June 28, 2009

「なぜ」について

「なぜ」という発問には複数の意味があるなと思っていた。

「なぜ、葉は緑なのか」
と いう発問には、葉が緑に見える「原理」を問う、という意味がある。どのようにして葉は緑色に見えるのか、という意味。その答えは葉緑体の話だとか、光の波 長の話だとか、人間の眼の細胞の話だとか脳の話だとかに帰着するだろう。それは、そうなっているから、という状態の説明になる。
一方で、葉が緑である「目的」を問う意味も見つけることができる。なぜ赤でも黄色でもなく緑なのか、という意味。なんのために緑なのか。その答えはきっと出ない。推測の域を出ない。

もう一つ例を出すならば、「なぜ、人は生きているのか」という発問には、人がどのようにして生きているのか、という意味もあるけれど、何の目的で生きているのかという意味の方が多数であろう、と思う。


「なぜ」と問いを発する上で、それらは区別されなければならない。気がする。
「原理」を問うている場合、答えは全部はわからないかもしれないが、いくつかはきっと出せる。
しかし「目的」を問うている場合、その答えはそれをした者にしかわからない。たとえば「なぜ山に登るのか」を、山に実際登る人に聞けば、その目的をもっているはずだから、わかる。でも「なぜ葉が緑なのか」を問うても、葉を緑にした者に聞かなければわからないわけだ。
さらに悪いことに、それをした張本人にすらわからない場合もある。「なぜ生きているのか」などはそのよい例であると思う(ちゃんと目的を持った人も勿論いるけれど)。
これは、その発問の質の違いである。「原理」か「目的」か。
(もっとバリエーションがもしかしたらあるかもしれない。)


そ してさらに、その主体、つまり、それをしたのか、それともさせられたのかというのは、結構判断がつかない。例えて言うなら、生きているのか、生かされてい るのか、ということである。それらは別に相反するわけではないしどちらも正解と(つまり生きていると同時に生かされているとも)いえるわけだけど、目的を 誰が持っているのかということを考えるにあたっては、一応区別しないといけないのかもしれない。まあ目的も主体に応じて複数ありうるわけか。
これは、主体の違いである。


よく、「なぜ」を考える時、主に仕事をしていたとき感じていたことだけど、例のWhy5回っていうやつを実践するときに、どうも質の違う話が混じってくるし、主体の違う話が混じってくるので、気持ち悪いなと思っていたのだった。
それで暫定で整理してみた次第。
もう少しいい整理の仕方を思いついたらまたし直すかもしれない。


余談。
こ の整理癖というのは、いいのか悪いのかよくわからない。実益があるのかないのかという話。自分のすっきりのためにはいいのだけど、仕事だと周りもその話に 巻き込んでしまうので、実益が見つけきれないとこの整理癖を出すわけにはいかない。まあ結構やってしまっていたけど。ふむ。


このことを考えるに至った前提というのは、自然科学と法学の違いを考えていたことにある。
自然科学にはその「原理」を問う発問と、「状態としての答え」があるのに対して、法学には「目的」を問う発問とそれに対する法律や制度を作った者の「政策的答え」があるのだ、ということを思いついて。

自然科学は自然を相手にしているから、「目的」の発問をしようとしてもその目的をもっているはずの主体が見当たらず、これをしようとするときには哲学とかの守備範囲になってくるのかもしれない。
そ して法学が「目的」の発問をしてその答えが出るのは、法律が人間の作ったものつまり主体が明確にあってその意図を問うことができるというところに理由があ るのだな、ということ。別に法学で「原理」の発問をしてもいいけど、それはあまり問題にならない。それはわかりきってるからだ。(厳密に言えば、原理を読 み解くという部分もあるにはある。制度理解という意味で。)

この対象の質の違いだな、と思ったのだった。

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