早稲田への愛を発揮したにもかかわらず、野球は敗戦で。
背脂いっぱいのラーメンを食し。
そのあとホテルの最上階のバーでの夜景はやけに象徴的で。
ビル群が眼下に見え、そのすぐ上をぼうっとした空気が覆い、その上に澄んだ空が広がり、黄色く赤い大きな月が浮かび。
そういう風景をジャズの生演奏を聴きつつ酒を飲みつつ観るという贅沢より、なんとこの地上が天に比べて小さいのだろうという確信のようなものの方が心を捉え。
これを見ながら、この景色から感ずるものを共有できる誰かと、人生観なり世界観なりあらゆる考察をとことん語れればいいのに、と思うと共に、そんなことは無理なのかもしれないと思い、とても寂しくなる。
私はもっといろいろなものを見るべきで、もっといろいろ考えるべきで。
酒はほんの少し酔うためだけに必要で。
音楽もとことん考えるという場面ではむしろ邪魔で。
もやがかかったビル群の海の上に浮かぶ低い月が、何かを象徴的に表していて。
同じ月が本物の海の上に浮かぶ月や、砂漠の上に浮かぶ月と重なり。
私がここにいる状況と、そこにいる状況を是非比べてみたいと思い。
重要なものを何に置くかということが時に危うさを含むものとして認識され。
今ここにいてバーボンを飲んでいる、つまりリッチな時間を過ごしているという事実よりも、この月が地球上のどこでも今現在認識されており、私がそれを観測しているのがたまたま東京のビル群の上であるという事実の方が遥かに重要だと評価している、と自覚する。
酔いながら、この感覚を覚えておかねばならないと、細かなタスクをこなしながらおぼろげに意識していた。
時 間軸というものを意識しながら、名も知らぬ外国人のトランペット奏者を見る。彼はあのとき私の目前でトランペットを情熱的に吹いていたのに、今この瞬間は きっと眠りについているかもしれないし、あのときトランペットの演奏に聴き入っていた観客の一人は、パソコンの画面に向かい、酔った頭で捉えようのない何 かをなんとか文字に起こそうとしている。
昨日の時計はありません、今日を打つのは今日の時計。
その名言が何を言わんとしているのかがわかるような気がした10月の終わりのこと。
時間軸のことは、改めて書く。
June 19, 2009
価値観について
価値観について。
価値観とは(goo辞書より)
「いかなる物事に価値を認めるかという個人個人の評価的判断。」
よく価値観の違いだということで議論を収束させることがある。
このブログでも、ある。
さっき集合知の話を書いていて、いろいろな情報が集合してDB化して、ある考え方やデータを検索できるようになるんじゃないかと思っていて、ていうかそれをgoogleなんかはしようとしてるんじゃないかと思うんだけど。
そのなかで、やっぱり価値観が違ってくるというのはあって、日本人の中でも結構違ったりするし、国が違えばもっと違ってくるんじゃないかと(言語が違うから思考方法も違ったりするかもしれないし)。
価値観ってなんだ、と思って。
ちなみに、価値観についての本はたくさん出ているけど、私は読んだことがないので言及できない。
いつもそうだけど、基本的には自分が肌感覚で感じたことから自分の頭の中(今までの経験)だけでつくった考えをこのブログでは述べているし、何かの本や誰かの考え方を焼きなおす場合は、その旨明記していると思う。多分。
なので、これに書いてあったよね、とかいうこととか、これで言われてることと違うんじゃないの、ということはままあるのでご承知置きいただきたい。とかいうのはサイドバーの方に書いておくべきなのかもしれないけどまあいいや。
なので、専門的にどのような議論があるのかは知らないけど、なんとなく、その価値観というか判断基準には、先天的なものと後天的なものがあるんじゃないかと思った。
性質みたいなものと、環境に影響を受けるもの。
まったく同じ刺激しか与えないで育った二人の人間というものがおそらく作為的にそう育てる場合しかありえなくて、つまりありえなくて。なのでこれを証明できるかと言われればわからないんだけど、でも先天的という言葉があるくらいなので、そういうのがあるんだろうと思う。
でもそれってどのくらいのバリエーションがあるのだろうと思う。
もし、その先天的なものを捨象していいのだとすれば、あとは後天的なものだから、自分がこういう経験をしてそこからこういうことを考えて、という説明をし、それを相手が多少なりとも理解すると、価値観が共有できたりするんじゃないかという気分。
たとえば。
レ・ミゼラブルのジャンバルジャンがパンを盗んだという事件で。
彼がものすごく貧しくて、おなかがすいて死にそうだったりした、という情報が作品中にはあるわけだけど(たしか)、この情報があるのとないのとでは評価が異なってくるのと同じで。
こういうことがあってそしたらこうなったことがあったんだ、とか、そのときこう言われてこう思ったのだ、とか、ある事例というか情報をその評価の際に添えられるのだとしたら、やはりわかりあえる度が違ってくると思う。
そこには相手にわかってもらいたいという情熱(自己の価値観に対する分析とか、表現力とか、情報の開示とか)と、相手をわかりたいという情熱(よく話を聞くこととか、イマジネーションとか)が必要で、その労力をもし惜しまなければ、割と平和になるんじゃないかと思う。
多分経験してることが大幅に食い違っていると、その分多く説明を必要とするから、めんどくさくなるんじゃないか。それを「価値観が違う」と言っているのではないか。という推測。
先天性の議論はちょっと知らないので捨象しています。
価値観のボーダーすらもしかしたら越えられるかもね、と思ったということ。
価値観とは(goo辞書より)
「いかなる物事に価値を認めるかという個人個人の評価的判断。」
よく価値観の違いだということで議論を収束させることがある。
このブログでも、ある。
さっき集合知の話を書いていて、いろいろな情報が集合してDB化して、ある考え方やデータを検索できるようになるんじゃないかと思っていて、ていうかそれをgoogleなんかはしようとしてるんじゃないかと思うんだけど。
そのなかで、やっぱり価値観が違ってくるというのはあって、日本人の中でも結構違ったりするし、国が違えばもっと違ってくるんじゃないかと(言語が違うから思考方法も違ったりするかもしれないし)。
価値観ってなんだ、と思って。
ちなみに、価値観についての本はたくさん出ているけど、私は読んだことがないので言及できない。
いつもそうだけど、基本的には自分が肌感覚で感じたことから自分の頭の中(今までの経験)だけでつくった考えをこのブログでは述べているし、何かの本や誰かの考え方を焼きなおす場合は、その旨明記していると思う。多分。
なので、これに書いてあったよね、とかいうこととか、これで言われてることと違うんじゃないの、ということはままあるのでご承知置きいただきたい。とかいうのはサイドバーの方に書いておくべきなのかもしれないけどまあいいや。
なので、専門的にどのような議論があるのかは知らないけど、なんとなく、その価値観というか判断基準には、先天的なものと後天的なものがあるんじゃないかと思った。
性質みたいなものと、環境に影響を受けるもの。
まったく同じ刺激しか与えないで育った二人の人間というものがおそらく作為的にそう育てる場合しかありえなくて、つまりありえなくて。なのでこれを証明できるかと言われればわからないんだけど、でも先天的という言葉があるくらいなので、そういうのがあるんだろうと思う。
でもそれってどのくらいのバリエーションがあるのだろうと思う。
もし、その先天的なものを捨象していいのだとすれば、あとは後天的なものだから、自分がこういう経験をしてそこからこういうことを考えて、という説明をし、それを相手が多少なりとも理解すると、価値観が共有できたりするんじゃないかという気分。
たとえば。
レ・ミゼラブルのジャンバルジャンがパンを盗んだという事件で。
彼がものすごく貧しくて、おなかがすいて死にそうだったりした、という情報が作品中にはあるわけだけど(たしか)、この情報があるのとないのとでは評価が異なってくるのと同じで。
こういうことがあってそしたらこうなったことがあったんだ、とか、そのときこう言われてこう思ったのだ、とか、ある事例というか情報をその評価の際に添えられるのだとしたら、やはりわかりあえる度が違ってくると思う。
そこには相手にわかってもらいたいという情熱(自己の価値観に対する分析とか、表現力とか、情報の開示とか)と、相手をわかりたいという情熱(よく話を聞くこととか、イマジネーションとか)が必要で、その労力をもし惜しまなければ、割と平和になるんじゃないかと思う。
多分経験してることが大幅に食い違っていると、その分多く説明を必要とするから、めんどくさくなるんじゃないか。それを「価値観が違う」と言っているのではないか。という推測。
先天性の議論はちょっと知らないので捨象しています。
価値観のボーダーすらもしかしたら越えられるかもね、と思ったということ。
50
自己分析の一環として、人生の中でこれがしたい、ということを50個挙げてみた。
50個ってなかなか多くて、でも書いてみると意外にあるもので。
50個の一番最初は「親より長く生きる」である。
そのあとに「盆栽をやる」であったり「ウィーンフィルを聴く」であったり「自分でパンを焼いて朝食にする」などがある。
やりたいことなので、書いているうちに上がってくる。わくわくというか。
ネバーランドに行く前に、嬉しいことや楽しいことをウェンディ達が思い浮かべたように。その場面のせいで毎週日曜にやっていたハウス名作劇場のピーターパンがとても好きだった。
で、50個の最後は「守るものを見つける」である。
先日友人と夜を徹して語り合った際に、ちょうどこの話題が出て。
私は頭の片隅にこの50の項目があって、また、リンクした、と思った。
彼は守るものがほしいのだと言った。生きている意味について話していたときだ。
彼のイメージするそれは、さしあたって家庭であった。
私も「守るもの」として自分の家庭というのは想像していたけれど、それは家庭だけではないのだろうなと思った。たとえば何かの目標だとか。姿勢だとか。理念だとか。ある人でも、物でもいい。伝統でも。
守るものがある人は強い。
私が両親を尊敬しているのは、その点が大きいのではないかと思う。
ブログで何かしら考えていて、これはこうだからこうなっているのだと説明を試みるのだけど、それは的外れなことも多いのだろうと思う。最終的には、元々そういう風になっているのだということに辿り着く。つまり本能的なものだ、という結論。
感情がなぜ発生するのか。
そんなことわからない。わからないけどみんなどうにかこうにかやっている。
ただそこにある事実を受け入れるのみで、それに対応できるように作られているのだから、考えることはむしろ対応する速度を遅くしたり、対応できなくなってしまったりさせる弊害がある。
と、昨日の帰り道思っていた。歩いていて、歩くということは詳細に分析するとここの筋肉をこう収縮させて上へ持ち上げ後ろ足で地面に圧力を云々。そんなことを考えて歩いてる人なんていない。アシモとかを作ってる人たちくらいなものだ。
私たちはどうやって歩いているのかわからないまま歩く。
多分それと同じだと思う。
どうやって、なぜ、を考えることは時に有益だけど、時に有害で的外れだ。
生きている意味を考えること然り。
何のために生きているかわからないまま、生きる。そういうものだ。
デフォルト死んでいると思ってるの?とデフォルト生きていると主張する人に聞かれた。たしかにいつの間にかそう思っていた。キリスト教的、宗教的なのだろうか。
50個ってなかなか多くて、でも書いてみると意外にあるもので。
50個の一番最初は「親より長く生きる」である。
そのあとに「盆栽をやる」であったり「ウィーンフィルを聴く」であったり「自分でパンを焼いて朝食にする」などがある。
やりたいことなので、書いているうちに上がってくる。わくわくというか。
ネバーランドに行く前に、嬉しいことや楽しいことをウェンディ達が思い浮かべたように。その場面のせいで毎週日曜にやっていたハウス名作劇場のピーターパンがとても好きだった。
で、50個の最後は「守るものを見つける」である。
先日友人と夜を徹して語り合った際に、ちょうどこの話題が出て。
私は頭の片隅にこの50の項目があって、また、リンクした、と思った。
彼は守るものがほしいのだと言った。生きている意味について話していたときだ。
彼のイメージするそれは、さしあたって家庭であった。
私も「守るもの」として自分の家庭というのは想像していたけれど、それは家庭だけではないのだろうなと思った。たとえば何かの目標だとか。姿勢だとか。理念だとか。ある人でも、物でもいい。伝統でも。
守るものがある人は強い。
私が両親を尊敬しているのは、その点が大きいのではないかと思う。
ブログで何かしら考えていて、これはこうだからこうなっているのだと説明を試みるのだけど、それは的外れなことも多いのだろうと思う。最終的には、元々そういう風になっているのだということに辿り着く。つまり本能的なものだ、という結論。
感情がなぜ発生するのか。
そんなことわからない。わからないけどみんなどうにかこうにかやっている。
ただそこにある事実を受け入れるのみで、それに対応できるように作られているのだから、考えることはむしろ対応する速度を遅くしたり、対応できなくなってしまったりさせる弊害がある。
と、昨日の帰り道思っていた。歩いていて、歩くということは詳細に分析するとここの筋肉をこう収縮させて上へ持ち上げ後ろ足で地面に圧力を云々。そんなことを考えて歩いてる人なんていない。アシモとかを作ってる人たちくらいなものだ。
私たちはどうやって歩いているのかわからないまま歩く。
多分それと同じだと思う。
どうやって、なぜ、を考えることは時に有益だけど、時に有害で的外れだ。
生きている意味を考えること然り。
何のために生きているかわからないまま、生きる。そういうものだ。
デフォルト死んでいると思ってるの?とデフォルト生きていると主張する人に聞かれた。たしかにいつの間にかそう思っていた。キリスト教的、宗教的なのだろうか。
忙しいについて
よく見るブログで忙しさについて考えていたので、触発というか便乗というかそういうので書いてみようかと思う。
そこで設定されていたのは、忙しいことが善か悪か、という命題であるが、善悪の判断の問題というのは苦手分野で、まず善とは何ぞや、悪とは何ぞやという話になる。
そ もそも、昔々は道徳というものは無かったであろうと思われる。すなわち善や悪という概念も無かったであろう。ただ単純に、快と不快があったのではないだろ うかと思う。善とか悪とかというものは、やはり他者があってのものだと直感する。それは他者からの評価であると考えるからだ。
だから他人の快とするところがすなわち善であり、不快とするところが悪、それなら話は簡単であるし、納得がいく。けれども、そういうわけではないらしい。快であっても悪だったり、不快であっても善であったりするらしい。
例として思いつくのは。
本屋が青少年に有害図書を売ると、青少年にとっては快であってもそれは悪と評価され、犯罪になる。何か悪いことをやった子どもを叱ることは子どもにとっては不快であるけれども善である。とか。
じゃあ何を基準に善とか悪とか言ってるのだろう。
そこが解せない。
お そらくはその行為の対象者(先の例では青少年や子ども)だけでなく、その周辺の人々の快不快をも含めて評価しているということなのだろう。と思う。青少年 の親とかは本屋が有害図書を青少年に売ることによって暴力的な子になったりすることに不利益なり不快を被るわけで、また子どもの周囲の人たちは彼彼女が叱 られて悪いことをしなくなることによって利益なり快を得る、ということなのだろうかと。もっといえば、最大多数の最大幸福のような。それ基準で善悪を決め ているのではないかと推測する。
善なり悪なりを決める基準を仮にそういうものだと置くことにする。
で、やっと本論に戻る、忙しさは善か悪か。
忙しさの定義を例のブログの筆者は「時間が足りないと感じる心理状況」と置いている。
先の善悪の仮定話でいくと、善か悪かはその本人だけでなく他者、周辺をも巻き込むものだから、それらで分けて考える。
本人。
焦燥感、切迫感、圧迫感は彼彼女にとっては大きなストレスとなるだろう。体力的にも負担は大きい。健康を害する。嫌だと感じる。これがデメリット。
メリット。そのスキルが高いにしろ低いにしろ、自分のキャパシティを超えるか超えないかの量の仕事を負担しているわけで。容量いっぱいの仕事をしているから、自分が成長するに効率がよい環境であるとも評価できる。
他者。仕事と全く関係の無い他者。たとえば恋人や家族や友人。
デメリット。本人と共有する時間が減る。コミュニケーション不足に陥り関係が劣化する。
メリット。その本人が成長することによって魅力的になるかもしれない。話が面白くなったり給料が上がったり頑張っている姿を素敵に感じたり。
仕事と関係のある他者。
デメリット。忙しいことによるコミュニケーション不足で関係の劣化。
メリット。片付く仕事の量が増える。その本人がスキルアップすることにより仕事の質も上がる。
漏れが多い気がそこはかとなくしていますが。
つ まりは、メリットとデメリットのどちらを重視するのかという話にやはりなるのであろうと思われて、こういう検討を詳細にしていくと、個人的にはどういった 事柄でも価値観の問題に辿り着くと思っていて、それを決めるだけの精神力というか自信というか拠り所というかそういうものがまだ無い。いつも言っている善 悪の判断がつかないというのはそういうことである。ずるい話ではある。
一般的に、忙しいことは美徳であると考えられている、というのは最近揺らいではいるものの事実まだそうだろうと思う。肌感覚では。
ということは世間一般の人の多数は、メリットの方を重視しているということなのだろうか。成長に重きを置いているということなのだろうか。と推測する。
その個人の成長なり仕事なりが社会全体にとってプラスになるから、つまり世間一般の人々にとってプラスになるからという利害関係もあるかもしれないと思う。単に自分より忙しくない人をうらやんだりねたむ気持ちの裏返しだという推測もできる。
先に仮定した善と悪の判断基準、それに拘泥するのもどうかとは思っていて。
つまり最大多数の最大幸福を基準にすることが。
だって自分の人生じゃんとかも思うわけです。
善か悪かっていう命題自体への疑問ですね。
自分のメリットデメリットだけを考えてもいいんじゃないかとふと思ったりする。
そしてもう一点、忙しい自体が程度問題だという問題もあります。
過労死寸前なのか、1日使ってデートをする暇が無いなのか、単に残業が1,2時間あるなのか、とか。
仕事内容もそうだろうとは思う。成長できる仕事内容なのか、ルーティンワークで忙しいのか。
で、結局私も結論は出せないわけで。
何にせよ、中庸がいいと思うわけです。結局。
そこで設定されていたのは、忙しいことが善か悪か、という命題であるが、善悪の判断の問題というのは苦手分野で、まず善とは何ぞや、悪とは何ぞやという話になる。
そ もそも、昔々は道徳というものは無かったであろうと思われる。すなわち善や悪という概念も無かったであろう。ただ単純に、快と不快があったのではないだろ うかと思う。善とか悪とかというものは、やはり他者があってのものだと直感する。それは他者からの評価であると考えるからだ。
だから他人の快とするところがすなわち善であり、不快とするところが悪、それなら話は簡単であるし、納得がいく。けれども、そういうわけではないらしい。快であっても悪だったり、不快であっても善であったりするらしい。
例として思いつくのは。
本屋が青少年に有害図書を売ると、青少年にとっては快であってもそれは悪と評価され、犯罪になる。何か悪いことをやった子どもを叱ることは子どもにとっては不快であるけれども善である。とか。
じゃあ何を基準に善とか悪とか言ってるのだろう。
そこが解せない。
お そらくはその行為の対象者(先の例では青少年や子ども)だけでなく、その周辺の人々の快不快をも含めて評価しているということなのだろう。と思う。青少年 の親とかは本屋が有害図書を青少年に売ることによって暴力的な子になったりすることに不利益なり不快を被るわけで、また子どもの周囲の人たちは彼彼女が叱 られて悪いことをしなくなることによって利益なり快を得る、ということなのだろうかと。もっといえば、最大多数の最大幸福のような。それ基準で善悪を決め ているのではないかと推測する。
善なり悪なりを決める基準を仮にそういうものだと置くことにする。
で、やっと本論に戻る、忙しさは善か悪か。
忙しさの定義を例のブログの筆者は「時間が足りないと感じる心理状況」と置いている。
先の善悪の仮定話でいくと、善か悪かはその本人だけでなく他者、周辺をも巻き込むものだから、それらで分けて考える。
本人。
焦燥感、切迫感、圧迫感は彼彼女にとっては大きなストレスとなるだろう。体力的にも負担は大きい。健康を害する。嫌だと感じる。これがデメリット。
メリット。そのスキルが高いにしろ低いにしろ、自分のキャパシティを超えるか超えないかの量の仕事を負担しているわけで。容量いっぱいの仕事をしているから、自分が成長するに効率がよい環境であるとも評価できる。
他者。仕事と全く関係の無い他者。たとえば恋人や家族や友人。
デメリット。本人と共有する時間が減る。コミュニケーション不足に陥り関係が劣化する。
メリット。その本人が成長することによって魅力的になるかもしれない。話が面白くなったり給料が上がったり頑張っている姿を素敵に感じたり。
仕事と関係のある他者。
デメリット。忙しいことによるコミュニケーション不足で関係の劣化。
メリット。片付く仕事の量が増える。その本人がスキルアップすることにより仕事の質も上がる。
漏れが多い気がそこはかとなくしていますが。
つ まりは、メリットとデメリットのどちらを重視するのかという話にやはりなるのであろうと思われて、こういう検討を詳細にしていくと、個人的にはどういった 事柄でも価値観の問題に辿り着くと思っていて、それを決めるだけの精神力というか自信というか拠り所というかそういうものがまだ無い。いつも言っている善 悪の判断がつかないというのはそういうことである。ずるい話ではある。
一般的に、忙しいことは美徳であると考えられている、というのは最近揺らいではいるものの事実まだそうだろうと思う。肌感覚では。
ということは世間一般の人の多数は、メリットの方を重視しているということなのだろうか。成長に重きを置いているということなのだろうか。と推測する。
その個人の成長なり仕事なりが社会全体にとってプラスになるから、つまり世間一般の人々にとってプラスになるからという利害関係もあるかもしれないと思う。単に自分より忙しくない人をうらやんだりねたむ気持ちの裏返しだという推測もできる。
先に仮定した善と悪の判断基準、それに拘泥するのもどうかとは思っていて。
つまり最大多数の最大幸福を基準にすることが。
だって自分の人生じゃんとかも思うわけです。
善か悪かっていう命題自体への疑問ですね。
自分のメリットデメリットだけを考えてもいいんじゃないかとふと思ったりする。
そしてもう一点、忙しい自体が程度問題だという問題もあります。
過労死寸前なのか、1日使ってデートをする暇が無いなのか、単に残業が1,2時間あるなのか、とか。
仕事内容もそうだろうとは思う。成長できる仕事内容なのか、ルーティンワークで忙しいのか。
で、結局私も結論は出せないわけで。
何にせよ、中庸がいいと思うわけです。結局。
寂しいについて
なんだかいろいろあって、昨日は1時間睡眠のままここまで起きている。
寝た方がいい、それはたしかにわかっています。
1時間寝たというより1時間気を失って、はっと気がついて午前中から友人と会った。夕方に彼女と別れて一人カフェへ行った。最近一人カフェは毎日のようにしていて、たまに2軒以上行ってしまっている。主に時間を潰したり本を読んだりするために。
カフェに着いた頃には憔悴していたが、少し物を考えることくらいはできた。しかし文章を追うものの、頭には入ってこない。優れて美しい文章である本だったので、この状態で読むのは勿体無く思い、手を動かして気づいたことをメモをすることにした。
私が来る前から隣の席に座っていたカップルは、つい最近私も受けた試験の論文について議論をしていた。勉強会をしているようだった。
その会話や様子が月並みながらもいろんなものを思い起こさせて、ただでさえ憔悴していた私はまた厭世観というかそういうものに襲われたわけである。
「寂しい」と思うのは何故だろうと考える。
いやその前にむしろ「寂しい」とは何かを検討すべきだ。
そのための資料として「寂しい」を感じるのはどのようなときかという傾向をつかむべきだろう。
「寂 しい」を感じるとき、それは、失われたものを思うとき、そこにあるべきであると思っているものを思うとき、なのではないかと思う。時間、空間、人、動物、 物体等々、それらが「有る」と観念された経験と今ここに「無い」という事実との対比。特に思い入れがあるものについて。
「喪失感」と似ているけど、「喪失感」のように、かつて持っていたことは要件ではなくて、有ると観念されたことがあるとういうことが要件である。たとえば恋人がいたことがない人については、「喪失感」はなくとも「寂しい」はありうるという意味。
で、「寂しい」とは何か。
そこに有るべきものがない、という観念の下に発生し、その有るべきものを欲することを伴う感情。その感情を超えたところに諦めなり探究なりのスタンスはあると思われる。
なぜ「寂しい」という感情が発生するのか。
本能的に人間は、「持っている」ことによって満足しもしくは満足に近づく。生物一般についてそうなのかもしれないけど。
脱線するが、この「本能的」という言葉は本当はあまり使いたくない。本能的というのはそこから先の思考を放棄しているからだ。生物の構造上そうなっているのだ、と決めてかかることだから。検討の余地が無い。でも、仕方ない。
で。
持っていないよりも持っていた方が生きていく上ではより安定的だからだろうか。と考える。
一方で人間は持つのをやめることをしたりする。そこではしかし物質的な何かを捨てる代わりに何かを手に入れていて、それによる満足を得ていたりするのかもしれない。物を捨てると空間が手に入るように。恋人がいなくなると一人の時間が増えるように。
どちらの状態を「有る」と認識するかの問題なのかもしれない。一般的には目に見えて「有る」ものを追いがちではあるけれども。
では、「寂しい」という感情がネガティブなものになって生活に多少なりとも支障を与えていると感じる場合、どのように克服すればよいか。
上述より、①有るべきもの、という観念を放棄すること、または②「有る」という認識を逆にしてみること、の二つの方法が考えられる。
多分二つとかじゃないとは思う。
でも
眠すぎる。
寝た方がいい、それはたしかにわかっています。
1時間寝たというより1時間気を失って、はっと気がついて午前中から友人と会った。夕方に彼女と別れて一人カフェへ行った。最近一人カフェは毎日のようにしていて、たまに2軒以上行ってしまっている。主に時間を潰したり本を読んだりするために。
カフェに着いた頃には憔悴していたが、少し物を考えることくらいはできた。しかし文章を追うものの、頭には入ってこない。優れて美しい文章である本だったので、この状態で読むのは勿体無く思い、手を動かして気づいたことをメモをすることにした。
私が来る前から隣の席に座っていたカップルは、つい最近私も受けた試験の論文について議論をしていた。勉強会をしているようだった。
その会話や様子が月並みながらもいろんなものを思い起こさせて、ただでさえ憔悴していた私はまた厭世観というかそういうものに襲われたわけである。
「寂しい」と思うのは何故だろうと考える。
いやその前にむしろ「寂しい」とは何かを検討すべきだ。
そのための資料として「寂しい」を感じるのはどのようなときかという傾向をつかむべきだろう。
「寂 しい」を感じるとき、それは、失われたものを思うとき、そこにあるべきであると思っているものを思うとき、なのではないかと思う。時間、空間、人、動物、 物体等々、それらが「有る」と観念された経験と今ここに「無い」という事実との対比。特に思い入れがあるものについて。
「喪失感」と似ているけど、「喪失感」のように、かつて持っていたことは要件ではなくて、有ると観念されたことがあるとういうことが要件である。たとえば恋人がいたことがない人については、「喪失感」はなくとも「寂しい」はありうるという意味。
で、「寂しい」とは何か。
そこに有るべきものがない、という観念の下に発生し、その有るべきものを欲することを伴う感情。その感情を超えたところに諦めなり探究なりのスタンスはあると思われる。
なぜ「寂しい」という感情が発生するのか。
本能的に人間は、「持っている」ことによって満足しもしくは満足に近づく。生物一般についてそうなのかもしれないけど。
脱線するが、この「本能的」という言葉は本当はあまり使いたくない。本能的というのはそこから先の思考を放棄しているからだ。生物の構造上そうなっているのだ、と決めてかかることだから。検討の余地が無い。でも、仕方ない。
で。
持っていないよりも持っていた方が生きていく上ではより安定的だからだろうか。と考える。
一方で人間は持つのをやめることをしたりする。そこではしかし物質的な何かを捨てる代わりに何かを手に入れていて、それによる満足を得ていたりするのかもしれない。物を捨てると空間が手に入るように。恋人がいなくなると一人の時間が増えるように。
どちらの状態を「有る」と認識するかの問題なのかもしれない。一般的には目に見えて「有る」ものを追いがちではあるけれども。
では、「寂しい」という感情がネガティブなものになって生活に多少なりとも支障を与えていると感じる場合、どのように克服すればよいか。
上述より、①有るべきもの、という観念を放棄すること、または②「有る」という認識を逆にしてみること、の二つの方法が考えられる。
多分二つとかじゃないとは思う。
でも
眠すぎる。
立ち位置
物質的な立ち位置、すなわち今実際にいるその地点が、全ての個々人で違うのと同じように、あるいは同じことが絶対にありえないように、精神的な立ち位置とでも言おうか、そういうのが同じと言うことはありえないのだということを、改めて感じるのは秋のせいかもしれなくて。
今日、もう昨日だけど、試験の発表の日だった。
それぞれがそれぞれの立場で試験の結果を受け入れたり受け入れられなかったりしていると思う。
私は。
随分遠くに来てしまっていて、ああそうか、私もその試験を受けたんだったと思い出す。
あの会場。ペットボトル。チョコレート。あのとき必死で皆と試験を受けたこと。結果がダメだとわかっていても皆と一緒に受けたかったこと。そしてあのプレッシャーと連帯と孤独と極限を体験したこと。
そうやって思い返して、友人からの報告を受けたり情報を得たりするうちに、泣きそうになる。
今、私は、あのときとは全然別のことをしている。
はっきり言って、全然共有できない。完全に余所の世界で起きている出来事。
そのことにものすごい寂しさを覚える。あの日々やあの人々の世界から離れてしまっていることに。私はあの人たちやあの世界が好きだった。
今、すごくひとりぼっちだと思う。
もう受かって検察官をやってる友人からメールが来る。もう一年受けないのかと言われる。
何度も聞いた助言。誰もが同じことを言う。勿体無い。
わかるよ。わかるけどさ。頭から試験に受かることが至上命題のような言い方をされるのは気に食わない。受けないことが逃げのような。ドロップアウトのような。
そういった社会的な地位とか物事について、それが得られないと世界が終わるというようなことは、一切無い。無いのだよ。
試験に受からないといけないというプレッシャーは、有能な人材を潰す。有能な人材の貴重な時間と精神力を削る。周りを見ていて本当にそう思った。
意味のない絞りをかける、本当にくだらない制度だと思う。弁護士なんて、技術的にはそんなたいした仕事じゃない。少なくとも、あの院行ってれば誰でもできる。
志を高く。
目線を正しく。
というのは物産の社訓かなんか。うまいこと言う。
そう、目線を正しく。
今やりたいこと。やっていること。考えていること。
バイトにも慣れてきた。
今やろうとしていることが、無謀に近いことはわかっている。決まらなければ今年一年を棒に振ることになるかもしれない。そういう意味での不安はある、もちろん。故郷にもそろそろ帰りたい。帰ってきなさいと強く言われたら帰ってしまうかもしれない。
今やりたいことを友人に説明しようと情熱を傾けてみることがある。伝わる人と、伝わらない人がいて、伝わらない人に関して、冒頭のようなことを思う。
立ち位置が日本とブラジルのように正反対で、まったくその事柄について共通点が無いのだろうと。でもある経験をすれば、その瞬間地球を突き抜けてすごく近いフィールドで話ができるようになるかもしれないと。
それまでは仕方ない。
伝えることを諦めたくはないけど、伝わらないこともある。多分、タイミングの問題だ。
伝わらないと、やっぱり自分が荒唐無稽なことを話しているように感じる。そういう意味で自信はなくなったり不安になったりする。
しかしいずれにせよ、人生という長期計画においては、やっていける自信があるし、不安は無い。それはおそらく誰でもやっていけるのだろうと思う。
やっていけるというのは、たとえば死というものがあったとしてもそれは人生の一部で。今死んでも、それはそれでいいと思える。そういう意味で、やっていけると思う。
そう考えると、重大なことなんてそんなにない。死ぬより重大なことは今のところ見つけていない。
遠回りかどうかなんて人生が終わってみないとわからない。
就活やバイトで経験してることや出会いだけでもたくさん得てるものがあると思うし。
今、楽しいし。やりたいことやれてるし。それが一番だと思う。
よく見ているブログから久々に引用。
----------------------------------------------------------------
手垢にまみれた慣用句や常套文句は人間を思考停止するのに最適なツールだと、かの筒井氏は「言語姦覚」で看破した(少しニュアンス違うかも)。
----------------------------------------------------------------
然り。
手 垢にまみれた言葉が多すぎて、その言葉の表すところを実際に体験してそれを伝えようとするときに、その言葉がありきたりに出回っていることによって、結局 伝えられない。ただの慣用句や常套文句の繰り返しや焼き直しになっていることがよくあって、それはもどかしい思いをするのである。伝わってるのかわからな い。
たとえば、先の「人生が終わってみないとわからない」とか。
その言葉が言葉として機能せずに、ある記号としてぺらっと貼られてそこで思考停止する。
人生が終わるときをイメージして、そこで本当に描き上げた一枚の絵を細部までしみじみ眺めて、ああ、と思っている風景。それが伝えたいイメージで。
つまり、今は絵を描いてる途中で。
そこにもし試験という猫か何かが描けなくても、絵は立派に成立する。もちろん、猫を大きく描きたい人はそうすればいい。それも立派な絵になりうるし、それが彼彼女の人生ならばそれもまた素晴らしい。
でも、猫を描くのに失敗しても、上から絵の具は塗れるし、描くのは必ずしも猫じゃなくていいのだということだ。
今日、もう昨日だけど、試験の発表の日だった。
それぞれがそれぞれの立場で試験の結果を受け入れたり受け入れられなかったりしていると思う。
私は。
随分遠くに来てしまっていて、ああそうか、私もその試験を受けたんだったと思い出す。
あの会場。ペットボトル。チョコレート。あのとき必死で皆と試験を受けたこと。結果がダメだとわかっていても皆と一緒に受けたかったこと。そしてあのプレッシャーと連帯と孤独と極限を体験したこと。
そうやって思い返して、友人からの報告を受けたり情報を得たりするうちに、泣きそうになる。
今、私は、あのときとは全然別のことをしている。
はっきり言って、全然共有できない。完全に余所の世界で起きている出来事。
そのことにものすごい寂しさを覚える。あの日々やあの人々の世界から離れてしまっていることに。私はあの人たちやあの世界が好きだった。
今、すごくひとりぼっちだと思う。
もう受かって検察官をやってる友人からメールが来る。もう一年受けないのかと言われる。
何度も聞いた助言。誰もが同じことを言う。勿体無い。
わかるよ。わかるけどさ。頭から試験に受かることが至上命題のような言い方をされるのは気に食わない。受けないことが逃げのような。ドロップアウトのような。
そういった社会的な地位とか物事について、それが得られないと世界が終わるというようなことは、一切無い。無いのだよ。
試験に受からないといけないというプレッシャーは、有能な人材を潰す。有能な人材の貴重な時間と精神力を削る。周りを見ていて本当にそう思った。
意味のない絞りをかける、本当にくだらない制度だと思う。弁護士なんて、技術的にはそんなたいした仕事じゃない。少なくとも、あの院行ってれば誰でもできる。
志を高く。
目線を正しく。
というのは物産の社訓かなんか。うまいこと言う。
そう、目線を正しく。
今やりたいこと。やっていること。考えていること。
バイトにも慣れてきた。
今やろうとしていることが、無謀に近いことはわかっている。決まらなければ今年一年を棒に振ることになるかもしれない。そういう意味での不安はある、もちろん。故郷にもそろそろ帰りたい。帰ってきなさいと強く言われたら帰ってしまうかもしれない。
今やりたいことを友人に説明しようと情熱を傾けてみることがある。伝わる人と、伝わらない人がいて、伝わらない人に関して、冒頭のようなことを思う。
立ち位置が日本とブラジルのように正反対で、まったくその事柄について共通点が無いのだろうと。でもある経験をすれば、その瞬間地球を突き抜けてすごく近いフィールドで話ができるようになるかもしれないと。
それまでは仕方ない。
伝えることを諦めたくはないけど、伝わらないこともある。多分、タイミングの問題だ。
伝わらないと、やっぱり自分が荒唐無稽なことを話しているように感じる。そういう意味で自信はなくなったり不安になったりする。
しかしいずれにせよ、人生という長期計画においては、やっていける自信があるし、不安は無い。それはおそらく誰でもやっていけるのだろうと思う。
やっていけるというのは、たとえば死というものがあったとしてもそれは人生の一部で。今死んでも、それはそれでいいと思える。そういう意味で、やっていけると思う。
そう考えると、重大なことなんてそんなにない。死ぬより重大なことは今のところ見つけていない。
遠回りかどうかなんて人生が終わってみないとわからない。
就活やバイトで経験してることや出会いだけでもたくさん得てるものがあると思うし。
今、楽しいし。やりたいことやれてるし。それが一番だと思う。
よく見ているブログから久々に引用。
----------------------------------------------------------------
手垢にまみれた慣用句や常套文句は人間を思考停止するのに最適なツールだと、かの筒井氏は「言語姦覚」で看破した(少しニュアンス違うかも)。
----------------------------------------------------------------
然り。
手 垢にまみれた言葉が多すぎて、その言葉の表すところを実際に体験してそれを伝えようとするときに、その言葉がありきたりに出回っていることによって、結局 伝えられない。ただの慣用句や常套文句の繰り返しや焼き直しになっていることがよくあって、それはもどかしい思いをするのである。伝わってるのかわからな い。
たとえば、先の「人生が終わってみないとわからない」とか。
その言葉が言葉として機能せずに、ある記号としてぺらっと貼られてそこで思考停止する。
人生が終わるときをイメージして、そこで本当に描き上げた一枚の絵を細部までしみじみ眺めて、ああ、と思っている風景。それが伝えたいイメージで。
つまり、今は絵を描いてる途中で。
そこにもし試験という猫か何かが描けなくても、絵は立派に成立する。もちろん、猫を大きく描きたい人はそうすればいい。それも立派な絵になりうるし、それが彼彼女の人生ならばそれもまた素晴らしい。
でも、猫を描くのに失敗しても、上から絵の具は塗れるし、描くのは必ずしも猫じゃなくていいのだということだ。
受容
秋冬に人が寂しくなるのは、単なる温度の変化のせいなのかもしれないなと少し思った。
他の人はどうか知らないけど、夏の暑いさかりに手をつないで歩くという行動があまり好きでないし理解できない。
いや、暑いだろう。
しかしそこにはきっと、不快を超えた何かがあるのだろうと思う。
BUMP OF CHICKEN「スノースマイル」より
「冬が寒くって 本当に良かった
君の冷えた左手を
僕の右ポケットに お招きするための
この上ない程の 理由になるから」
実は、人のポケットにつないだ手を入れるという行動も理解できない。
しかし、冬に手をつなぎたくなるのはわかる。体温のシナジー。
それが傍らに人がいないと寂しく感じる理由なのではないかと考える。
隣に寄り添う人がいれば暖かいし、話せば体温も上昇する。それがないことが寒さにつながり、側に人がいればいいのにという気持ちになり、寂しいという気持ちになる。
仮説。
一年中寂しがってる人はたくさんいると思うけど、季節間の相対的な問題として。春夏より秋冬が寂しい理由。
先日、友人といろいろ話していて、受容しすぎるということを指摘された。
どんなに相手がダメになっても、それを見捨てたりするのではなく、ただ受容する。それは相手のためにならない、という話。相手はどんどんダメになる。私はそれを看過する。
江國香織の「ぼくの小鳥ちゃん」という作品の中で、主人公の「僕」が昔の小鳥ちゃん(スズメだった)に指摘されたことを回想するシーンがある。
多分どこか引用エントリで書いた。
あった。
http://kasokusuru.blogspot.com/2007/06/blog-post.html
でももっかい引用。
「―― 一羽の小鳥として、私ががまんならないとおもうあなたの欠点を教えてあげましょうか。」
「―― 欠点?」
「―― あなたはうけいれすぎるのよ。」
「―― いけないことかな。」
「―― ときどきとても淋しくなるの。」
相手が受け入れすぎると感じて寂しくなったことがあったから、この引用はしてあったんだけど、自分がそう指摘されるまで気づかなかった。
多分実際、なんでも受容してしまうんだろうなと思う。確かにその傾向はあって、同じようなことを言われたことがたしかにある。
それは、相手を拒絶しない、という意味の受容であり、その相手に心から共感するとか親身になるとかいうことではない。ただそのままをそのままとして善し悪しの評価をすることなく事実を受け入れることである。責任をおわないこと。悪く言うと「どうでもいい」ということ。
いい悪いの評価をするということはその評価について責任を負うことだと思う。
何かをした方がよい、しない方がよい、そのままではいけない、その他諸々のアドバイスは、そのアドバイスによって決定された事項について責任を伴う。それを追求されようがされまいが。
自分の立場を明らかにしないことが賢いやり方だと悟ったのは高校のときで、それは塾のある先生の模倣だった。
今の自分の立ち回りはそのときの先生の影響がベースになっていると思う。
結 局決めるのは自分だからね、というのはどこでも使われるフレーズで、実際その通りなんだけど、自分の場合それをエクスキューズとして使っていたことは否定 できない。その人の人生はその人が選び取るもの、それは当たり前のことだけど。その一言で、自分は情報だけを伝えた、決定に関しては責任を負わないよとい う一種の意思表示であろうと思う。
受容することが悪いことなのかどうかは、判断できない。
その友人は、それは良くないことだというニュアンスで言っていたけど、じゃあ見捨てた方がいいのか、拒絶した方がいいのか、そういう緊張感をその人は私に求めているということなのか。
でもどっちにしても受容しかできないとは思う。
そうか。と。
否定も肯定もない。だから拒絶するだけの理由がない。
評価をすることで責任を負いたくないという理由は多分あったけど、今はそれより善悪の評価ができなくなっているということの方が大きい理由な気がする。
昔 から、何が悪いのかは、それが悪いと言う理由ではなく、人に怒られるから、人が困るからという理由で悪いと認識していた。だから悪とは何ぞやというのはわ かってない。それには幼少の頃から薄々感じていて、それが劣等感でもあった。心からその事実のみを捉えて、悪と思えないこと。
みんなそんなもんだよ、と言うかも知れない。けどそうでない人たちを知ってる。
見切り発車でいつも書いてしまう。
もうちょっと考える必要がある。どんどんリンクしてって手に負えない。
他の人はどうか知らないけど、夏の暑いさかりに手をつないで歩くという行動があまり好きでないし理解できない。
いや、暑いだろう。
しかしそこにはきっと、不快を超えた何かがあるのだろうと思う。
BUMP OF CHICKEN「スノースマイル」より
「冬が寒くって 本当に良かった
君の冷えた左手を
僕の右ポケットに お招きするための
この上ない程の 理由になるから」
実は、人のポケットにつないだ手を入れるという行動も理解できない。
しかし、冬に手をつなぎたくなるのはわかる。体温のシナジー。
それが傍らに人がいないと寂しく感じる理由なのではないかと考える。
隣に寄り添う人がいれば暖かいし、話せば体温も上昇する。それがないことが寒さにつながり、側に人がいればいいのにという気持ちになり、寂しいという気持ちになる。
仮説。
一年中寂しがってる人はたくさんいると思うけど、季節間の相対的な問題として。春夏より秋冬が寂しい理由。
先日、友人といろいろ話していて、受容しすぎるということを指摘された。
どんなに相手がダメになっても、それを見捨てたりするのではなく、ただ受容する。それは相手のためにならない、という話。相手はどんどんダメになる。私はそれを看過する。
江國香織の「ぼくの小鳥ちゃん」という作品の中で、主人公の「僕」が昔の小鳥ちゃん(スズメだった)に指摘されたことを回想するシーンがある。
多分どこか引用エントリで書いた。
あった。
http://kasokusuru.blogspot.com/2007/06/blog-post.html
でももっかい引用。
「―― 一羽の小鳥として、私ががまんならないとおもうあなたの欠点を教えてあげましょうか。」
「―― 欠点?」
「―― あなたはうけいれすぎるのよ。」
「―― いけないことかな。」
「―― ときどきとても淋しくなるの。」
相手が受け入れすぎると感じて寂しくなったことがあったから、この引用はしてあったんだけど、自分がそう指摘されるまで気づかなかった。
多分実際、なんでも受容してしまうんだろうなと思う。確かにその傾向はあって、同じようなことを言われたことがたしかにある。
それは、相手を拒絶しない、という意味の受容であり、その相手に心から共感するとか親身になるとかいうことではない。ただそのままをそのままとして善し悪しの評価をすることなく事実を受け入れることである。責任をおわないこと。悪く言うと「どうでもいい」ということ。
いい悪いの評価をするということはその評価について責任を負うことだと思う。
何かをした方がよい、しない方がよい、そのままではいけない、その他諸々のアドバイスは、そのアドバイスによって決定された事項について責任を伴う。それを追求されようがされまいが。
自分の立場を明らかにしないことが賢いやり方だと悟ったのは高校のときで、それは塾のある先生の模倣だった。
今の自分の立ち回りはそのときの先生の影響がベースになっていると思う。
結 局決めるのは自分だからね、というのはどこでも使われるフレーズで、実際その通りなんだけど、自分の場合それをエクスキューズとして使っていたことは否定 できない。その人の人生はその人が選び取るもの、それは当たり前のことだけど。その一言で、自分は情報だけを伝えた、決定に関しては責任を負わないよとい う一種の意思表示であろうと思う。
受容することが悪いことなのかどうかは、判断できない。
その友人は、それは良くないことだというニュアンスで言っていたけど、じゃあ見捨てた方がいいのか、拒絶した方がいいのか、そういう緊張感をその人は私に求めているということなのか。
でもどっちにしても受容しかできないとは思う。
そうか。と。
否定も肯定もない。だから拒絶するだけの理由がない。
評価をすることで責任を負いたくないという理由は多分あったけど、今はそれより善悪の評価ができなくなっているということの方が大きい理由な気がする。
昔 から、何が悪いのかは、それが悪いと言う理由ではなく、人に怒られるから、人が困るからという理由で悪いと認識していた。だから悪とは何ぞやというのはわ かってない。それには幼少の頃から薄々感じていて、それが劣等感でもあった。心からその事実のみを捉えて、悪と思えないこと。
みんなそんなもんだよ、と言うかも知れない。けどそうでない人たちを知ってる。
見切り発車でいつも書いてしまう。
もうちょっと考える必要がある。どんどんリンクしてって手に負えない。
Subscribe to:
Posts (Atom)