June 27, 2009

天寿と最適化について

今は冷静になってしまったが、帰りは酔っていて、基本的に金曜の夜のエントリは酔っ払いのたわごとととらえていただいて構わない。以下の文章も例にもれない。


これは酔っていてもいなくても毎日のことだが、帰り道は少しの充実感があって、そしてひどく疲弊していて、中学校の部活の後とかに少し似ているのだけど、そのころと今とで違うのは、この疲弊が金銭をリターンとして返してくるという点で。
夜も夜中に割と暗い道を帰るのだが、もう慣れてきて今は怖くない。
たとえば今通り魔か何かに刺されても、ある程度の心残りはあるかもしれないが(残していく人へのアカウンタビリティという意味で)天寿を全うしたのだな、と受け入れてしまいそうな気がする。
今 25で、周りの人は大概年上なので、若いという意識を植え付けられているけど、もう十分に生きた、と思ってもいい気もする。経験してないこともたくさんあ るし、これからの年月でできることもいろいろあるのだろうけど。それはわかるけどハングリーさが無い。これから生きてさらに何かを得たとしても、それは望 んでそうしたというより結果論な気がする。


最適化、という言葉が適切かどうかは知らないが、そんな感じがする。
今この状 態が自分の人生のこの時点においての最適、という感覚がある。これ以上ゆるくもきつくもなく、テリトリーが広くもなく狭くもなく、依存度も高くもなく低く もなく。今の状態がジャストというか。今までの経験や志向がすべて反映されているというか。市場効率仮説みたいな。そう考えて自足してしまう。

先輩が会社を辞めると聞く少し前から、いろいろ見えてきていて、つまり社会におけるこの会社の位置や、会社の中での社員の位置、その中での自分の位置、各々のプレイヤーの気持ちや能力等々だけど、それでそこで自分の振舞い方というかスタンスを考えてみようかと思っていた。
先輩は会社を辞めて、もといた畑に戻るのだという。私もいずれ会社を辞めるのだろうけど、学べることは学んで、もしくは学び方を見てから、辞めようと思う。先輩は1年いたが、それを見たのだろうと思う。とても頭の切れる人だ。

それにしても疲れた。


院の飲み会に参加した。
懐かしかった。まだあの空気があった。
疎外感は感じないけど、温度差や趣向の差異は感じる。
最近何もかもが自分と関係ないように思える。無関心は悪な気がする。無関心は悪か否かにさえ関心を示さない。非情だ。

No comments:

Post a Comment