June 27, 2009

我に返るということ

また、時間は高さだとかエネルギーだとかそんな話を読んだから、いろいろ読みたくなった。

と きに執着し、ときにどうでもよくなり、何かが見えたと思ったり、詮無いことと気づいたり、その繰り返しで、そこで思うのはアウフヘーベン的な何かであった り、キルケゴール先生のあれかこれかであったり、死に至る病であったりする。それでもLife goes onなのであり、Going my wayであって、というかそれらは割とあらがえない事実を確認する言葉だなと思う。ひとつには諦めで、ひとつには意志。

時間がなんでもなぎたおすという表現はたいへん相応しく思われる。
ベ ルリンの壁を壊したのも、ローマ帝国を滅ぼしたのも、時間だと言われたら、その時歴史が動いたっていうか、つはものどもが夢のあとで、国破れて山河があっ たりなかったり、諸行無常な響きは時間の音だったのかもしれなくて、地球温暖化とかまさにそれじゃないかとか思うわけで。何にせよ、べつに誰が責められる べきとも思わない。
人はパンのみで生きるのではないけれども、パンなしでは生きられないのであって、WFPの活動は素晴らしいと思う。そういった 何か慈善活動的なものについて、それはポジティブにやればいいのであって、誰かを責めながらやるのは筋でないと思うのだ。募金活動は拠出しない人を非難し ながらやるべきではない。
と結構強く思うのは、歪んだ正義感なのかもしれないと思う。強いられることに対する抵抗。


ぢっと手を見る、というのをよくやってしまう。正気に戻ってしまい、形而上学的世界へ誘う行為である。勉強やら仕事やらというのはやってる最中は正気じゃないと思う。集中というのはそういうことだ。

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