June 28, 2009

山田先生のこと

いつまでも支離滅裂な話をトップに置くのもなんなので。
蔵出しシリーズ②。2007年3月に書いたもののようだ。


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山田先生のことを今朝起きるときに思い出した。


彼は高校の国語の先生だった。今もそうだと思う。

彼は沖縄の昔の男性にしては背が高い方で、教室ではサンダル履きで、たまにめがねをかけた。
目は大きく、まつげは長く、セサミストリートにでてくる大きな茶色い象のようだった。
声がなかなかよく、堂々としていて、最初は怖そうだと思ったが、意外にお茶目だった。

よく語尾に「なのだ」を使用し、自らが本土の大学に進学しその際正しく敬語をつかえたことを教授に驚かれたことを話し、軽く見られないためにも君たちも正しく日本語をつかえるようにならなければならない、と言っていた。
私としては口語で語尾に「なのだ」を使う人に彼以外会ったことがないため少々困惑した。しかし今ではそれは彼の芸術性だったのだと認識している。実際彼の話し方が好きだった。

彼 は最初の授業で、まず高校の隣にあるごみ処理場から発せられるダイオキシンについて話した。なぜ公立でうちにはクーラーがついているか、それはダイオキシ ンを吸わせないために窓を閉め切る必要があるからで、そのせいで教室がひどい暑さになり、勉強どころではなくなるからだった。

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と、このように回想されている山田先生もおそらくは今年で60歳くらいだと思う。もう定年されただろうか。

羅生門だとか、山月記だとかをやった。
羅生門の朱色とか、きりぎりすの緑だとか、下人の頬のにきびだとかをありありと浮かばせたのは、芥川の筆力のみではあるまい、と思う。

私 は先生に、文学作品を問題にするなんてナンセンスだ、と主張したことがあったが(なんか若い)、先生も「私もそう思う」と言った。そうして、私は国語の問 題を解くときには常に「ナンセンス」と思いながら解くことに自信すら持ち、解けなくてもかまやしないとか思うようになってしまった。案の定、私はセンター 国語が苦手なまま受験を終えたので、妹に現代文を教えるのに躊躇する。

古文の時間は、黒板に、さらさらと、本当にさらさらと文字を書き、単語を斜線で全て区切り、全ての単語の品詞と活用形を説明してくれたおかげで、その「む」はどの意味なのか、とかがわかるようになった。

山田先生の語り口というのは上記でも触れているが本当に独特で。
「なのだ」にとどまらず、「むむっ」とか、「ええい」とか、なんだか芝居のような感じだったのを覚えている。それでいてすごく自然体で、脱力感のある先生だった(弟子と称されたT先生の方が脱力感は数倍上だったけれど)。

卒業するときに寄せ書きをしてもらった。皆に同じ文句を書いたのだと思うけれど、「どこにいても必要とされる人になってください」と書かれていた。

これは結構難しい、と思う。
誰でも、必要といえば必要なのであって、でもいなければいないで回るものなので。なんて小癪なことを言ってみたり。
自 分がその場に必要かどうかなんて、他人に聞かなきゃわからないし、というか聞いてもわからない。多分、必要といえば必要だし、不要というわけではないけれ ど、でもいなけりゃいないで回るのだと思う。そういうものだ。でも、必要不可欠、ぽい人というのはいる。みんなが口をそろえてそりゃ必要でしょと言うよう な。
それで、結局私は寄せ書きをまた一つの目標として心に留め置くことになる。
数え上げたら私はいくつの目標を抱えているのだろうと思う。乱立するポップアップの如く。


に、しても、会いたい人ばかりだ。まあ、会いたいから思い出すのだろう、なんてまた小癪な。

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