June 27, 2009

一抹の寂しさと

おまへはひとりであの石原の草を刈る
そのさびしさでおまへは音をつくるのだ
-----------------宮沢賢治「告別」より


寂しいな、と思う。東京を、仕事を、友人たちを離れることが。
友人が言った、何かを実らせるには孤独が必要だ、と。
彼は人間を愛し、同じくらい孤独を愛しているのだなと思う。犀の角。


自分を商品として見ている、と言ったのは別の友人で。
それは主に対親で、そういう見方は私にとって新しかったし、とても真面目な感じがする、と思った。
彼は言った。「なんで会社やめたの?って聞いた方がいいのかな。」
僕が旅に出る理由は大体百個くらいあって(くるり「ハイウェイ」)、といいたいところを三つくらいにして、話した。
彼は言った。自分なら今までの投資を考えてしまうし、いつまでも魅力的な商品であり続けていたい、と。つまり投資対効果が一定以上ということと、ありきたりなことをして(彼または彼の親にとって)面白くないレールの上を歩きたくはないということ。
私は今まで彼のそういう姿勢を、若さからくる何かだとおもっていたのだけど、よくよく聞けばそういう親孝行のあり方なのだった。それが彼にも親にもwin-winになればいいなと思う。

私 は自分を商品だと思ったことはなくて、両親が私に注いだものは金というより愛であり、それに報いるのはやはり愛をもって、と思っている。両親も幸い投資対 効果には頓着していないようなので(とはいえそういう面でも報いたいけど)、多分本質はそこじゃない。うちの場合。で、こういう決断ができたりもするわけ だ。というか、いつもは帰ってこなくていいと言う親が結構な度合で帰ってきてほしいというなら帰るのは当然なのだ、うちの場合。


直感を大事にすべきだ、と違う友人は言った。
「そういうのって直感だよ。理由はあるにはあるんだけど、本質ではなかったりするんだよ。
で、理由積み上げて合理的に出した解でうまくいかなくなっちゃうと、なんでだ、ってなるけど、直感で決めてれば、ああちょっと勘がおかしかったんだね、で済ませられるじゃん。」
屈託なく笑う。
僕には旅に出る理由なんて何一つ無い、のかもしれない。


被害者意識みたいのは無いんだね、と違う友人は言う。
なんで私だけ犠牲に、とか、なんで他の人はすんなり進んでいるのに、とかいう意識って無いんだね。
まあ、あるわけない。犠牲ではなく機会だと思っているくらいだし、こうでもしないと私は実家に帰らなかった気がする。少し前まで、親の死に目に会えないというのも仕方ないとか思っていた人間である。
試験を一旦やめると決めた時から私はそのレールから外れているのだし、違う方面で得難い経験もしたと思うし、それが私には必要な工程だったし、そして今回のこともそうなのだろうと思う。
何がよかったか、悪かったかなんてわからなくて、問題は限りある人生の時間をどう過ごすかだ。それを考えるのもまた一興。何も諦めていない生意気な若人ゆえ。


今後は、地元で仕事を探し、家を見つつ、空いた時間を試験勉強に充てる予定である。


会社を辞めるにあたり、様々な反応をいただいた。
コンサルとしてのポテンシャルを語ってくれた上司、今後のキャリアを心配してくれた人、試験を受けることを歓迎してくれた人、家を心配してくれた人、また一緒に働こうと言ってくれた人、壮行会だ!と飲みたがる先輩。
そういった人々の言葉に支えられて積み上げていくものなら人生は素敵だなと思う。

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