June 28, 2009

洗濯ばさみ考

洗濯ばさみ。
何か、衣服とか、お菓子の袋とか、写真とか何でも いいのだけど、何かを「はさむ」ために作られたそれは、はさむということに命を懸けて、完成された機能美をそのフォルムに宿している。その小さな体からは 「はさむ」という気概が満ちあふれ、自分の存在意義は「はさむ」ことなのだということをいたってクールに理解している。
上の部分と下の部分を金属の輪っか又はばねで結び付けられ、それらに手の力が加わることによってしかその均衡は破られない。手の力と反発する力でもって、彼の力を誇示しているのだ。

夜の洗濯ばさみの多くは、ベランダにさらされ、夜風にふかれ、整然と、もしくは雑然と、洗濯紐に止まっている。
zippoコロンと鳴らして。みたい。
洗 濯ばさみのフォルムに今一度思いを致す。無駄のない。アルファベットのAにすら見える。もしかしてこいつは洗濯ばさみであると同時にAなのか。その可能性 は十二分。「わたしはアルファでありオメガである」という言葉は勿論私の脳裏から引き出されて、もしかしてAでありZだったりもするのか?と、解体した姿 を思い浮かべるも、どうもZにはなりそうにない。邪道だが2つでどうだ。2つかませるとZに見えなくもない。
つまり、こいつは、洗濯ばさみでありAでありZだったのだ。
洗濯ばさみ一つとってもいろんな面がある。メタファーとしての洗濯ばさみ。
洗濯ばさみに愛はある。彼ら同士で互いにかみつくとか、洗濯紐の上で寄り添うとか以外にも、洗濯ものの風にたなびくときの彼らの必死さといったら涙なしには語れない。それもラブ、これもラブ。

にしても、これは具体的被造物である。人の手による被造物である。彼の役割は「はさむこと」。または、こうして観察されること。欠けたり錆ついたりして愁いを誘うこと。なんだって、人は錆ついて使えなくなってしまったものを見ると悲しくなったりするんだろう。
仮説。同一視。人は何にでも自分を重ねかねない生き物である。我々は洗濯ばさみを擬人化したとたんに自身を無意識的に重ね合わせるのだ。

私が洗濯ばさみをもって思ったのは、こいつらの人生の目的があまりに明確で、こいつらの人生が大体において予想されるということ。
目 的は「はさむこと」。アイディアを出されて工場でつくられて、家とかで使われて、そのうちプラスチックがぱちんとはじけ折れ、もしくは錆ついて、捨てら れ、燃やすなり溶かすなりされて、新しい何かの構成の一部になったり、もしくは人工物以外のところへ帰っていくかもしれない。
こういう予想がだいたいできるのは、我々がそれを作った者であり、使いながら見ている者だからである。
彼らにはもちろん知らされていない。知らせる手段すらない。知らせなくてもいいと思っている。というのは、自らの意思でそれを変えてやろうなんて自由な意思や自由な行動が物理的にできないからだ。

そしてもう一つレベルを上げて見てみる。
人は被造物である。私たちを造った者がいるならば、目的も、人生の行く末もわかるんじゃないだろうか。私たちには洗濯ばさみのように簡単な「はさむ」というものではないにしろ、目的や用途というのがあって、創造主は人生のいろいろを知っているのではないか。
私 の用途は何なのだろうと、ずっと考えてきた。創造者よ教えてくださいと祈ってきた。もしそのようにすべきなのであれば、私はそのようにする。それは正し く、適した道だからだ。洗濯ばさみはハンガーにはなれない。跡をつけずには干せない。釘にも吊るせない。それは洗濯ばさみとハンガーの目的が違うからだ。 そして、ハンガーの役割をしようとした洗濯ばさみには苦労と疲弊と諦めが見える。私はエンジニアにはなれないし、どこかの大統領にもなれないし、兵士にも なれないということだ。いや、違うな。私は尊敬するあの人たちにはなれないのだ。というか、どんな別の人にもなれない。
ここで、洗濯ばさみとハンガーでは形が違うが、人間はほぼ同じ形をしている、他の人間にもできることはできるんじゃないか。という疑問。
そこ。人間はハンガーや洗濯ばさみではない。それよりもっと複雑だ。目的だって人生だって複雑なのだ。人知を超えているということを認めた方がいい。

何かしらの理由のもとに、いくつかの目的をもって創造され、いくつかのミッションを知らないうちにこなしながら生きていって、死ぬことでまた大きなミッションを終えていくのではないか。
という感想。

これ、MoonてPSのゲームに似ている(playを強く強く勧める。めっちゃアートである。古いけど。某ニコニコにplay動画あり)。
主人公はいろいろな、いいこと又は影響を与えることをしながらラブを経験値として得、レベルアップしていくのだ。例えば失敗ばかりの花火職人に花火玉を作ってあげて、感謝されてラブをもらい、偏屈なおじいさんに夜じょんがら節を聴かせてあげて怒られてラブをもらい。
これってば日常生活でやってるような割と些細なことが相手に影響を与えていたりすることと似ていて。

その一つ一つの総体が生きている目的なのではないか。真面目な話。
今 日友達にメールした、とか、家族にお茶淹れてあげた、とか、上腕二等筋が強くなった、とか、服屋の店員さんと仲良くなった、とか、目を合わせて挨拶をし た、とか。もちろん、仕事で世に情報を発信したとか、だれかの問題が解決してその人の気持ちが軽くなった、とかも。つねに目的は転がっているというか。目 的を一語で表すなんてことは無理だと思っているし、特に実益もないと思っている。どうせ抽象化されてわかりにくくなるだけだ。

何にでも理由はある、と頻出の友人の言葉。
何にでも理由はあるのだ、多分。それを知れるかどうかはまた別の話。


私はキリスト教を信じることにきめたけれど、神の計画を知っているかと言われたら全然知らない。目の前のこと、少しずつしか教えてくれないものだ。「明日のことは明日が心配します。」
どうしてこんなことになっているのですか、と聞いても、すぐにはわからない。3年くらいして、ああ、あのときあれがあったのはこういうことだったのか、っていう類の理解である。よくよく、考えればいくつもそういうのってある。伏線多すぎるのである。
忘却の生き物であることがたまにくやしいわけだが、過去に嬉しかったり悲しかったりすることとか、本当に些細な、にこやかに挨拶をしたというそれだけなんかまでが今につながっていて、結局すべてがO.K.になってるのだ。


こういうのに気づく度、信じたくなる。それに、そう考えること、つながりを発見することは楽しいではないか。
あ のときこれがなかったら、というのは何故か「人生に、もし、はない」とか(これは本来、「~だったらよかったのに」というネガティブ思考を排除する趣旨の 言葉だと思うのだけど)、「そんなの単なる偶然だよ」とか言われて、思考停止させられる。そんなことまでいちいち考えてられないよ、と。

少し脱線するが、私はどうもこの偶然というものがわからないのだ、偶然のもつニュアンスが。
偶然だった、というのは人間が意図せずしてという意味だと思うのだけど、この文脈では、物事を軽んじるときに使われる気がする。
でも、人が意図していなくたって、物事というのは起こるべくして起こる。物事は事実の膨大な積み重ねの上に成り立っている。ちょっと考えればわかることだ。
世界は一分の隙もなく、ものすごく膨大な数の出来事や言葉や時間や物質的何かやありとあらゆるもので構成されていてかつそれがものすごく流動的なのに、齟齬が全く生じないのだ。世界が空恐ろしくなる。奇跡的に、つじつまが合っている。


信じることもできるし信じないこともできる。無論、あなたの自由だ。
「人間は自由の刑に処せられている」と言ったのはサルトルらしい。得たり。

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