June 19, 2009

真のに関して

リンクしているサイトで、このブログの言葉を引用した上でのある論が展開されていたので、それに関して書いてみようかと思う。

以下引用。

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在 るのか無いのか分からない、その定義も分からない、漠然とした唯一無二の愛情、友情、信頼を追いかけるより、発生と消滅を爆発的に繰り返す無数の真実達に 囲まれている方が絶対楽しいと思う。傷つくのを恐れて「絶対的」以外受け入れられない、「絶対的」が見つからないので何も受け入れられない、に比べたら建 設的だと思う。そして楽だ。
かなりリアルタイムな引用になるが、あるブログに「客観的になりたがる。楽しようとしてるのだろう」とあったけど、僕は主観的の方が断然楽だと思う。

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僕の主張は「誰かが絶対的だと思う愛情」を「絶対的ではない」と切り捨てるものではなく、「絶対的な」愛情、友情、信頼を各人が各人なりに見出せば良い、というものだ。ポイントは絶対的という概念を安売りする事にある。

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無断引用ですが、それは許されるだろう。

彼の主張は、各人が各人なりの「絶対的な」友情なり愛情なりなんなりを見出せばよいのであって、それをわざわざ客観的に吟味することは建設的ではない、もっといえばあまり意味がない、という主張、と私は捉えたのだが。

私もそうできればそれにこしたことはないと思う。
それが絶対的だと思えるなら思えばいいし、それはその人にとっての真実だろうし。それについて誰も干渉することはできないだろうし。


問題なのは、それができないことで。


それは自分なりの「絶対的」、というのは自分の主観だけで構成されるものではないからだ、私の場合。

たとえば友情。自分が友達だと思ってても相手がそうじゃないという場合を想定して、その場合に自分が友達だと思ってればそれはその人にとって友情が成立していて、それはそれでいいじゃないのという主張だと思う。

けど私は、自分が相手を友達だと思うかどうかというその段階で、大抵相手が自分を友達だと思ってるかどうかっていうことを気にせずにはいられない種類の人間だということだ。
相手に合わせているとまで言ってしまってもかまわない。
相手がそう思っているのならそういう関係なのだろうと思う。相手の主観に連動させたいというか。相手がそういう主観を持ってるか否かという判断すらも自分の主観なわけだけど。それはもう仕方がないので程度問題で。自分基準で蓋然性が高いといえるくらいなら。


相手に合わせていると感じるのは、関係性の場面だけで、一方的、片面的な感情の場合は全て主観で解決できている。と思う。
人や物を好きになるとか。あるいは嫌に思うとか。そういうのは自己完結できる。
しかし愛情や友情やなんかは相手があってのことなので、そういう人間関係的な何かは相手の主観が多分に関係する、関係しなくてはならない、と思うタイプの人間なのだろうという分析。



私 が客観的になるほうが楽だと書いたのは、相手の主観を考えるのがいちいち面倒な上に絶対確定的な答えが出ないし程度問題でもあって、そういうのを考えなが らこの人との関係がどうだとかこうだとかに一喜一憂するのを嫌って、そうするということだ。つまり、彼彼女のこの関係に対する主観がどうであれ、この関係 を評価する意味は無いんじゃないか、とぐっと下がって見るようになる。


その前の段階で、そういう人間関係的なものでさえ主観で解決できる人なら、それはその段階で客観を考える必要なんかないんだろうし、それなら主観的でいたほうが楽だろうと思う。


という考察。というのか弁解というのか。


結構でもこのスタンスは固まりつつある気はする。

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