June 28, 2009

遺産と我と

夏目漱石の「夢十夜」に、運慶が仁王像を彫っているのを見物しに行くという夢が出てくる。
漱石の生きる明治にはいるはずのない運慶が仁王像を彫っているのを、というか木の中から彫り出しているのを見て、漱石もまた家に帰って彫り出してみようとするものの、明治の木には仁王はいなくて、それで運慶が生きているのもほぼわかった、みたいな締めくくりである。

仁王像と、仁王像を彫った運慶と。
片や残り、片や滅び。

ということなどを考えていて、世界遺産というのは「遺産」なのだな、と思う。
昔誰かしらが産み出した、しかし今やその誰かは滅びてそれを遺した、ということなのだなと。
いや、当たり前のことかもしれないのだけど、私は言葉を深く吟味しないで使ってきているものだから、遺産っていうことを今まで大して考えたことがなかったのである。
今 は亡き誰かが遺したもの、だからこそ浪漫があるわけだな、なるほど。それをつくった人がいなくなったのに、それだけが残っているという点が。「その穴ぼこ は二つのことを教えてくれる。かつて何かがそこにあったことと、今はないということ」みたいなことを本多孝好氏が書いていた、たしか。

最近昔の手紙を読んで思ったのは、昔の自分が今はいないということで。
最近親から、小さい頃私が窓に腰かけてずっと歌っていたということを聞かされて(全く覚えていない)思ったのもそういうことで。
当時の自分を思い出せなくて、会ってみたいけど会えなくて。
昔書いたもの、記憶、そういった過去に関するものものというのはひとつ、広義でいえば遺産といえる気がする。

そ こで、自分が何かを「産み」出しただろうか、と思った時に、何一つ自分じゃ産み出していないのだよなと思う。考えも言葉も何もかも、模倣と受け売りとでで きている。文章を書いているとよくわかる。すべてはすでにあったこと。日の下に新しいことは一つもない。まあ、定義の問題になるのかもしれないけれど、し かし厳密に言えばやはり産み出してはいないのだろうと思う。


自分探しの旅はもうお腹いっぱいではあるけれどこれもまた片手に提げ た継続問題であって。旅だって相対的な問題だ。定義の問題だ。みんな旅人だといえば旅人だし、そうでないといえばそうでない。多かれ少なかれ、生きるため に何かしらは考えて生きていく。生きるっていうのはものすごく本能的なモチベーションで。なんなんだ。おや、脱線した。

最近、昔友人と交わした会話を思い出す。

「感情には意味があると思う」
「無いよ。感情は電気信号だよ。」

私とはものすごく違う価値観を持った、むしろそのゆえに私に多大な影響を与えた友人である。
我思う、ゆえに我ありとな。我の定義問題にまたしても帰着する。我は電気信号であろうか。
宮沢賢治は詩集「春と修羅」の序でこう言う。

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わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
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