June 27, 2009

時があること。好むものとわかること。

以前にも書いたけれども、聖書にこんな文句がある。

「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。」
(伝道者の書3章1節)


時があるのだよなぁと思う。皆そう思っている。

少し話は違うのかもしれないが、植物をすごくいとおしいと思う時期がある。その中でも、特に花が好きな時期もあれば、木が好きな時期もある。かといって、植物に興味を示さなくなる時もある。

空が好きな時期もある。雲を見ていたら2時間経っていたなんてこともある。かといって、毎日空や雲ばかり見たい日というわけでもない。

音 楽にもそんな風なものがある。椎名林檎なんかをじっくり聞いて感嘆する時期もあれば、五月蝿く思ってハラカミおじさんのかわいらしさにノスタルジックな日 もあるし、それをまたつまらなく感じてハルカリの身の丈感にすっきりする時もあれば、少し疲れてジャズが染み入る時もあり。


好むものはある程度決まっているのだけど(つまりなんでも良いわけではないのだけど)、こんな風に好きなものが変わる、というのは、つまり気分が変わっているのだろうと思う。
そして個人差はあるけれども、ある一定の対応があり得る気がする。
つまり、アンビエントを好む時の気分というのは、あまり元気ではない気がする。少なくとも落ち着いている。落ち着いちゃっている。
テクノを聴ける時というのは、心に余裕のある時だとも思う。
しっとりしたジャズを本当にいいなあと思う時というのは、少し疲れている気がする。大人がジャズを好むのは、ちょっと疲れているからではないだろうか。いや、ジャズはそんなのばっかりではないんだけれども。

植物も空も、すごく感動的に見えるときというのは、何か悲しい気分だったりとか、何かに追われていたのを我に返る時だったりとか、する。

いや、超個人的感想だな。
なんだか落ち着いちゃっているし、アンニュイだし、少し悲しいここ最近の自分のデフォルトが出ているというだけの話かもしれん。
たとえば昔ジャズをおとなしく聴けなかったのは、単に疲れていなかっただけなのかもしれない、とかは思う。


それで、時があるという話。
何かをわかるのに時がある。
わ かりたいと思って努力しても、わからない時はわからないものだったりする。物事には順序があるし、何かをわかるには経験が必要で、それらが全部そろった時 に腹落ちするというものだ。最近では「信じる」ということがそうだった。「自分」というのもだんだんわかってきた(一般的な「自分」ではなくて、ごく個人 的な「自分」について)。

私たちはいろんなことをいつもわかりたいけれど、そしていろんなものを集めてはつなげたりするのだけど、結局、自分という人間に深く関わっている何かの経験でしか腹には落とし込めない。
と、こういうことを考えていると、「こころ」から引用した、先生と私とのやりとりが少し興味深いのである(3番目の引用)。
その思想を生み出した先生の過去とセットで知りたいのだ、という話。
自身の過去というのはあまり明け透けにはできないもので、なぜかといえば、それはなんとはなしに恥ずかしいからであり、たとえばその過去を話すことによりその抽象化したあるいは抽出した思想が陳腐化するということを恐れるからかもしれない。

サ イトでもメールでも口頭でも関係なく、何か自分の体験を話すというのは、ある程度コミットしていないと話せないと思う。何かの考えを話すことよりも。何か の考えの元になるような体験であればこそ、そうなる。緑茶を飲むようになった経緯だとか、ジャズを聴くようになった経緯とかは全然問題なく話せる。信じる ことを考えるに至った経緯の方が話しにくい。
汎用性が低くて相手の役には立たないだろうと思うのか、身の上話みたいになってしまうのが嫌なのか、個人的すぎて恥ずかしいのか。大体において、そういう考えを深めるようなインパクトのある体験というのは何かしら(本人にとって)深刻な面をもっているのかもしれない。


そんなこんなで時がある。
私も随分変わった気がする。昔のブログの記事を読んでいると、少しそう思う。
それで、最近演歌いいなあと思っているという話。

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