June 28, 2009

猿である。名前はまだない。
いや、あるのかもしれないが、関知しない。名前などというのはものすごく他者本位なものである。名前をつけられる方が知らなくても或程度までは通用する類のものである。もしかしたら、全然知らない名前でどこかでは呼ばれてるのかもしれないのである。ハムの人、とか。
と思ってるかどうかは知らないが、名前。


「名前って何?バラと呼んでいる花を別の名前に変えてみても美しい香りはそのまま」
-------------ウィリアム・シェークスピア「ロミオとジュリエット」より

この文句は、「ロミオとジュリエット」を読んでいて知ったのではない。「ロミオとジュリエット」は読んだことがない。シェークスピアは「ベニスの商人」しか読んでない。
で、何で知ったかというと、大学時代に金城一紀の「GO」で知ったのである。なぜかハードカバーが2冊あるのである。なぜかっていうか、まあ確信犯的に2冊あるのだけど。初めて映画を一人で見に行ったのも「GO」だった。それはさておき。

そうだよな、と思った。名前にどれほどの意味があるのか。
名前がなくてもそれはそれ、その人はその人なのであって。バラの美しい香りは変わらないのだ。
肩書きだとか所属だとか人種だとか学歴だとか、何かのラベルを貼られたからといって、それを本人が無視することは可能だし、他がそれを無視しないとしてもそのことを無視していくことは理論的には可能だ。
とか思ったのだ。本作品を読まれた方ならわかるだろうけれど、なんというか、そういう感じの話なのだ。


でも。実は名前ってそういうものでもないのではないか、とも思えて。

人間は生まれたらすぐに名前をつけられる。
名前というのは、ものすごく本人が一番使うのに、基本的には本人が決めないのである。決める場合もあるにはあるのだけど、多分皆、それが本当の名前だと思っていないのではないか。生まれた時につけられたその名を、本当の名前だと思っているのではないか(サンプルなし)。

世 の親はやがて生まれ出でる子の名を何ヶ月も考え続ける。語感や画数や苗字とのバランスや世代や。何かにあやかったり一字もらったり。この子の幼少時代、大 人時代、老人になってからのいわば名前生活にも勿論想像をめぐらせて、この子に相応しい、しかも願いをもこめた、名をつけようとするのだろうと思う。

それは名前が、ほとんどの場合一生自分を認識することとなる言葉だからである。
その言葉は自分を表し、その言葉で呼ばれ、その言葉を幾度も書き、その言葉に少なからず愛着を持ち、やがては自らの子にその名から一つ受け継がせることになるやもしれぬのである。という、事の重大さを、皆が皆、身をもって知っているのである。多分。

更にはその名に合わせて自分が変わっていくこともあるのではないか。私が違う名をつけられていたら、このような自分にはなっていなかったかもしれない、というか確実になっていなかった気がするのである。

たまに名前を褒める人がいるけれど、それってすごくコアな部分を褒めていると思うのである。それが嬉しいか嬉しくないかはまた個人的な問題だけれども。嬉しい気がする。というか、好きな人に褒められたらたといその名前が気に入っていなくとも、嬉しいのかもしれないけど。

名前というのは、自分だけに与えられた、特別な言葉なのかもしれぬ。


前に人と人との関係について考えたときと同じことを考えた。
その関係にどんな名前をつけるか、どんな関係としてカテゴライズするのか、それは無視したり、名づけないこともできるけれど、どういう関係かということを名づけたりはっきりさせることによって、その関係性への両者の認識がそれによって変わってくるという話。

名づけるっていうのは多分そういうことだ。

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