June 28, 2009

偶然について

偶然について。

昔、偶然の対義語が必然だということに違和感があるという話を雑記的に書いたことがあった。
ちゃんと調べてみる。
偶然:①思いがけないこと。予想できないこと。②ふと。たまたま。はからずも。
必然:①必ずそうなること。②必ず。きっと。
(角川最新国語辞典)

私なんかはこの意味を見てもやっぱり、対義語ではないと感じる。だって両立するではないか。「偶然」というのはその人が意図していなかった、予想していなかったことで、「必然」というのはその主観とは全く別に、必ずそうなること、なのだ。

たとえば、三条大橋の上で「偶然」Kちゃんに会った、ということがあった。これは、私もKちゃんも意図していなかった、予想していなかったので「偶然」である。
し かし、私がその時刻に三条大橋の南側を西から東に歩いていてA地点に到達し、Kちゃんが同じ時刻に三条大橋の南側を東から西に歩いていてA地点に到達した という客観的事実があったら、それは「必然」的に出会うのである。そしてさらに、その時刻にその場所にいたというその事実は、その前の瞬間瞬間の事実の積 み重ね(例えばその30分前にはどこにいて、15分前にはどこで、3分前にはどこで、1分前にどこでという時間的場所的な事実とか、周囲を見物しながら散 策しようとか橋を渡ろうという意思決定だとか)の上にあるわけだ。それはそういうルートをたどれば、つまりそういう条件下では、「必然」的に「三条大橋の 上でKちゃんに出会う」という事象が起こるということになるが、それと同時に私もKちゃんもそれを予想していないから「偶然」出会ったということになっ て、その両者は全然相反しないことだと思う。我々の出会いは、「偶然」であると同時に「必然」であった。

と、ここまでは定義の話。だから、「偶然」と「必然」というのはそもそも立ち位置が違う話で、別にかぶりうる、と思う。
そして、その意味で、というか、その辞典に載っていた意味なら「偶然」というのは勿論あると思う。意図していないことや予想していないことなんてたくさんある。


対 義語だと言われてわからなくなっていたのは、仮に対義語であったとした場合、「必然」に相対する状態というのはどういうことだ、と思ったということ。そん なものありうるのか、ということ。少なくとも、見たことはない。そういう意味で、物事は起こるべくして起こる、と書いた。

これはあらかじめシナリオが決まっていて、皆その通りに動いているのだというニュアンスではない。究極的にその結論に行く可能性はあるとしても、今のところそこまで考えてはいない。
あ る事象は、膨大な事実の積み重ねの上に成り立っているというただそれだけのことが言いたかっただけである。今この時刻に私がパソコンに向かってこの文章を 打ち込んでいるという事象も、今までにあったすべての事実の積み重ねの上に成り立っているのであってそれのどれ一つが欠けても、成り立たない。というそれ だけのこと。そして今この文章を打ち込んでいるという事象はそれら事実があれば、つまりその条件下では確実に起こったであろうということで「必然」なのだ ということ。
だいたい、一つ条件が欠けたり異なったりした場合というのは、実際起こっていないんだから観測のしようが無いのである。それがつまり、「必然」に相対する状態がない、ということ。
昔タモリがプレゼンターをやってた「IFもしも」って番組があったけれど。あれなんかは一つ条件が違えばそのあとにおこることが変わってくる、みたいなのを扱ったドラマだった。なんかこわかったけど。ああやって想像はできるけど、観測はできない、厳密には。


つまりはその緻密な事実一つ一つの積み上げが驚異的だと思う、ということ。別に驚異的ともなんとも思わない人もいるだろうし、それはそれで自由だろうと思う。


で、「偶然」というのは「必然」ありきで、かつ「必然」の意味を押し上げる働きをしている気がする。
た とえば電車の中で席を譲ったおばあさんがいて、次の日浅草でお店に入ったらそのお店の主で、さらにその孫が大学の同期だった、なんてことがあったとしよ う。なんだか「浅からぬご縁」を感じたりしてそのことを友人に話したら、「そんなの偶然でしょ」っていわれたりすると思う。「すごい偶然だね!」もあるか もしれないけど。
前者は、「そんなの予想してなかっただけでしょ」っていう意味で、後者は「すごい思いがけないね!意図してないのにすごい ね!」っていう意味だけどこの違いは評価の違いだ。で、これらは「必然」つまりそうなっている事実やそれまでの因果関係がまずあって、そしてそれを予想で きなかった人に対する低い評価(前者)または、それらが人の予想や意図を上回っていることに対する驚嘆(後者)だと思う。


で、テーマと離れるけどついでにいうなら、神を数式で表すことについて。神は人知を超えているものというのを定義として含んでいるのであり、数式で再現できると置くこと自体が定義と矛盾している気がする。
というか、そもそも数式で再現できるものがあるのだろうか。数式以外に。数式は数式であって、それ以上でも以下でもない。コップも人間も数式でいくら表したところでそれはコップや人間ではない。単に名前をつけたい、表現したいだけならもう「神」という言葉がある。

再現ではなく証明に関しては、好みの問題というか、性質とかタイミングとか、まあ個人的な問題だと思う。程度問題とも言う。
前も書いたけど、「信じる」っていうのは根拠はないけどエイヤで飛び込む行為である。つまりばっちり証明されたら成り立たない行為だと思う。証明されていたらそれは「確認する」ということになると思う。証明されてないから「信じる」のである。
ただ、厳密にいえば根拠はあると思う。根拠まったくなしに何かを信じるというのは難しいし、逆に何でもそうだけど、絶対っていうのはほとんどない、と思う。結局、やっぱり、程度問題だということ。
地 方に住んでいる人が、東京タワーが存在する、ということを信じていたとしてその根拠は、前にテレビで見たから、くらいのものだろうと思う。テレビが東京タ ワーと称してエッフェル塔を映していない事実とか、テレビ局がジャックされてなかった事実とか、そういういろんなことを証明していかないと信じないという わけじゃない。
だから、何を見て、聞いて、感じて、どの程度で信じるかという話だろうと思う。私はこの世界を見たり、先の事実の積み重ねを見たりして信じうるとも思っている。それだけではないけれど。
目で見ないと信じない人もいれば、数式で表現されないと信じない人もいる、そういうことだ。
「神は人を正しい者に造られたが、人は多くの理屈を捜し求めたのだ。」(伝道者の書7章29節)
「あなたは妊婦の胎内の骨々のことと同様、風の道がどのようなものかを知らない。そのように、あなたはいっさいを行なわれる神のみわざを知らない。」(伝道者の書11章5節)


で、少しずれるけど、そんな人達は概念的なものはどうやって信じてるんだろうか。とか思う。信じる基準はなんなのか。
たとえば皆、数という概念は認めるのに。
私は「1」を目で見たことはない。1という字は見たことがある。1個のリンゴも見たことはある。でも「1」はない。でも「1」という概念の存在は当たり前のように信じて生きているのだと思う。というか、認めて。だからはじめて見た果物とかでも、1個と数えるのだ。
また、私は「優しさ」を目で見たことはない。でも当たり前のようにその存在を認めて生きている。
ああ、また存在とは何かって話だ。概念は存在するのか?存在の定義は?

もう一点。宗教についてはまだまだ勉強する必要があるけれど、宗教というのは生きる上で必要だから生まれたものだと思う。数がそうだったように。
そして私もまた、生きて行く上で必要だから、これを考えている。

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