June 27, 2009

動物園のライオン何見て食べる

ここ最近の状況を一言で言い表すならば、リハビリテーションである。
そ れは体そのものにもいえるし(ごく基本的なこと、つまりご飯を胃で消化し腸で吸収するとか、睡眠をとって疲労を回復するとか、ができなくなっていたのをで きるようにするということ)、生活のリズムにもいえるし(つまりご飯を三食ちゃんと食べるとか眠るとか)、物事への向かい方にもいえる(勉強への姿勢とか 環境づくりとか方法とか)。それらのほぼ全ては昔できていたはずのもので、どうしてこういう風になってしまったのかはよく覚えていない。ゆるやかにできな くなっていったのだろう。

自然にできていたことを意識することによってできなくなる、ということはよくあって、卑近な例でいえば呼吸とか歩行とか。そういうことなのかもしれない。習慣化の大切さ。
よく膨大なタスクを目の前にしているように感じるけど、それは明確にするから。そして数え上げるからだ。タスク管理としてよくその必要に迫られるけれど、そういうのって萎える。


あ まり漫画は読まない方だけど、好きな漫画の一つに「泣かせやがってこのやろう」というのがある。そこでは小学生までは神童と呼ばれたほど勉強ができたけど 中学からドロップアウトして不良になった高校生の兄ちゃんと、小学生でこれも天才と呼ばれ勉強しつつもいろんな疑問に悩みつつ、兄ちゃんとのぶつかり合い のようなコミュニケーションの中で自分なりに暫定の解を出していく弟、という本当は仲睦まじく愛らしい兄弟が主人公である。
私は不良にはならなかったが、この兄ちゃんの気持ちというか、経験に共感することがある。動物園のライオンはあるとき急にエサを食べなくなるという話。

今までの何かが間違っていて、それを改善するのが正しいという単純な話ではない気がする。
ただ、振り返るならば、大学と院での6年間は課題はこなしていても習得はしていなかった気がする。どこかにひっかかりや、やり残しを感じながら結局それらと折り合いをつけられずに押し出されたような気がする。
それは法律の思考ルートの多義性によるところが大きく、またかの職業に就こうとしたときに結局ここまでやればいいという線引きが無い大海原へ放り出されることと、その覚悟がつかないということにもあった。
勉強はつまらないものになりつつあった。動物園のライオンがエサを食べなくなるみたいに。それはとても寂しい。加えて、生死にかかわる。

兄ちゃんは言った。
「そういうときどうするかっていうと、ほっとくんだってさ」


言葉の基になるものが経験というのは先日書いた話だが、人格の基になるのも経験だと思っていて、それである経験主義者に共感し尊敬している。その人は可能なかぎりの経験を集めているように見える。知ること、体得することへの欲求。共感はするけれど、タフだ。
今自分にできる経験は何なのか、それを経験として体得するために、気づくための感覚をできるだけ持ちたい。そして記録していたいと願う。

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