切っていると思う。それら は偶発的に起こっているように見えたり、誰の手も借りずにそこにあるように見えたりするけど、必然的に人の手を経て起こっている。
当たり前のことだけど。


それに一つ一つ感謝するのを忘れたくない、とまでは言わない。
ただ、そういうことがしたいと思った。この体とそれに与えられた時間を使うならば、誰かを一瞬でも幸せにできるようなことができたらいい。
願わくば、自分の好きな分野で。ビジョナリー・ピープルの考え方に従えば。


今まで自己投資しかしてこなかった。そろそろ利益を上げて、配当を出すべき時期だろうと思う。
私が、ではない。この物質としての身体が。
この身体を使うのに私の精神が追いついていない。



人を幸せにすることが、是か非かという問題はあると思っている。
それは言い換えれば、人の欲を満たし、次の欲を生み出すともいえる。その人の幸せのために、誰かが犠牲を強いられているかもしれない。それっていいこととは言えない気もする。
あ る子供が勉強をするために、木が一本切り倒されるかもしれない。ある人が食べるために、どこかの土地が痩せるかもしれない。できれば誰かの犠牲なく幸せに なれればいいけど、でもそのときそのとき対応している相対立する利害は、どちらかが我慢しなければならない。他の場面で幸せを分配するしか方法がない、と 思う。
多分、ここで浮かんでくるのは、地球のどこかの貧しい地域にその犠牲を強いてるんじゃないかという発想で。それとこれとはちょっと問題を異 にする。単純に考えてみれば、お金を払い、物を得る。一方は物を売ってお金を得る。それでどっちもハッピーなわけで。そういう話。他の場面での分配ってい うのはそういうこと。物は失うけど、お金は入ってくる。そこで幸せは分配されている。
分配するまでもなく、与えることそのものによって幸せを得られる場合もあると思う。理想的。
地球規模の格差の問題は、多分、富の集中。富=幸せかという問題もあるけど。一応それはある面で真ではあると思う。その話はまた今度。


結局是か非かとかはわからない。
私は、是でも非でもどちらでもいいと思っていて。幸せになるというのは(その内容がいかなるものであれ)人間が究極的に求めているものだから、人間にとって最も重要なことの一つなのだろうと考えている。それだけ。
是 か非かとか善か悪かとかいう評価はもう全てにおいて意味がないと言い切ってしまうのは言いすぎだろうか。けど根本的にはそう思っている。評価という行為自 体。意味というものも。相対的、主観的なものにすぎないから。人によって違うことなんて本気で相手にしてたら身が持たない。
それで客観的になりた がっていて、でも多分客観なんて昔友人が言ったように存在しないのかもしれなくて。あったとしても、完全に客観的になることなど絶対できなくて、それなら 主観世界で折り合いをつけるように何かを評価したり感情や意味を認めたりしなければならないのかもしれないけど。
でも少しほとぼりが冷めるとすぐに客観的になりたがる。楽しようとしてるのだろう。

ああそろそろ道家になってしまう。


話がそれている。
で、 ただ人を喜ばせる何かができたらいいと、それをできるだけ誠実にできたらいいと、なんとなく思った。それは何か気分のようなもので、何も根拠とかなくて、 ただなんとなくそれがこの身体を使ってできることなんだろうと思っただけで、それに意味があるかどうかとかそれが人生の目的なのかとかそういうのはわから ない。


全然まとまらなかった。キャパ不足。

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