June 28, 2009

記録について。主に写真を材料に。

picasaで写真を整理していると、その写真を撮ったその時一緒にいた人とか、その時考えていたこととか、気分とか、そういうのがぼやーっと蘇る。

例 えば台場のきりんを撮ったのは1度や2度ではないけれど、その時付き合いそうになっていた人が一緒であったり(今思えばこれがミステイクだった)、バイト の同僚が福岡から電話をかけてきていたり、会社の先輩が一緒だったり、家族が一緒であったり、もちろん一人であったり。まあ一人が圧倒的に多いけど(台場 は一人に限る。誰かと一緒に来れたらいいのにと思いながら一人で歩く台場が一番いいのだと最近気づいた)。
その時それぞれできりんはそこにいるのだけど、どのきりんがどの時のきりんかというのは撮った本人にしかわからなくて。
それはその時の気分と一緒になって写真の中に封じ込められていて、なんでもかんでもひもづいていて、それはそれでいい。

ひもづいている、というのはすごく便利だ。何かは何かからの連想で思い出せるから。
ひもづける、というのが結構好きだ。

た とえば2008年の4月のことを思い出したい時には、ブログの2008年4月のエントリをざっと眺めれば大体何があったか、少なくとも頭の中で何があった かというのは思い出せる。データが文字となって表示され、文字が文章を構成し、文章が意味をもって私に認識され、その認識がひもづいた記憶を意識に浮上さ せるなどというプロセスを経て。
それは自身固有の特殊なひもづけであるかもしれない。
私がたまに書くあのメモエントリなる単語の羅列は、連想による記憶の呼び起こしを可能にする最小限ver.の記述である。
書いてしまえば安心して忘れられる。記憶のバックアップである。
そうして、このブログは存在意義の一を全うする。


そうやって考えていくと、なぜ私はいちいち記録しておきたいのかしら、と、思う。
何かを考えたこと、学んだこと、経験したこと。
行った店、場所、展示、本、音楽。

我々は、残しておけないものを記録しておくことに、多くの時間とお金を費やしている気がする。音楽なら楽譜やデータで、思考なら文章で、料理ならレシピで、映像ならデータや写真で。
それは他者との共有の目的もあるし、自分の足がかりのためでもあろうと思う(つまり記録しておけば思い出すことが簡単になって次のステップへ行きやすいということ)。
で、それ以外のなんというか、もっと情緒的なものというのがあると思う。感情やなんかを写真や音楽にひもづけたりすること。
それを狙ってする記録は、過去の感情に浸りたいときが将来あるであろうことを予見して、しているのかもなあ。無意識だけど。

私は写真を携帯で撮るのが常なのだが、携帯越しの景色というのは、当たり前のことだがあまりにチープだ。それにいつも気づいていなければならないと思っている。
写真もメモエントリの単語の羅列と同じように、記憶や感情を想起させる単なる最小限の記述なのであって、そこでの体験をおろそかにして写真を撮ることに時間を費やし過ぎてはならない。写真は決め打ちで数枚。よし。以上。


あ、補足。
記録としての写真と、芸術としての写真は、その目的の違いに応じて自ずと撮る時の態度も変わってくる。証拠保全としての写真も、説明のための写真も、それぞれ。

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