June 27, 2009

報道不信

年に二回ほどだが訳もなく苛々することがあって、そういうときは自分で分かるのでカルシウムの錠剤を飲んでじっと神妙にしているのだが、その際に沢木耕太郎の「バーボン・ストリート」を読んでいて更に苛々する結果になった。

そ の短編では、友人である井上陽水氏が作曲をする際に沢木氏に宮沢賢治の「アメニモマケズ」の詞を聞いてきたというもので、結局よくは読んだことのない沢木 氏は本屋へ行ってその詩の載った本を買い求め、何食わぬ顔をして電話口で教えてあげた結果、井上氏が本歌取りをし、現代の問題を提示するような曲に仕上げ たという話。沢木氏はその歌に軽い衝撃を受けたのだと。いい歌だったと。
井上氏は歌でこう締めくくる。
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君の言葉は誰にもワカンナイ
君の静かな願いもワカンナイ
望むかたちが決まればつまんない
君の時代が今ではワカンナイ
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参考:「ワカンナイ」/井上陽水

落 ち着いた今なら問題を提起する井上氏の意図やその表現力をいくらか評価することもできる気がする。ただ、私は宮沢賢治のあの詩を大変敬愛しているし、心か ら共感している。それで、なんだか腹立たしく思ってしまったのである。ただ、なぜ腹を立てたかを腹を立てながら考えていたら、それはそれだけのことではな いのだと気づいた。
それはここ10年ほど私の中で積み重なってきたジャーナリズムへの不信である。
彼らがある事実をそのままの重さで(つまり彼彼女自身が感じたそのままの重さということだが)本当に正確に伝えようとしているのか、またその力量が備わっているのかということに対する不信である。


詩がわかんないならそれでよろしい。そういう時代だという表現もありだと思う。
私はおそらく沢木氏の見方に何か穿ったものを見たのだと思う。
沢 木氏は「アメニモマケズ」へのアンサーソングだと表現する。私にはそうは思えない。それは「アメニモマケズ」がアンサーを全く必要としていないと思うから である。それは彼の生き方である。独立している。言葉上でも彼は「ソウイフモノニワタシハナリタイ」と言っているのである。問いかけてなどいない。
また彼は言う、これはラブ・ソングともとれるのではないかと。
とれるか?断片的にすぎるだろう。

本当に沢木氏はそう受け取ったのか?
私は彼があるトピックから無理やりにいろんな解釈をひねり出していかにも美しく豊かに見せようとしているように見えた。過剰、だと思う。彼が非常にロマンチストであるということを差し引いても。
小 説ならばいい。それは小説の作者が決められることだからだ。自分のことに関しても半歩譲ってよしとしよう、事実でなくても。しかし何かの対象を表現しよう とするのなら、そのままに表現すればいいのであり、華美な装飾などいらない。彼の生業とするルポ・報道などというものはその正確さに価値があるのではな かったか。


私は少し前まで報道番組と言うものを見続けることができなかった。あたかも本当のように使い古された言葉を使い、感情を煽る様がとても嫌だった。今でもあまり見たくない。比較的すんなり見ることができるのは、テレ東のビジネスニュース。彼らはあまり煽らないから。
前に、感情を仕向けられるのがきらいだと書かれたブログエントリを見た。
もしかするとそういうことなのかもしれない。


何にせよ、当の宮沢賢治がそれを見たとしてもさらりと受け流したに違いない。彼はそう願って生きていた、ただそれだけのことだからだ。誰の承諾を得る必要もない。
彼 の時代にその価値観が支配的だったわけでは勿論ないだろうし、今も昔もワカンナイ人はワカンナイのだろう。もう一つ、現代は現代はと言いすぎる人々がいる が、今も昔も本質は多分変わってない。その時代その時代で現代人は、不埒だし課題に直面しているし混沌の中にいるのだ。


とここまで書いてはきたものの、これも結局は趣味の問題かもしれない、と考える。
私の趣味ではないということに尽きてしまうのかもしれない。なんでも大きく捉える人というのはいるのかもしれないし、それが好きな人もいるかもしれない。
ただ私はその影になっている作品を敬愛していたが故にそれに過剰反応したのかもしれない。

他の沢木氏の著作には優れたものも多いと思われる、念のため。

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