June 19, 2009

恋とはどんなものかしら

先日のエントリの恋という現象についてっていうのを考えてみる。長編。


割とよく語られている話題ではあると思う。それが具体的ケースについてであるにせよ抽象論であるにせよ(大概の場合それは一緒に語られるものだけど)。


あと、恋、恋、って言ってるのは別に他意はない。
恋がしたいと主張しているのでも、恋をしていると主張しているのでも、ない。そんなのプライベートなことだし、あったとしてもそういう叫び的なものはここには書かない(遡って読み返さないように)。
きっかけをあえて挙げるとするならば、最近思い出した昔書いてたブログである。そこには恋愛してた当時の感情を観察したものが記されていて、それを拙いながら抽象化しようとした跡が残っている。今でも拙いとかいう批判はおいておく。

よ くよく考えると、そのブログとこのブログは雰囲気が接近しつつある。その旧のブログは今もwebのどこかに放置されているが、それを教えたのは一人だけ で、とても他人には見せられたもんじゃないと思っていたのに、このブログがそれに接近しているという事実は結構衝撃的である。まあいいか。

話がそれた。


で、恋ね。

・定義
goo辞書から。
「異性に強く惹(ひ)かれ、会いたい、ひとりじめにしたい、一緒になりたいと思う気持ち。」

あと、「恋愛」だったらwikipediaにあった。「恋愛ニート」なる言葉もあるらしい。ひとごとではない。興味のある人はどうぞ。
ここで「恋」と「恋愛」は同義ではない。


恋の定義を、思考というエントリでは
「新しく、相手の心を自分の方へ向けたいという欲求を伴い、胸を焦がすような、性急なもの。」
としたけど、自分の中ではこういうイメージ。
加えるなら、一過性もかな。

1.新しく
というのは、それまでの関係とは別の、というようなニュアンス。

2.相手の心を云々、
というのは、やっぱ恋特有だと思う。恋は「実る」と表現するけど、愛は「実る」とはいわない。恋が実るっていうのは、つまり両想いになるということで、そこがある到達点なわけである。相手の心を得ると成功。

3.胸を焦がすような、性急なもの
というのも恋特有というか。ここが多分楽しい部分なんだろうな。2とも関係するけど。今すぐ会いたいだとか、メールに一喜一憂するとか。相手の心を求めるが故の。

4.一過性
この状態は継続しないのがほとんどで、一過性のある意味異常(常態でない)な状態である。成就するとほとんど常態に戻る。
これを結婚してからも維持し続けたいというのが一部の人の関心事であるらしいことはテレビドラマなどで知った。


今後もっと加わるかもだけど。
私の乏しい恋の知識と経験からは今のところこんな感じである。


ちなみにここで恋という言葉は、「恋人」や「恋愛」においての「恋」という文字の部分とは必ずしもリンクしてないと思う。つまりは、ここでいう「恋」+「人」が「恋人」というわけではなく、「恋人」とはまた別の意味づけがなされるべきものである。


・物欲との差異
よく思うのは、定義の2に関連して、恋が相手の心をほしがるということが、何か物をほしがることとどう違うのかということだ。感情の構造としてね。
たとえば欲しいものがCDだとして。そのCDには好きな曲が入ってる。好みの。ジャケットも素敵だ。自分のもとにおいて、いつでも聴いたり眺めたりしたい。だからほしい。
一緒じゃない?とか思ってしまうわけだ。


・底辺の愛情につながるか否か
CDなら、手に入れて数ヶ月経つともう棚にしまわれて見向きもされない状態というのがままある。恋の場合はどうだろう。
CD同様、手に入れたら興味を失う、という人もいる。その過程が楽しいだけだと。
私見だが、そこは底辺に流れる愛情につながるか否かだと思うのだ。愛情があったうえでの恋だったならば、その一過性の病的状態が終了しても、愛情に戻り(もしくはさらに深い愛情になり)その関係はCDとのそれとは違ったものになる。
前恋愛的ななにかっていうのはそういう意味で書いた。かなり前のエントリだけど。

CDに愛情を感じる人もいるのかもしれないが、私の場合そのような経験がないので。
もし例が不適切なら詫びる。


・愛されたいという欲
これはろまん燈篭の2個目の引用で書いたのとリンクするけど、この中に入るものだと思う。
そこが愛とは違う。相手の気持ちを求めるか否か。

ろまん燈篭っていうのは、ある兄弟たちが連作で小説を書くというもので、その中の次女がここの部分を担当し、しかもこれは次女の本心ではありませんと断って書いているので、太宰の本心かどうかなんていうのは全くわからないわけだが。

「ひとの真の謙虚とは、その、愛するよろこびを知ることだと思います。
愛されるよろこびだけを求めているのは、それこそ野蛮な、無智な仕業だと思います。」

とある。私は同感するけど。
見返り無し。無償。能動的。
見返り無しは結構きついけど、愛されるよろこびのみを求めるとCDと同じになる気がする。
それは私のごく主観的な意見だけど、不幸だ。


・この現象が起こる理由
これはまさに神のみぞ知るって感じだけど。
なぜ人は恋をするのか。
物欲とプロセスは同じといえば同じかもしれない。
好ましいものに出会う。→自分のものにしたくなる。


プロセスが同じかもしれないと言っているだけで、現象が同じだというつもりはない。たとえば、恋だと人の気持ち相手だからそうそううまくはいかなくて、もしかしたら自分が否定されるかもしれなくて、そんなリスキーなところは物欲じゃありえないわけで。

まあありそうなのは、生物として人間を維持するためにそういう情熱みたいなものは必要で、そういう風にプログラムされてるとか。で、恋という現象が起こると。



ちょっ と別の話になるけど、独占欲っていうのがなぜあるのかを友人と話していたとき、生物学的観点から説明された。つまり、雌性は餌を自分と自分の子のためだけ にとってきてもらうことが必要で、それが独占欲につながると。雄性は自分の子を残すために他の雄の子を極力排除することが必要で、それが独占欲につながる と。

まあ説得的といえば説得的ではあった。けど私たちは餌どうこうを考えて、独り占めしたいと思うわけでは当然なくて、まあそこは多分他 の女の子といちゃいちゃしてると単にむかつくとかそういう理由なわけだけど、でもなんでむかつくのかと考えるとそれが生物的本能だと言われてしまえばそれ もそうなのかなと思ってしまう。
餌とかはおいといて、他のところに行ってほしくない、と思うという意味では共通する。餌ではなく、共有する時間とか、寂しさなのかもしれない。好ましいものが自分のもとを去っていくのが嫌、という心理。
あと、こういうことされたらむかつかなくちゃいけないという固定観念なんじゃないか説も考えた。そうそれ、思い込み。


独占欲からの開放は、一昔前の私のテーマだった。そういえば。
みんな仲良くできればいいのに、ていう。それを許せない自分や相手ってなんなんだと。一夫多妻制の国の女の人たちの気持ちを考えたりもした。
そうこう考えてるうちに、自分のもとを離れるとか離れないとかって、勝手にイメージしてるフィクションなんじゃないかと思っていた。
物理的に考えれば距離は変わらないし。つきあってるかどうかという認識の違いなだけというか。そこに重きを置きすぎてるんじゃないかとか。つきあうつきあわないで何が変わるのかとか。まあありがちな。


すごい中途半端な感じがするけど、今の時点で書けるのはこんなことくらい。
問題提起に終始した気がする。答えを出す努力は今後するかもしれないししないかもしれない。


余談。
goo辞書には「恋」の2個目の意味が載っていた。

(2)古くは、異性に限らず、植物・土地・古都・季節・過去の時など、目の前にない対象を慕う心にいう。

そういえばそういう使い方もする。
物欲とは違う。ここでは所有欲を伴わない(はずだ)。
素敵。


長いな。書いてる途中で昼寝してしまったくらい長い。

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