June 27, 2009

何者かであること

たとえば、私の何度か用いている「何者かである」ということについて考える。
それは広義において他からの評価である。狭義では肩書きや社会的地位である。

院 をでてから就職活動をした際に強く感じたことだが、人は全く知らない人を見るときに、属している組織、それまでの学歴、職歴、資格、そういった目に見える 社会的地位などでとりあえずの判断をする。それはそうすることが一応の基準になると考えられているからで、もちろんその人となりを知れば知るほどその人に とって彼は何者かになっていくのだろうと思う。ただそれまでは、肩書きなどというのは結局無いと不便なものではある。入り口のようなもの。そういえば社会 が納得するようなもの。


そこで、私は何を求めていたのだろうと考える。おそらくそれは何者かであることなのではなくて、自信だろうと思う。ちょうど去年の試験の終わった頃に、君に足りないものは自信と覚悟だと言われたことが思い出される。

何 者かでないと困ることというのはどちらかというと、社会的に認められていないことというよりは、社会的に認められていないと思うこと、それが自信のなさに 繋がってしまうこと。逆を言うならば、何者かになることは自信を得るための一つのルートになるわけで。というのもその友人の示唆。
自信をある程度 得ることができたという意味で会社に入る前と入ってしばらくした後とでは随分違った。ただ、会社に属していた頃と辞めた今とでは違わない。それはもはや何 かに属していることが問題なのではない。何者かであるということを離れ、単純な自信の問題に回帰しつつあるということだ。
そしてその何者かであるルートによる自信の回復は奏功した。

ただ周りの評価というものを私は把握しきれない。評価を評価と受け取らないこともある。結局は何を信頼するのかに行き着く。つまり私が、評価した人、シチュエーション、内容等を総合して「評価されているかどうか」を評価するのである。無意識下で皆やっていることとは思う。


そしてもう一つ言われた覚悟という話。ここへ来てそれが迫ってくるのを感じる。覚悟を決めるにはそれに懸けるだけの何か大切なものが必要で、その大切なものとは何であるのかをよく考える昨今になっている。全ての道はローマに通ずるのかもしれない。

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