June 27, 2009

雪と美と

朝ドアを開けたら廊下越しに見える雪。
寒さに嫌気がさしながらもなぜか心躍る朝であった。
会社は高いビルの一室にあるため、雪の降る地上を上から眺められた。圧巻であった。

なぜ水の粒よりも小さな氷の粒のかたまりのほうに心ときめくのだろうと考えて、文学作品や歌や写真や絵などからのイメージと、珍しいものという憧れと、色がついていることの3つくらいの理由を思いついた。


帰る頃にはもう雨すらあがっていた。
いつもの帰り道を歩く。仕事帰りの人や飲み会帰りの人が行き交う街。
いままでの生活圏ではなかった場所だが、もう大分慣れてきていて、慣れてきたなと思いだすように思って、それで沖縄と対比してみる。沖縄の道にはこういう人たちはいないし、こんなに数もいない。こんなに明るくないし、店もない。ビルも。
学部や院の友達もいないし、会社の人たちも、会社のビルの守衛さんも、同じ階の外人たちも、朝行くカフェや本屋の店員さんも、いない。
そしてこの街を行く見知らぬ人々もいない。

街を歩いていて思うのは、みんな知らない人なのだが、この人たちが好きだなということだ。この人たちがいて賑やかにしているだけで、多分私も楽しいのだ。ニョロニョロ。
人間は多分美しいのだ。人間だけでなく何もかもにあてはまるが。いや人間は醜いと言う者もある。しかし、美しいと醜いは相反しないと思う。美は醜を包含している概念であるように思う。私見。

会社の人が、
「認識されないまでも存在はしていたんだよ」
と 何かのタイミングで言ったのだが、認識されていないのに存在するということがありうるのだろうか、といつもの存在とは何か思考に入りかけた(結局そのト ピックはいつもつめられたことがない)のだが、美も認識(価値観)の問題である以上、常にその人の主観に依存している。美かどうかということも、美の存在 すらも。イデアなどむかしむかしの話なのかもしれないが、高校の倫理の時間にはわかっていなかったその発明の動機が今ならわかる気がするのである。

私が美が醜を包含すると思うのは、私が美しいと感じる感性がそのようなものであるというだけのことであって、それは私でなく誰がそれを論じてもあくまで私見にしかならないのかもしれない。


と、 行き交う人々を見てそう思っていたわけである。楽しく醜くも美しいなと。自分を客観的に見てもそう思う。自然にまかせて何かを思うときも、マネジメントで きない矛盾したいろいろな感情や感覚を発見するときも、自律が成功するときも。熱心なときも、無関心なときも。自分を美しいと思うというのは表現がよくな い。自分の感情変化が一番わかりやすいというだけのことで、おそらくは人間一般ということだ。逆に外部への表現行為に関しては自分ではよくわからないので 人を見て思う。


雪、または雪にまつわる何かは楽しく醜くも美しいものの一つかもしれないと思う。

美を感じる心と愛情は似ている。

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