June 27, 2009

言葉のこと-2

言葉について様々。勉強したことがあるわけではないので、体験に基づいて感想を。


・言葉と沈黙
NHK教育を見た。
言 葉を用いる場面として大きく分けるとするならば、自己に向けた言葉なのか他者に向けた言葉なのか、という分け方ができる。これをきっと吉本氏は自己表出と 指示表出と言って分けているのだと理解するが、彼は、その人の根幹に近いものは前者、つまり相手とのコミュニケーションを意識せずに自己に語りかける言 葉、なんだかごにょごにょ言っている言葉、の方である、とする。そうして、言葉っていうのはオマケなのだという話につながっていく。人間の幹、沈黙から出 た枝葉。
人間というものを、その一瞬を切り取って完結したものとして、つまり自己と自己以外を完全に線を引いて見るならば、その話は正しいと感じ る。相手に語りかける言葉は確かに自己とはつながっているし自己から出たものではあるが、相手を、世界を、何かを意識したものであって、本当の自己という ものではない。黙っていることの中にその人の重要な基本要素があって。
ただ、ここからは定義の話になってしまうが、相手や何かを意識したその心理作用というか、それも含めて自己なのではないかと思える。そこが寧ろ人間らしさなのではないかと思える。
「議論とは、往々にして妥協したい情熱である」と言ったのは太宰だが、そういう他者への情熱めいたものが人間の中にあるからこそ、人間が好きである。煩悩と言うのはたやすいけれど。
ただ、沈黙の中にこそその人の重要な部分がある、というのもその通りだと思った。ほんとうに大切なことは目に見えないんだ、とキツネは言った。
沈黙を無きもののように扱い、沈黙に乗じて攻撃し、沈黙を言葉よりも軽んじる、という傾向は確かに世の中にたくさん見られて、私自身は決してそう思ってはいないけれど一つの確認事項だなと思う。

余 談ではあるが、このブログが当初から自己のためのブログであるというスタンスを勝手ながらとっているのは、無意識的に他者への語りかけというより自己への 語りかけというか呟き、いわゆるごにょごにょしたものであることを許容・肯定するところからはじまっているからだと思う。コミュニケーションつまり人様に 見せるということを1番の目的に置いていたら、きっとこのような形にはなっていない。



・言葉の限界
言葉の不完全性、未熟性という話。沈黙、という話とはまた別なのだけど。
言 葉には限界がある。しかも結構低い所にあるというのが実感だ。自分の語彙力の問題もある。例えば、音、香り、味、風景、なんでも、それを再現しようとする ときには言葉は無力だ。聴覚、嗅覚、味覚、視覚には絶対かなわない。足元にも及ばない。再現できたとしてもごく一部だと思う。それは、本来その感覚で感知 するものだからである。味なら味覚で。当然のことだ。
そういうとき言葉は、感知した経験やイメージを呼び出す形としての文字なり音声だと思う。それは読み手・聞き手の中の経験の蓄積や検索能力、想像力に大きく依存している。
ただ、言葉でしか到達できない地点というのもある、と思う。たとえば言葉が不完全であるという主張を、私は言葉をもってしか伝えられない。



・言葉の使い方のうまさ
言葉の使い方がうまい人、というのがいる。再現のうまさ、語彙力、的確な指摘、シンプルさ等々。言葉をうまく使える者が力を持つ、というのはある。私も言葉の使い方がうまい人に憧れたりする。
言葉には即効性がある。相手に何かをわからせるのに、早い。
その一方で、言葉それ自体には重みが無かったりもする。誰が言ったか、どういう時に言ったか、そういう状況と合わせて重みが決まったりする。
中には、言葉の使い方がうまいだけの人というのがいる。しかも悪意がなかったりする。



・手段と契機としての言葉化
思考というのは一部、言葉を使ってやっている。思考は言葉でやっている、と割と言われるけど、そんなに言葉は使っていない気も実はする。
単にふわふわ思考している時というのは、ロジックもそんなに必要ないから、ワードやイメージだけでやっているような気がする。あまり意識したことはないけれど。
文章が頭の中に浮かんでいるわけではなくて(文章のことや誰かが言ったことを考えている時は別)。ワード周辺のイメージがふわっとなって、その中の一つのワード・人・モノにまたフォーカスし、次の話題へ移っていく。意識して深堀りしたりもする。
で もちゃんと考えたり、形にして残しておきたいと思うなら、ひとまず目に見える形でアウトプットし、固定し、今時点RUNなフェーズを明らかにして、組み立 てていく。目に見える形、というのはこの場合文章になる。文章にすることは、思考を助けるとともに、自分のものになる。再インプットされるのだ。そうやっ てここ最近は自分が形作られている気がする。良かれ悪しかれ。

忘却は優しいことだと友人は言った。それでも思い出す契機を保証しておきた いのである。それは何かを考えた形跡でも、心象風景でも、単なる事象でも同じで。そういう記録をするときに、きっと何かを取りこぼしたり、何かがくっつい たりしてしまっている。そうやって文章にして不完全にしたものを再インプットしてしまう。
スナフキンは言った。「なぜみんなは、ぼくをひとりでぶ らつかせといてくれないんだ。もしぼくが、そんな旅のことを人に話したら、ぼくはきれぎれにそれをはきだしてしまって、みんなどこかへいってしまう。そし て、いよいよ旅がほんとうにどうだったかを思い出そうとするときには、ただ自分のした話のことを思い出すだけじゃないか。」
それでも、言葉にしてしまう。


1エントリ1テーマでも長いな。しばらく休憩。

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