June 19, 2009

50

自己分析の一環として、人生の中でこれがしたい、ということを50個挙げてみた。
50個ってなかなか多くて、でも書いてみると意外にあるもので。


50個の一番最初は「親より長く生きる」である。

そのあとに「盆栽をやる」であったり「ウィーンフィルを聴く」であったり「自分でパンを焼いて朝食にする」などがある。

やりたいことなので、書いているうちに上がってくる。わくわくというか。
ネバーランドに行く前に、嬉しいことや楽しいことをウェンディ達が思い浮かべたように。その場面のせいで毎週日曜にやっていたハウス名作劇場のピーターパンがとても好きだった。


で、50個の最後は「守るものを見つける」である。


先日友人と夜を徹して語り合った際に、ちょうどこの話題が出て。
私は頭の片隅にこの50の項目があって、また、リンクした、と思った。

彼は守るものがほしいのだと言った。生きている意味について話していたときだ。
彼のイメージするそれは、さしあたって家庭であった。
私も「守るもの」として自分の家庭というのは想像していたけれど、それは家庭だけではないのだろうなと思った。たとえば何かの目標だとか。姿勢だとか。理念だとか。ある人でも、物でもいい。伝統でも。
守るものがある人は強い。
私が両親を尊敬しているのは、その点が大きいのではないかと思う。



ブログで何かしら考えていて、これはこうだからこうなっているのだと説明を試みるのだけど、それは的外れなことも多いのだろうと思う。最終的には、元々そういう風になっているのだということに辿り着く。つまり本能的なものだ、という結論。
感情がなぜ発生するのか。
そんなことわからない。わからないけどみんなどうにかこうにかやっている。
ただそこにある事実を受け入れるのみで、それに対応できるように作られているのだから、考えることはむしろ対応する速度を遅くしたり、対応できなくなってしまったりさせる弊害がある。
と、昨日の帰り道思っていた。歩いていて、歩くということは詳細に分析するとここの筋肉をこう収縮させて上へ持ち上げ後ろ足で地面に圧力を云々。そんなことを考えて歩いてる人なんていない。アシモとかを作ってる人たちくらいなものだ。
私たちはどうやって歩いているのかわからないまま歩く。
多分それと同じだと思う。
どうやって、なぜ、を考えることは時に有益だけど、時に有害で的外れだ。


生きている意味を考えること然り。
何のために生きているかわからないまま、生きる。そういうものだ。

デフォルト死んでいると思ってるの?とデフォルト生きていると主張する人に聞かれた。たしかにいつの間にかそう思っていた。キリスト教的、宗教的なのだろうか。

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