June 27, 2009

080726

書こうか。

天王洲アイルから永田町へ。永田町から八丁堀へ。八丁堀から赤坂へ。赤坂から台場へ。
今日はよく移動した。
それらの場所で、採血や閲覧や訪問や会食や散歩をした。

初めて会う人が二人いた。一人は紺の浴衣を着ていた。

台 場の空は都会の反射で赤く明るく、そこには黒い木々の葉やその梢がよく映えた。光を減ずると色が減ることを我々は経験的に知っていて、赤い空に黒い木とい うような、黒と何かの色の組み合わせは脳にとって刺激的なのかもしれない。プレミアムモルツのCMやシン・シティの映像が印象的なのもそのせいな気がす る。
色が減ると言ったのは、黒も色に含めているからだけど、光との関係でいえば黒は色ではないのかもしれない。非色。吸色。

帰り道にはくるりが歌っていた。




天王洲アイルは空いていて、カフェでお昼を食べながら、さけチーはモッツァレラに似ているから、代用にしていつかトマトパスタに入れてみようと思いついたのはそもそも食しているパスタがモッツァレラチーズの部分以外不味かったからだった。

会った感想を初対面の人にその場で言われることの久々。ちなみに感想は「息子の嫁に」で、言った彼女は27だった。光栄だ。


鎌倉の仏像の話から派生して、人の形をした造形に存在する何かしらと、それを求める心理について。キリスト教やイスラム教は偶像崇拝を禁じている。
ともすれば、人間は像をつくる。形にすることで信仰や意識の対象を選択し集中させているのだろうか。目的を明確にわかりやすく、つまり目に見え手でさわれるようなものに具現化したいのか。
カトリックのマリア像はOKなのか、プロテスタントの十字架はどうなのか。象徴はどこから象徴なのか。メタファーとしてのあしか。

そ もそも、なぜ偶像崇拝を禁じたのか、というのは、私の理解では、像を崇拝することによって像それ自体を独自の神として作り上げてしまい本来の神のことを歪 曲したりそむくようになるから、という理由かと思っている。それに像が神のように扱われることによる不都合(たとえば継承・所有の争いとか傷をつけたら何 だとか)もあるのかもしれない。

個人的な意見としては、何かを通して神を見る、というのはありなのだと思う。人間が使える手段は限られているから、目に見え耳に聞こえ手でさわれるものを通して神を見るというのは至って当然だとも思う。
ただ殊に人の形を模ったものは概して感情移入しやすいし、それ自身を神と信じこんでしまいやすいのかもしれない。人や像を信じるのではなくその先にいる神を信じるのだ、と強く思っていないと難しい。
私は割とアニミズムぽい考え方をもっていると思う(かといって虫も殺さないというわけではない)(人間が虫を殺すのは生態系の一部だと思う)。ので台場の木々の梢にもそれを見出すことはある。けど像を拝もうとはまだ思わない。
先日仏像に圧倒された経験は大事にしたいけど、多分あれを通して神を見るとするならば、ああいうものを作り上げた人間の情熱や、その人間を生み出し生かしているという点において神をみるのだと思う。あれに何かが込められているのは本当だと思う。


人間がつくった一流の物たちについて。
マッカラン18年の上質なストーリー性。ロードスターの「ワクワク感」ZOOM ZOOM。
こういうことが真のホスピタリティなのだと思う。し、黙っていいものをつくる、というのが格好いい。
最高の体験価値。


期待していないつもりなのに、少し傷つくことがある。
価値を出せないことに悩んだりするのは何も対仕事だけではない。

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