June 28, 2009

SHIFT_

最近になって考え方が変わってきた。

どう変わってきたかというと、以前ほど効率主義、完璧主義でなくなってきた。
完璧主義というのは完璧主義者の中でも中の下くらいの軽度な感じではあったけれど(病院なんかでもそういう結果が出たりとかしたから気づいた)、それも穏やかになってきている。

会 社にいた時というのは、とにかく時間がない人たちを相手にいかに要点をうまく伝えるかとか、いかに早い段階で提案できるかとかが大事で。結構社長直轄の部 署だったのでとにかく社長に時間がなくて、社長と話すときにその要点のまとめ方でGMですら何度でも怒られるわけで。ギリギリまでレビュー入って資料を直 してて急いでバインドするとか、なんかもうとにかくスピードを要求された。どんな仕事でもそりゃ要求されるけれど、なんか怒鳴られるし煽られる感じだっ た。
ファクトファインディングをしていても、芋蔓式に出てくる情報を次々にブックマークしていってしまったりした(これは仮説思考でやれと口を 酸っぱくして言われたがいまいちだった。仮説を立てる力などほぼ無かったのだ)。ただある種の完璧主義は会社では必要ではある。というか会社にとって必要 なのである。

仕事以外の何かをやるにしたって、効率というのはある程度重要で。
勉強であっても、試験までの時間が有限である以上、効率というのは大事になってくる。「この判例を読めば、あの判例は読めない」とは元クラスメイトの名言である。勉強法、速読、レバレッジ。
完璧主義の点でも、条文も判例も過去問も問題集も全部読みたいし、暗記しなければならないと思っていた。そのくらいの心意気自体は必要だと思うのだけど、まあどう考えても時間的能力的に無理なのだ。でも、本気で思っていた。

で、 沖縄に帰ってきた当初というのは、例えば「要するに何が言いたいの」って思うことが一日のうちに何十回もあった。家族の話すのを聞いても、テレビを見てい ても。そして結論をはっきりさせないまま論点がスライドしたり発散していくことがものすごく嫌だった。そんな自分に気がついて、偏狭さを反省するようにな る。

そのうち何かの拍子にモモの話を思い出す。時間どろぼうの話。なんだかはっとしたのだ。何かを焦っていた。時間がないと思っていた。 よくよく考えたら、あった。ないと思わされていたというか、ないということにしているフィクションにのっかっていたのだった。勿論それに気づいていてもそ のままのっかっていくほかない場合だってある。でも沖縄に帰ってきていてもなお、そのフィクションにのっかり続けていたのだった。
そんなことは親に会社を辞めろ辞めろと言われていた頃からいくらでも諭されていたというのに、私は親が一度も東京で働いたりしたことがないからわからないのだ、と思っていた。ごく最近まで。


それがやっと自分で気づけるようになったということ。
うつ病の治療法で認知療法というのがあるらしいが、それは気づくことがまず目的なのだ。気づくことができれば徐々にではあるが変えられる。


馬 車馬のように働くことが充実していて格好いいと思っていた時期というのは確かにあって。今働いてる院の同期なんかの話を聞くと朝から朝まで働いていて、馬 車馬のようにってのはこういうことなんだなと思うし、私はまだ人間らしかった方なのだけど、1年前のエントリなんか読むとそんな感じだ。今時点のプライオ リティとして、仕事が一番でその他の交際とか雑事とかが低いと。今死んでも満足だとまで確か言っていたと思う。でもそういうのってどうなのと、今は思うよ うになって。
何のために働いたり生きたりするのか、っていうことなのだと思う。私は自分の能力が認められる満足感とか、焦燥感とか、そういったものに動かされていた気がする。
今は大切な人たちのためというか、大切な人たちの傍で生きたい、と思うようになっている。そして大切な人っていうのは社長でも同僚でもクライアントでもなく、家族だなと思った。
(だから、家族を養うために馬車馬のように働くっていうのはわかる。)

先日一緒に泡盛を飲んだ人が割と同意見で。東京で弁護士をしているからてっきりそっちの価値観だと思っていたので、ああそうなんだ、と思った。働いて一旦退いた人はそうなのだろうか、なんて思ったりする。


もう一つ、変わったこと。
私はプライドが高いということにちゃんと気づいたということ。薄々知っていたけどちゃんと自覚したということ。
今でもまあ高いのだけど、これを挫きたいのだ。自分なんて全然大したものじゃないのだから。とるに足りず、力もなく、病気や怪我でもすれば動けなくなり、っていうことを学んでいる。驚くべきことに、大したものでもないくせに、プライドなんか持っているのだからつまらない。
目指すのは「ミンナニデクノボートヨバレ」ても「イツモシヅカニワラッテイル」人なわけだから。聖書にも、仕える人でありなさい、とある。
また、聖書に「さばいてはなりません。さばかれないためです」という言葉もある。これも響く。私ときたら、とるにたらないもののくせに人を評価していたのだ。
という気づき。


少しずつしか進めないのだということも学んだ。忍耐。私の嫌いだった言葉だ。
「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」(聖書 ローマ人への手紙5:3~4)

少しずつ学んでいこうと思う。

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