June 27, 2009

信じること

最近、信じるということについて考える。
その契機というのは宗教であり、「こころ」であり、自身の行く末について思いを馳せることである。
「スタンスについて」という最近のエントリは、信じるということを意識している、実は。あれは相当に言葉足らずなエントリで正確さには大分欠けるのだが、とりあえず言いきってみたかった。

こうしてブログをやっていて、何かについていろいろと考えたりするけれども、結構生きる上でコアになる素材はたくさんある。信じるというのも一つ、大きなものだと思う。
「信じる」という動詞がある、ということがなんとなくすごい。


特に何かトラウマ的なものが思い当たるわけではないが、信じるということがどうも苦手だった。臆病なのだった。何かを信じて、でも本当はそうじゃなかったらどうしよう、と思うのだった。
私がどっちつかずのスタンスをとるようにしていたのも、できるだけ自分の納得したものを選びたいという気持ちと共に、どちらに転んでも振れ幅が少なくて済む、つまりショックを最小限に抑えるためのリスクヘッジだった、ともいえる。

以前、君には自信と覚悟が足りない、と言われたことがある。
これはそこと繋がっていると思う。
自 信は自分の考え方が正しい、自分に価値がある、という自分に対する信頼だし、覚悟というのはたとえそうでなかったとしても(たとえそうでないとの評価を人 から受けたとしても)そのショックを受けとめること、責任をとること、又は自分の考えでよいと居直れること、だと思う。


スタンスを決める、信じるためには根拠が必要だと思っていた。信じるための根拠を、そして信じられない根拠を、探していた。
しかし信じられない根拠はいくらでも出てくるし、結局信じられない根拠を克服しない限り信じることができなくて、それってば結局信じないことに縛られているのではないかと気づいて。なんだか立証責任の話に似ているけど。

人が何かを信じるとき、というのは、根拠はほとんど効果をもっていないなと思う。
目をつぶって飛び込むことなんだなと。


でも、そんなに大げさに決意することではないのかもしれなくて。
私たちは常に些細な何かを信じながら生きているよなと思って。
信号が赤ならあの車は発進しないだろう、とか。天気予報で晴れだっていうなら晴れなんだろう、とか。メールでこの日時に会議って言ってたからあの人は来るだろう、とか。スーパーの営業時間は21時までって書いてあったからまだ開いてるだろう、とか。
目をつぶって飛び込んでいるわけではなくても、小さく信じながら軽いステップで実は生きていて。
勿論、それらの信頼が裏切られることはあって。でもそんなに裏切られた!みたいなのはなくて。晴れっつってたのに、でもまあ傘買うか、みたいな。
そういう軽い感じで信じられたらいいよなぁ、と思う。

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