June 19, 2009

価値観について

価値観について。


価値観とは(goo辞書より)

「いかなる物事に価値を認めるかという個人個人の評価的判断。」


よく価値観の違いだということで議論を収束させることがある。
このブログでも、ある。



さっき集合知の話を書いていて、いろいろな情報が集合してDB化して、ある考え方やデータを検索できるようになるんじゃないかと思っていて、ていうかそれをgoogleなんかはしようとしてるんじゃないかと思うんだけど。
そのなかで、やっぱり価値観が違ってくるというのはあって、日本人の中でも結構違ったりするし、国が違えばもっと違ってくるんじゃないかと(言語が違うから思考方法も違ったりするかもしれないし)。
価値観ってなんだ、と思って。


ちなみに、価値観についての本はたくさん出ているけど、私は読んだことがないので言及できない。
いつもそうだけど、基本的には自分が肌感覚で感じたことから自分の頭の中(今までの経験)だけでつくった考えをこのブログでは述べているし、何かの本や誰かの考え方を焼きなおす場合は、その旨明記していると思う。多分。
なので、これに書いてあったよね、とかいうこととか、これで言われてることと違うんじゃないの、ということはままあるのでご承知置きいただきたい。とかいうのはサイドバーの方に書いておくべきなのかもしれないけどまあいいや。


なので、専門的にどのような議論があるのかは知らないけど、なんとなく、その価値観というか判断基準には、先天的なものと後天的なものがあるんじゃないかと思った。
性質みたいなものと、環境に影響を受けるもの。
まったく同じ刺激しか与えないで育った二人の人間というものがおそらく作為的にそう育てる場合しかありえなくて、つまりありえなくて。なのでこれを証明できるかと言われればわからないんだけど、でも先天的という言葉があるくらいなので、そういうのがあるんだろうと思う。
でもそれってどのくらいのバリエーションがあるのだろうと思う。


もし、その先天的なものを捨象していいのだとすれば、あとは後天的なものだから、自分がこういう経験をしてそこからこういうことを考えて、という説明をし、それを相手が多少なりとも理解すると、価値観が共有できたりするんじゃないかという気分。


たとえば。
レ・ミゼラブルのジャンバルジャンがパンを盗んだという事件で。
彼がものすごく貧しくて、おなかがすいて死にそうだったりした、という情報が作品中にはあるわけだけど(たしか)、この情報があるのとないのとでは評価が異なってくるのと同じで。


こういうことがあってそしたらこうなったことがあったんだ、とか、そのときこう言われてこう思ったのだ、とか、ある事例というか情報をその評価の際に添えられるのだとしたら、やはりわかりあえる度が違ってくると思う。
そこには相手にわかってもらいたいという情熱(自己の価値観に対する分析とか、表現力とか、情報の開示とか)と、相手をわかりたいという情熱(よく話を聞くこととか、イマジネーションとか)が必要で、その労力をもし惜しまなければ、割と平和になるんじゃないかと思う。
多分経験してることが大幅に食い違っていると、その分多く説明を必要とするから、めんどくさくなるんじゃないか。それを「価値観が違う」と言っているのではないか。という推測。
先天性の議論はちょっと知らないので捨象しています。


価値観のボーダーすらもしかしたら越えられるかもね、と思ったということ。

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