June 27, 2009

法学について

※追記:2008.11.22

最近法律の浅瀬を泳いでいる感じなのだが、なんというか、浅瀬は楽しい。浅瀬だからね。
す ごく根本からやっている。一番初めから。入門。いろいろな法律の分野がそれぞれ入口を用意してくれている。藤田宙靖最高裁判事の「行政法入門」は秀逸であ る。あと、所研(裁判所職員総合研修所)の「刑法総論講義案」もまた、いい本だと思う。入門として。(入門書と銘打ちながらわかりにくい本なんかたくさん ある。)
手順というのはすごく大事だ。
友人は言っていた、「飛び越えることはできないんだ、飛び越えてもどうせ戻ってしまうんだよ」。言い得ている。


法律を勉強していていいところは、法律そのものがきちんとしているから、気持ちがいいところだ。
きちんとしているというのは、論理的、という意味でも、範囲をきっちりカバーできている、という意味でもない。人格とでも言おうか、良心的な、という感じの意味である。


法というのは一つの思想で、それが生まれたストーリーがある。そこから派生してくるいくつもの考え方があり、それらが正当で理性的で合理的だと思う。

も ちろん論点(論争)はたくさんあるし学説は多岐にわたる。しかし同じ法という土俵でやっている以上根本の根本部分は同じで、ただロジックの構造が何通りか あって(というか先人達が考え出して)、もしくは価値観の微妙な差で、それらの学説は分かれている気がする。そのロジックの構造論なんかが法学の醍醐味と いえば醍醐味だし、多くのウェイトを占めているのも事実なのだが。
つまり法を論じる者は、いくら争おうとも、法という思想に立脚している。
私はそういう人たちの前提に、好感を持つのだと思う。
こう思うのは私が日本人であることや、君主の専制政治から法を勝ち取った世代でないことが理由としてあるのだと思う。その勝ち取った人々は生きるか死ぬかの話だったのだ。
そして、法は結構恐ろしい力をもったものである。


法学と、自然科学とかとの相違点は、出発点にある気がする。
後 者が現象から出発するのに対して、法学は思想発なのではないか。帰納と演繹の違い、というか。法学は、思想から出発して具体的な現象にたどり着くその過程 を理論で構造化したもの、というか。だから現実の現象との間で折り合いをつける作業が必要になる。それが解釈なり適用なりの場面。そういった割り切れなさ は、自然科学にはないのではないか。
仮説先行のやり方というのは他の学問でもある。けれど、そこでは実態と理論(仮説)が食い違っていれば仮説を 考え直す。違うのは、法学はまず当為(~するべき)であり、実学だから(実際社会がそれを使って成り立っているし、裁判所はわかりませんとは言えない)、 どうしても折り合いをつけなくてはならないという点にある気がする。


そんなようなことを漠と感じながら、千里の道を一歩ずつ、歩を進めているところ。

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