June 27, 2009

創作について

創作について

少し近い過去に、近所のサイトである企画があった。自前の文章を持ち寄るというもので、そのようなテキストサイトのコミュニティに属したことがないので、新鮮だった。

そこでは作者は実部と虚部のいずれかの部門を選択して、ある程度のまとまった文章を差し出すことになっていた。
これだけブログで日常を綴っているのだから、それは実部で参加するのに決まっていると思っていたのだが、なんだか改まってしまいどうしても書けない。そのうち実と虚の区別をどこですればよいのか、判断がつきかねるようになった。いつものことだ。

結局かなり断片的な文章を書いて見切り発車的に出してしまったのだが、いくつかその前に書きはじめていた話があった。
それはさっきテキストファイルの整理をしていて出てきたのだけど、私にはまったくの創作というものができないのだと思い知る。言葉は確信から、確信は経験から来るのだ。私の場合。
小説を書いている人々というのは、どうやってあの世界を紡ぎだしているのだろうと思う。前に友人が言っていた、本当に頭のいい人は体験せずに真理にたどり着くと。そういう人々なのだろうか。
成果しかしらない。過程が知りたい。


少しアングルがずれるが、江國香織が、なぜ書くか、という質問に答えているエッセイがある。「泣かない子供」に収録されている。
どうしてもそこに行ってみたくて、というのが彼女の答えだ。行ってみたら行ってみたで前後左右もわからず後悔する、と。それでも自分で歩いて自分で見て、自分で触ったものだけを書いていたいと。
想 像だが、彼女にとって書くことは見えるようにすることなのではないかと思う。表現していくことによって輪郭をはっきりさせていき、視界をどんどん広げてい く行為。それがエッセイでは実生活を、小説では頭の中の世界を、視界をクリアにしながら歩いて行っているのではないか。彼女が実生活と頭の中との区別を はっきりしているわけではなさそうなのだけど。

同書の中の「虚と実のこと」というエッセイで彼女はこう書いていて、私は納得した。
「受 賞後のインタビューのとき、お父様の影響は?とおなじくらいしばしば、どこまでがフィクションでどこまでがノンフィクションか、という質問をされた。そん なこと、作者にわかるわけがない。小説というのはまるごと全てフィクションである、と私は信じているし、それでいて、どんなに嘘八百をならべてみても、書 くという行為自体、作家の内部通過の時点で内的ノンフィクションになることはまぬがれない。そんなの、わかりきったことだと思う。」
「意識と無意識のはざま、現実と非現実の倒錯が、小説のエナジーだと思うのだ。」
私が上述の企画にあたり、文章を書こうとして立ち止まってしまったのはそういうことだったのかと思った。結局、虚部で出したのは正解だったのだと思う。


彼 女にとっては思い出もすでにフィクションで、ふと目を離すと思い出の中の彼女が動き出してしまうのだという。彼女はそうやって作品を生みだしているのだ。 行き当たりばったりに。そういえば彼女はあとがきで言っていた。正直なところ、生きていくのにいきあたりばったり以外に一体どんな方法があるのかわかりま せん。


綿密に計画を立てて、詳細な地図を作ってから出かける人もいるだろう。そういう風にしか書けないジャンルというのもある気がする。そういう風にして書く人の作業現場を見てみたい。フローチャートのようなものがあるのだろうか。

そういうわけで、私は創作ができる人を尊敬している。

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