June 27, 2009

窓の外

4月も終わる。5月病の季節。
葉桜が散って、細い銀杏の枝に薄い色の葉がどんどん増す。欅が爽やか。就業中のささやかな楽しみ。

さて、つい先刻、窓が好きなのだということに気づいた。
夜中に帰宅して、電気をつけずにカーテンを開けると外の灯りでほのかに明るく、窓をあけてぼんやり窓の外を見ていて、というのも、厳密には窓の「外」ではなくて、「窓の外」を見ていて。窓込みで。
ああ、これは沖縄にいたときに、よく眺めていた光景ではないかと気づいた。

沖 縄にいた数か月、勉強ができなくて、リビングの窓から、空や庭のパキラやクロキやらばかり見ていた。そのまま数時間過ごすこともよくあった。それはとても 穏やかでやるせなくて幸福だった、気がする。どこにも行けない感じ。行きたいところはあるのにそこはすごく遠くて決して行かれない。宇宙の彼方の遠い空間 に思いを馳せるのと似ていると、個人的には思う。リルケの一節に惹かれることがあるのもそういうことだろうと思う。

そう考えると、沖縄にニライカナイという言葉があるのを、よくわかる気がする。ニライカナイとは遠い理想郷であり、違う世界であり、なんだか懐かしさを伴う場所、なイメージ。沖縄に古くから伝わる概念である。
あ の場所に生まれ育つこと、広い青い海に臨み、強い日射しと共に生き、風に吹かれたそがれることが、何かを育むのだと思う。沖縄の人はコアの部分に、何か固 有の信仰めいたものをもっている気がする。沖縄にいると感じられる何かに対する信仰、もしくは沖縄という概念に対する信仰。
例にもれず。

窓の外を見ると、そういう気持ちを思い出すのだと思う。

何にせよ、窓。
窓の記憶はいくつもある。
大学の語学の教室の窓。歩いてくる遅刻するクラスメイト。
高校の教室の窓。中庭の木。芸術科のピアノ。バイオリン。
お台場の窓。きりん。
8号館の研究室階の窓。大隈講堂。銀杏。
東京モノレールの窓。水面。柳。高速。
等々。
こういうのは思いきり主観に依存する、と書いていて思う。背景が個人的すぎて表現しきれない。もっと時間があれば。物書きになるというのは、すごくいいな、と最近思う。有閑的に。そうそうなろうと思ってなれるものではないけれど。

がりがり働ける性質ではそもそもないのかもしれない。
価値の出し方は多様にある、ということには気づいている。出し方にこだわっていたことにも。

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