June 28, 2009

記号と再現性とその先にある共有について

音楽を聴いていて、ふと楽譜を思った。

楽譜というのは、ある一定の決まりごとの下、音の配置を示した一つの言語ではないかと思って。
それというのは、何のためにあるかというと、音楽をいつでも誰でも再現できるようにするためなのだと思って。
同じ楽譜を正確に読んで弾けば、同じものが再現できる。
厳密に言えばそれは全く同じものを再現できるわけではないのだけれど、何百年も前にモーツァルトの演奏した音楽を、今多少の誤差はあるにせよほぼ同じ状態で再現でき、その音楽に身を任せることができるということの浪漫というのは、あるなと思って。

で、 その音楽をCDで聴いていたわけだけど、CDというのもまた記録媒体というのか、CDが演奏をしてくれるわけでもCDを楽器のように鳴らしているわけでも なくその記録された信号で音を、また楽器ではないスピーカーで再現しているというそのことが、なんかものすごいことだと思って。いや、当たり前のことなん だけど、つまりものすごいということが当たり前なんだけど、そう思ったのだった。

あらゆる言語や信号というのは再現のためにあるのかもしれないなんて思う。お金もそうだ。一旦、一般的な記号に変換して、それを元に戻して、味わう。
そのための媒介物というか。
お金だったら、価値を、お金という記号に変換して、それを交換して価値を再現する。とか。


言葉を使うというのは、自分の体験した何かの感情や出来事や考えたことを相手に再現させるためにあるとも言えるのではなかろうか。伝えるというのは再現するということ?その先に共有があるというのはわかるけれど。

そう考えると、いつでも、どこでも、誰でも、という流れは、再現ということへの情熱であり、その先にある他者との共有への情熱なのやもしれぬ、とか。思ったりする。

人間には共有の欲求が、結構根源的な欲求としてあると思っていて。や、学問的なことはよく知らないけど体験ベースで。
覚え書き。

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