June 27, 2009

書くことについて

昨日mixiのメッセージで結婚の報告を受けて、その子は日記でも対友人にそうやって報告をしていて、そういう時代なのだよなあと思う。ブログ然り。

人間関係について、とか、文章について、とか、人生について、とかいろいろなことを思考して残してきたし、それで私の思考していることのコア(とはいえせいぜい2割程度だとは思うけれど)を、このブログでは勝手ながら開示してきた。

2割というのは、開示してすぐに後悔する文章は書きたくない(または置いておきたくない)という方針があるからである。
ブ ログや日記を公開することに羞恥の感情は無いのかと問われたことがある(それは何度も同じ人に問われている気がするけど)が、羞恥の感情が無いのではな く、許容できる範囲のものを書いているというまでで、さらに記録しておく必要性や、コミュニケーションの基礎・意見を求める際の契機としての開示の必要性 がそれを上回ると思われるものについて書いているというのがおそらく書いている理由だろうと思う。
要は自身の記録と、自身を知ってほしいという自己顕示欲の現れだと思う。
文 章を書くのが自慰行為だというのは言い方の適否は置いておいて、当然ある程度そういう性質を持っているものだと思っていて。ある文学部出身の友人が(退学 したが)教授に皆の前で「君の文章は自慰行為なんだよ」と罵倒されたというエピソードは結構強烈に印象に残っていて、それを思い出す度に、そういう性質を 持たない文章はないとは思う。その教授の言わんとするところは、「専ら」ということなのだろうけど。
文章を書くという行為に限ったことではなく、人間のほぼ全ての行動に当てはまってしまうのかもしれない。
文章においてこのようなことが殊更に言われるのは、文章は人様に見せるものであるというのを前提にしていて、そのようなものである以上読み手に配慮して然るべきということなのだろう。

まあ読み手を意識しない文章というのはありえない気もしていて、そういう批判を加えるのはいつも読み手なのであり、「意味は読み手が持ち寄るもの」ということや、「価値は周りが決めるもの」という友人たちの箴言も思い出されるところではある。

mixi日記もブログも、その位置づけというのはこういった読み手の評価とそれをどれだけ書き手が気にするかという点に尽きる。

つまりはmixiにしろブログにしろ、結婚を報告できるのはうらやましいという話。

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